黎明の一番星

黎明の一番星

 スピカは目を開く。

 そこは薄暗い空間だった。壁も天井も、床も存在しない、灰色の空間。寝入った瞬間に見る、夢とうつつの狭間にあるかのような夢の中。それに似ていると、ぼんやり考えた。

 唐突に気付いた。ニュクスから貰った花を握っているにも関わらず、体調が悪くなることがない。ここは黄泉の国の入口、生きるために必要な体の感覚は、ここでは不要ということなのだろうか。 

 辺りを見回してみれば、立て看板が至る所に立っている。

 否、浮かんでいる。


「地面がないのに立ってるなんて、不思議な感じ」


 スピカは近くにある看板へ近寄るべく、足を踏み出した。普段と同じように地面を蹴ったつもりが、まるで柔らかい枕を蹴ったかのように足が沈む。それに驚いて振り返るが、足元にはやはり何も無い。床もない。

 普段とは異なる感覚に戸惑い、慎重に足を運ぶ。ゆっくりではあるが前に進む。やがて看板まで近付くと、顔を上げてそれを読む。


「何も書いてないじゃない」


 スピカはぽつりと呟いた。

 看板には何も書いてない。真っ白だった。そもそも看板なのだろうか。木でも金属でもない。材質がわからない棒に、材質がわからない板が貼り付けられただけの物体。


「迷子かい?」


 声をかけられ振り返る。

 いつの間にか背後には竜が立っていた。ニュクスとは違い、翼がなくとても小さい。とはいえ、スピカと同じだけの身長はあるのだが。


「タルタロスに向かうには、あちらの道だよ」


 竜は、緑の長い尾をくねらせ、短い手を左へと向けた。スピカから見て右側だ。

 しかし、スピカの目指す場所はタルタロスではない。スピカは首を振って言葉を返す。


「いえ、私は友人を連れ戻しに来たんです」


 竜はそれを聞きカラカラと笑う。


「お嬢さん、冗談言っちゃいけない。死んだ命は引き上げちゃいけないよ」


「彼は死んだわけじゃないです。タルタロスに堕とされて、きっと今はエレボスの回廊っていうところを迷っているはずなんです」


 スピカは竜に懇願こんがんした。


「エレボスの回廊まで案内してください。お願いします」


 竜はなおも笑う。何が面白いのだろうと、スピカは首を傾げる。


「ここがエレボスの回廊だよ」


 スピカは再び辺りを見回した。

 回廊という名から、タルタロスを囲む道なのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。今いるこの空間は、どう見ても道には見えない。


「エレボスの回廊は、タルタロスに向かう魂が、記憶を整理するために来る場所なんだ」


 竜は語る。


「ヒトには誰しも、残したい記憶がある。星屑となる前に、記憶を回廊に預けるんだ。そしたら伝達の竜ヘルメス、すなわち私が、想い人へ想い出として届けるんだ」


 スピカはいぶかしむ。竜、ヘルメスの語る言葉はどれもが空想世界のものとしか思えず、どうにも信じられない。しかしヘルメスはスピカの態度を気にすることなく、短い足でのたのたと歩き出す。


「君の記憶は面白いね」


 竜が言う。


「天も地も壁もない。ただし不安が漂っている」


 ヘルメスは辺りを見回して、至る所に立つ看板を指さした。


「何も書いてない立て看板。あれは何だい?」


 ヘルメスに問われ、スピカは首を振る。スピカだって初めて見たのだ。知る由もない。


「自分が何者となるべきか、何をしたいのか。何も書いてないのは、それが決められないからなんだろう?」


 ヘルメスは再度問う。先程よりは明確な問い掛けだが、やはりスピカには意味がわからない。


「知らないです。私も、あんな看板初めて見ました。私に訊かれても……」


 ヘルメスはゆるゆると首を振った。


「エレボスの回廊を形作るのは、そのヒトの記憶。君が見る回廊は、君だけの景色だよ」

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