測光観測の末(2)

 夜は更け、風が窓から吹き込んでいる。

 ここは山羊魚やぎの宮。玄関ホールの中央には水路が通っており、淡水性の熱帯魚がその中を泳いでいる。水族館のような屋敷の内部に、スピカは目を輝かせた。


「魚、好きなんだ?」


「こんな造りの屋敷なんて見たことないです」


 アルゲディは見慣れているのだろう。ちらりと水路を見るのみで、すぐに目を離すと使用人を呼び止める。

 スピカは水路に近付いて、その中を覗き込んだ。底面はコリドラスやプレコといったナマズ達が、中域から表面にかけてはテトラ等の色鮮やかな魚が泳いでいる。

 こんな時でなければ、隅から隅まで探検したいところだ。しかしそうはいかず、ホールの水路を眺めるのみである。


「ネクタルいないの? ふうん、丁度いいね」


 アルゲディの声が耳に入り、スピカは顔を上げる。


「あのおべっか使いに捕まると面倒だし、丁度いいね。ほらスピカ、こっち」


 アルゲディに手招きされる。

 彼に着いて行きたくはない。できることなら、乙女の宮に篭もりたいところだ。だが、馬車の中でその要求は突っぱねられてしまった。


「乙女の宮に帰りたいです」


 それでも再度強請ねだってみる。しかし。


「駄目。逃げられたら困るし」


 アルゲディはその要求を再度拒否した。仕方なくスピカはアルゲディに近付いていく。


「退屈しない部屋にしてあげるからさ」


 アルゲディはスピカの肩に腕を回す。

 やたらスキンシップが多い彼を、スピカは快く思っていなかった。彼の腕からするりと抜け出し距離を置く。

 アルゲディは差程気にしていないようで、何事もなかったかのように案内を始めた。


「こっち側の、奥の部屋」


 ホールの左手に伸びる廊下を進む。

 最奥は食堂になっているようで、肉が焼ける芳ばしい匂いが漂ってくる。「山羊なのにお肉を食べるのね」という無粋な考えを振り解くため、スピカは軽く頭を振った。

 最奥までは行かず、食堂より二部屋手前で立ち止まる。アルゲディはその扉を開き、スピカを中に誘った。

 そこは客室のようだ。

 ベッドが一つ、椅子が一脚、机が一つ。他、最低限の調度品と、本棚が一つ。そして、巨大な水槽が置かれていた。


「入って」


 アルゲディに急かされ、スピカは部屋の中に入る。

 目を引いたのは巨大な水槽。その中で優雅に泳ぐのは、銀のうろこを持った巨大な魚だ。

 スピカはそれに見惚みとれ、水槽へ近付く。水槽に手を触れ、魚の泳ぎを目で追った。


「指入れないこと。アロワナって噛むから」


 アルゲディの言葉にスピカは怯え、水槽から慌てて手を離す。その様子があまりに滑稽こっけいで、アルゲディは声に出して笑う。


「ははっ。そんなに怯えなくて大丈夫だよ」


 スピカはアルゲディを振り返る。笑われたことが恥ずかしくて、真っ赤になった頬を膨らませた。


「さて、これから監禁生活だ。

 この後、食事を持ってこさせるよ。何かあればベルを鳴らして。メイドが来るから」


 アルゲディはそう言って、机に小さなベルを置いた。

 スピカは一切部屋から出られないということだ。想定していたことだが、これからの生活を考えると憂鬱ゆううつで仕方ない。


「まあ、ほんの数日だと思うよ。準備は整ってるんだから。

 あとは、何処にいるかわからない邪魔者を始末するだけ。まあ、探さなくても、あいつらから宮殿に来るだろうけどね」


 スピカは否定出来ず目を伏せる。

 おそらくスピカを助けに来るだろうということは、容易に想像がつく。

 エウレカに体を乗っ取らせてはならない。もし次にエウレカが体を乗っ取ってしまえば、おそらくスピカの精神を完全に引き剥がそうとするだろう。アンティキティラで見たエウレカの顔は、そう思わせる程に怒りに満ちていた。

