光を燻しタルタロス

光を燻しタルタロス

 目を覚ましたアヴィオールは、見たことのない不可思議な景色に困惑していた。

 横たわる地面は熱を持ち温かく、吹く風もまた生暖かく、何かの吐息のようである。

 視線の先にあるのは灰色の空。雲一つないが薄暗く、不気味な雰囲気である。

 体を起こす。寝起きの頭を振って、正面を見、立ち上がる。


「何、ここ」


 目の前には、色がない殺風景な空間が広がっていた。

 何も無いわけではない。地面に堆く積まれた、黒ずんだ石ころのような何か。それは道を形成するかのように左右に分かれて積まれている。一つ一つの大きさや質感から、星屑の結晶のように思えたが、光っていない。

 踏みつけるのははばかられた。蹴らないように避けながら、アヴィオールは歩く。

 何処に行くつもりなのか、考えはない。


「誰かー。いませんかー」


 声を張り上げた。しかし返ってくる言葉はない。人気を感じない。不安を抱くが、進んでみるしかないだろう。

 土塊つちくれのような黒ずんだ結晶の道。まるで迷路のように入り組んでいる。道が分かれ曲がりくねり、時に行き止まり、元の道へと戻る。

 再び分かれ道が見え曲がり、再び行き止まり、元の道へと戻る。

 それを何度も繰り返す。

 景色は相変わらず殺風景で、変わり映えしない。同じ行動を繰り返していると気が滅入りそうになる。

 ひたすら似たような道を何時間も歩く。ふと気付いた。


「僕、疲れてなくない?」


 体に負荷が少ない歩きという行動でも、数時間続ければ疲れてくるのが当然だ。それは脚の痛みや発汗として体に表れるものだが、それさえない。

 最後の記憶を振り返る。アルファルドと共に、穴の底へ堕ちてしまったはずだ。裁判によるアルファルドへの処遇を考えれば、ここがタルタロスということなのだろうか。

 タルタロスは地獄だ。そう聞いている。

 アヴィオールは途端に顔を真っ青に染めた。自分は死んでしまったのではないかと。


「そんなことない。そんなこと……」


 アヴィオールは激しく鼓動する心臓を押さえつけようと、胸元をぎゅっと掴む。


「アヴィ」


 背後から声をかけられた。恐る恐る振り返る。

 アルファルドが自分の背中を追いかけていた。駆け足気味に近付いてくる。


「よかった。見つけられないかと思ったぞ」


 アヴィオールは息を詰まらせた。

 アルファルドがここに居るということは、ここがタルタロスであるということは確定だ。知り合いに会えたことを喜べない自分が忌々しい。


「いつからここに?」


 アルファルドが問いかける。アヴィオールは、そんな自分の気持ちを誤魔化ごまかすように、努めて明るく声を発する。


「多分三時間くらい前じゃないかな。気づいたら倒れてて」


「自分も同じくらいだ。道に迷ってたんだが、アヴィに会えてよかった」


 アヴィオールは、アルファルドの顔を見ることができない。顔を正面に戻すと、道の先を指差す。


「どっちに行く?」


 道は二手に分かれている。アルファルドは迷わず左を指差した。アヴィオールとアルファルドは、並んで進み始める。

 どうやら、黒い結晶の道は終わり間近であったようだ。選んだ道を進んだ先には、巨大な建物があった。


「何これ」


 神殿のような建物だった。膨らみがある何本もの柱が、三角の大きな屋根を支えている。しかしそれには壁はなく、柱の間からは真っ黒な煙が溢れていた。星屑の結晶を燃やした時のような甘ったるい匂いが辺りに漂っているが、それは鼻を曲げる程に臭い。

 吸い込んではいけないもののように思えて、アヴィオールは鼻と口を袖で覆う。アルファルドも同じ仕草をした。


「行ってみよう。火がついてるってことは、人がいるんだろう」


 アルファルドは、濁った鼻声でそう提案する。煙の異様さに怖気付いたアヴィオールは、それを断りたかったが、断る理由が思いつかない。

 アルファルドが先導して、2人は神殿へと向かう。階段を上がり、柱の間を潜り、暗い神殿の内部へと。

 内部に足を踏み入れると、煙の影響が強くなった。目に染みてしまい、アヴィオールの目からぼろぼろと涙が溢れる。袖で塞いだはずの喉を鋭く刺激され、2人は激しく咳き込んだ。


