青色はぐれ星(6)

 そこは冷たい雪の中。極寒の白山だった。うつ伏せに倒れた体は雪にまみれ、真っ白になっていた。


「ようやく起きたか、人間の子よ」


 声が聞こえた。立ち上がり、頭上を見上げる。

 そこには、濃紺の体をした竜、ニュクスが立っていた。


「竜……!」


 アヴィオールは驚いて、口をぽかんと開いた。エレボスの回廊で見た竜・ヘルメスよりも、巨大で威厳に満ち溢れている。

 ニュクスはたてがみを一本抜き、それでアヴィオールの頭を撫でた。

 撫でられた脳天から、身体中に温かさが広がるのを、アヴィオールは感じた。冷たい風の中にいるというのに、春の陽気のように心地好い。


其方そちも、あの魔女を追っておったのか?」


 ニュクスは問う。アヴィオールは、ニュクスが指差した先を見た。

 少女がそこに立っている。

 辺りは強風が吹き荒れているというのに、髪一本さえ乱れていない。本当にそこにいるのか疑ってしまう程に、少女の姿は現実味がない。

 だが、彼女が「いる」という証明は、彼女が持つ「それ」が物語っていた。


「あららー、起きちゃったー? それはそれで楽しいからアリかなー」


 ご機嫌に笑う彼女が持っていたのは、エルアの日記が入っているブリキ缶。いつの間にか、アヴィオールはそれを手放していたのだ。


「返して!」


 アヴィオールは少女に走り寄り、ブリキ缶を取り返そうと手を伸ばす。


「だーめ」


 突然、アヴィオールは体に衝撃を受けた。足が地面から離れ、体は二転三転し、雪の中に埋まる。柔らかな雪の中、怪我することはなかったが、それでも打ち付けられた体は痛む。


