バイオシグナチャーを信じて(5)
「エウレカ、大丈夫か? エウレカ」
スピカは目を開く。
アズテリスモス神殿の中。自分の体は両手両膝をついて荒い息を繰り返していた。
おそらく目眩を起こしたのだろう。その瞬間のことは、よく覚えている。
エウレカと意識の引っ張り合いをした。この体は本来スピカのものだ。だから当然、所有権があるスピカが勝つ。
「戻ってきた……」
スピカは呟く。
エウレカに奪われていた自分の体に戻ることができたのだ。スピカは感激のあまり笑顔を浮かべる。
ふと見上げると、正面にアルデバランの顔があった。彼は不安げにスピカの顔を見つめている。おそらく、エウレカを心配しているのだ。
悟られてはいけない。スピカは直感した。エウレカではないことが勘づかれてしまっては、何をされるかわからない。
「大丈夫よ。少し気分が悪くなっただけ」
エウレカの口調を真似て言う。アルデバランは一先ず安心し、スピカに片手を差し出した。スピカは手を取り立ち上がる。
「大変失礼しました。続いて、バッケー達に舞を奉納して頂きましょう」
スピカはアルデバランに手を引かれ、神殿奥の椅子に座らされる。神殿の中央では、四人の少女達が松かさの杖を振りながら優雅に舞い始める。
あまりに居心地が悪く、スピカは両手を膝に乗せ縮こまる。早く儀式が終わってくれないかと、そわそわしながら舞をじっと見ていた。
アルデバランはスピカの様子をじっと見つめる。その視線の意味は、心配か違和感か。エウレカへの心配であって頂戴と、スピカは心の中で呟く。
「気分が優れないかな?」
スコーピウスが、スピカに近付き問いかける。スピカは首を振り、感情を隠すべく笑みを浮かべる。
「大した式じゃないからね。舞の奉納を終えたら終わりだ。君にも頼めるかな?」
心臓が跳ねた。緊張のせいで息が荒くなる。舞うということは、踊るということは、乙女の輝術を使うということ。エウレカなら問題ないだろうが、スピカにはその提案は飲めない。
「あら、どうして?」
声の震えを殺し、そう問いかけることで精一杯だった。
「どうしても何も、そういう約束だっただろう?」
試すように問いかけるスコーピウス。彼の目はスピカを突き刺すようだった。
「そうだったかしら? 忘れちゃったわ」
「気紛れだね、君は」
スコーピウスはにこりと笑う。その笑顔はあまりに柔らかい。
本当にそのような約束があったかどうかは、スピカにはわからない。しかしやるしかないのだろう。
「わかったわ。でも、さっきの通り、私今日は体調が悪いの。途中で気分が悪くなっても、怒らないで頂戴ね」
媚びるような声を意識して、スコーピウスに甘えてみせた。
「さあ」
スコーピウスがスピカに手を差し出す。スピカはその手を取り、片手でキトンの裾を摘む。静々と神殿の中央までやってくると、スコーピウスは手を離し後退する。バッケー達も舞いながら四隅に散っていった。
スピカは深呼吸する。舞うことより、自分の意識を保つことに集中しなければ。
パンパイプの音色が聞こえる。スピカは両手を広げ、指先までピンと伸ばす。足元はゆっくりと、次第に速度を上げて、くるりくるりと回り始める。
足元から光が溢れる。自分の意思に反して発動する輝術の光に、意識はぐらりと歪み始める。
ひたすらに堪えた。脂汗が滲むのも、不快感から出る涙も全て無視し、笑顔で回る。音楽が終わるまでは止まってはならない。そう言い聞かせ、意識を保つべく上を見上げた。
展示に描かれた百年戦争の絵が、視界の中でぐるぐると混ざり溶けていく。足元から昇る光は麦穂を象り、視界の中に混ざってくる。きらきらと光りながら、顔に降りかかってくる。
体がぐらりと揺れた。足を絡ませてしまい、階段から踏み外す。スピカの体は、階段から投げ出される。
階下から叫び声が上がった。スピカの耳に届いた頃にはもう遅い。小さな体は頭を下に、今にも落ちようとしている。
「エウレカ!」
アルデバランが走り寄るが、間に合わない。伸ばされた手はスピカの髪を掠めるだけだ。スピカには、それが全てスローモーションのように見えている。
首を捻り階段を見ると、集った人々は全員口をあんぐりと開けていた。
その時だ。階段下、ガイドポールに囲われた空間に、黒い穴が出現した。それはカバンをひっくり返した時のように、何かを地面に吐き出した。
ヒトが二人。よく知った顔。
会いたかった顔だった。
「スピカ!」
アヴィオールが片手を伸ばす。その指先から真っ白な鳩が飛び出して、スピカの体の周りを旋回する。白い光に包まれたスピカの体は、階段を飛び越えて、ゆっくりと地面に着地した。そのまま膝をつき、両手をつく。
光を受けて吐き気を催し、それを堪えるべく背を丸める。しかしスピカに怪我はない。這うようにしてアヴィオールの隣に近付くと、仰向けに倒れた彼に語りかけた。
「アヴィ、どうしてここに?」
