測光観測の末(3)
牡牛の宮では、ワーウルフ達が巡回して見回りを行っているようだ。地下牢の前には一人のワーウルフが立っており、時折欠伸をしながらぼうっとしている。
「わー、めんどくさーい」
茂みからワーウルフを見つめ、ネクタルは小声でボヤく。相変わらずの猫口だが、目元と口調から苛立ちが見て取れた。
辺りは騒がしい。スピカが抜け出したことを気付かれているのだろう。だから、ワーウルフの目の前に、スピカを連れていくわけにはいかない。
「ちょっと待っててね」
ネクタルは言ってスピカから離れ、茂みの中を移動する。
スピカはチリチリと痛む太股にハンカチをあてがう。想像以上に深かったようだ。ぱっくりと綺麗に割れた傷口から、血がダラダラと流れている。スピカは血の量に驚いて、ハンカチを広げると太股をきつく縛った。
再び地下牢の入口を見る。眠たげな顔をしたワーウルフへと、ネクタルが近付いていた。
「やーやー、お疲れ!」
ネクタルはおどけてワーウルフに敬礼する。彼女の姿はメイドそのもので、ワーウルフは彼女を見ても大賢人とは気づかないようだった。
「あ? なんだてめー」
「ただのメイドだよう。
牡牛の大賢人様から伝言。耳貸して」
ワーウルフは訝しむ。
「耳? 何で?」
「あんまり大声で言えることじゃないんだ。ほら、例の、乙女の大賢人の件だよ」
ワーウルフはようやく耳を貸す気になったようだ。身長が低いネクタルに合わせ、屈んで耳を傾ける。
突然、ネクタルがハンカチでワーウルフの顔半分を覆った。鼻から口まで覆われワーウルフは驚くが、次第に目は虚ろに、頬には赤みが帯びてくる。まるで酔ったかのような反応に、ネクタルはニヤリと笑った。
「はーい。大きく息吸ってー。吐いてー」
ネクタルに言われるまま、ワーウルフは深呼吸する。そのうち目を回した彼は、その場に倒れ眠り始めた。
スピカはそれを確認すると、恐る恐る茂みから出てきた。
「あの、ネクタルさん、何をしたんですか?」
尋ねてみると
「このハンカチに吸わせたワインで酔わせたんだよ」
ネクタルはハンカチを広げてみせた。ハンカチには紫の染みが大きく広がっている。
「給仕の賢者、我が名はネクタル・サダルメリク。一口で酔えちゃうワインが、私の輝術だよ」
そう言って、ウィンクするネクタル。意外な輝術とその使い道に、スピカは感嘆の声を洩らした。
「さあ、早く入っちゃおう」
ネクタルは言い、スピカの手を引いた。地下牢へ続く階段を下り、薄暗い空間へ。
そこには先客がいたようだ。ケンタウルスの少年、大賢人の一人であるキロンがそこにいた。
「ああ、キロン。来てたんだー」
ネクタルはスピカから手を離し、キロンに駆け寄る。キロンはネクタルを見下ろし、きゅっと唇を結んでいる。
スピカは、初対面であるキロンを警戒した。
「ああ、大丈夫だよ。キロンはもう我々の味方だ」
最奥の牢屋から、レオナルドが声をかけてくる。暗がりであるため彼の表情は見えないが、その声が普段通りの明るいものであったため、スピカは安心した。
足を踏み出す。
「キロン」
レオナルドがキロンに声をかけた。
「番人の賢者、我が名はルクバトーラ・キロン」
辺りに光が漂い始めた。スピカは驚く。
彼女の足元、石畳が敷き詰められた床に、亀裂が走る。スピカは突然のことに戸惑い、足を止めた。
「え? キロンちゃん、どういうこと?」
ネクタルは目を見開き、キロンの顔を見上げる。キロンはそれに対して何も言わず、冥府の門を開こうとしていた。
「レオちゃんも! 何なのこれ!」
ネクタルはレオナルドを振り返る。
暗がりの中見えた彼は、覚悟を決めていた。
「え、何、これ……」
スピカは目眩を起こし、その場にへたり込む。何が起こっているのかわからない。
「すまん、スピカ」
レオナルドの声が聞こえる。
くらくらと揺れる意識の中、
「スピカ!」
スピカは誰かに腕を引かれた。引かれるまま、腰を引きずるようにして、階段を二段上り安全地帯へと避難する。
次の瞬間、冥府の門が口を開く。不気味な風切り音が、地下空間に響き渡る。
スピカの肌が
ルクバトーラと名乗るケンタウルス、彼はスピカをタルタロスへ堕とそうとしたのだ。
そして、スピカの腕を掴み引きずった誰かは、すんでのところで助けてくれたのだろう。スピカは首を反らせ、自分を助けたその人の顔を見た。
「アルゲディさん……?」
彼は肩で息をしていた。急いで追いかけてきたと見える。額には汗をかいていた。スピカの腕から手を離すと、彼女の無事を確認するように、頬を両手で包む。
「いる。うん、よかった」
スピカは混乱していた。
皆暫く黙りこくっていた。やがて冥府の門が寂しく閉ざされ、床には傷一つ残らない。
「今のは……」
沈黙に耐えられず、スピカは呟く。
アルゲディはキロンを、レオナルドを睨み付ける。
ネクタルもまた混乱しているようだ。誰に何を尋ねるか迷い、