「客人か?」


 神殿の奥から声が聞こえた。一拍間を置いて、向かってくる足音が聞こえ始めた。煙は徐々に薄れていく。

 神殿の奥から現れたのは、一人の男性であった。筋肉隆々とした太い体に、ヒマティオンを羽織った姿。髪はだらしなく伸びきっており、無精髭で疲れたような様相だ。靴は履かず素足で、土汚れのような黒ずみが目立っていた。


「え?」


 アヴィオールは思わず声を上げる。その男性の顔に見覚えがあるのだ。それはアルファルドも同じで、驚きから目を見開いている。

 元の世界で大賢神だいけんじんと崇められていた男、ユピテウスの像と瓜二つだったのだ。

 そして彼は、決定的な言葉を発した。


「我、牡牛の一族に属し者。神成かみなりの竜より、力を授かりし賢者なり。

 我が名はユピテウス。そなたらは何者か」


 アヴィオールは口をパクパクさせる。似ているとは思ったが、まさかその名を名乗るとは思っていなかった。

 

大賢神だいけんじんユピテウス? いや、でも、ユピテウスが行きてるはずが……いや、そもそも神様、だよね?」


 アヴィオールが混乱し独り言を呟く隣で、アルファルドはユピテウスの前に進み出る。


「突然の訪問をお許しください。私はアルファルド、こちらはアヴィオールと言います。

 道に迷ってしまいまして。ここは一体どういった場所なのでしょうか」


 ユピテウスは怪訝けげんな目でアルファルドを見る。

 

「道に迷った? やはり、死んでここに来たのではないな?」


「番人の賢者を名乗るケンタウロスに、ここへ堕とされました」


 ユピテウスはため息をつく。呆れたような、困ったような顔をして、聞き取れない程の小さな声で何かを呟いている。

 歓迎されていないと気付き、アヴィオールは声を上げた。

 

「あの、すみません。僕らは僕らで何とかしますので。アルフ、行こうよ」


 しかし、ユピテウスはそれを止める。


「行かなくともよい。中に入りなさい」


 ユピテウスは踵を返し、神殿の中へと向かう。アヴィオールは、アルファルドと顔を見合わせた。

 あれが本当に大賢神だいけんじんユピテウスなのだとしたら、言い伝えとは程遠いえない男だ。更に言えば、何故大賢神だいけんじんともあろう男が、地獄のタルタロスにいるのか。タルタロスへの穴を塞ぐのが、ユピテウスの役割ではないのか。

 アヴィオールの疑問を察したのか、アルファルドは首を振る。


「他人の空似だろう。気にするな」


「空似ってレベルじゃないよ。同じ顔じゃん……」


 暫しの躊躇ためらいの後、2人は神殿の中を進み始めた。ユピテウスが歩いた後には黒く足跡がついており、汚らしく思えた。

 やがて神殿の中央に行き着く。


「うわあ……」


 そこには巨大な釜があった。

 浅底の平たい釜は、30度ほどの傾斜があり、その中に色とりどりの宝石のような欠片が入れられている。時計回りにゆっくりと回転しているそれは、ざらついた音を立てていた。


「波の音みたい」


 アヴィオールはぽつりと呟く。確かに、砂浜に寄せては返す波の音に似ている。

 ユピテウスは釜に近付いたところで振り返る。


「さて、本来ならば、魂を光に変換するべくいぶさねばならないが。どちらから入る?」


 問われた意味がわからず、アヴィオールは目を瞬かせた。


いぶす……?」


「はあ。だから生身は困る。皆、エレボスの回廊を通り、ここに至るのだ。順番飛ばしをしてはならんだろう」


「え? 意味わかんないんですけど」


「申し訳ありません。わかるように説明して頂けませんか?」


「そもそも堕とされたんですから。僕らは知らないままここに来たんです」


 アヴィオールとアルファルドは交互に問いかける。ユピテウスはさも面倒臭そうに大きくため息をついた。アヴィオールはそれに対し苛立ってしまうものの、顔に出さないよう勤める。


