ヘリアカルライジング

ヘリアカルライジング

 ベッドに沈むように眠っているアヴィオールを見て、スピカは絶句する。マットレスに頭を落として突っ伏すると、涙はシーツに吸われていく。

 アルファルドから話は聞いている。タルタロスに堕とされたこと。そして、帰ってくるには代償が必要だったこと。予定通りであればアルファルドが代償となっていたが、そうはならなかったこと。

 

「スピカさん、大丈夫かい?」


 屋敷の主であるグレイが、マグカップを持って部屋に入ってくる。スピカは顔を上げてグレイを見た。


別嬪べっぴんさんが台無しじゃないか」


 グレイはスピカの頬に残る涙を指で拭う。


「まだ起きないのかい」


 スピカは頷く。

 グレイが差し出したマグカップには、カフェオレが並々と入っていた。熱くはなく、やや温いそれをスピカは受け取って、ちびりちびりと飲み始める。


「クリストファ様が押しかけた時には驚いたが、まさか即位の儀をぶち壊しとは。なかなか肝が座ってらっしゃる」


 スピカを元気づけようとしているのだろうか。グレイの声は必要以上に明るく、笑い声は豪快だ。しかし、スピカは愛想笑いすらできず、アヴィオールをただ見つめる。


「先生」


 クリスティーナの声がし、グレイは振り返る。開かれた扉の向こうで、クリスティーナが立っていた。


「先生、スピカちゃんを気にかけてくれて、ありがとうございます。ただ、ちょっとだけ席を外してくれないかしら」


 クリスティーナに言われ、グレイは肩をすくめる。仕方ないとばかりに踵を返して部屋を出る。

 入れ替わるようにクリスティーナが部屋の中に入る。彼もコーヒーが入ったマグカップを持っていたが、スピカが持つカップを見るとくすりと笑った。


「あら、グレイ先生たら気が利くのね。でも甘いでしょう」


 スピカは頷く。グレイが淹れたカフェオレは、砂糖菓子のように甘い。


「先生甘いの大好きだから、他人にも同じように淹れちゃうのよ。交換しましょうか?」


 クリスティーナの申し出に、スピカは首を振る。クリスティーナはマグカップをサイドテーブルに置き、キャスター付きの椅子を引っ張ってきてスピカの隣に腰掛けた。

 

「あの、ご実家は大丈夫ですか?」


 スピカはクリスティーナに問いかける。何か話さなければと考えて、まず頭に浮かんだのはこの質問だった。


「アンティキティラに狼が出たとか……」


「優しいのね。大丈夫よ」


 クリスティーナはスピカの頭に触れる。乱れた前髪を直すべく指で梳く。


「狼じゃなくて、狼の賢者達ね。獣じゃないから対処は難しくなかったし、何よりアンティキティラに狼が出たのは、私を首都から引き離すことが目的だったから、大した被害はなかったわ」


 クリスティーナは眉尻を下げ「まんまと罠に嵌っちゃったけど」と笑う。スピカは事の流れを理解したが、怒りを向ける対象は目の前におらず、胸の内でくすぶるだけ。


「アヴィ君のご両親を呼んだのだけど、大丈夫? 会えるかしら?」


 スピカの心臓が大きく跳ねる。

 子供の一大事だ。きっと呼ぶだろうとは思っていたが、スピカは会う覚悟を持てないでいた。元を正せば、自分がアヴィオールを巻き込んだために起こってしまった事故だ。肩に伸し掛る責任の重さに押しつぶされそうだ。

 しかし、会わないわけにはいかない。それが贖罪しょくざいにはならないだろうが、顛末てんまつを話す必要がある。


「会います」


「わかったわ。今夜来るそうだから、準備しておいてね。

 それと……」


 クリスティーナは深く息を吐き出し、マグカップを傾けてコーヒーを飲む。言葉を選んでいるのだろうか。彼の目は泳いでいる。


「これから、そうね……どうするか。身の振り方を考えなきゃならないわ。

 あんなに堂々とあなたを拐ったのだもの。アルフ君も私も、スコーピウスから追われる身だわ。

 だからね、その、ね。アヴィ君のことなんだけど」


 クリスティーナの意図を理解して、スピカの手が震えた。冷酷だと思った。両手で抱えたマグカップは揺れ、薄茶の水しぶきがこぼれ、キトンの白い生地に染みを作る。


「そうよね。一緒にいたいわよね。

 でもね、考えて頂戴。この子は暫く目を覚まさない。私達は連れて行けない。置いていくよりは、ご両親に引き取ってもらった方がずっといいわ」


「でも、アヴィは私のせいでこんなことになったのよ。それを置いていけだなんて」


「連れて行ってどうするつもりなの?」


 返す言葉がなく、スピカは黙り込む。


「時には理性で物事を考えることも必要よ」


 スピカはアヴィオールの手を握る。

 血が通っているため、彼の手はまだ温かい。ただ、眠ったまま目を覚まさない。おそらく魂が引き剥がされてしまったのではないか。

 そもそもアルファルドは何故帰って来れたのか。疑問が頭を過ぎる。


「着替えは用意してあるから。落ち着いたら着替えてね」


 クリスティーナは、部屋の中央に置かれたテーブルを指さした。ネイビーのブラウスとプリーツスカートが置かれていた。真っ白なキトンだと目立ってしまうからと、地味な服を用意したらしい。


「ありがとうございます」


 スピカは頭を下げる。

 クリスティーナはアヴィオールの前髪を撫で付けて整え、マグカップを片手に部屋を出る。静かな部屋にスピカは残された。

 これからの行動を考えなくてはいけない。スピカは真剣に悩む。

 エウレカの記憶の断片を盗み見て、この世界の理を知った。

 冬は止めてはならないものだった。乙女の存在は、この世界のがんだった。となれば、自分の存在は世界に不要なものなのではないか。

 ぐるぐると、暗い考えが脳内を回る。

 スピカは立ち上がり、机に置かれたブラウスを手に取る。シフォン生地のそれはさらりとして肌触りがいい。キトンを脱いで、キャミソールとブラウスを着たところで、部屋の扉からノックの音が聞こえてきた。


「入っていいか?」


 アルファルドの声だ。スピカは急いでスカートを履き、キトンをハンガーに掛けながら返事をする。


「どうぞ」


 扉が開けられ、アルファルドが部屋に入ってきた。死人のような青い顔をしていたが、彼のそれは感情によるものだろう。ベッドの傍にある椅子に座り、深くため息を吐き出した。


「本来なら、自分が代償を払うべきだったんだ。どうしてこんなことに……」


 スピカはアルフの横顔に言葉を投げかける。


「でも、私はアルフが戻ってきてくれて嬉しいわ」


 それも確かにスピカの感情ではあったが、素直に喜べないということは彼女の表情にありありと浮かんでいた。アルファルドはスピカを見、彼女の頭を撫でる。


「アルフは何で戻って来れたの?」


 スピカは問いかける。

 アルファルドは唸る。この屋敷に来るまでに何度も話したことだ。


「話しただろう。本来ならアヴィが自分を代償に戻ってくる予定だった。タルタロスの管理人が、何かミスを犯したらしい」


 だが、スピカが聞きたいのは、それではない。


「そうじゃなくてね。その、何で、代償を払えば戻って来れるってわかったの?」


 アルファルドは、ぽかんと口を開く。スピカが何を考えているのか、彼にはわかった。


「いや、だが」


「教えて頂戴。手がかりになるかもしれないじゃない」


 出し惜しみするような話ではない。アルファルドは少しばかり悩んだが、暫くして話を始めた。


「裁判の前日に、変な女からお守りとやらを貰ってな。タルタロスの管理人に言わせたら、魔女の光を詰め込んだ物らしい。それと代償を利用すれば、タルタロスから出られると聞いて、それを試した」


 スピカは考える。

 変な女から貰った、魔女のお守り。スピカは魔女の姿を見ている。もし、アルファルドが記憶している女の姿が、魔女の姿と一致するのであれば……


「その女の人、黒髪に赤目じゃなかったかしら?」


 スピカは問いかける。アルファルドは驚いた。


「ああ、そうだった。スピカ、何か心当たりがあるのか?」


「私、エウレカの記憶を少しだけ見てるの。エウレカをタルタロスから引きずり出したのも、魔女が絡んでいるかもしれないの」


 思いついたのは突飛な案。しかし他にアテはない。


「ねえ、代償を用意して魔女に会えば、アヴィを連れ戻すことができるんじゃないかしら」


 アルファルドは首を振る。


「代償? 魔女に会う? 何を言ってるんだ。どちらも非現実的だろう」


「星屑は、あの光は、人々の魂が元なんでしょ? なら、人一人に相当する星屑を集めれば、代償になるんじゃないかしら」


 スピカの力説する姿を見ると、アルファルドはどうしても幼なじみの姿を思い出す。乙女の力説には、どうも弱いのだと思い知らされた。


「考えていることはわかった。自分も星屑にアテがないわけじゃない。

 しかし、星屑を用意できたとして、魔女にはどうやって会うんだ?」


「それは……」


 肝心の魔女に会う方法は思いつかない。魔女に会えたとして、協力してくれるとは限らない。


「あの、入って大丈夫ですか?」


 不意に声が聞こえ、スピカは扉の方に顔を向ける。

 小さく開いた扉から、カペラが顔を覗かせていた。


「あの、竜に会いに行く方が確実だと思いますよ」


 カペラの言葉に、スピカもアルファルドもきょとんとした。スピカの案より、カペラの案の方が突拍子がないではないかと。


「あの、カペラ。竜に会うって、あまりに無茶じゃないかしら……」


 スピカは呆れて言葉を返すが、カペラもまた呆れ顔。


「スピカの方が無茶ですよ。魔女なんて童話の中でしか聞いたことないよ?」


「でも、竜だって神話の中でしか聞いたことが……」


 ハッとした。神話の中だけの存在ではないと、知り合いが言っていたはずだ。そして、その知り合いはカペラの友人。


「ね。チコに会ってみましょ」


 カペラの言葉に、スピカは頷く。

 アルファルドはカペラの意図が読めず、スピカに尋ねた。


「どういうことだ?」


「竜に会った人を知ってるの。魔女は無理でも、竜になら会えるかもしれない」


 スピカはアヴィオールを振り返る。彼の顔色は、倒れた時と同じまま。否、むしろ悪化しているようにさえ見えた。温かみが残る彼の手を両手で握り、スピカは声をかける。

 

「アヴィ、待ってて頂戴。すぐに迎えに行くから」


 スピカとアルファルドは急いで部屋を出る。アヴィオールの容態を見れば、残り時間が短いことは明白だ。すぐにでも準備をしなければ。

 カペラはスピカの一歩先を歩く。最初からスピカと行動を共にするつもりだったようで、大きめのリュックサックを背負い、首にはカメラをかけていた。

 廊下を渡り、リビングへと向かう。扉を開けるなり、カペラは声をあげた。


「クリスさん、クリスさん。今から銀河鉄道行ってきます!」


 ソファに腰掛けていたクリスティーナは、カペラの言葉を聞くなり目を丸くする。


「今から?」


「今から!」


 クリスティーナは困惑する。


「私も行ってきます」


 スピカもまた、クリスティーナにそう宣言した。クリスティーナは額を片手で押さえると呆れ顔で問いかける。


「あなたまで行くって言うの? 一体何をしに行くの?」


「アヴィを連れ戻す方法がわかった気がするんです」


「気がするって、あなた……」


 クリスティーナは首を振る。

 スピカの顔は、先程の沈んでいた顔とは大違いだ。覚悟を決めたかのような、真剣な顔。しかし何を思いついたにせよ子供の浅はかな考えを信用することができず、クリスティーナは叱咤しったする。

 

「今夜にはアヴィ君のご両親が来るって言うのに。急にどうしたの。私達は、アヴィ君をこんな風にしてしまった責任を取らなければいけないの。

 あなたもなのよ。逃げちゃダメ」


 しかしスピカは毅然きぜんとした態度である。


「逃げていません。私は、アヴィを助けに行きます」


 クリスティーナは目を吊り上げる。


「それは、確実な方法なの?」


「可能性はあります」


 話にならないとばかりに、クリスティーナは大きなため息をついた。しかしスピカは訴える。


「可能性に賭けてはいけませんか?」


 その真摯な目に、クリスティーナは吸い込まれそうな錯覚を抱いた。スピカの目は、この方法しかないと訴えていた。


「先生にも協力していただきたいのですが、宜しいでしょうか?」


 スピカの後ろから、アルファルドが声をあげる。


「時計台のからくり人形の動力。あの星屑の大結晶を頂けないでしょうか」


 クリスティーナは苦い顔をする。


「もしかして、貴方が戻ってきた方法と同じことを?」


 アルファルドは頷いた。

 機械の動力は、ほとんどが星屑の結晶である。そして、時計台にあるからくり人形もまた、星屑の結晶を利用していた。彼は、それを使いたいと言っているのだ。


「あれ程の大結晶であれば、ヒト一人分にはなるかと」


 クリスティーナは悩んでいるようだった。当然だろう。自身の作品を寄越よこせと言われているようなものである。


「大結晶を手に入れるのに、どれだけ苦労したか……」


 しかし、人一人分と言われれば、天秤は容易に傾いてしまう。クリスティーナは首にかけているネックレスを外し、アルファルドに差し出した。アルファルドは前に進み出てそれを受け取る。


「大切に使って頂戴」


 受け取ったのは、銀の鍵がついたネックレスであった。


「ありがとうございます!」


 アルファルドは深々と頭を下げ、急いでフード付きのロングコートを羽織る。


「時計台に行くなら、一緒に行くとしようかね」


 クリスと並んでコーヒーを飲んでいたグレイが、そう言って立ち上がる。彼もブルゾンを羽織るとアルファルドと共に玄関へと向かう。


「スピカ、駅で落ち合おう。急いで持ってくる」


 アルファルドはそう言い残し、グレイと共に屋敷を後にする。

 スピカはその後ろ姿を見つめていた。


「ところで、あなた達二人だけで行くつもり?」


 クリスティーナが、スピカとカペラに声をかける。二人はきょとんとした。同行者を無闇に増やすつもりはなかった。しかし、クリスティーナの言葉は厳しい。


「牡牛や蠍の大賢人は、きっとスピカちゃんを追ってくる。もし危険な目に遭った時に、か弱いスピカちゃんとカペラちゃんだけじゃ太刀打ちできないわ」


 か弱いと言われることは心外であったが、確かに戦う術はない。スピカは口をきゅっと結ぶ。カペラの術に頼ろうにも、派手な術は場所を選ぶ。悔しいが、クリスティーナの言う通りだろう。


「それならば、某も共に向かおうか!」


 突然リビングの扉が勢いよく開いた。驚いて振り向くと、そこにはグリードが立っていた。


「あ、えっと、私は追われてる身だから、無理に来なくていいのよ?」


 スピカはたじろぎながらグリードに返事をする。しかしグリードの視線の先にいるのはスピカではない。

 小動物のように首を傾げ、目をぱちくりさせているカペラであった。


「か弱い女性二人だけでは何かと心配だ。特に、カペラ嬢、うるわしい君に何かあっては大変だ」


 スピカは苦笑いした。

 どうやらグリードは、カペラに一目惚れをしてしまったらしい。カペラの正面に跪く姿は、まるで求婚する王子のようだ。

 しかしカペラからの返事は、


「あ、けっこうですー」


 という棒読みであった。いつも天真爛漫てんしんらんまんにくるくると笑う彼女からは想像ができない程に、冷たくあっさりとした言葉である。


「着いてきてもらった方がいいんじゃないかしら?」


 クリスティーナが言う。


「グリード君は戦えるんでしょう? なら、護衛として着いてきてもらいなさい」


 カペラは困って眉尻を下げる。

 それに対して、スピカはクリスティーナの意見に賛成であった。


「そうね。申し訳ないけど私は術さえ使えないし。来てもらえれば心強いわ」


「スピカまでそんなこと言うんですか?」


 カペラはすっかりむくれてしまう。しかし、反論意見は用意できていないようだ。ただ頬を膨らませるだけで何も言わない。


「では、決まりだな」


「グリードさん、よろしくね」


 スピカはグリードに声をかけ、グリードは力強く頷く。カペラも仕方ないとばかりに、グリードに頭を下げるのだった。

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