後悔薄明(2)

 アクィラにある、鷲の賢者が住まう屋敷。花畑が広がる鮮やかな庭とは対照的に、この部屋は随分と空気が澱んでいた。

 遮光カーテンにより陽の光は遮られ、部屋を照らすのは燭台しょくだいの灯りのみ。家具は何も無く、あるのは拷問器具ばかり。

 木馬と回転台が部屋の隅に置かれ、壁には様々な形をした鞭がいくつも並んで架けられている。

 不気味な部屋の中央、アヴィオールは四つん這いで咳き込みながら、床を指で掻いていた。

 酷く鞭打たれており、袖には赤黒い染みが滲んでいる。顔は殴られ、口内を切ってしまったようだ。絨毯じゅうたんには、口から零している血液がじわりと広がっていく。

 タラゼドは微笑みを絶やさず腕を振り上げる。その手に持っていた一本鞭を、アヴィオールの背中に振り下ろした。

 痛いと叫ぶどころの衝撃ではない。息が詰まり、手足が震える。床に腹をつけ、浅い呼吸をし始めた。


「エウレカと代わっておくれ。このままだと、アヴィオール君が死んでしまうよ?」


 至って穏やかな口調で、タラゼドはスピカに語りかける。スピカはガタガタと震えながら、しかしエウレカを表に出してはならないと、首を振って拒否をする。


「強情だね。君も、彼も」


 タラゼドは鞭で、再びアヴィオールの背中を叩く。アヴィオールの口から、蛙のようなくぐもった声が漏れた。


「やめて! わかったから!」


 スピカは叫ぶ。屈してしまいそうになるが。


「駄目だよ、スピカ」


 アヴィオールは、息切れしながらスピカの言葉を遮った。そして、笑みを含みながらタラゼドに言う。


「あんた、僕のこと殺せないはずだよね」


 タラゼドは目を細め、髭を片手で撫で付ける。

 アヴィオールは仰向けになり、痣ができているであろう脇腹を押さえる。酷く痛むそれに顔をしかめながらも、勝ち誇った顔でタラゼドを見上げた。


「エウレカを出すには、スピカを説得しなくちゃならない。だから、僕をスピカの弱点だと思って、こんなことしてるんでしょ?

 なら、スピカが屈しない限り、僕を殺すはずがない。殺したら、交渉材料がなくなっちゃうもんね?」


 いつかは手を緩めるだろう、終わるだろうと。アヴィオールはそれを見越した上で、甘んじて鞭打ちを受けていた。

 だが、タラゼドはそれを聞いて笑う。


「はははっ。そうかそうか」


 そんなタラゼドの様子に、アヴィオールは訝しむ。

 常に微笑みを浮かべるタラゼドの顔からは、胸の内が全く読めない。ただ、声を上げて笑う彼からは、不気味さだけ感じた。

 元より、子供を痛め付けている時点でマトモではないのだ。アヴィオールはそれを失念していた。


「ここまでされて、心折れないとは大したものだ。今までの子達とは違う。尚更気に入ったよ」


 タラゼドは、それまでの表情から一変し、底意地が悪い、歪んだ笑い方をした。僅かに開いた口からは荒い息遣いが漏れ、隠しきれない興奮を浮かべている。

 ぞわりと肌が粟立だった。アヴィオールは起き上がろうと身動ぎする。

 だが、痛む体は存外重い。

 

「ワシの輝術は催眠だ。こんなことをせずとも、少し術をかけてあげるだけで、誰も彼も思い通りだ。なら、何故こんなことをする?」


 今やタラゼドの視界にスピカは入っていない。アヴィオールをじっと見つめている。

 気が触れている。アヴィオールは思った。

 おそらく、タラゼドがその気になれば、スピカを催眠で操り、エウレカを引きずり出すなど造作もない。つまり、アヴィオールが受けてきた暴行は、本来受ける必要がなかったものだ。

 ということは。


「趣味は人生を豊かにするのだよ」


 タラゼドは笑い、再び鞭を振るう。それはアヴィオールの腹に直撃し、耐え難い痛みが背中まで駆け抜けた。


「げほっ、げほっ」


 激しく咳き込む。息が苦しい。視界が明滅し、意識が薄れる。


「まだ駄目だよ。失神するには早すぎる」


 今し方鞭打たれた腹を、タラゼドの爪先に踏みつけられる。

 押され、拗られ。

 その痛みと重みに気を失うこともできず、呻き声を漏らした。


「ワシが女の子しか好かんと、誰が吹聴ふいちょうしたのだろうなあ。男の子も同じくらい可愛がっておるというのになあ」


 歌うようなタラゼドの言葉に、アヴィオールは何も言い返せない。

 タラゼドの足が浮く。

 飽きたのかと思った次の瞬間。再び腹を踏みつけられた。


「う、ぐ……」


 タラゼドの足を振り払い、四つん這いで背中を丸める。喉奥に込み上げるものを耐えることができず、吐き出してしまった。生温いものが床に広がり、床に突いた手を汚す。


「もうやめて!」


 スピカはアヴィオールに駆け寄り、泣きながらタラゼドにひざまずく。髪が汚れるのも構わず、床に額をつけて救いを請う。


「アヴィを傷付けないで。あなたの言うこと聞くから。お願いだから」


「駄目……それは……」


 息絶え絶えでアヴィオールは制止するが、既に遅い。スピカの言葉に、タラゼドはにっこりと笑う。


「スピカちゃんに免じて、今日はもう終わりにしようか」


 スピカは顔を上げる。顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。

 タラゼドはそれを見て、欲望が堪えきれないのか、持っていた鞭を彼女に向ける。

 スピカは縮こまって体を震わせた。


「残念ながらね、君には何もできないのだよ。アルデバラン君に止められていてね」


 タラゼドは鞭を下げる。スピカは安堵した。


「アルデバラン君には連絡を取っている。明日の朝には君を迎えに来るそうだ。

 それまでに、エウレカを起こしてやっておくれ」


 至って穏やかな口調で、タラゼドはスピカに要求する。だがそれは命令に等しい。反抗すれば、先程のようにアヴィオールが痛め付けられると目に見えている。

 それでもスピカは、反抗的に見えないよう気をつけながら、おずおずと口を開く。


「私だけ、ですか……?」


 タラゼドは頷く。


「アヴィ君は、ここにお留守番だよ」


 スピカは青ざめた。

 アヴィオールをタラゼドの傍に残していてはならない。いつか死んでしまう。

 

「アヴィも連れて行きたいです」


 震える声で要求するが、タラゼドは首を横に振った。用事は終わったとばかりに踵を返す。

 スピカはしゃくりあげ、両手で顔を拭う。それでも涙は止まらない。

 何故いとも簡単に自分たちはさらわれたのか。何故友人は助けてくれないのか。

 タラゼドの背中に、スピカは問いかける。


「ファミラナは、彼女の意志であなたの元に下ったんですか?」


 タラゼドはスピカを振り返る。相変わらず笑顔を浮かべているが、胸の内が読めない。

 その不気味さに、スピカは体を強ばらせる。


「元よりワシの部下だ。

 少しばかり、ワシの術をかけてあるがな」


 タラゼドは最後に笑みを浮かべ、拷問部屋を後にした。

 ガチャリという重い音が二度聞こえる。厳重に施錠させられたことを、スピカは理解した。

 スピカは後ろを振り返る。


「アヴィ……」


 大丈夫か、などと聞けるはずがない。アヴィオールの体はぼろぼろだ。

 痣だらけの体は痛々しく、痛みで表情は曇っている。仰向けのまま起き上がれないでいた。

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