黎明の一番星(2)
アヴィオールはただ一人、海の中を歩いていた。天にも足元にも水しかないが、足を踏み出せば前に進む。息苦しいとは感じない。
気付いていた。この世界は自分の深層心理のようなものだと。ここに残したい記憶を沈めていくべきなのだと。
エレボスの回廊とは名ばかりなのだなと思った。ここはどう見ても大海だ。回廊ではなく、ただのだだっ広い空間。アヴィオールは歩いていく。
「迷子かい?」
問いかけられ、顔をあげる。頭上にいるのは緑の竜、ヘルメス。羽がない体をくねらせて、水の中を泳いでくる。やがてアヴィオールの目の前に降り立った。
アヴィオールと同程度の背丈の竜は、水中を昇る泡の音に耳を傾ける。
「海はいいね。水の音は、心を穏やかにさせてくれる」
アヴィオールは返事をしない。竜という存在に驚きさえしない。ただ、あるがままを受け入れている。
「君の記憶は穏やかだね。しかし、この大海と同じだけの心配事を抱えているようだ」
「でも、心配したってしかたない。だって僕は死んだんだ」
「そうだね。だから、記憶はここに置いていくといい。
何千、何万という私の欠片たちが、届けたい人へと届けるよ。愛だって
アヴィオールは手を握り、目の前に掲げる。手を開くとそこには星の形をした砂粒が現れた。
「父さんと母さん、心配してるんだろうな。帰れなくてごめん」
ヘルメスは両手でそれを受け取る。受け取る側から、光となってヘルメスの中へと消えていく。
「レグルスにも、喧嘩ばかりだったけど、わりと楽しかったって伝えて欲しい。
カペラには、そうだな。鉄道ばかりじゃなくて、留年しないようにちゃんと勉強しなよって。
アルフには、僕のことを気に病むなって。僕はただ運が悪かっただけだ」
砂粒がなくなると、ヘルメスは首を傾げた。
「それだけじゃないだろう?」
アヴィオールは曖昧に笑う。
「いいの? きっとこれは大荷物だよ」
再び手を握り、再度開く。そこにはアオイガイの殻が二枚。
「スピカが心配でたまらない。
スピカは元に戻れたのかな。元に戻れたとしても、滅んでく世界に絶望してないかな。
隣で支えてあげたいけど、それは叶わないから。気持ちだけは届けて欲しい。
スピカ、きっと泣いちゃうね。泣かせたくないんだけどなあ」
ヘルメスはアオイガイを抱える。繊細なそれを割らないように優しく。
ヘルメスは泳ぐ。水面を目指して一直線に。アヴィオールは、水面へと舞い上がった竜の体を見上げ、片手を振って見送った。やがて見えなくなると、タルタロスへの道を探し始める。
他に行き場がないのだ。きっとユピテウスに呆れられてしまうが仕方ない。
タルタロスの石屑を思い出し、ため息をついた。自分の末路が石屑でしかないなら、何のために生きて、何のために死ぬのだろうか。生まれてきた意味は何だったのだろうか。
「愛して愛されるためだと思ってたけど、全部無駄なことだったのかな」
などと呟いて、アヴィオールはうつむいた。
光るものが見えた。アヴィオールは水を掻いて深く潜る。ここは自分の記憶の中。意識するだけで簡単に潜れた。
岩の隙間に挟まったそれを見ると、麦穂のようだった。
アヴィオールは手を伸ばす。死に向かうつもりであったのに、何故か強くそれに惹かれた。それを取らなければ後悔してしまうと、ただ漠然とそう思ったのだ。
手を伸ばし、それを取る。あっさりと手の中におさまったそれは、少しだけあたたかかった。きっと自分のものではない。誰か別の人のもの。
アヴィオールは手を開いた。
無くなっていた。
「あれ……確かに拾ったはず……」
突然景色が変わった。
辺りの水は一瞬にして干上がり、辺りに麦畑が広がった。
先程まで岩肌だった足元は、ふかふかとした土に。
水面から差し込んでいた光は、金色の夕日に。
何処までも広がる海は、何処までも広がる麦畑に。
アヴィオールは自分の胸に手を当てる。水の中に沈んでいたはずなのに、全く濡れていない。
「ここは、誰かの記憶の中……?」
呟き、歩く。
腰まで伸びる麦穂を掻き分けながら、あてなく進む。
時折吹き抜ける風は穂を撫でて、サラサラと音を立てる。
突然、それは現れた。
『お父様』
声が聞こえ、振り返る。
麦畑を掻き分ける少女の姿があった。髪は金、瞳は青。歳はおそらく十歳程度だろうか。
彼女は麦畑の中へとぐんぐん進み、その先にいる男性に抱き着いた。
ユピテウスだ。タルタロスに居る彼より随分若い。
『お父様、お母様がお呼びよ』
『ああ、もう帰るよ』
ユピテウスは少女と手を繋ぐ。
アヴィオールはユピテウスの目を見ていた。少女に向けられた彼の目は、愛しい者を見つめるそれだ。
『…………』
ユピテウスが誰かの名を呼んでいる。ノイズがかかって聞こえない。
『なあに? お父様』
少女はユピテウスを見上げる。
『愛しているよ』
ユピテウスの言葉に、少女はにっこりと笑顔を浮かべる。そして、来た道を引き返して行った。
夕日は二人を照らしている。幸せな二人を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます