表面輝度によるパラドクス(5)

 スピカは記憶の奔流ほんりゅうの中にいた。

 自分の記憶ではない。知らない景色、知らない人々が、通り過ぎては消えていく。まるで銀河鉄道の窓から見る景色のようだ。

 クリスティーナは時計の輝術によってエウレカの記憶を掘り起こしているはずだ。となれば、この記憶はエウレカのものだろう。


 不意に誰かの泣き声が聞こえた。赤ん坊だろうか。ふにゃふにゃとしたか弱い泣き声に、スピカは辺りを見回した。


「この子をお願いね」


 女性の声だ。

 右に顔を向けると、男女が向かい合って立っていた。片方はおそらくアルファルドだろう。しかし今よりも随分若い。

 女性は半ば押し付けるように、腕の中のものをアルファルドに押し付けた。手帳が一冊と、布に包まれた何か。アルファルドが布を剥がすと、そこには涙をこぼして泣く赤ん坊がいた。


「君の子だろう」


 アルファルドが言う。

 真紅の目に白い肌、女性と赤ん坊はよく似ていた。

 女性は首を振る。

 

「私は責任が持てない。最後まで育てられない」


 アルファルドは食い下がる。

 

「君は一体どういうつもりなんだ!

 そうだ。バランはどうした」


 女性は寂しそうな顔をして笑う。

 

「あの人は、この子のための父親にはなれないわ。あの人はただの男でしかない」

 

 なら、その子は誰が育てるのか。スピカは思った。しかし、答えはもう知っている。

 

「貴方に育てて欲しいの」


 アルファルドは目を丸め、女性に何かを捲し立てる。しかし聞き取れない。女性の耳には、アルファルドの声は入らない。代わりに聞こえているのは、意地の悪いエウレカの笑い声だ。


『馬鹿ね。そんなことしたって、あなた達は逃げられない。

 あなたはきっと死ぬつもりでしょう? 私を道連れにして。でも、そう上手くいくかしら?』


 エウレカの声がフェードアウトしていく。アルファルドの声が女性の耳に入る。


「スピカには母親が必要だろう」


「…………ごめんなさい」


 女性は踵を返して走る。

 

 次の瞬間、場面が変わる。

 真夜中の乙女の宮、その二階。継承の儀を行ったあの空間。窓を開けて、女性は身を乗り出している。

 手が震えている。それをエウレカが嘲笑う。


『あらあら、怖くなっちゃったの?