「そもそも、ここは何処か知っているのか?」


 ユピテウスの問に、アルファルドが答える。


「地獄だと聞いております。罪人を堕とすための」


 ユピテウスは再びため息をついた。


「ああ、情けない。ヒトは何もかも忘れてしまったのか」


「だから、説明してくださいよ。僕ら、わけがわからないままに堕とされてるんです」


「だから知りたいと?」


「はい」


 じろりと、ユピテウスはアヴィオールを睨み付ける。


「知ってどうする?」


 アヴィオールはたじろぐが、怯みはしなかった。想定内の質問であったからだ。


「どうする? って……元いたとこに帰りたいです」


 ユピテウスはアヴィオールに近付いて顔を覗く。


「帰れると思うのか?」


 その顔が完全な無表情で、アヴィオールは生唾を飲み込んだ。無表情を徹すると、怒りの表情に見えると言う。そういった顔だったのだ。だが、帰らねばならない理由が、アヴィオールにはある。


「帰らないと。スピカが心配なんだ」


 ユピテウスはアヴィオールの顔を暫くしげしげと見つめ、次にアルファルドを振り返る。


「帰れると思うか?」


 アルファルドは目を閉じる。


「そう尋ねてくるということは、普通なら帰れないんでしょうね。でも、残してきた一人娘が心配なんです。だから、帰らないと」


 ユピテウスは肩をすくめ、踵を返して釜へと顔を戻す。これ以上関わる気はないのだろう。声を発することなく、コテで釜の中を掻き回し始めた。

 ゆっくりと回転している鍋の中身を掻き回すと、宝石のように煌めく石が、ざらついた音を立てて転がる。それはまるで金平糖を作っているかのようで、興味が湧いたアヴィオールは釜へと近寄っていく。


「これ、何してるんですか?」


 ユピテウスは答えない。拒否の言葉さえないため、アヴィオールはユピテウスの作業を覗き込んだ。

 釜の中にあるのは、星屑の結晶によく似ている。それらは一つ一つ異なる色をしており、見惚れる程に美しい。

 釜の下では火が燃えており、熱を加えているようだ。熱されている宝石を眺めながら、時々コテでそれを掻く。その姿は、さながら職人のようである。


「これって何なんですか?」


 ユピテウスは一言答える。


「魂だ」


 その回答に、アヴィオールは笑う。


「魂? 宝石にしか見えないですよ」


 アヴィオールとしては、お喋りをして悪い雰囲気を取り払いたかっただけなのだが、ユピテウスはそのように受け取らなかった。アヴィオールを強く睨み付けると、吐き捨てるように言う。


「邪魔をするなら出ていけ」


 その冷たい言葉に、アヴィオールは肩を跳ねさせる。


「邪魔なんて、する気はないです」


「なら話しかけるな」


 二人の間にある険悪な雰囲気を感じ取り、アルファルドは彼らに近づいた。至ってにこやかに、ユピテウスへ声をかける。


「すみません。タルタロスでの決まり事を知らないもので。よろしければ、詳しく教えてください。その釜についても」


 ユピテウスは手を止める。アルファルドの言葉を聞いたからではない。釜の中にある宝石が、黒く変色していくからだ。光は薄れ、消えていく。


「まただ。結晶にならない。以前はこのようなことなどなかった。何故失われる。何故、星屑にならない。

 ああ、私が忘れなければ、このようなことはないのに」


 ユピテウスは頭を抱え、うずくまる。

 辺りには甘ったるい不快な臭いと、黒い煙が漂っている。その臭いの元凶は、釜の中にある宝石。それが黒く変色するに従って臭いが強くなる。


「それ、もしかして星屑の結晶なんですか?」


 アヴィオールは訊ねる。甘ったるい臭いは星屑の結晶が燃える時のような匂いによく似ている。その事から、ただ何となく、そう推測しただけだ。その問いかけに、ユピテウスは頷く。


「当然だろう。魂は、光が凝縮され意志を持つようになったもの。それをいぶし、塊として地表に戻したものが『星屑の結晶』。この星にある小さな光屑だから星屑だ。なんだ、地表ではそんなことも忘れ去られているのか」


 アヴィオールは苛立ちを隠し、返答する。

 

