煌めく銀原と夢見の羊(4)

 びゅうびゅうと風が吹く。それはナイフのように冷たく、頬の皮膚を切り裂いてくるかのようだ。レグルスは手袋に覆われた手で自分の頬を撫でるが、頬は何事もない。血が流れているのかと思ったが、そのようなことはなかった。

 手袋を三枚重ねた手は、感覚が鈍くてもどかしい。何を触っているのか全く判断がつかない。

 ブーツの上から履いたアイゼンが存外動きにくく、普段通りの歩きができない。だがこれのおかげで、真白の氷で隠された地面に棘が突き刺さり、滑り落ちるのを防いでくれている。


「何だよこれ……眩し……」


 先頭を歩いているマーブラは、真白の氷の層に反射する太陽光を受け、目を細める。


「これ、サングラスもいるんじゃないの?」


「買いに戻るか?」


「降りたくない」


 レグルスは「だろうな」と苦笑して、後ろを歩く女子2人に声をかける。


「大丈夫か?」


 風が自分の音をかき消さぬよう、大声を出した。ファミラナは、右手側のストックを持ち上げて、レグルスにアピールする。聞こえているようだ。


「も、無理、ですう……」


 一方、体力がないキャンディは肩で息をしており、僅かに汗をかいているようだ。


「休憩しよう」


「さっきも休憩したぞ」


「三十分前だろ? キャンディちゃん疲れてるし」


 マーブラは立ち止まる。レグルスも仕方なく従った。やがてファミラナ、キャンディが追いつき、キャンディはその場に屈みこんだ。


「ごめんなさい。体力なくて」


 彼女の息は荒い。普段、運動などしていないのだろう。ペース配分ができておらず、無理をしているに違いない。


「キャンディ、少しは自分のペースを考えろ。言えば俺らが合わせるから」


「何? キャンディちゃんが悪いとでも?」


「ちげーよ。心配してんだ」


 レグルスは空を見上げる。

 ここは眠りの白山しらやま。冷たい氷の土地である。雪と呼ばれる氷屑こおりくずが地面を覆い隠している土地。

 眠りの土地と呼ばれるため、てっきり生き物は存在しないと思っていた。


「あ、見て。狐」


 ファミラナが声をあげ、視線の先を指さす。

 枯れた木立の中、一匹の狐がこちらを見つめている。その体表は真っ白。一見雪と見分けがつかない。


「さっきも兎や栗鼠りすがいたよね。案外動物がいるんだね」


 ファミラナはストック二本を片手に持つと、笑顔で狐に片手を振る。狐は気付かれたとわかると、ふんわり膨らんだ尻尾を翻し、木立の中へと消えていった。


「あ、行っちゃった」


「野生動物だからな」


 レグルスは狐が消えた方向をじっと見つめる。彼らは、眠った土地でどのように生きているのだろう。そう不思議に思う。

 不意に眠気を感じた。瞼が落ちそうになる。


「う、やば……」


 マーブラとキャンディは、自身の背中に手を伸ばす。腰に結びつけていた筒状のケースからフルートを取り出し、曲を奏でる。

 フルートの音は風に乗り、ふもとへと流されていく。しかし輝術は効果を発揮し、先程感じた眠気はすぐに消えた。


「わりい」


 レグルスは双子に声をかける。双子はフルートを吹き続けているため声での返事はできないが、頷いてみせた。


「吹きながら登る、なんてできないよな」


 レグルスは呟く。滑りやすい地面だ。ストック無しで登るのは無茶というものだ。


「もう日が落ちそう。今どの辺りにいるんだろう」


 ファミラナはカバンから地図を取り出した。今自分達は、山の中腹にいるのだろう。

 夢見の銀原ぎんばるは、雪に覆われた山を登った先、その頂上にある。切り立った崖はあまりない山だが、積もった雪と氷が、行く手を阻む。

 この雪さえなければ、おそらく既に山頂に到着しているはずだ。予定より随分遅れてしまっている。


「この、雪だっけ? これウザったいな」


 レグルスはストックで雪を掻く。


「冬って、これが空から降るんだよね。雨みたいに」


「らしいな。でも、冬が来なければ、いつかカオスが来る」


「実感ないね。別世界の話みたい」


 ぽつぽつと、そう話す。


「もう大丈夫なはずだけど」


 マーブラがフルートから口を離す。音楽が止んだにも関わらず、眠気はやってこない。輝術の力は止んだらしい。


「早く登ろうぜ。もうすぐ日が暮れる」


 レグルスは言い、再び歩き始める。ファミラナは地図を折りたたんでポケットに入れ、レグルスの背中について行く。


「待ってよ。休憩は?」


 マーブラが問い掛ける。


「悪いけど、もう少し頑張ってくれ。ペース落とすから」


 レグルスは足を止め振り返る。遅れてしまっていることと、雪に足が取られるもどかしさで苛立っていた。

 それはマーブラも同じだった。妹を気にかけ続けていたこともあり、精神的にも疲労が溜まっている。


「一日じゃ無理だ。レグルス、君だってわかるだろ?」


「野宿も無理だ。それくらいわかるだろ。無理してでも登れ」


「いや、僕らは僕らのペースで登る」


 最後尾のキャンディは、慌ててマーブラに近寄る。しかし足がもつれてしまい、転びそうになる。ストックをしっかりと雪の中に突き刺して、すんでのところで踏みとどまった。


「大丈夫だよ」


「本当に?」


「まだ頑張れるから」


 キャンディは微笑むが、その顔には疲労が見える。


「キャンディ、悪い」


「ううん。いいよ」


 再び頂上を目指して歩き始める。しかし、大して歩かないうちに、強い風が吹き始めた。それは地面の雪を巻き上げて、レグルス達に襲いかかる。

 サングラスを用意しなかったことを、これ程までに後悔しなかったことはない。雪混じりの突風を、顔に、体に叩き付けられる。目を開けていられず、辺りの様子を見ることなどできなかった。


「なあ、やばくね?」


 レグルスは誰とも無しに声をかける。


「前、見えない……」


 ファミラナも全く同じ状況だった。片手だけでも眼前にかざしたいが、足元が滑ってしまうのではないかという恐れで、ストックから手が離せない。


「マーブラ! キャンディ! 大丈夫か?」


 レグルスは声をあげた。吹き荒れる風に声が掻き消されているのか、双子からの返事が聞こえない。


「きゃあ!」


 悲鳴が上がる。ファミラナが体勢を崩していた。華奢な体にぶつかる強風、なれない環境、サイズが合わない登山用具。どれもがファミラナの足を引っ張り、山から振り落とそうとしていた。

 レグルスは辺りを見回す。近くに巨岩を見つけ、レグルスはファミラナの腕を掴んだ。ストックを掴んだ右手に力を入れ、ファミラナの体を引っ張り起こす。


「岩見えるか?あの下に行こう」


 ファミラナは目をきつく閉じている。レグルスは歯を食いしばり、ファミラナを引っ張って巨岩まで連れて行く。ファミラナの体が倒れないよう、ゆっくりと。

 巨岩は近い場所にあるものの、強風と滑りやすい地面のせいで、ゆっくりと近付くことしかできない。時間をかけ、やがて巨岩の足元にやって来ると、ファミラナを座らせて自分も腰を下ろした。

