表面輝度によるパラドクス(2)
スピカは夢を見ていた。
エレボスの回廊で見た少女の姿。血が噴き出し、手足が折れていくあの姿。
今、自分はその時の少女だった。
「痛くはないのね」
一言呟く。夢の中なのだから当然だろう。
顔が崩れたその瞬間から視界は塞がれ何も見えない。痛みはないが、折れる衝撃と腹部の緩みは感じていた。少女の姿が脳裏に浮かぶが、考えないように努める。
やがて身体中に生暖かさを感じた。何かが肌を這う感触。舐め回されているかのような、絞られているかのような。
夢の中での感覚があまりにリアルで、いささか気持ちが悪い。
「気持ち悪い……」
そう呟いたつもりが、喉に空いた穴から空気が抜け、言葉にならなかった。
『見てるんでしょう』
エウレカの声が聞こえた。
『私の忌々しい記憶。思い出したくない記憶を。ねえ、どんな気持ち?』
スピカはそれに答えない。言葉が口にできないことを、先程体感したからだ。エウレカは何の感情も示さず、淡々と話している。
『私が生まれた意味って何だったの? 死んだ意味って何だったの?』
スピカには知る由もない。
次の瞬間、
「スピカちゃん、大丈夫ですか?」
カペラの声で目を覚ました。
スピカはぼんやりとした目で、自分の顔を覗くカペラとファミラナを交互に見る。
「すごく
ファミラナに言われ、自分のパジャマに手を当てた。
悪夢に
「シャワー浴びて来たらどうかな?」
「そうね……」
スピカは欠伸をしながら上体を起こす。
アンティキティラにあるクリスの家で、スピカは一晩過ごしていた。一晩と言っても、到着は夜中であったため夕飯も取らずに寝てしまったのだが。
スピカはベッドから降りると鞄を開ける。ブラウスにスカート、基礎化粧品をいくつか取り出して、シャワーを浴びる準備をする。
「あの、昨日の話なんだけど」
スピカはカペラとファミラナを振り返る。二人は何を言われるか察したようだ。先にカペラから口を開く。
「協力してくれないかって? もちろん私は協力しますよ! 昨日もそう言ったじゃないですかー」
にこやかな彼女は不安を感じさせない弾むような声で答える。彼女にも不安や心配はあるだろうに、それを
「カペラ、ありがとう」
「えへへ。どういたしまして」
一方で、ファミラナの表情は暗かった。スピカの視線から逃げるように目を伏せる。
「私はファミラナを変だなんて思ってないわよ」
スピカは声をかけるが、それだけではファミラナを元気づけることはできない。
「アヴィ君、どうしてあんなこと言ったんだろう……」
ファミラナは寂しげに呟いた。
昨晩のアヴィオールはファミラナに対してよそよそしかった。それをスピカが咎めると、アヴィオールは語ったのだ。継承の儀の際に、ファミラナがアヴィオール達を襲ってきたと。
「私がスピカちゃんを助けるの邪魔しようとしたなんて。私そんなことしてないのに」
ファミラナは呟く。スピカはそれを聞いて顔を俯かせる。
スピカはアヴィオールの話を信じきれないでいた。スピカが覚えている限りでは、継承の儀を中断させた面子の中に、ファミラナもいたはずだ。
それでもアヴィオールは信用できないのか、ファミラナに対しては、友達らしくない態度だった。
スピカは決心した。
「アヴィと話してみましょうよ。何か誤解があったのかもしれないし」
「え、でも」
「逃げちゃ駄目よ。私も一緒に行くから。ほら」
スピカは笑ってそう言って、ファミラナの手を引いた。そのまま二人で寝室を後にする。
カペラは「いってらっしゃーい」と言いながら、片手をひらひらと振っていた。
朝の日差しが窓から差し込んでくる。それに目を細めながら、スピカはファミラナに尋ねる。
「ファミラナは昨日着いたのよね?」
「うん。カペラちゃんがダクティロスの駅から電話かけて、クリスさんが電話口で家を教えてくれて」
「家の鍵をポストに置いておくなんて、クリスさんたら不用心よね」
二人は喋りながらリビングへと向かう。アヴィオールが居るとしたら、リビングか客間だろうと考えてのことだ。
廊下を通り、階段に向かい、一階へと降りていく。
クリスの家には時計が少ない。リビングにある振り子時計と、二階の廊下にある鳩時計の二つ。クリスは時計の賢者なのだから、時計にまみれた生活をしているのだろうと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