「だって、大賢神だいけんじんユピテウス様がお隠れになってから千年経ってるんですよ。嘆くくらいなら、今からでも教えてください」


 ユピテウスは顔を上げる。そしてアヴィオールを見下ろした。小さく「ふむ」と声をもらすと、コテを釜に立て掛ける。


「千年……千年か……そんなに経っていたか。そうだな。説明するとしよう」


 ユピテウスは釜の裏側へと回る。そこにあるのは、銀でできたゴブレット。そこに、色も大きさも様々な宝石が、山のように積まれていた。そこから金色の宝石を一つつまみ上げ、釜の前へと戻ってくる。

 アヴィオールの隣に、アルファルドが立つ。アルファルドは、ユピテウスの手の中にある宝石をじっと見つめた。それは心臓のように脈打っているように見える。やはり、魂という話は本当なのだろうか。


「説明するのは面倒だ。百聞は一見にしかず。少し、この魂の光を借りようではないか」


 ユピテウスは、宝石を両手で包む。宝石から光が溢れる。それは、手の中に包み込めるような小さなものではない。指の隙間から光が溢れ、流れ星のように尾を引きながら辺りに散らばった。光が地面に落ちると、色褪せた空間に光が灯り、鮮やかに色付く。それは光が落ちる度に広がり、やがて目に見えるこの空間が、太陽の光に照らされているかのように眩しいものとなる。


「これはあくまで幻。私が覚えている限りで、一番古い記憶だ」


 アヴィオールの目の前に、二人のユピテウスが現れた。片方は先程会話した、やつれた姿の彼。しかし片方は、同じ顔だが随分と生き生きしており、活力に溢れていた。

 幻の方のユピテウスの傍には、長身の女性がいた。長いブロンドヘアをなびかせながら釜に向かっている。彼女が両手を叩いて腕を広げると、彼女の体から光が溢れた。そして頭上から、光の粒が舞いながら落ちてくる。それは釜の中にある宝石に触れた途端、糖蜜のように宝石に絡みついた。ユピテウスが、蜜が絡んだ宝石をコテで掻き回す。眩しい程に煌めくそれは、金平糖のように角を生やし、一定の大きさになると流れ星のように流れ消えていく。


『私の仕事はこれで終わり。次の千年はあの子の番ね』


 女性の幻は、ユピテウスの幻に声をかける。ユピテウスの幻はがっくりと肩を落として言った。


『私はあと九百年も残っている。君ともう少し仕事をしたかった』


『でも、これが決まり。大丈夫。あの子は乙女の一族。きっと私以上に綺麗な結晶を作るわ』


『そうだな。彼女なら心配ない』


 女性の姿は光に溶け、釜の中に虹色の宝石が転がる。それと共に釜の中を掻き回すと、再び流れ星が発生した。その流れ星は釜の中のものを全て持ち出し、消えていく。

 そこからは、時計の針を早回しするかのように、時間が急ぎ足で進んだ。待てども待てども、ユピテウスの他にヒトが現れる気配はない。暫く空だった釜には、ユピテウスが宝石を注ぎ入れ掻き回す。だが、糖蜜を注ぐ役割はユピテウスにはできないらしい。次にできたものは黒く焦げた結晶で、甘ったるい煙が辺りに充満した。

 次も、その次も、その次の次も。綺麗な結晶ができることはなく。神殿に溜まった結晶は、やがて神殿の外へと積まれていく。


「あの子がいなければ、太陽の光が注げない。夜の帳を払う役割は、女性でなければできない。

 私は、あの子の存在を知っていた。しかし、長い年月の間に忘れてしまった。何かの呪いか、それとも……ただ、とても大切な存在であったことは確かなのだ」

 