「いって……」


 上体を起こして少女を見てみれば、彼女は風の中踊っていた。

 くるり、くるり。舞う少女に合わせ、足元から麦穂の幻影が伸びる。

 少女の周りには紙切れが浮かんで踊り、光をまとわせながら紐で綴られていく。


ちんも、日記の存在は知っておった」


 ニュクスは語る。


「シェラタンが、日記の片割れを大切に保管しておったのは、ちんも知っておった。しかし、こやつに先を越されてしもうたのじゃ」


 アヴィオールはいぶかしむ。


「でも、シェラタンさんは、日記のこと知らないって……」


 ニュクスは頭を振った。


「こやつが忘我ぼうがの魔術でシェラタンの記憶を奪いおったのじゃ」


 少女は回るのをやめる。

 日記は足りないページを補って、一冊のノートとなった。少女はそれを両手で抱えてアヴィオールに笑いかける。

 アヴィオールの心臓が跳ねた。


「スピカ……?」


 少女の髪は黒く、目は深紅。

 スピカによく似ていたのだ。


「あれは魔女じゃ」


 ニュクスは冷たく言い放つ。そして、憎しみが篭った目で少女を睨みつけながら、星の光が溢れ出そうな口で吐き捨てる。


「乙女の一族を呪い、冬が来ぬよう世界を呪った。ラドンとエウレカの血を引く娘、歓楽かんらくの魔女。

 あやつが、全ての元凶よ」


 アヴィオールは少女を、魔女をまじまじと見る。

 竜との婚姻が、魔女を授かることを目的としたものならば、ラドンとエウレカは婚姻の際に魔女を授かる予定だったのだろう。

 そして、竜はヒトの血から、魔女を生み出す。

 つまり、目の前にいる少女は……


「失礼だなー。ラドンが一番の元凶じゃない。

 ラドンがエウレカを喰らい、その血でエウレカの娘である魔女を生み出した。

 とはいえ、私はエウレカよりラドンに似ちゃったわけだけど。

 更に言えば、私が生まれた瞬間に、ラドンは死んじゃったわけだけど」


 そう言ってケラケラと笑う魔女。

 彼女の仕草は、スピカとは全く似ていなかった。人を馬鹿にしたような態度も、下卑げひた大きな笑い声をあげる姿も、全く似ていない。


「この日記を紐解いて、わざわざ君に見せてあげたのにさー。途中でニュクス叔母さんが邪魔するんだものー。面白くないよねー」


 間延びした声で言う魔女は、ニュクスを見上げ、小首を傾げた。


「叔母さんはさ、世界が滅びてもいいの?」


 アヴィオールはつられてニュクスを見上げる。

 ニュクスは顔を伏せ、目を閉じていた。


ちんは、そのようなこと望んでおらぬ」


「スピカも、末裔とはいえ魔女なのに?」


「魔女は好かん。だが、そうさせたのは其方そちではないか」


「私がカオスを呼ぼうとしたから?」


 話は噛み合っているようで、全く噛み合わない。ズレた問いかけをする魔女に、ニュクスは苛立つ。星の光をパチパチと口から溢れさせ、ニュクスは魔女に問いかけた。


其方そちの目的は何じゃ」


 魔女は微笑む。


「目的がなかったら遊んじゃいけないの?」


 また問われる。

 魔女の、掴み所のない、のらりくらりとした言動に、アヴィオールは堪らず口を挟む。


「君は誰なんだ。何のために僕の目の前に現れたんだ。一体何がしたいんだ!」


 アヴィオールの荒い声に対し、魔女は答えた。


「千年前、私はラドンとエウレカの娘として生を受けた」


 一瞬、辺りが静まり返った気がした。

 否、それはアヴィオールがそう感じただけに過ぎない。それ程に、魔女の言葉は重いものだった。


「エウレカを喰らったラドンは、エウレカの血とラドンの光とを混ぜ合わせ、魔女を産み落とす予定だった。

 竜とヒトの婚姻って、そういうものなの。君も見たでしょう?

