ヘリアカルライジング(6)

 山の中腹に、そのダムはある。

 太い川を塞き止めるため作られたそれは、まるで要塞ようさい。放水される水は飛沫しぶきを撒き散らし、虹をかけていた。

 間近で見ると、それはかなりの迫力で、思わず感嘆が口から漏れる。


「写真撮りますよー」


 カペラは一眼レフのカメラを掲げ、グリードにレンズを向ける。グリードはレンズから逃げるが、カペラは「入ってください」と膨れ面。仕方なくグリードが、ぎこち無い笑顔でレンズを見ると、シャッター音が聞こえてきた。


「次はもっと笑顔でお願いしますー」


「また撮るのか?」


 写真を撮り始める二人を尻目に、チコはスピカへ説明した。


「僕が九歳の頃、ここから足を滑らせて、放水に巻き込まれたんですよ。両足と片腕を骨折して、傷だらけになりながら流されてね」


 スピカは想像する。自分の手足が痛むような錯覚にぶるりと震えた。


「このまま死ぬのかなーなんて思ってたら、竜が僕を掬いあげて、助けてくれたんです」


「生きてるってことは、本当に竜に会ってるんですね」


 スピカはチコを見詰める。前回聞いた話では、本当のこととは信じきれなかった。しかし、彼は生きているのだ。信じる価値はある。


「で、飛び込めばいいの?」


 チコはぽつりと呟いた。柵から身を乗り出す。


「いやいや、そうじゃなくてですね」


 スピカは慌ててチコを止める。

 チコはしょげた顔で、滝つぼを覗き込んでいる。


「実は何度も飛び込んではいるんですよ」


「はい?」


 突拍子もない言葉に、スピカは間の抜けた声を出す。


「何度もここから飛び込んだけど、竜は全く姿を表してくれない。僕はこんなに焦がれてるのにね」


 スピカは、冗談かと笑い飛ばしそうになる。しかし次の瞬間、チコは躊躇ためらいなく身を乗り出した。


「えっ?」


「は?」


 そこにいた誰もが声をあげた。


「チコ!」


 カペラは目を見開き、柵にしがみついて声をあげる。

 皆信じられないといった顔。驚愕と恐怖が瞳に浮かぶ。

 その時、不意に影が落ちた。スピカは上空を見上げる。


「あれは……」


 スピカは目を疑った。

 二対の翼が生えた巨体。うろこに覆われた濃紺の体。それは幻想的に光り輝きながら、堕ちていくチコの姿を追う。

 紛れもなく竜であった。本の中に描かれた姿形、しかし実物はこの上なく神々しい。

 チコの体は、落ちていくと見せかけて、突然身を翻した。両手を広げ、自身の羽で空を舞う。

 スピカはそれを見て思い出す。チコはグルルだ。数少ない、空を飛べる人種であった。

 チコの顔は遠く、よく見えない。しかし竜と並んで空を舞っている。旋回したり、急降下と上昇を繰り返したりする彼の姿からは、嬉しさが見て取れた。


「まさか、本当に竜がいるなんて……」


 スピカは呟く。自身の目で見てもまだ信じられない。

 やがて竜は、一頻り飛行を楽しんだ後、チコに連れられ空を昇る。スピカ達がいる堤防付近の林までやってくると、開けた場所に降り立った。


「見知った顔が落ちていくと思えば、なんじゃ、飛べるようになったのか」


 竜はカリオンのように高らかに笑う。チコは竜の目の前に降り立ち、うっとりと竜を見上げた。


「ああ、ずっと会いたかったんです。あの時、幼い僕を助けていただき、ありがとうございました」


 チコのそのような表情は見たことがなく、スピカやグリードは驚いていた。それはカペラも同じらしい。吃驚びっくりとした表情を、不満の表情へと変える。チコはそれを振り返り、苦笑いしていた。


「カペラ、そんな変な顔しないでよ」


 しかし、チコが惚れ込むのもよくわかる。竜の濃紺の体からは、常に光が溢れている。美しい以外に表現の仕様がない程に煌めいているのだ。


「して、何用か?」


 竜は問う。チコは竜の前にひざまず懇願こんがんした。


「夜を駆けし竜、ニュクス様。貴女のお力をお借りしたいのです」


 竜は、ニュクスは、「ふうん」と息を漏らしながら、スピカの顔をじっと見つめた。

 スピカは面食らう。竜の眼光にたじろぎ、コクリと喉を鳴らす。見透かされているかのような目。夜空に浮かぶ満月のような金色の双眼は、スピカをじっと射抜いていた。


「魔女……」


 呟くニュクスの声に、スピカは「え?」と漏らす。


「いや、違うか」


 しかしニュクスの視線は変わらず、スピカを貫いている。スピカはその威厳に耐えかねて、頭を下げて口を開いた。


「私、スピカと言います。あの、竜の、貴女様のお力をお借りしたいのです」


 慌てて発言したため呂律が回っておらず舌を噛んでしまう。竜はその言葉を聞いていないのか、スピカから視線を離してしまった。

 何処からか、くぐもった声が聞こえる。男性と女性が騒いでいるかのような声だ。その出処がわからず、スピカは辺りを見回した。しかし、そこにいるのはカペラとグリード、そしてチコの三人だけだ。


「ああ、わかったわかった。出してやるから少し待たぬか」


 ニュクスは、そのくぐもった声に返事をしている。そしてニュクスは手のひらを前に突き出す。

 目の前の何も無い空間に、白い縫い目が現れる。それを、片手の爪で切ると、糸をするすると抜いていく。

 縫い目を解き現れたのは、二人の子供。レグルスとファミラナであった。


「スピカ! カペラ! グリードまで」


 レグルスは真っ先にスピカに駆け寄る。スピカは突然現れた友人の姿に目を丸くした。しかし驚愕の表情は、徐々に歓喜へと塗り変わり、頬が綻んだ。

 レグルスもまた、友人の姿に喜んでいるようだった。しかしスピカの目の前まで来たレグルスは、ぴたりと足を止める。


「いや、エウレカか?」


 疑うのも無理はない。何しろ彼が最後に見たのは、エウレカが憑依ひょういした姿であったからだ。

 スピカは口の端を吊り上げて、苦笑いにもならないような表情で言葉を漏らす。


「疑うなんて酷いわね。私はスピカよ」


 その声も表情も、間違いなくスピカのもので、レグルスは安堵した。


「ごめんね、スピカちゃん。私達、エウレカさんを見てるから、ちょっとだけ疑っちゃって……」


 ファミラナの言葉に、スピカは合点がいった。


「そうだったのね。大丈夫よ、エウレカは眠ってるわ」


 レグルスはカペラとグリードを見、そしてチコを見る。見知った顔ばかりとわかると、胸を撫で下ろした。


「よかった。

 あー、いや、全然よくねえんだ。カオスを止めないと」


 レグルスは、ニュクスから聞いたカオスの話を伝えようと口を開く。そしてファミラナも。


「ニュクス様から聞いたの。今のままだとカオスが始まるって。だから、私達は冬を取り戻す必要が……」


 二人は相当焦っていた。スピカが何か言いたげに口を開くのもかまわず、自分達が手に入れた事実を伝えようと口を動かす。


「冬っていう眠りがないと星が死んじゃってカオスが来るんだよ。だから私達は、みんなに知らせようと思って!」

 

「ニュクス様から話を聞いて、すぐ皆に知らせないとと思ってさ。宮殿に帰ろうとしたら、ダムから誰か飛び降りてたから」


 正にマシンガントークという様の二人を止めるべく、スピカは両手を二人に突き出した。それが「ストップ!」という意味だと理解したレグルスとファミラナは、すぐに口を閉じた。


「待って頂戴。今はアヴィが大変なの!」


 そこでレグルスは思い出す。


「そうだ。アヴィの奴、タルタロスに堕とされて。助け方がわからないんだ」


 スピカは頷く。そしてニュクスの目の前にひざまづいた。


「ニュクス様、タルタロスに堕ち、父の代償になった友人を助けたいんです。お力をお貸しください」


 一言一言噛み締めながら発言する。ニュクスはそれを冷ややかな目で見つめた。


其方そちなら、ちんがおらずとも、できようではないか」


 ニュクスの言葉に、スピカは首を振る。


「アヴィの代わりの代償は用意しています。けど、タルタロスから引き上げる方法がわからないんです」


 スピカはショルダーバッグから星屑の大結晶を取り出した。

 スフェーンのように光り輝く大結晶。皆その美しさに感嘆する。しかしニュクスはそれを見て、小馬鹿にしたようにため息をついた。


「それっぽっちの星屑で、二人分の代償になるとでも思うたのか?」

 

「二人……?」


 スピカは呟く。

 タルタロスから連れ帰るのは、アヴィオール一人だけ。そう思っていた。だが、ニュクスは二人分必要だと、そう言った。


「タルタロスに行くのに、其方そちは片道だけで良いのか?」


「わ、私も……?」


「迎えに行きたいのではないのか?それとも、安全圏から眺めていられるとでも思うたか?

 これは滑稽こっけいじゃのう」


 ニュクスは淡々と言葉を紡ぐ。


「ニュクス様、何でスピカへの当たりがそんなにキツいんですか」


 レグルスがたまらず口を開く。

 白山では優しい竜であった彼女が、スピカにはやたら意地悪く言葉を吐き捨てている。それに気付いたのだ。


「気にせずとも良い」


「気にします!」


 ファミラナも声をあげる。


「スピカちゃんは、私達の友達です!」


 スピカは、レグルスとファミラナを振り返り首を振る。二人の言葉は有難いが、ニュクスの機嫌を損ねてしまうのが恐ろしかった。

 ニュクスは苛立ち、口から火花が辺りに散る。しかしそれ以上のことはなく、再び話に戻る。


「それっぽっちの結晶では二人分には程遠い。一人分にもならぬ。魂の価値は、それだけでは収まらぬ」


 スピカは落胆した。ここまで来て、竜に会って、それでもまだ足りないとは。このまま諦めるしかないのだろうか。


「そもそも、何故タルタロスから魂を呼び戻すのじゃ。死んだ者は、次の世の光となる。それがちんら竜の定めたことわりぞ」


「でも、そのことわりは崩れているはずです」


 スピカが首を振り発言する。

 スピカは知っている。アルファルドに聞いたからだ。

 タルタロスでは星屑が作れなくなってしまったこと。光の補填ほてんが無くなった世界は、光を使い潰してカオスをもたらすこと。

 光の補填ほてんがないということは、アヴィオールの魂はタルタロスに閉じ込められてしまうということだ。


「ふん、分かっておるようじゃの」


「理解はしています。だから、ことわりを捻じ曲げてでも、助けたいんです」


「死が遅いか早いかの差でしかない。それでもか?」


 スピカは頷く。怯えず、ニュクスの顔を、瞳を、真っ直ぐ見上げた。

 ニュクスはため息をついた。


「方法はある。しかし、約束するのじゃ」


 ニュクスは身を屈め、スピカの手を取った。手のひらを上に向け、爪で撫でる。

 ニュクスが纏う光が手のひらに落ちる。それだけでスピカの肌が粟立った。目眩と嘔吐感を必死で堪える。ニュクスの光は、輝術の光と同じ。この世界の魂そのものだ。


「カオスを遠ざけよ。冬を取り戻すのじゃ。約束できるな?」


 スピカは頷く。


「はい。必ず」


「どのようなことになっても、冬の訪れを優先するのじゃ。覚悟はあるのか?」


 スピカは再度頷く。


「何とも頼りないのう。まあ、致し方ない」


 ニュクスの爪がスピカの手首を掻く。血管が裂け、大量の血が溢れた。地面に落ちる血痕を、スピカは見つめる。吐きそうになって片手で口を覆った。


「な、何をするんですか!」


「おい、やめさせろ!」


 グリードが、レグルスが声をあげる。ファミラナは息を呑み、カペラはふらりと目眩を起こす。チコは、慌ててスピカに駆け寄ろうとした。


「大丈夫よ」


 スピカは声をあげる。

 ニュクスは口を開き、舌を出す。蛇のように二股に分かれたそれをスピカの手首に這わせ、溢れる鮮血を舐め取る。舌が手首から離れる頃には、傷は綺麗に塞がっていた。

 スピカはその場にへたり込み、浅い呼吸を繰り返す。


「魔女の呪いは難儀なんぎよの。これ程のことで体を壊すとは」


 ニュクスは口の中で血液を転がす。そしてたてがみを一本引き抜くと、それも口の中に入れてしまう。暫く咀嚼そしゃくしていたが、やがて口を開き取り出した。

 取り出したものは、青いネモフィラの花一輪。それをスピカに差し出した。


其方そちの持つ星屑と合わせれば、これで足りよう」


 スピカは花を受け取る。握った瞬間、先程より激しい目眩で頭を抱えた。


其方そちの命である血液も混ぜ込んだのだがな。ちんの光が強すぎるか」


 ファミラナはスピカに駆け寄った。スピカの背中を擦りながら、心配で声をかける。


「大丈夫?」


「大丈夫よ。大丈夫……」


 ファミラナに支えられ、スピカは立ち上がる。今にも倒れそうな程にふらついているが、目だけはしっかりとニュクスを見上げていた。

 ニュクスはスピカを見下ろして語る。


其方そちの友人はエレボスの回廊にるであろう。そこまで送ろうぞ」


「送るだけですか?」


 スピカは朦朧もうろうとしながら問い掛ける。ニュクスはそれを鼻で笑った。


「帰り道は自ずと分かるであろう。では、健闘を祈るぞ」


 スピカはファミラナに目配せする。ファミラナを黄泉の世界に連れては行けない。ファミラナもそれを察してスピカから離れた。

 スピカの足元に穴が開く。濃紺のそれは、星が瞬く夜空のように輝いている。


「絶対戻って来いよ」


 レグルスの声が聞こえ、スピカは振り返る。そして微笑んで片手を振った。

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