 現実のユピテウスはそう呟く。心が掻き乱されているのだろう。苦しげに左胸を押さえていた。


「あの子が来ないということは、地表では冬がないのだろう?」


 あの子とは誰のことなのか。疑問はあるがアヴィオールは頷く。冬は伝説上の存在だ。


「千年前に起きた、百年戦争の後から、死の季節である冬は取り払われたと聞きます」


 アヴィオールは答えるが、ユピテウスはそれに対して首を横に振る。


「冬とは、竜が作り出した、星の休眠期間だ」


 アヴィオールもアルファルドも、言葉の意味がわからず眉を寄せる。


「星の? 休眠?」


 ユピテウスは頷く。


「星とは、光をその身に宿す存在。一つの生命と言っても過言ではない。光溢れるこの世界は、星と言って差し支えない。

 生命であれば死ぬこともある。しかし、星が死ねばヒトは生きられない。だから、一時的に星を眠らせ活動を鈍らせ、その間にタルタロスで星屑の結晶を作り出す。それが、春夏秋冬の仕組みなのだ」


「しゅん、か?」


「春、夏、秋の3つの季節と、冬という休眠の季節を合わせた呼び名だ」


 ユピテウスは、宝石から手を離す。宝石は形を崩し、溶けて消えた。


「でも、何のために休眠期間を設けるのですか? ここ千年、何も問題などないように思えますが」


 アルファルドは問いかける。しかし、アルファルドは知っているのだろう。冬が無くなることの弊害を。疑問ではなく、答え合わせをする為に問いかけている。

 ユピテウスは、そんな確信を抱いた問いかけに対し、ふっと笑みを浮かべて語る。


「調べはついているのだろう?

 このまま冬が来なければ、いつか光はなくなり、カオスが訪れる。そうなれば、ヒトから光は抜け出ていき、形残さず崩れてしまう。竜がヒトに教えたのは、そういう末路だ」


 アルファルドは額を押さえ、アヴィオールは後ずさる。言われた意味が理解できない。


「じゃあ、スピカが賢者を継いだ意味って何だったの……?」


 アヴィオールは思わず呟く。

 冬の訪れを食い止めていた乙女の大賢人という役割は何だったのか。本来不必要なものだったのか。


「そもそも賢者の役割って何なんだらろう?」


「輝術とは、星の光を利用する術。かつて領主だった賢者は、光と術をもって民を導いた。

 光を食い潰せばカオスが早まる、それが真実だとしたら、輝術なんてそうそう使えるものじゃない。

 冬の真実が正しく伝えられていればの話だが……」


「そうだよ、歴史そのものがおかしいんだ。何で正しく語られなかったんだ?」


 アヴィオールとアルファルドの言い合いを、ユピテウスは見ている。だが、すぐにそれに飽きたのか、ややあってこう言った。


「まあ、其方そなたらがそれを知ったところで、どうすることもできん」


 ユピテウスは釜に向き直り胡座をかいた。

 その通りである。2人はこのタルタロスから抜け出す術を知らない。ここが冥府であるならば、自分達は死んでいることになる。表向きは。

 だが、アヴィオールもアルファルドも、体ごと堕とされた。少なくともアヴィオールはそう確信している。魂が釜の中にあり、ヒトの姿をしたものが自分達以外に存在しないのは、それが理由なのだろう。

 ならば、体ごとタルタロスを抜け出る方法があるのであれば、元の世界に戻れるのではないか。そう考えた。

 アヴィオールは、考えに考え抜いて、ユピテウスに一つ問いかける。


「エウレカという名前に、心当たりはありませんか?」


 ユピテウスは顔を上げる。釜をじっと見つめているが、耳はアヴィオールの言葉を聞いている。


「本来なら、随分昔に死んだヒトのはずです。それが亡霊となって、友達に取り憑いています。

 死んだ魂がタルタロスに来るのなら、タルタロスの番人であるあなたは知っているはずですよね。魂だけでも『蘇った』ヒトはいませんでしたか?」


 突拍子もない話。アヴィオールの中でも、有り得ないだろうという気持ちが大きい。

 しかし、堕ちる寸前に見たスピカの顔が忘れられない。他人を見下すような目を、スピカがするはずがない。彼女の中に何者かが入り込んでしまっていると考えれば納得できるのだ。

 そしてそれが本当にエウレカであれば、彼女が何らかの方法で魂だけ蘇ったのだと考えが及ぶ。


「本当に心当たりはありませんか?」


 ユピテウスに再度訊ねる。しかし返答はない。考える様子もないということは、この件に触れたくもないのだろう。

 アヴィオールはため息をつき、ユピテウスから離れる。神様と崇めていた存在が存外頼りなく、落胆してしまった。

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