 あなたは知ってるものね。死んだところで、天国も地獄もない。行き着く先はただの石塊いしくれ。ぐずぐずに腐って、打ち捨てられるだけ』


「煩い……」


『あなたがしてきたことなんて全部無駄。可哀想にね』


「煩い……!」


 女性の目から涙がこぼれる。

 一人では死ねない。勇気が出ないのだ。


「エルア。待たせたな」


 女性は振り返る。

 やってきたのはレオナルド。獅子の賢者だ。


「レオ兄さん……」


 弱々しい女性を元気づけようとしたのだろう。レオナルドはニッと笑う。


「どうした? 急に呼び出して。怖い夢でも見たのか?」


 冗談めかして言ったレオナルドの言葉を、女性は否定できない。

 怖い夢であれば良かったのに。


「一人か? 赤ん坊はどうした?」


 レオナルドは決して怒らず、優しく問いかける。


「アルフに預けたわ」


 女性の言葉に、レオナルドは眉を寄せた。


「預けた? どういうことだ?」


 女性ははかなく笑う。


「私、死にたいの。でも、ここから飛び降りる勇気がない。

 お願い、兄さん。私を殺して」


 レオナルドの顔が歪む。湧き上がる怒りを堪えきれない。そんな顔だ。


「逃げるのか。あと少しで真実が掴めそうだっていうのに!」


「私は全て知ってしまったの」


 途端に声にノイズが走る。

 スピカはノイズの不快さに眉をしかめた。女性の声は何一つ聞こえない。

 このノイズは、エウレカの意思なのか。単にエウレカが忘れてしまったからなのか。

 それとも……


「もし……が、ここに……れば……」


 女性の声が途切れ途切れに聞こえてくる。


「その時は、殺して」


 暗転する。

 窓から身を投げ出される女性の姿。

 窓から身を乗り出して泣くレオナルド。


 やはり、自殺だったのだ。スピカは確信する。

 スピカの母親は、エルアは、レオナルドの手を借りて自殺した。

 アルファルドは何も悪くない。レオナルドのことも責められない。

 何故自殺をしてしまったのか。それはスピカにはわからない。


 再び景色が流れていく。何も見えない程に高速で。

 そのまま一分、二分……五分は経っただろうか。景色の流れは失速し、やがて、エルアとは別の、一人の女性が視界に現れた。


「魂だけでも引き上げられた気分はどーお?」


 黒いボブヘアを揺らしながら、垂れた目を細めて、女性はからからと笑う。


『不快だわ。自分が自分でないみたい』


 エウレカは女性に語りかける。

 随分と昔のようだ。女性は古い意匠いしょうのキトンを身につけている。壁も地面も石造り。

 もしや、千年前の記憶だろうか。スピカは考えた。


「あなたの無念を晴らすっていう約束。私の見立てだとー、千年くらいはかかりそうだよー? それでもやっちゃう?」


 女性の意地悪そうな笑みを見て、スピカは思い出した。

 彼女は魔女だ。以前、エウレカの記憶の中で見た女性と同じ顔であった。

 エウレカは言う。


『構わないわ。

 私を竜に食わせた世界を。

 私を忘れてしまった世界を。

 私は呪ってやる』


 魔女はおどけて口笛を鳴らす。


『恋人のことも許せない。竜との婚姻の前に、私を引き止めてくれさえすれば、こんなことにならなかったのに……』


「それは逆恨みってやつだよー」


 魔女は、部屋の隅に置かれた揺りかごへと向かう。そこには赤ん坊が二人眠っていた。

 片方は男子、片方は女子のようである。二人とも柔らかな黒髪をしていた。双子だろうか。


「牡牛の男子と、乙女の女子。どちらも絶やしてはいけない」


 魔女は赤ん坊にキスをした。


「さあ、呪いを継いで。千年先の子々孫々へと。そして、私達の願いを叶えて」


 キスを落とされた女子の赤ん坊は、黒いもやで包まれる。やがてそれは赤ん坊の中へと吸い込まれた。


「エウレカ、あなたはこれで、乙女の一族に取り憑いたよ。あなたは乙女とずっと一緒。ある意味あなたへの呪いかもねー」


 魔女は、この一連の出来事を面白がっているようだ。

 しかし、エウレカにはそのようなこと関係ない。自分の目的さえ果たせれば、それでいい。そう考えているようで、魔女の態度には文句を言わない。

 代わりに礼を言った。


『あなたが生まれてくれてよかった。おかげで私はまだこうしていられる』