「アルゲディちゃん、どうしてここに来てるってわかったの?」
まずはアルゲディに声をかけた。
「狼に頼んで、スピカの血の匂いを追ってもらった。部屋から抜け出す時に怪我したろ?」
アルゲディは、振り返り顎をしゃくる。階段上では、ワーウルフが二人、地下を覗き込んでいた。
スピカは確かに太股に切り傷をつくってしまっていた。地面に垂れた血を追ったのだろう。スピカは小さく頷く。
「レオナルド……あんただけは許さない……」
アルゲディは怒っているようであった。蚊が鳴く程の小さい声だが、四方が壁に囲まれたこの空間、声が反響しレオナルドまではっきりと届いた。
「あんたは、自分がしていることがわかってるのか」
レオナルドは顔色一つ変えず、ただ
「わかっている」
とだけ呟いた。
それが、アルゲディの逆鱗に触れた。
「俺は見た。エルアを殺したのは、レオナルド、お前だろう」
キロンは目を丸くし、ネクタルは首を振る。
「アルゲディちゃん、それはきっと見間違いなのよ。
「あんたはあの時、俺の見間違いだと決めつけた! 俺がまだ子供だったから! 信用がないと!」
アルゲディは声を張り、肩で息をした。レオナルドをギロリと睨みつけ、再度怒鳴る。
「言えよ! 真実を! あんたが殺したんだろう!」
レオナルドは黙ったままだ。
代わりに答えたのは、スピカであった。
「アルゲディさん。レオナルドさんは、確かに母を突き落としました」
一同の視線がスピカに注がれる。当時赤ん坊であったはずのスピカが、何故そのようなことを言うのかと。
だが、スピカは見ている。エウレカの記憶を掘り起こした際に、その情景を。
「でもそれは、母に
アルゲディは目を見開く。
「嘘だ……」
うずくまり頭を抱えるアルゲディを、スピカは見つめた。震えるアルゲディを見ると、同情してしまう。彼はそれ程までに、エルアに焦がれていたのだろうか。
「確かに、エルアを殺したのは私だ」
レオナルドは口を開く。ネクタルは驚いてレオナルドを振り返った。
「どうして……?」
「それが、エルアの願いだった」
レオナルドは深く長いため息を吐き出す。
「そしてもう一つ、果たさねばならない約束がある」
レオナルドはスピカを見つめた。
その目は、慈愛と悲しみ、そして、覚悟に満ちていた。
「スピカがここに、宮殿に来た時には、私も腹を括らねばならないと自覚していた。だから、そうならないようにと、アルファルドには十四年前に忠告しておいた。
スピカがアルファルドに託されたあの日だ。自我が芽生える前に、やってしまえと。
エルアは知っていた。エウレカをタルタロスに送るには、乙女が絶えなければならないと。
それでも
レオナルドは深く息を吐き、そして吸い込む。
「これがエルアの願いだ。
もしスピカが、ここに来れば」
心臓が跳ねた。スピカは胸を押さえる。
母が殺されたあの日の記憶。その中でも同じ台詞を聞いたはずだ。
聞こえないふりをしてしまったのは、聞きたくなかった言葉だからだ。
スピカは耳を塞いだ。
聞きたくない。認めたくない。
母がそれを願っていただなんて。
「その時は殺してくれと」
塞いだはずの耳に、無慈悲な言葉が突き刺さる。スピカは呆然とした。
言葉の意味が理解できてしまうと、スピカの両目から涙が溢れ出した。
母は自ら命を絶った。それを、娘である自分にも強要している。
元から、両親に求められていない存在なのだと。カオスが来ようが遠ざかろうが、スピカは死すべきなのだと。
自分の未来が定められていると知り、どうにかなってしまいそうだった。
「ああぁぁぁ!」
耐えられず号泣する。背を丸め、喉を潰すかのように絶叫した。何故、どうして、そういった疑問が頭を埋めつくし、塗りつぶし、思考は真っ暗な闇に堕ちる。
「レオナルド、お前はああ!」
アルゲディが吠える。彼は怒り狂っていた。歯を剥き出して、今にも掴みかからんとしている。しかし、鉄格子に阻まれている以上、握りこんだ拳は行き場がない。
「レオちゃん、酷い。何でそんなこと言うの! キロンちゃんも知ってたの?」
ネクタルも泣きながら怒鳴っていた。レオナルドは俯いて表情を隠し、キロンはゆるゆると首を振る。
「僕も、さっき聞いたばかりだ。だけど、カオスを遠ざけるには、これしかないって」
「酷い酷い酷い! スピカちゃんはどうだっていいって言うの?」
「じゃあカオスが来てもいいっていうの?」
ネクタルとキロンは言い争い、アルゲディはレオナルドを歯軋りしながら見詰めている。
庇ってくれるアルゲディと、ただ奥に鎮座するレオナルド。どちらが自分にとっての味方かまるでわからず、スピカは考えることを放棄した。
「もう、帰る……」
スピカはしゃくりあげながら言う。アルゲディはスピカを抱き締めて、彼女の頭を撫でた。
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