アヴィオールがタルタロスに堕とされたことをスピカは知らない。ましてや、そこから戻ってきたことも知らない。
だからこそ、今の彼の姿は衝撃的なものだった。
「アヴィ? どうしたの?ねえ!」
アヴィオールの顔は土気色で、生気が全く感じられない。先程術を使用したのが彼の限界だったらしく、目を閉じた彼から反応はない。
スピカは、帰ってきたもう一人の男性を見上げる。アルファルドはスピカの側に屈み、スピカの顔を両手で包む。
「スピカか?」
アルファルドは
「ええ。エウレカは今私の中に押しやってるわ」
言葉遣いも仕草も表情も、全てスピカのものだった。アルファルドは笑みを浮かべた。しかしアヴィオールを見ると、途端にその表情は陰る。
アヴィオールはぐったりとして意識がまるでない。アヴィオールの不調に、アルファルドは心当たりがある。タルタロスから生還したアルファルドは無傷、全くの無事だったのだから、考えられる理由は一つしかない。
「アヴィはどうしたの? 何でこんな顔色なの? 調子が悪いの?」
慌てるスピカは、取り繕う余裕がまるでなく、スピカとしての感情をひたすらに捲し立てる。
それを階段の上から見下ろしているアルデバランは、全てを理解してスピカを睨み付けていた。
その表情、殺気に、集った人々がざわめき始める。平和な式典に似合わないアルデバランの様子に、違和を感じているのだろう。
「お集まりの皆さん。ハプニングはありましたが、これにて式典は終了致します。お集まり頂き、ありがとうございました」
アルゲディが場の空気を察して、マイクを通して人々に呼びかける。その声を合図に、居心地の悪さを感じていた人々は、一人、また一人と広場を後にする。
しかし野次馬はいるもので、広場に集まっていた一割の人数は、帰らずに経緯を見ている。
スピカは、階段の上に立つアルデバランから目を話せない。蛇に睨まれた蛙のように、全く動けなかった。互いに緊張が走る。
たまらずアルファルドは口を開く。
「まずいぞ。バランは雷の輝術を使う。撃たれたら即座に感電。逃げる隙なんてない」
耳打ちされた内容に、スピカは生唾を飲み込んだ。だが、アヴィオールを置いて逃げるつもりはない。彼の体を抱えるように抱きしめる。
その時だ。
「馬引く賢者、我が名はカペラ・アマルティア!」
底抜けに明るい声が聞こえたかと思うと、広場を突き抜けるかのように、光を纏ったチャリオットが駆けていく。それは階段に激しくぶつかり、石でできたそれを抉った。辺りに激しい地鳴りが響き、砂埃が視界を遮る。そこにいた誰もが、突然の出来事に驚いて、激しく咳き込んでいた。
「な、何?」
スピカは辺りを見回す。
二人分のヒールが石を叩く音。それが背後から聞こえ、スピカは振り返る。
「お待たせしましたー!」
「ごめんなさいね。遅くなっちゃったわ」
そこにいたのは、
「カペラ!」
「先生!」
スピカとアルファルドは同時に声をあげる。思わぬ人物が現れたことで、すっかり驚いていた。
「ああ、クライマックスには間に合ったようだな」
続いて煙の中から男性が二人現れる。
湖の畔でひと暴れしたのだろう。泥だらけになったレオナルドとグリードが、スピカ達を守るように並んで立つ。
煙が晴れた頃には、群衆の人数は一桁までに減っていた。残った彼らも恐怖やら動揺やらで、逃げ場所を探し右往左往している。
アルデバランは忌々しげにスピカ達を見下ろす。
「その体はエウレカのものだ」
アルデバランの周りで雷が弾ける。レオナルドはスピカ達を守るように、彼女らの前に進み出る。ちらりと目線を走らせると、逃げ遅れた一般市民がおろおろとアルデバランを見上げている。
スコーピウスは深くため息を吐く。
「市民の避難を!」
スコーピウスの言葉に合わせ、ワーウルフが数人現れた。彼らはスピカ達よりも市民を優先し、彼らを誘導して広場から避難させる。
レオナルドはマントを翻し声をあげた。
「誰か、攻撃に回れるか?」
「はい! 私に任せて!」
カペラが片手をピンと上げた。レオナルドは、見慣れない少女の姿を、頭からつま先まで眺める。
一見小柄で頼りない姿に見えるが、先の輝術を見る限りでは、攻撃に特化した賢者だろうと判断する。守りの術を使える者がいない以上、カペラに任せるより他にない。
「わかった。合図をしたら、きつい一発を見舞ってやってくれ」
「了解です!」
右手で敬礼しながら、カペラは高らかに声をあげる。
「ふざけたことを」
アルデバランが手を上げる。それに呼応するように、上空から雷が鋭く光った。
「食らうかよ!」
レオナルドはマントを翻し、雷の一撃を跳ね返す。それは天へと真っ直ぐ返り、霧散する。
続けて更に雷が二発。
「すまん、一発頼む!」
「了解です!」
一発はレオナルドのマントが跳ね返し、一発はカペラのチャリオットがぶつかる。カペラの術による光が雷と相殺し、両者霧散して消えていく。