 魔女はきょとんとした。礼を言われるなど想定外であったようだ。


『あのラドンが、私との子を成していたと知った時には憎らしくて仕方なかったけど。でも、いいわ。

 私にこんなに協力的でいてくれるのは貴女だけよ。感謝してるわ、魔女さん』


 魔女は笑う。無邪気にからからと。

 自らの子、双子のうち乙女を抱き上げて、不気味に歌いながらくるくると回る。

 足元からは麦の芽が伸びる。それは茎を伸ばし、穂を立てて……


 暗転した。

 再び景色が過ぎ去っていく。


「何なの、あれは」


 スピカは呟く。

 理解するためには、情報が膨大で、尚且つ大事なことが抜け落ちていた。

 魔女が乙女に呪いをかけた。魔女と双子はおそらく親子だ。そして、エウレカと魔女も親子なのだろう。

 何故。エウレカは何故、竜との子を成したのか。何故婚姻を結ぶ必要があったのか。


 再び景色は古代を映す。先程の記憶より前の時代だろう。

 薔薇ばらの花が咲き乱れる高台に、彼らはいた。

 真っ白な祭壇に、広漠たる空。青を泳ぐ竜達と、祭壇に集まる人々。彼らはヒトと竜の婚姻を祝福している。

 祭壇へと向かうエウレカの姿がそこにあった。白いキトンと月桂樹の冠を身につけて、長いベールをなびかせて。

 祭壇で待つは、真っ黒な翼とうろこを持った巨大な竜。エウレカは竜の前に立ち、その巨体を見上げた。


「私、牡牛と乙女の一族に身を置きます、エウレカと申します」


 エウレカはひざまずく。ふわりとなびく真っ白なキトンは、黒い竜と対比して美しい。


「我は、知恵の竜ラドン。そなたらヒトに、知恵の術を授けし竜である」


 ラドンはエウレカを見下ろす。そして、血のように赤い瞳を細めた。


「君は今、誰のことを考えている」


 ラドンの口調が変わる。その声は、怒りをはらんで重々しい。


「え? あの……」


 エウレカは問われた意味がわからず首を傾げた。

 ラドンは苛立っているようだった。


「我らの申し出とはいえ、君ら牡牛と乙女は、タルタロスの守り手としてよくやってくれている。千年に一度の代替わり、二千年に一度の我らとの婚姻。よくやってくれているよ。

 だが、君はその約束を忘れたか?」


 エウレカは困惑している。


「ラドン、何を言うておる」


 エウレカの後ろから、ニュクスがラドンに声をかける。ニュクスもまた困惑している。


「ニュクス、君には関係ない」


「何を言うか。其方らの婚姻は、其方らのみの問題ではない」


「黙れ、老竜ろうりゅう


 ラドンの口から冷気が漏れる。

 彼は酷く腹を立てている。その理由は、すぐに彼の口から語られた。


「君は私がいながら、人間の男と逢瀬おうせを重ねていたらしいな」


 エウレカは目を丸める。

 確かにエウレカには恋人がいた。しかし、竜に求められたその日から関係は絶っていた。

 

「貴方との婚約を結んだ夜から、彼とは会っておりません」


 恋人と最後に会ったのは、婚約を結ぶ前の日。アネモネの花畑で会ったのが最後だった。

 身を引き裂かれるような思いで別れを告げたのだ。胸中では恋人を想っているが、ラドンには関係のない話。

 だが、ラドンは首を振る。


「生まれ落ちたその日から今日に至るまで、君は純潔でなければならない」


「彼とはそういう関係を持っておりません」


「嘘をつくな」


 ラドンは吠える。エウレカはぶるりと震えた。


「少しばかり賢いがために、其方そちは考えすぎるのじゃ。頭を冷やせ、愚弟ぐていが」


 ニュクスの叱咤もラドンの耳には入らない。ラドンは怒りのままに咆哮する。辺りには冷気が溢れ、地面も薔薇ばらも凍り付いてしまう。

 エウレカは状況が理解できぬまま、その場に立ち尽くすしかない。過去のエウレカの恋愛に、ラドンが口を出すのはお門違いではないのか。

 言いがかりをつけたいだけなのかもしれない。エウレカを意のままにするために、罪悪感を植え付けたいだけなのかもしれない。

 否、ラドンの企みは、想定以上に身勝手なものだった。


「君が私を裏切ったのだ。その報いを受けてもらう」


 エウレカの眼前に迫るラドンの顔。真っ赤な目は、怯える彼女の青い目を見つめる。


「ラドン、やめよ!」


 ニュクスは言うが、もう遅い。

 ラドンの大きな口が開かれる。生暖かい息を浴びながら、エウレカの体はその中へと。

 そこから先の景色はない。

 

 真っ暗な視界、何も聞こえない。エウレカの絶望だけが辺りに満ちていた。


『何で? 私が何をしたの?』


 きっとそう叫びたかっただろうが、声は出せなかったに違いない。何も見えない中で、潰されるような音が鮮明に聞こえる。

 食われたのだ。


 スピカはその絶望感に飲まれそうになり、ふらりと倒れる。

 黒い景色は泥濘ぬかるみのよう。床に満ちている液体は、ぬるりとしていて生暖かい。


「許さない……」


 エウレカの感情が、スピカの口から漏れ出る。スピカの意識は、バラバラに噛み砕かれたエウレカの体に憑依ひょういしていた。


「許さない……許さない……

 私を食らったラドンも……

 私を売った父様も……

 私を守ってくれなかった彼のことも……

 許さない……絶対に……」


 胸を埋め尽くす虚無感。死への恐怖。体が冷えていく感覚が広がり、思考は麻痺していく。

 スピカの意識は、エウレカの絶望に飲み込まれてしまいそうだった。

 このままではいけない。そう思うものの、指一本さえ動かせない。

 指先だけでも動かせたら……


 目の前に、真っ白な羽根が舞い降りた。それは指先にふわりと落ち、光が熱となって染み渡る。

 今なら動かせる。

 

 目の前の黒い景色に手を伸ばす。ぎゅっと握ると、それは紙のようにくしゃりと潰れた。ない力を振り絞って腕を引くと、黒い景色はちぎれて飛び散る。


『わかった! もういい。

 もう、いいよ……』


 アヴィオールの声が聞こえる。泣いているのか、声は涙に濡れていた。

 スピカは体を起こす。目の前には、即位の儀の時と同じように、映像が映し出されている。


『ごめんね……』


 目の前には、覆い被さるアヴィオールの泣き顔があった。クリスティーナの術により、アヴィオールもエウレカの過去を見たのだ。

 そして、エウレカの悲劇を知ったのだ。


『許さない……許さない……』


 スピカの声で、エウレカは呻く。映像は水に濡れたようににじんでいく。

 

 スピカは困惑していた。

 エウレカのことを、許せない悪人だと、欲で世界を滅ぼすような醜い女だと思っていた。

 彼女を突き動かしていたのは、耐え難い痛みと、恨みと、虚しさだった。


「ごめんなさい、エウレカ」


 スピカは涙を零す。映像に触れ、ぎゅっと握る。


『どうして私ばかり、こんな目に遭うの……私が何をしたのよ……』


 腕を引き、エウレカを引き入れる。

 金の髪がなびき、目の前にエウレカの姿が現れた。彼女はスピカに怒りの形相を向けて怒鳴り散らす。


「よくも私の過去を盗み見てくれたわね。

 思い出したくなかった! 見られたくなかった!

 あなた達を許さない。私の存在を歪めて忘れた世界を許さない。

 私を裏切った世界を、私は滅ぼしてやるのよ!」

 

 次の瞬間、スピカは目を開いた。


「エウレカ、ごめん……ごめんね……」


 アヴィオールが、仰向けに倒れた自分に覆い被さっている。スピカは目を瞬かせた。自身の睫毛まつげの重たさから、今まで泣いていたことに気づく。


「アヴィ、私よ。スピカよ」


 スピカが言うと、アヴィオールはハッとした。涙は止まらないようで、スピカの頬に雫がパタパタと落ちる。


「スピカ、見た?」


「見たわ」


「……そっか」


 あまりに衝撃的な過去に、何も言うことができない。すぐには飲み込めない。

 突然、バタリと音がした。スピカもアヴィオールも、慌てて体を起こす。そして同時に叫んだ。


「クリスさん!」


 力を使い果たしたのだろう。クリスティーナが部屋の中央にうつ伏せで倒れていた。倦怠感けんたいかんからか、体も顔もぐったりとしていて力がない。


「スピカ、アルフ呼んできて!」


「ええ」


 スピカは立ち上がり、慌てて部屋を飛び出した。

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