黎明の一番星(3)
スピカはひたすら地面がない空間を歩いている。自分の記憶の中だと言われたが、こんなに気味が悪い空間だと不安で仕方ない。
ヘルメスは先程から自分を監視するかのように着いて来る。少々
至る所に存在する看板は、今や白紙ではなくなっていた。どうやらこの看板は、スピカの感情に左右され文字が浮かぶらしい。看板の一つに近付くと、アヴィオールの名と矢印が書かれている。その矢印に従い、スピカは進む。
数時間歩いたが疲れはない。空腹も喉の渇きもない。不思議だと思っていると、後ろから。
「ここは時間のない空間だからね。百年経とうが、千年経とうが、君は今の君のままだよ」
と、ヘルメスが言った。
「心が読めるの?」
「まさか。記憶が見えるだけだよ。一秒前だって、君の記憶だからね」
心が読めていることと同じではないかと思うが、口に出さないことにした。
スピカは進む。何処に向かっているかわからないまま、看板を頼りに。
「アヴィー! どこー!」
見つからない焦りから、スピカは大声を上げた。
もうエレボスの回廊にはいないのではないか。二度と会えないのではないか。そんな不安が頭を過ぎる。しかし諦めたくなかった。
「居たら返事して頂戴! 何処にいるの? アヴィー!」
次第に駆け足になり、全速力で走り出す。ヘルメスは追いつけなくなったようで、遠く後ろに立ち止まっている。
道は下っているようだ。踏めば沈む程に柔らかな地面に足を取られてしまう。スピカの体は投げ出されるように、前方に倒れかかる。
足は地面から離れ、体がふわりと浮いた。地面は見えないが、どうやら穴が開いていたらしい。スピカは見えない穴に落ちていく。
底は見えない。当然だ。地面が見えないのだから、底も見えるはずはない。浅いのか深いのか判断がつかず、スピカは目を見開いたまま頭を下に向けて落下する。
しかし、水の中は冷たくも息苦しくもない。水圧が身体中にまとわりつくものの、それ自体も大したことはない。ここは自分の記憶とは違う。スピカはそう感じながら、足をばたつかせて水の中を潜って行く。
その時、ヒトの姿が目に飛び込んできた。
「あっ」
見つけたのは、アヴィオールの姿だった。彼は頭上のスピカを見上げ、あんぐりと口を開けている。
「アヴィ!」
「スピカ!」
アヴィオールは両手を広げる。スピカもまた両手を広げ、アヴィオールの腕の中に飛び込んだ。
アヴィオールはスピカの体をしっかりと抱きとめる。足がふらつくが、水の中には重力はなく、二人して水の中を漂う。そして互いに顔を見合わせた。
「よかった! 探したのよ!」
「どうしてここに!」
互いの声が重なる。どちらも
「アヴィを迎えに来たのよ!」
「『探した』じゃないよ! びっくりしたんだから!」
再び重なる二人の声。
今度は互いに口を閉ざし、相手の言葉を待つ。しかし互いに同じ行動をしていることに気づくと、二人
声に合わせて泡が生まれる。それは水中を漂い、水面へと浮かんでいく。
「スピカなんだね。本当に」
アヴィオールは問う。スピカは「当たり前」と言いかけて、しかし口を閉じた。最後にアヴィオールに会ったのは、継承の間だったはず。ならばその時体を支配していたのは、エウレカだったはずだ。
「ごめんなさい。きっと嫌な思いしたでしょ」
スピカは問うが、アヴィオールは首を振る。
「ううん。君が悪いんじゃない」
「……うん」
漂っていた二人は、やがて海底に立つ。光が届かない真っ暗な空間。辺りには無数のクラゲが舞い、二人を見下ろしている。
アヴィオールは呟いた。
「タルタロスに行かないと。僕は死んだ身、いつまでもここにいる訳にはいかない」
