青色はぐれ星(2)

 海蛇の屋敷。その二階。アルファルドは自室で電話をかけていた。

 かけた先はアンティキティラ。師匠のクリスティーナである。


「先生、今宜しいでしょうか」


 そう呼びかけるアルファルドの声は、随分と震えてしまっている。泣き出したいのを堪えているかのようだ。


『アルフ君、大丈夫?』


 クリスティーナの優しい声が耳に響く。それだけで安心し、アルファルドは床に腰を下ろした。

 今感じている恐怖も、絶望感も、山羊魚やぎの輝術によるものだ。理解しているが、輝術によって乱れた感情を整えることは、酷く難しかった。


「スピカがさらわれました」


 そう言うのが精一杯だ。

 クリスティーナは状況を察し、責めることはしなかった。


『こちらも、謝らなければならないの。狼の賢者、リュカを逃がしてしまったのよ。ごめんなさい』


「…………いえ、先生お一人に任せっきりだった自分らが悪いんです。すみません」


 アルファルドは首を振る。


『日記は?』


 クリスティーナは問う。

 アルファルドは答える。


「日記は奪われていません。アヴィが持ってます。鍵も、アンナが持ってます」


『そう……安心とは言えないけど、ギリギリで踏みとどまってるってところかしら』


「いや……そもそも、日記に何が書いてあるなんて、自分にはわからないんです。全く関係ない、育児日記かも……」


『あなたの幼なじみでしょう? きっと、カオスに対抗する手掛かりは遺してるはずよ。

 気をしっかり持ちなさい』


 いくらか言葉を交わし、アルファルドは受話器を置いた。そして振り返る。

 ベッドにはアンナが横たわり、彼女を見下ろす形でアヴィオールが立っている。アヴィオールは、日記が入ったブリキ缶を片手に抱え、もう片方の手でアンナから鍵を受け取っていた。


「これが、この箱を開ける鍵なんですね」


 アヴィオールの問いかけに、アンナは小さく頷く。そして、彼女はベッドに潜り込んでしまった。


「カルキノスさん。大丈夫ですか? あなたみたいな強気な方が、誰よりも酷いなんて……」


 アンナはシーツから顔を出す。彼女は青い顔をして、しかしぽつりぽつりと話し始める。


かにの術は、触れた相手に迫る危機を察知する術だ。

 スピカから鍵を受け取った瞬間、彼女に触れた。彼女に迫る危機を見た」


 アンナの体がぶるりと震える。


「明確なビジョンは見えなかった。だが、スピカには何か、黒いものが迫っている。

 闇じゃない……闇さえない黒……これがカオスなのか……?」


 自分自身の言葉にさえ怯え、アンナは再びベッドに潜り込んでしまった。


「アヴィ、すまん」


 それを見ていたアルファルドは、アヴィオールに声をかける。


「みんな、こんな有様だ。動けるのはアヴィ、お前しかいない」


 アルファルドの体が震えている。すっかり精神を病んでしまっていた。


「自分が行きたいくらいなんだが、どうにも駄目なんだ。すまない……」


「謝らないでよ。ヤバいんだっていうのは、見ればわかる。

 輝術が原因なら、効果が切れれば治るでしょ? だから、ちょっとだけ休んで」


「ああ……」


「カペラとグリードを追って、僕が夢見ゆめみ銀原ぎんばるに行く。そして、日記の片割れを回収する。だよね」


「ああ……すまん」


 謝らなくて良いと言われつつ、精神が病んでしまっていると、無意識に謝罪が口から洩れてしまうものだ。

 アヴィオールはそれを指摘することなく、パンパンに膨らんだ、登山用のリュックサックを背負う。


「スピカなら大丈夫。頭いいんだもん。きっと上手く立ち回るよ」


 そう、アルファルドにも自分自身にも言い聞かせ、部屋を後にした。

 すぐ目の前にある階段を下りていく。階下では、ヒュダリウム夫妻が不安を顔に浮かべて、アヴィオールの顔を見上げていた。


「アヴィ君、みんなは大丈夫か?」


「まさか、大賢人様がこんなことするなんて……」


 夫妻は、息子や子供が大賢人によって苦しめられているという事実が信じられないのだ。アヴィオールはそれに対して首を振る。


「今は大丈夫じゃないですけど、輝術の効果が切れればきっと治ります」


「だが、アルフは今辛い思いをしているんだろう」


 ヒュダリウム氏の言う通りだ。アヴィオールは頷く。


「アヴィ君、あなたも辛かったわね」


 ヒュダリウム夫人は言うが、アヴィオールは笑ってみせた。


「僕は大丈夫です。災厄から身を守る輝術がありますから」


 だからこそ、動ける者は自分一人だけなのだ。一刻も早く動かねば、世界が、スピカが、どうなるかわからない。


「では、行ってきます」


「ああ、行ってらっしゃい」


 夫妻に見送られ、アヴィオールは玄関に向かい、扉を開けた。

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