「スピカちゃん、離れた方がいいわ」
クリスティーナがスピカに声をかける。しかしスピカは、アヴィオールの体を抱きしめたまま動けない。
体調不良は感じていたが、意識は鮮明だった。アヴィオールの顔を見つめ、彼の頬を何度か叩く。
「アヴィ、起きて。逃げないと」
しかしアヴィオールは目を覚まさない。息はしているが、刺激に対する反応はない。
「離れないと、また気絶するぞ」
アルファルドは言い、アヴィオールを背中に背負う。スピカは立ち上がり、フラフラとアルファルドの後を追う。
「逃がすか」
アルデバランの手から稲光が溢れる。アルファルドに向けられたそれから、レーザービームのような電気の束が放たれた。
「お嬢さん、頼んだ!」
「任せてください!」
巨大なチャリオットが再び放たれた。それは雷にぶつかり、辺りが白む程の光が溢れた。それは逃げるスピカ達の姿を覆い隠す。
スピカの足元がふらつき、今にも倒れそうになる。アルファルドは彼女の手を強く引き、そのまま広場から出ようとひた走る。短い遊歩道を抜けると出口が見えてきた。重厚な門は湾曲に歪んだ状態で、
「ああ忌々しい。忌々しい。アルデバラン様から逃げようとするなんて」
門の先から声が聞こえてきた。姿を表したのは二人のワーウルフ。片方は屈強な大男。片方は華奢な女性、リュカだった。
リュカは腰に差していたサーベルナイフを二本抜き、逆手に構えてスピカを睨みつける。男はカエストスを両手に装着しており、拳をかまえた。
「丸腰の相手に、随分と物騒なものを……」
アルファルドはスピカの腕を引き、じりじりと後退する。ワーウルフ達は逃がさないことが目的であるらしく、一定の距離を保ったまま攻撃をしかけてくる様子はない。互いに睨み合う。
「某が相手になろうぞ!」
グリードの大声が空気を震わせた。スピカの後ろを追っていた彼は、
リュカはそれを見て頭を掻きむしった。
「邪魔よ。あんたら邪魔なのよ。その女さえいればいいだけなのに……アルデバラン様の邪魔をしないでよお!」
リュカは地を蹴り、弾丸のように飛び出した。グリードは盾を掲げ両足を開き、どっしりと構える。
左手で振り上げられたナイフは盾にぶつかり、弾き返される。しかし、右手のナイフがグリードの顔を目掛けて振り下ろされる。
その寸前で、グリードは右手に持ったメイスを振り上げた。それはリュカの脇腹に重い一撃を与える。
リュカはその一撃でなぎ倒されるが、受身は取っている。地面を転がり衝撃を受け流し、すぐに体勢を立て直す。
「スピカ、逃げろ。ここは某に任せてくれ」
グリードがスピカに声をかける。
「え、でも」
「君が捕まれば、再びエウレカが呼び出される! 奴の好きにはさせるな!」
グリードの怒声に、スピカはびくりと肩を震わせる。
今逃げるのは、スピカのためだけではない。エウレカを封じるためにも、この場を離れなければ。
「わかったわ」
スピカはアルファルドを見上げ、互いに頷く。
「何をごちゃごちゃと!」
男がグリードに殴り掛かる。グリードは盾を掲げて受け止めるが、リュカはその隙を見逃さなかった。素早い動きでグリードとの距離を詰め、ナイフを横に凪ぐ。
「えーい!」
気の抜けた声が聞こえたかと思うと、リュカの頭上からチャリオットが現れた。重力に従い落ちてくるそれに、リュカは目を見開く。
グリード、リュカ、大男が、それぞれ散り散りの方向に飛び退いた。チャリオットは地面に激突し、辺りに光を撒き散らす。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ、すまない」
おおよそ戦闘に似つかわしくない、間の抜けたカペラの声に、グリードは面食らいながら頷く。
「アルデバランは? 大丈夫なのか?」
アルファルドが大声で問いかける。
続いてやってきたクリスティーナが、宙にアルミ玉をいくつか投げる。アルミ玉から出ている導火線には火がついていた。
「レオナルドが上手くやってくれてるわ」
アルミ玉が破裂した。中に入っていた星屑の結晶に着火したのだ。結晶が弾けるその瞬間、虹色の甘ったるい煙が辺りを覆い隠した。
「な、何よこれ!」
リュカは顔を覆う。危険なものではないだろうかという予感から目を閉じ、グリードから視線を逸らしてしまった。
「とりあえず二手に別れて、後で落ち合いましょう」
クリスティーナはカペラを連れ、煙に紛れて姿を消す。
「逃げよう」
アルファルドはスピカとグリードに声をかける。煙が薄れないうちにと、三人は走って門を潜り抜けた。
「あ、待てくそっ」
リュカは叫び、煙の中を両手で掻く。やがて煙が晴れた頃には、スピカ達の姿はなくなっていた。
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