スピカは首を振る。そして、ショルダーバッグから星屑とネモフィラの花を取り出した。溢れる光は辺りを照らし、クラゲの白い体を浮かび上がらせる。眩しくはない。優しい光だ。
アヴィオールはネモフィラを見つめる。
「それは?」
アヴィオールは問いかける。水に揺れるネモフィラは煌めいており、美しかった。
「アヴィと私の代償。言ったでしょ? 私、アヴィを迎えに来たのよ」
スピカはにこりと笑う。しかし、その顔は次第に曇っていく。
「夜を駆ける竜からチャンスを貰ったの。でもね、私、帰り方がよくわからないの。
情けない話よね。竜はきっと帰り方はわかるからって言ってたけど、全く検討がつかないの」
スピカはネモフィラを両手で握る。アヴィオールは、彼女の手に自分の手を重ね、包み込んだ。
光が一層強まる。クラゲはいつの間にかいなくなっていた。辺りにはマリンスノーが漂い、光を反射して輝いている。
「困った時の神頼みだよ」
「神頼み?」
「そう。
まあ、神様なんていないけどさ。ここは僕らの記憶の中なんだから。念じたら何か起こるかも」
「なあに、それ」
スピカはくすくすと笑いを漏らす。しかし、アヴィオールの言う通りに念じてみる。
帰りたい。アヴィオールと一緒に。家族や友達が待つ世界へ。
溢れた光がスピカを中心に渦巻く。マリンスノーは煌めく流れ星のように、渦に巻かれて舞い踊る。
手の中の、一輪のネモフィラから、花弁が一枚ずつ剥がれ飛ぶ。それは光と共に、海の中を舞い踊る。
足元に置かれた星屑も、光となって海を舞い、やがて形は消えてしまう。
少しずつ、生きたヒトらしい感覚を取り戻していくような感覚だ。水圧は体にまとわりつくし、少しだけ息苦しい。散々走った疲れが、足にまとわりついていた。
だが、そのどれもが愛しく喜ばしいもののように思え、スピカとアヴィオールは笑い合う。
帰れると確信する。あの、星の光が降り注ぐ、自分達の世界へ。
「あなたばかり
聞き覚えのある少女の声を聞き、スピカは後ろを振り返る。
そこには、一人の少女の姿があった。
髪は金、瞳は青。真っ白なキトンを身にまとった、スピカと同じくらいの歳の少女だった。
「私と代わってよ! 散々痛い目に遭ったんだから、あなたの幸せを私に頂戴よ!」
その少女はエウレカの声で、スピカへの恨み言を呟いている。
そのうち、声には涙が混ざり、絶叫が辺りに広がった。
「痛い……痛い……! 私をこれ以上傷付けないで……!」
少女が纏っているキトンに、赤い染みが浮かぶ。それは徐々に広がっていき、やがて全てが真っ赤に染まる。顔は噛み砕かれたかのように崩れ、腕が、足が折れていく。
「見ちゃダメだ!」
アヴィオールがたまらずスピカの目を両手で覆い隠した。それ程に、少女の姿は痛ましくなっていく。
腹は
その間も、少女の絶叫が辺りに響いていた。耳を塞いでも聞こえてしまうその声に、スピカは震える。
自分にこのような記憶はない。アヴィオールもそうだろう。ならば何故こんなものを見せられているのか。誰の記憶なのか。
「大丈夫、僕が傍にいる」
アヴィオールの声が聞こえた。両目を覆う彼の手が離れ、代わりに抱きしめられた。
そうだ。今は何かに囚われているような余裕はないはずと、スピカは少女の姿を意識から遮断しようと試みる。強く念じると、それだけで少女の姿も声も掻き消えていく。まるで遠ざかるように、声が遠く小さくなっていく。
そうして、おそらく代償は足りたのだろう。ネモフィラも星屑も手元から消え失せ、代わりに光が二人を包み込む。
意識が光に溶けていくような心地よい感覚に、二人は目を閉じ身を任せた。
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