 だけどね、エウレカを殺したラドンの罪は重かった。ヒトは、ラドンを殺そうと竜に宣戦布告した。それが百年戦争の始まり。

 最初は竜が優勢だった。でも、ヒトがラドンを討ち取ったその日から、状況が変わった。

 なぜだかわかる?」


 アヴィオールは首を振る。強大な竜に勝った要因など、全く検討がつかない。

 そこへ、ニュクスが割り込んだ。


「騎士アークトゥルスが、ラドンの首を切り落としたその時、魔女が生まれ落ちたのじゃ」


「叔母さん、ズルいよー。そこの坊やに答えさせないとー」


 責めているような口調をしながら、魔女の顔は楽しそうに笑っている。


「そう。私が生まれた。

 生まれながらに知恵を持った私は、ヒトに色んな知恵を授け、ヒトを魔術で助けたの。

 竜を退けた初代乙女は、エウレカじゃない。私なんだよー」


 アヴィオールは混乱していた。

 初代乙女が誰にせよ、何故千年もの長い間生きているのか。そもそも魔女の目的は何なのか。


「なーに? 君も目的を聞けないと納得できないのー?」


 魔女は機嫌を損ねたらしい。眉を寄せ、頬を膨らませて、アヴィオールの顔を見つめる。

 それがあまりにもスピカにそっくりで、アヴィオールはたじろいでしまう。


「そもそもさー、君は乙女の一族に何の関わりもなかったんでしょ? 何で関わって来ようとするの?」


 魔女はアヴィオールに近付いて来る。ずいとアヴィオールに顔を近付け、その赤眼で碧眼を覗き込む。

 感情も記憶も、全てを見透かされるかのような恐怖を感じ、アヴィオールは首を反らせて離れようとした。


「逃げちゃだーめ」


 魔女は両手でアヴィオールの頭を挟み、逃げられないように押さえつける。


「ヒトの子に関与するでない!」


 ニュクスが巨大な鉤爪を魔女に振り下ろす。しかし、魔女に触れるか触れないかのところで、見えない壁に阻まれた。

 瞬間、空間が爆ぜた。ニュクスの巨体が吹き飛ばされ、雪の中に落ちる。地響きが辺りに轟き、はね飛ばされた雪が風に煽られる。


「竜……!」


 アヴィオールは横目でニュクスを見るが、それ以上動けない。


「あー、なるほどねー」


 魔女は薄く笑う。


「ふふ。くだらなさすぎて笑っちゃう」


 その不気味な笑みに、アヴィオールは微かに震えた。


「恋だの愛だの、そんなのはただの幻想でしかない。君は都合が悪くなれば、きっとスピカを裏切るよ。断言できる」


 魔女の予言めいた言葉に、アヴィオールは恐怖を抱く。堪らず魔女の腕を跳ね除けて、後退りをして離れた。


「僕がスピカを裏切るなんて有り得ない! わかったようなことを言うな!」


 魔女は全く悪びれない。小首を傾げて、確かめるように問いかけた。


「本当に?」


「本当だ!」


 魔女はニヤリとほくそ笑む。


「うそ。裏切りそうな顔してるもん。

 エウレカと同じ。アークトゥルスと同じ。恋だの愛だの、見えもしない、曖昧あいまいなものに振り回されて、結局お互い裏切るんだよー」


「ふざけるな! エウレカがああなったのは、ラドンのせいだろ!」


「うん、そうだよー。

 でも、それとは別に、エウレカは、自分の意思でアークトゥルスを裏切った。それは疑いようのない事実だよね?」


 魔女が何のことを言っているのか全くわからない。

 竜との婚姻のことを言っているのだろうか。そうだとしたら、それは裏切りとは言い難いのではないか。


「裏切りって言うのは、他人の気持ちを踏みにじることでしょう?」


「違う」


「どう違うのー?」


 試し行為をするかのように、魔女はわざと神経を逆撫でするようなことばかり問いかけてくる。


「うるさい!」


「思考放棄? つまんないのー」


 魔女がそう言った瞬間、再びアヴィオールの体が宙を舞った。

 何が起きているのか、アヴィオールには理解ができない。何かに吹き飛ばされたようだが、気付いた時には体が宙にあった。

 雪の中に落とされる。背中を強かに打ち付け、肺から空気が抜ける。両手両足は大の字に投げ出され、ピンを突き刺されたかのように固定される。

 痛みはない。しかし、指一本さえ動かせない。


「こんなもの……!」


 アヴィオールは声をあげる。


「白鳩よ!」


 目の前に光が集まり、一羽の白鳩が現れる。

 

 はずだった。


「え?」


 光は白鳩を形成したかに思えた。

 しかし次の瞬間、それは霧散した。


「私は魔女だもん。光を操るなんて、簡単なことだよー」


 魔女はアヴィオールの顔を見下ろす。彼女の肩には、アヴィオールが放つはずであった白鳩がいた。


「ねえ、最後まで見せてあげられてないよね。この日記」


 魔女は日記を見せつける。アヴィオールは片手を伸ばそうとして、腕が動かないことを再認識する。


「それは、乙女の子が自分で見るべきものじゃ」


 ニュクスが言う。彼女は呻きながら巨体を起こしていた。しかし、吹き飛ばされた体が痛むのだろう。顔をしかめ、苦しげに喘ぐ。


「うるさいなー。叔母さんは黙ってなよ」


 ニュクスは再び雪の中へ倒れ込む。そして、彼女もまた雪の中に固定された。

 全知全能のように思えた竜が、こうもあっさりと動きを封じられてしまうとは。アヴィオールは目の前で起きている光景が信じられない。

 魔女とは、そんなに強大な存在なのか。


「そうじゃないよ。ラドンから継いだ力があまりに強くて、私があまりに知りすぎているだけ」


 アヴィオールの胸中を見透かしたかのように、魔女は言う。

 アヴィオールは苦し紛れに声を絞り出した。


「あんたの望みは何なんだ」


 魔女は微笑む。


「私はね、楽しいことが大好きなの。

 だから足掻あがいて。その上で絶望して。

 そうやって私を楽しませて」


 アヴィオールの意識は、再び暗転し闇に溶ける。


 目の前に、女性の姿が浮かび上がる。

 真っ直ぐな黒髪と、丸い赤眼。彼女の姿は見たことがある。

 何処で見たのだったか、アヴィオールは思い出そうと記憶の引き出しを探る。


「あの人は、この子のための父親にはなれないわ。あの人はただの男でしかない」


 その言葉で思い出した。

 アンティキティラにて、時計の輝術によって見せられた過去。その中に彼女がいた。

 先代の乙女の大賢人である、エルアだった。


「あの人は、エウレカの存在を知っていた。焦がれていた。

 きっとこれは、エウレカは知らない。あの人の中身が亡霊だなんて。かつての恋人だなんて。

 エウレカや、あの人がいる限り、乙女の一族は振り回される。もう沢山だわ。

 私で終わらせる。そんなこと」


 エルアの独白が頭に響く。

 彼女は真実に辿り着いていた。なのに、何故自害など……

 

 アヴィオールは目を見開く。

 

 何をすべきか理解した。

 エルアはその選択をした。そして、娘を親友に預け、遠くの地へと連れ去るように懇願こんがんした。

 だが、それだけでは足りなかったのだ。乙女の血は、エウレカという呪いで毒されているのだから。

 そして、エルアはその可能性についても見越した上で日記を遺した。


「もしスピカが、ここに来れば……」


 女性の声が途切れ途切れに聞こえてくる。

 聞きたくなかった。耳を塞いでしまいたかった。

 しかし、それをしたところで、頭の中の声を遮ることはできない。


「嫌だ! やめろ!」


 アヴィオールは堪らず叫んだ。

 しかし、エルアの言葉は無慈悲に響く。


「その時は、殺して」


……

…………


「あららー。刺激強すぎちゃったー?」


 魔女はおどけてアヴィオールを見下ろす。

 アヴィオールは泣いていた。

 

「折角求めてた答えが手に入ったんだから、もっと喜びなよー」


 魔女はくるりくるりと回り、白鳩とたわむれる。白鳩は手なずけられたかのように、魔女の周りを旋回する。


「そんなに嫌ならー、殺さなきゃいいだけじゃない? 簡単なことだよー。

 まあ、その場合、カオスに呑まれちゃうけどねー」


 魔女は、歓楽かんらくの魔女は、自身の楽しみのためだけに、世界を振り回している。


 冬が来ないことも。

 カオスが迫っていることも。

 スピカが生まれながらに呪われていたことも。


 それら全てが、エウレカの魂をタルタロスから引っ張り上げた、魔女のせいなのだ。


 憎い。許せない。


「……してやる……」


「え?なーに?」


 魔女は嘲笑う。


「殺してやる……!」


 アヴィオールは、怒りに任せて腕を持ち上げた。

 刺さっていないはずのピンが、引き抜かれたような感覚がした。両の手のひらに、両足首に、鋭い痛みが走る。


「え?」


 魔女は意表を突かれて唖然とした。

 輝術無しに、魔術を解くとは思ってもみなかったのだ。

 アヴィオールは素早く立ち上がり、魔女の首を片手で鷲掴みにする。力任せに押し倒し、細い首を締め上げた。


「わははー、すっごいねー。火事場の馬鹿力ってやつ?」


 魔女は、首を絞めているアヴィオールの指を爪で掻きながら、目を輝かせてそう言った。

 この後に及んで、楽しげに笑う魔女が忌々しい。


「煩い……」


 アヴィオールは冷たく吐き捨て、両手で魔女の首を掴む。

 ギリギリと締め上げる手は、今にも魔女の首を折ってしまいそうだ。

 魔女は苦悶の表情を浮かべる。彼女の周りにちらりと光が舞ったかと思うと、白鳩がアヴィオールの胸を貫いた。


「お前は、僕の白鳩だろうが」


 それにも動じず、アヴィオールは呟く。白鳩は途端に霧散し消える。

 続け様に、魔女は氷の棘を地面に生やす。アヴィオールの腹を掠め血がにじむが、彼は微動だにしなかった。

 自分が死ぬことなど、アヴィオールの頭になかった。考える余裕さえなかった。それ程までに、頭の中は怒りで埋め尽くされていた。


「流石に頭冷やしなよ」


 魔女は呻く。

 強風が吹き荒れる。それは魔女もアヴィオールも煽る。二人は雪の中を転がった。

 それでもアヴィオールは手を離さない。


 すぐ側に崖があることを、彼は気付かなかった。


 風に煽られるまま、二人は崖から転がり落ちた。

 アヴィオールは息を飲む。このまま落ちれば命はない。

 だが。


「好都合だ」


 白鳩は出さなかった。出せば魔女も救ってしまう。

 それだけはできなかった。


 岩肌に腕を、頭をぶつける。

 鈍い衝撃。骨が折れる。

 痛みなど感じない。

 それより、目の前のこいつを殺さなければ。


 アヴィオールの意識は、そこで途切れた。

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