 それを阻止するために、仲間はきっと宮殿に乗り込んで来るはずだ。それまで、アルデバラン達の企みを先延ばしにするよう立ち回らなければならない。


「海蛇の賢者も、君の幼なじみも、執拗しつこたちみたいだからね」


 アルゲディはげんなりといった様子でため息をつく。


「じゃあ、また明日ね」


 アルゲディはスピカに手を伸ばす。


「やめてください」


 スピカは口を開いた。

 反抗されるとは思ってもみなかったのだろう。アルゲディは目をぱちくりさせた。

 スピカは数歩後退り、アルゲディから離れる。


「いい雰囲気かなって思ったんだけどね」


 アルゲディは目を伏せて、小さな声で呟く。

 スピカはアルゲディを上目で睨む。


「列車に乗ってた時から、あなた不気味なんです。

 父とは折り合いが悪いから山羊魚やぎの宮に来ると言いましたが、それはあなたの方が幾分かマシ、というだけのことです。本当なら乙女の宮に帰りたかったし、さそりの宮の方がまだ良かった。

 あなたは一体、何を企んでるんですか?」


 今まで感じてきた気味の悪さ、居心地の悪さを、言葉にして吐き出した。

 列車の中で交わした言葉を信用するなら、「したっていたエルアの娘に興味を抱いている」というのが、スピカを招き入れた理由にあたるのだろう。だが、アルゲディの興味はスピカ自身に向いている気がしてならない。

 スピカは震える声を絞り出す。


「あなたは本当は……」


 だが、その言葉は遮られた。

 サテュロスの使用人がアルゲディに近付く。アルゲディの、山羊に似た耳に何かを耳打ちし、一礼して立ち去る。

 アルゲディは途端にげんなりとした顔をして、これ見よがしに肩を落とした。


「まじで? あー……スピカ、この部屋から出ないように。いいね」


 スピカは眉を寄せる。


「何かあったんですか?」


「……めんどくさいこと」


 アルゲディはそう言うと、柔らかな白髪をかきあげる。


「サビクが来るなんて……ほんと邪魔だなあ、あいつら」


 アルゲディの呟きを耳に入れ、スピカは僅かに目を輝かせた。


「アスクラピアさん! 山羊魚やぎの宮に来たんですか!」

 

「駄目。スピカはここにいて」


 アルゲディは言う。だが、味方と呼べる人物が山羊魚やぎの宮を訪れたとなれば、一言でも言葉を交わしたいと思うのは仕方のないことだ。スピカはアルゲディに詰め寄り、必死に強請る。


「会わせてください。お願いします」


「駄目って言ってるだろ」


 アルゲディは思わず腕を振り払う。それはスピカのこめかみにぶつかり、衝撃を受けたスピカは堪らず尻餅をついた。


「いたた……」


 重い一撃だった。視界に火花が散り、くらくらと円を描く。


「スピカ! 大丈夫?」


 アルゲディは慌てて屈み、スピカの顔を覗き込む。髪をかきわけてこめかみを見れば、若干赤く色付いている。


「大丈夫です。目眩には慣れてますから」


 スピカは至って落ち着いた声でそう返す。未だに目は回っているらしく、何度か瞬きを繰り返した。

 大したことはなかったようだ。アルゲディはため息をつく。


「ああ、よかった」


 目の前にはアルゲディの安堵した顔がある。心配してくれるとは思っておらず、スピカは面食らった。

 エウレカの器であるこの体を心配しているのではないのか。そう考えたものの、アルゲディの言葉は明らかにスピカへと向けられたものであった。


「悪かったよ。でも、俺を困らせないでよ、お姫様」


 気だるげに自嘲を浮かべた彼は、立ち上がると部屋の扉を閉めた。

 施錠される。内側から開ける術はない。

 スピカは立ち上がり、窓際のベッドに向かった。そこにうつ伏せに倒れると、枕に顔を強く押し付ける。


 彼は何を企んでいるのか。自分に危害を加えるつもりなのだろうか。自分に対し必要以上な程スキンシップを試みているのは何故なのか。

 彼だけではない。そもそも、他の奴等だって、何が目的なのかわからない。

 

