ブルーマーブルは黒に染まる(7)

 スピカはそわそわしていた。

 アルファルドから待っていろと言われたものの、黙って待っていられる程大人しくできない。

 目の前に出されたアイスカフェオレは並々と注がれているにも関わらず、コップにはだらりと垂れる程に水滴がまとわりついている。

 アルファルドが家を出てから、随分と時間が経っている。


「アルフ、遅いわね」


 ヒュダリウム夫人が、クッキーを食べながらぽつりと呟く。テーブルの中央に置かれたクッキー缶の中には、欠片ほどしか残っていない。


「あら、なくなっちゃった。新しいの持って来ようね」


 ヒュダリウム夫人は言うと、新しいクッキー缶を探しにキッチンへと向かう。


「あの、私、アルフを探してきます」


 スピカは立ち上がり言った。

 アンナがもし敵だとしたら、アルファルドも危ないはずだと、そう考えた。自分だけが安全地帯で守られているという引け目もある。


「アンナに会いに行くだけだろう? 大丈夫だよ」


 ヒュダリウム氏は立ち上がり、スピカに声をかけ肩に触れる。座らせようとしたのだが、スピカはそれに従えなかった。


「でも、アルフが心配です。私が行ったところで邪魔かもしれないけど……」


 ヒュダリウム氏は、スピカの肩を軽く叩く。


「駄目だ。孫を危険に晒したくはない。今は堪えて、アルフを待ちなさい」


 そう言われては何も言い返せず、スピカは口を閉ざす。促されるまま椅子に座り、不安を誤魔化ごまかすためカフェオレに口をつける。

 突然、インターホンが鳴った。


「帰ってきたかしら」


 ヒュダリウム夫人は、いそいそと玄関へと向かう。客人がアルファルドであることを期待して、覗き穴に片目をあてがった。

 息を飲む。声の震えを抑えて、扉の向こうへ尋ねる。


「どなた?」


「失礼致します。さそりの大賢人、スコーピウス・アンタレスと、その従者の者です」


 スコーピウスの従者を名乗る声は、ダイニングにいたスピカの耳にも届く。途端に顔が青ざめた。

 何故ここにスコーピウスがいるのか。自分を追ってきたのだろうか。

 一瞬のうちに思考を巡らせるが、今必要なのは疑問に対する回答ではない。一刻も早く逃げなければ。

 ヒュダリウム氏は、リビングを離れて廊下へ向かう。


「少しお待ちください。今散らかってまして」


 ヒュダリウム夫人はそう言って、早足でリビングに戻る。スピカの正面に立ち手を握る。


「裏口から逃げなさい。大賢人様は私達が引き止めておくから」


 ヒュダリウム氏が戻ってくる。


「裏口には誰もいない。そこから逃げて港へ行くんだ。私のボートを貸そう」


 ヒュダリウム氏はそう言って、スピカに鍵を握らせる。エンジンの鍵だろう。


「早く」


「え、ええ」


 ヒュダリウム氏に手を引っ張られ、スピカは裏口へと早足で向かう。

 裏口の扉を開けると、そこは道と呼べないような狭い空間だった。家と家の隙間に、スピカは放り出される。


「あっちの方向に港がある。アルフを待とうとか、友達に合流しようとか、考えちゃいけない。君一人だけでも逃げ延びるんだ」


 ヒュダリウム氏は、南の方向を指さした。そちらの方向に目を凝らしても景色はよく見えないが、潮の香りが風に乗って運ばれてくる。


「ありがとう、おじいちゃん、おばあちゃん」


 スピカはヒュダリウム夫妻を振り返る。

 きっと夫妻は、スピカが置かれた状況を詳しく知りはしないだろう。しかし、スピカの身を案じて、無事を祈ってくれているのは確かであった。


「また来なさい。今度は遊びにね」


「今度来る時には、泊まりにいらっしゃいね」


 スピカは夫妻と抱擁ほうようを交わす。

 血は繋がっていなくとも、交わす言葉は少なくとも、信じ合う家族になれた。そう思えた。


「また来るわね」


 スピカは南に向かって歩き出す。夫妻はそれを、手を振って見送った。

 

 裏口から入った小道は、おそらく野良猫の通り道なのだろう。道の脇には、誰かが置き忘れた猫の餌や、ネズミのものと思しき白い骨が転がっている。

 明らかに、ヒトが通ることを想定されていない隙間だ。スピカは時折服を壁に擦り付けながら隙間を抜ける。

 小道から大通りに出る頃には、ネイビーのスカートに白い汚れが付着していた。それを叩いて落とそうとするが、薄くなるだけで綺麗にはならない。

 仕方なくスピカは汚れをそのままにし、辺りを見回す。

 幸い追っ手はないようだ。安堵して息をつく。


 その時、辺りに笛の音が響いた。


「あ……これ……」


 スピカは目眩を起こし、その場に屈み込む。この不快感は、輝術の光を浴びた時と同じものだ。

 笛の音は遠いが、微かに力が及んでいるらしい。

 頭を埋め尽くす、恐怖と抑うつ感。これが本来の輝術の効果だろう。

 しかしスピカの体には、それに加えて倦怠感けんたいかんが伸し掛る。立っていられない程の体の重さを感じて、耐えられず壁に寄りかかった。

 スピカはショルダーバッグの中から柘榴水が入った小瓶を取り出す。蓋を開け、煽る。一口で飲み干すと、倦怠感けんたいかんがすっと消えた。

 しかし抑うつ感は消えることなく、むしろ強まっているように感じる。

 笛の音には聞き覚えがあった。一度きりしか聞いたことがないが、あれは確か。


山羊魚やぎの大賢人、パニコンさんの輝術?」


 スピカは立ち上がる。

 頭の中のモヤを振り払うべく、何度か首を横に振る。

 やがて笛の音が止むと、思考は少しだがクリアになった。


「早く行かなきゃ」


 スピカは早足で港に向かう。

 港へは風向きを頼りに向かった。海に近付けば近付くほど、潮の香りが強くなる。

 しかし、向かっている道中に見る景色は、とても美しいとは言えない景色であった。

 進む度、カオスの予兆である黒い斑点は増えていく。道を分断するかのように広がる斑点もあった。

 この街に来た時よりも、斑点は増えている。まるで、今の輝術がカオスを助長したかのように。


「気持ちが悪いわね……」


 スピカは呟く。

 港に何かあるのだろうか。その何かはスピカにとって絶望的なものではないだろうか。

 不安が募って仕方ない。

 それでも、この街から出るためには港に行くより他にない。スピカは走る。


「呆気ないね。あんなに息巻いてた癖にさ」


 声が聞こえる。

 スピカは声の方向に顔を向けた。


「どうだい、アンナ。君の受け身な輝術とは違って、僕は自分の意思で君達を縛ることさえできるんだ」


 聞こえるのは男性の声のみ。他の声はない。

 胸騒ぎを感じてスピカは走る。脇道を通り、港へと入った。

 そこで見た光景は、目を疑うものであった。


「そんな……」


 真っ黒な円の中に立つ男性、アルゲディ・パニコン。彼はパンパイプを両手に持ち、薄ら笑いを浮かべている。

 辺りには倒れた人々の姿。兵士と思しきサテュロスと人間が半数を占めていた。しかしその中には、仲間の姿もあった。

 アルファルド、レグルス、ファミラナが。唸りながら、泣きながら、その場にうずくまっていた。

 アンナは荒い息をして、四つん這いで体を震わせている。

 そんな中、アヴィオールだけが立っていた。膝は震え、今にもくずおれそうだが、白鳩の光を体に纏わせて耐えている。


「君は面白いね。災いを防ぐ、アルゴの一族だっけ?

 まあ、全員を守ることはできなかったみたいだけど」


「うるさい」


「ねえ、今どんな気持ち?

 みんなが倒れて、残ったのは君だけ。でも君もそう何度も耐えられないでしょ?