リビングに入ると、振り子時計から朝七時を知らせる音色が奏でられる。
「おはよー」
声をかけられて、リビングの中央へ顔を向ける。机を囲むようにL字に置かれたソファには、アヴィオールとクリスが座っていた。
「おはよう」
スピカは挨拶を返す。
アヴィオールはスピカを見、ファミラナを見る。そして顔を強ばらせた。やはりファミラナを警戒しているらしい。
「朝ごはん準備してるわよ。それとも、先にシャワー浴びてくる?」
クリスはアヴィオールと顔を突き合わせてナンバープレースをしていたようだ。開いたパズル雑誌には、ページの余白やマスの中が数字でびっしり埋まっている。
「まだレグルス君は寝てるみたい。グリード君は朝のお散歩、アルフ君には私の仕事を押し付けちゃった」
お茶目に舌を出すクリスに、スピカは小さく笑いをもらす。しかしすぐにアヴィオールに顔を向け、彼に近付いて尋ねた。
「昨日あまり話せなかったから今訊くわね。アヴィ、ファミラナに対する昨日の態度は何なの?」
スピカは怒っていた。いくらアヴィオールと言えども、友人を傷付けることは許せなかった。
「スピカちゃん、その……」
ファミラナは不安を顔に浮かべ、スピカの横顔に声をかける。しかしスピカが怒っていると気付くと、助けを求めるようにクリスを見る。
アヴィオールはクリスに見つめられ、居心地の悪さのために顔を反らす。
「ごめん。でも、僕もよくわからない」
アヴィオールは、スピカの質問にそう返答する。それはスピカを更に苛立たせるだけ。
「よくわからないって、どういうこと? ファミラナは私を助けようとしてくれたじゃない。私あんな状態だったけど、それはしっかり覚えてるのよ」
「だからわからないんだよ」
アヴィオールはため息と共に一言吐き出す。冷静を保とうとしていたが、声は混乱を隠せないようだった。
「僕とアルフは、実際にファミラナの襲撃を受けた。でも、ファミラナは覚えてないんでしょ?」
アヴィオールはファミラナを見る。その目には猜疑心が浮かんでいる。
ファミラナもまた、アヴィオールの言葉に疑いを持っているようで。
「ごめんね、覚えてない。
私は、アヴィ君が何でそんなことを言うのかわからない。
あれは新月の夜だったよね。なら、見間違えたってこともあるんじゃないかなって思うの」
「でも、僕とアルフの証言は一致してるよね。これはどういうこと?」
「知らないことを証明なんて……」
アヴィオールの理詰めに、ファミラナはたじろいでしまう。
何かを隠そうとするなら、それを悟られないよう
スピカはどちらの味方につくか困りかねて、アヴィオールに尋ねてしまう。
「一緒にいるのは嫌?」
「そこまでは言ってないよ」
アヴィオールはため息混じりに反抗した。
アヴィオールを信じるということは、ファミラナを信じないということ。
ファミラナを信じるということは、アヴィオールを信じないということ。
どちらかが間違っているのは確実だろうが、スピカにはどちらも嘘をついているようには思えなかった。
「ごめん」
アヴィオールはぽつりと呟く。その場しのぎの謝罪に、スピカはため息をついた。
「…………私も冷静じゃないわね。頭を冷やしてくるわ」
怒りはぐっと飲み込んで、話を一旦区切る。そしてクリスに向き直った。
「バスルーム、お借りしていいですか?」
「ええ。廊下の突き当たりにあるから行ってらっしゃい」
「ありがとうございます」
スピカはファミラナに顔を向ける。ファミラナはスピカと目を合わせず、俯いていた。
「ファミラナ、ごめんなさい。余計に悪くなっちゃったわね……」
スピカの謝罪に対し、ファミラナは首を横に振る。そして早足にリビングを後にし、玄関へと向かう。
スピカは廊下に出て、玄関とは反対方向へ、突き当たりまで歩いていく。
ドアを引き脱衣場に入ると、壁に寄りかかり深くため息をついた。
友人と再会できたばかりなのに、喧嘩をしてしまった。悪者探しがしたいわけではないのに。
言葉にならない小さな唸り声を漏らし、自己嫌悪を
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