 風を遮る巨岩の下で、いくらか冷静さを取り戻した。レグルスはマーブラとキャンディの姿を探す。


「くそっ」


 白い視界の中、見つかるはずもなく。レグルスは柔らかな雪の地面を片手で殴り付けた。


「どうすんだ、これ」


 遭難しかけているのではないか。レグルスは焦る。双子の安否が心配だが、今探しに出歩くことは命に関わると判断した。動けないことがもどかしい。


「誰か……誰か……」


 ファミラナは目を閉じてそう呟く。彼女の体から、僅かに光が溢れている。おそらく、烏の輝術によってテレパシーを送っているのだろう。


「マーブラは? キャンディは?」


 ファミラナは首を振る。


「私の術は、テレパシーを送ることしかできないから、送っても返事が貰えないから、状況がわからない」


 ファミラナは「ごめんなさい」と呟いた。しかし、ファミラナに非はない。レグルスはそれを言いたいが、言い回しが思いつかずファミラナの頭を撫でた。

 その時気付いた。ファミラナの体が震えている。唇が紫に染まっていた。


「大丈夫か?」


 レグルスも寒さを感じていたものの、厚着のおかげで耐えられている。しかし、彼女の寒がり方は尋常ではない。


「大丈夫か?」


「大丈夫。ただ、さっき汗かいてたのが冷えちゃって」


 ファミラナは首を振るが、強がりだということは一目瞭然いちもくりょうぜんだ。ガタガタ震える体を、自分の腕で抱きしめている。


「大丈夫じゃないだろ」


 レグルスは、荷物の中からマントを取り出してファミラナにかぶせる。

 

「駄目だよ、大事なものでしょ?」


「うるせえ。黙って借りてろ」


 ファミラナは寒さに耐えられずマントに包まるが、気休めにしかならない。レグルスはファミラナの体を抱き寄せて密着した。


「ふえ?」


 ファミラナは慌てるが、レグルスは離そうとしない。


「マントだけよりあったかいだろ」


 などと言いながら。


「マーブラ君とキャンディちゃん、大丈夫かな。テレパシーは送ってみたんだけど……」


 ファミラナが辺りを見回す。姿が見えないことは分かっている。しかし確かめずにいられない。


「大丈夫だと信じよう。俺らより白山しらやまのこと知ってるはずだ」


「でも、登るのは初めてなんでしょ? 心配だよ」


 ファミラナは泣きそうな声で呟く。レグルスも不安を抱くが、しかし同意はしたくなかった。


「心配はしてる。けど、信じてる。あいつらは大丈夫だ」


 不安をかき消すように、最も近くにいるファミラナの存在を確かめるように、抱きしめる腕に力をこめる。ファミラナはそれ以上何も言わず、一度だけ頷いた。

 くらりと視界が歪んだ。


「やべえ」


 レグルスは顔をしかめる。再び睡魔が襲いかかってきたのだ。

 非常に間が悪い。双子とは離れ離れ。強風と舞い上がる雪によって動きが取れない。ファミラナは凍えている。

 ここで眠ることは死に直結する。レグルスは悟り、舌を噛んで睡魔に対抗する。

 だが、ファミラナは抵抗するだけの体力が残っていない。次第に彼女の瞼が閉じていく。


「ファミラナ! 寝るな!」


 レグルスは大声を上げるが、効き目はほぼない。ファミラナは意識を落としかけており、レグルスの体に体重を預けてくる。


「寝たらダメだ! 起きろ!」


 ファミラナは薄らと目を開く。真っ青になった唇が、小さく動いた。何かを話している。レグルスは彼女の口元に耳を近付ける。


「私、レグルス君に、言ってないことが……」


 呂律ろれつが回らないながらも、辛うじてそれだけ口にする。しかし、それ以上を言う気力はなく、ファミラナは眠りに落ちた。


「起きろ、起きろって」


 レグルスはファミラナの体を揺らす。しかし、輝術の影響で眠った彼女は目を覚まさない。

 レグルスも限界だった。睡眠薬を飲まされたかのような強烈な眠気に抗い、閉じかけた瞼を無理矢理こじ開ける。だが次第に、瞼をこじ開けることができなくなる。

 目だけ閉じてしまおうか、眠ってしまわなければ大丈夫だと、甘い考えが頭を過ぎった。


「いいわけないだろ」


 自分自身にそう言い聞かせる。そして頭を前に倒し、後頭部を力任せに巨岩にぶつけた。衝撃と痛みで脳が覚醒する。

 以前眠気が襲ってきた際は、双子がフルートを吹いた。その時間は差程長くなかったはず。

 レグルスは、眠気を感じたら頭をぶつけるという方法で、暫く眠気を凌ぐ。眠気も風もなかなか止まない。

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