 そんな状態でさ、そこのお姫様を守るなんて、できっこないよね?」


 アルゲディは、今しがた港に現れたスピカを見遣る。「ねえ?」と同意を求めながら、怪しい笑みを浮かべていた。


「アヴィ! みんな!」


 スピカは駆け寄る。どうにかみんなを助けたい一心であったが。


「スピカ! 来ちゃだめだ!」


 アヴィオールは叫ぶ。スピカは、アンナの目の前で足を止めた。


「あはは。来ても来なくても同じことだよ。

 俺の輝術は、聞いた者を恐怖で狂わせる。ましてや乙女の君は、輝術の光を浴びるだけで倒れてしまう。そうなれば、逃げるなんてできないもんね」


 アルゲディの言葉に、スピカは何も言い返せない。

 アルゲディが笛を奏れば、再び抑うつ感が皆を襲うだろう。スピカは気を失い倒れてしまうだろう。

 スピカは絶体絶命の状況下で、何かできることはないか考えた。そして。


「そうよ。私だって賢者だわ」


 スピカは思い出した。

 目を閉じる。深く息を吐き出す。

 地面を靴裏で叩き、集中した。

 できるかどうかなんてわからない。だが、今対抗できるものがあるとしたら、これだけだ。


「春待ちの賢者……我が名はスピカ……」


 賢者達の口上を真似る。自身を中心に光が舞う。


「スピカ、何してるの……」


 アヴィオールの問いかけは耳に入らない。

 スピカは回る。

 くるり。くるり。スカートを翻す。

 足元から、指先から、光が溢れる。それは風に乗って辺りに広がる。


「乙女の輝術による快楽で、俺の恐怖を相殺するか。なるほどねえ」


 アルゲディは目を細めた。この状況が面白くて、唇は弧を描く。


「だめだ! スピカ!」


 アヴィオールは叫ぶ。

 しかし、スピカにはまるで聞こえていなかった。

 耳鳴りがする。目眩がする。自分自身の光に飲まれて気を失いそうだった。しかし、正気を保たなくては。

 スピカは唇を噛み、ひたすらに回る。

 その時であった。


「な、何……?」


 スピカの足元から麦の芽が生えた。それは一瞬のうちに腰まで伸び、穂をつける。

 一本だけではない。それは次から次に生えてくる。地面だろうが宙だろうがお構い無しに。

 急速に伸びた麦穂は、スピカの視界を覆い尽くす。天を目指して葉を広げる。

 堪らず逃げようと後ずさりする。しかし、伸びた麦は逃げることを許さない。背中に柔らかな壁を感じて、スピカは麦の壁に囲まれていることを悟った。

 手に、足に麦の葉が絡みつく。それは柔らかな肌を傷つける。


「スピカ、ごめん!」


 突如、白鳩が麦の壁を切り裂いた。白鳩は、スピカの頬を掠めて光の粒子へと還る。

 スピカが踊りを止めたことで、麦の伸びは収まった。ややあって、断ち切られた箇所から光となって砕け始めた。

 それと同時に、スピカの足元から色が消えていく。

 炭酸の気泡が消えるように、砂絵が崩れていくように。色が空へと昇り、風に巻かれて消えていく。

 黒は大きく広がっていく。海も、船も、船着場も。影すら存在できない黒に飲み込まれた。

 アルゲディが引き起こしたカオスとは比べ物にならない。港の全域が黒に飲み込まれていく。

 何が起こったのかわからず、スピカは呆然とする。そして、その場にへたりこんでしまった。


「それが乙女の輝術の本質だよ」


 突如とつじょ声が聞こえた。

 従者を引き連れ港に入ってきたのは、さそりの大賢人、スコーピウス・アンタレス。

 スピカは歪む視界の中で、スコーピウスの姿を捉えた。


「スコーピウス・アンタレス……火の星に比類する者……」


 アヴィオールの声が、スピカにも聞こえる。しかし、アヴィオールに視線を向ける程の力は、スピカには残っていない。


「乙女の輝術の本質って……?」


 スピカは、かすれ声で尋ねる。

 スコーピウスは、スピカの正面に腰を落とし、片膝をついた。スピカの頬に触れ、顔を上げさせる。


「乙女の輝術は、幸せを運ぶ。

 その幸せとは、命を与えること。星の力を吸い、他所に与え、万物に宿る命を膨らませるもの。

 許容を超えてしまうと、先程のように暴発する。気を付けて使いなさい」


 スコーピウスはスピカから手を離す。徐に立ち上がると、引きずる程に長い法衣の裾を揺らしながら、アルファルドの元へと近付いた。


「アルファルド君。君が持っているものを、私にくれないかね」


 アルファルドは青い顔でスコーピウスを見上げる。山羊魚やぎの輝術の影響だろう。顔には恐怖がありありと浮かぶが、意思は強いままだ。スコーピウスの要求には、首を振って拒否を示す。