 アルデバランはエウレカに心酔しているようだが、それは何故か。

 リュカがアルデバランに従う理由は何なのか。

 スコーピウスがアルデバランに協力しているのは何故か。


 ここに来て、自分達は敵方の思想がまるで分からないという事実に気付く。

 目的を阻止すれば、それで解決できるのだろうか。彼らの思想を理解せず、問題の解決ができるのだろうか。


「とは言っても、アルゲディさんはちょっと気持ち悪いわ」


 なるべくなら知りたくないと、そう思いながらため息を吐いた。


 不意に、何かを叩く音がした。

 スピカは枕から顔を離し、体を起こして辺りを見回す。


「ここだよー、ここ」


 窓ガラスの方へ顔を向ける。

 そこには、紫の髪をした小柄な女性が立っていた。一度しか会ったことがないが、以前言葉を交わした時の衝撃から、忘れられないでいた姿だ。


「ネクタルさん!」


「静かに。声おっきいよ」


 ネクタルは人差し指を立てて口元に寄せる。その口元は猫のようにニンマリとしていた。おそらく普段から、そういった顔なのだろう。


「サビクちゃんが、アルゲディちゃんの気を引いてる内に」


「気を引いてる内に?」


「逃げるの」


 今度こそ、ネクタルは笑った。口角は吊り上がり、大きな目は柔和に細められる。


「内側から開けられる?」


 ネクタルに問われ、スピカは窓を眺めた。

 元々は両開きの窓らしいが、窓の隙間を埋めるようにセメントらしきものが流し込まれている。固く閉じられた窓は、押したくらいではビクともしないだろう。


「いえ、無理です」


「うーん、仕方ないなあ」


 ネクタルは両腕を組んで考える仕草をした。

 かと思うと、エプロンのポケットから金槌を取り出した。

 スピカはぎょっとする。慌ててベッドから下り、部屋の隅へと避難した。


「さっき静かにって言ってたじゃないですか!」


「気にしなーい、気にしなーい」


 ネクタルは、金槌を大きく振り被った。

 振り下ろされた先は窓ガラス。鋭い音を立てながら割れ、部屋の中にガラス片が飛び散った。スピカは咄嗟とっさに両腕で顔を覆うが、幸い彼女が立つ位置まで破片が飛び散って来ることはなかった。


「大丈夫ー?」


「大丈夫です……」


 あっけらかんとするネクタルに対し、スピカは苦笑いした。


「早くおいでー」


 何とも緊張感のないネクタルの呑気な口調に、スピカは不安を感じながら、ベッドに近寄りシーツを持ち上げた。大きなガラス片を床に落とし、シーツを窓枠に掛ける。窓に残ったガラスに体を引っ掛けてしまうのを防止するためだ。

 ただし十分とはいえず、窓を乗り越えると太腿に切り傷ができてしまった。鋭い痛みを感じるが、放っておくことにする。

 耳を澄ませるまでもなく、屋敷の中からバタバタと人の足音が聞こえてきた。


「おっと、早く逃げちゃおう」


 ネクタルはスピカの手首を掴む。


「逃げるって何処にですか?」


 湖の中央にあるこの孤島は、船か跳ね上げ橋でしか脱出することができない。どちらにも監視はついているだろうし、何よりネクタルにつけられている首輪が、逃げられないという証明のように思えてならない。

 ネクタルは構わず走り出す。スピカはそれに引っ張られた。


「今リュカはいないし、探し出すのに時間はかかるはず。その隙にレオ君に会いに行って、その後は朝まで隠れてやり過ごすといいよ」


 レオ君というのは、獅子の大賢人、レオナルドのことだろうか。彼は、即位の儀にて助けて貰った味方の一人だ。彼に呼ばれているのだろうか。


「牡牛の宮の地下牢に行くから、バラン君に見つからないようにしなきゃね」


 スピカは驚愕きょうがくした。


「地下牢?」


「そうだよ。地下牢」


 大賢人が地下牢に閉じ込められていることにも驚いたが、それだけではない。宮殿内で地下牢を設けているのは牡牛の宮のみ。わざわざ敵の根城に向かわなければならないことに驚く。


「レオ君がね、スピカちゃんを呼んでるの」


 ネクタルは走る。スピカも走る。

 人目から隠れるべく茂みの中を走っているため、時折枝葉に叩かれる。痛みや汚れを無視して、暫く走り続けた。

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