「これは命令だ。先代乙女の日記を、私に寄越よこしなさい」


 アルファルドは尚も首を振る。

 スコーピウスはため息をついた。


「往生際の悪い男だ」


 スコーピウスは、腰に刺していた剣を抜く。細身のエストックだ。それを、あろうことかアルファルドの腹に突き刺した。


「あ、が……」


 アルファルドは、その痛みに呻く。同時に輝術が発動し、傷から溢れた光が、傷口を覆い隠す。

 しかし、剣は抜かれないまま。更には手首を回し、刺傷を抉り広げる。

 アルファルドの口から鮮血が溢れる。アルファルドの濁った呻き声を聞き、スコーピウスは呆れて言葉をもらす。


「大人しく日記を寄越よこしてくれればいいものを」


 スコーピウスは、アルファルドが抱えていたブリキ缶を見遣る。南京錠がかけられたそれを掴んだ。


「やめろ」


 アルファルドが、スコーピウスの手首を掴む。ブリキ缶を持っていかれまいと、ギリリと睨みつけた。

 しかし、手負いの男に睨まれたところで、怯むような臆病ではない。スコーピウスはそれを振り解き、ブリキ缶を舐め回すように眺めた。


「これと、あとスピカがいれば、私達の目的は達成されたようなものだ」


 エストックが抜かれ、アルファルドの体が倒れる。海蛇の輝術が発動していても、貫かれた腹の傷が塞がるまでは時間がかかる。


「その中にエルアの日記が?」


「あるはずだ。レオナルドを締め上げて吐かせたんだ。間違いないよ」


 アルゲディとスコーピウスは、楽しげに話す。ブリキ缶を宝箱のように、大切に抱えている。

 スピカはそれを見て気付いた。自分がすべきことが何か。


「カルキノスさん。これを預けます」


 スピカはアンナに囁いた。そして、袖の中に隠していたものを、アンナの目の前に置いた。

 真鍮しんちゅうの鍵。ブリキ缶の南京錠を開けるための鍵だ。

 アンナは目を見張る。それを受け取るべく、片手を伸ばした。

 一瞬、互いの手が触れた。光が弾ける。

 

「あ……」


 アンナは目を見開き、スピカの顔を見上げた。

 一瞬の光の煌めきに、スピカの意識はくらりと遠のく。体が大きく揺れ、その場に倒れてしまった。


「スピカ!」


 アヴィオールは走り出す。スピカに駆け寄り、彼女の肩を揺さぶる。


「スピカ、しっかりして。僕達だけでも逃げるよ」


 アヴィオールはスピカを抱える。だが、ぐったりしたスピカの体は、自力で起き上がれない。エウレカを封じ込めるために、意識は保っているものの、それが精一杯だ。


「逃げられまいよ。その子は光を浴びすぎた」


 アヴィオールの声に気付き、スコーピウスは言う。踵を返しスピカ達に近付くと、アヴィオールの顔を見下ろした。


「スピカと一緒に来るかい? それとも、彼らと共に残るかい?」


 スコーピウスの声は優しい。先程アルファルドを刺した男と同一人物だとは思えない程に。

 アヴィオールは答えを迷う。スピカを守るために着いていきたい。しかし、自分がついて行くことはできないのだ。

 スピカはアヴィオールの顔を上目で見る。彼の選択を待っていると、ファミラナのテレパシーが頭に響いた。脳裏に聞こえるそれは、酷くざらついている。


『アヴィ君は、先代乙女の日記を持ってる。渡しちゃダメなの。

 もう少しだけ時間を引き伸ばして。私が動くから』


 ファミラナを見る。彼女は恐怖心から涙を零している。震える足で立とうとしていたが、体が持ち上がらない。

 絶体絶命ではないか。スピカは悟った。


「アヴィ、ごめんね」


 スピカは呟く。そして、彼を押し退けた。


「スピカ……?」


「私、行くわね」


 立ち上がり、スコーピウスを見上げる。

 途端に酷い立ちくらみに見舞われた。ふらつく体をスコーピウスが受け止める。


「いい子だね」


 スコーピウスがスピカの頭を撫でている。アヴィオールはそれを呆気にとられて見ていた。


「君に免じて、彼らはこのままにしておこうか」


 スコーピウスはスピカを横抱きにし、港に背を向ける。


「でも、放っておいたらまた邪魔するかもしれないよ」


 その背中を追いかけながら、アルゲディは声をかける。だが、スコーピウスは首を振って言った。


「大丈夫さ。スピカとエルアの日記、どちらも手に入った。彼らはもう何もできないよ」


 スピカはアヴィオールを見遣る。

 アヴィオールは、スピカの顔を見つめ返す。しかし、何もできない。自分の身を危険に晒すことができない。

 エルアの日記を持っているのはアヴィオールだ。それを勘づかれてはいけない。奪われれば、本当に終わってしまう。


『大丈夫よ』


 スピカは声を出さず、口の動きだけでアヴィオールに伝える。

 「大丈夫」な要素など、ありはしない。ただ、安心させたかっただけだ。

 スコーピウスとアルゲディが港を後にする。辛うじて動ける兵士と従者は、二人の大賢人の後に続いた。

 スピカは目を閉じる。随分と疲れてしまった。強い眠気に襲われ、意識は夢の中へと落ちていった。

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