煌めく銀原と夢見の羊(3)
山間にあるコルキスの村。レグルスは民宿で一晩休み、朝早くに目を覚ました。
荷物を纏めて部屋を出ると、一階にある食堂へと向かう。日が昇りきる前だというのに、ファミラナやキャンディ、マーブラは既に準備ができているようだ。皆厚着をして、背中にはリュックサックを背負っている。
「おはよ」
「レグルス君、おはよ」
ファミラナはにっこり笑って挨拶を返す。その顔には汗が
ファミラナの横では、双子が民宿の女将に声をかけられている。
「あんたたち、あそこはやめときな」
「ああ……はい」
「いくら牡羊様に会いに行くとはいえ、あんな山登るのは馬鹿のやることだよ」
「はい」
マーブラは話を聞く気がないようで、死んだ魚のような目で生返事をしている。
「女将さんも、夢見の
レグルスが女将に問い掛ける。女将はレグルスに視線を向けると、ため息混じりに答える。
「ゆめみの? いや、私が言ってるのは白いあの山のことさ」
女将は、森の向こうに見える、真っ白な山を指差す。
山はまるで綿が一面に敷かれたかのように真っ白だ。レグルス達が向かう夢見の
「昔からの伝説で、あそこには竜が住まうと聞くよ。唸り声をあげるが姿は見えず。行方不明者は数しれず……」
レグルスは苦笑いする。
「竜とか迷信じゃ……」
「信じるも信じないもあんた達次第だけどね。私は行かない方がいいと思うよ」
女将は少し気分を害したようである。眉間にシワを寄せながら、レグルスを睨んでそう言った。
「第一、牡羊様がいらっしゃる時点で、あそこは危ないんだよ。
牡羊様は眠りの輝術をお使いになる。村のヒトは五百年前から、あの地には立ち入らないようにしているんだ。自分の意志とは関係なく眠ってしまうからね」
「ああ、牡羊が眠ると大地も眠る、か」
「そういうことだよ」
だが、行かない選択肢はない。女将の話を聞いてもなお、レグルスの気持ちは変わらない。
レグルスはファミラナを振り返る。彼女もまた、行く覚悟はできているようだ。力強く頷いている。
「ほんとは行きたくないんだけどさー」
マーブラが呟くが、キャンディはそれをかき消すほどの大きな声で、女将に礼を言う。
「ありがとうございます! じゃあ、私達そろそろ行きますね!」
キャンディはマーブラの手を握り、早足に食堂を後にする。レグルスとファミラナは、それに続いて民宿を出た。
屋外に出ると、太陽の弱い光が辺りを照らしている。空は
コルキス村は、やや大きな村であった。木造の建物が多く立ち並んでいるが、その全てが住宅である。
山に張り付くように住宅が並んでいるこの村を抜けると、暫くは森が続く。
レグルスを先頭に、村を抜けて森へと入る。舗装されているとはいえ、石やレンガが敷き詰められているといったことはなく、ただ土が踏み固められたかのような道である。
「あつ……」
厚着をしているために、少しでも歩くと汗が噴き出してしまう。このような重装備が本当に必要なのか、レグルスは疑問に思っていた。
暫く歩いていると、道が二股に別れる。片方は山の麓へと向かう道。片方は森の奥へと向かう道。山の
差程歩かないうちに、道は途中で途切れてしまった。木々が絡まり合うように枝葉を広げ、行き先を塞いでいたのである。
「うわ、まじかよ」
レグルスはげんなりといった顔で呟く。
「他に道ないの?」
「わからん」
立ち往生するわけにもいかず、身を屈めて枝葉の下を潜る。道とは呼べないような獣道を進んでいく。
「キャンディちゃん、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
双子は言葉を交わし、互いを励まし合いながら歩を進める。
「……ちょっと待て」
レグルスは不意に立ち止まる。ファミラナはレグルスに問いかけた。
「どうしたの?」
「変な音しないか?」
レグルスは人差し指を自分の口元に立てる。それに従い、暫くは皆黙っていたが、やがてマーブラが口を開く。
「何も聞こえないけど」
「さっきは聞こえたんだ。なんか、5人目の足音みたいな音が」
緊張が張り詰めた。
「ヒト……?」
ファミラナが問い掛ける。レグルスは自信が持てず、
「動物なら、こんなにぴったり足を止めるなんてないよな?」
レグルスは再び歩き出す。しかし、どんな音も聞き逃すまいと、耳を澄ましている。
やはり聞こえる。土を踏みしめる音とは別の足音。草葉を踏み潰すような音だ。
「やっぱりいる!」
レグルスは足元に転がっている枯れ枝を拾い上げ、右側、やや後方を振り向く。茂みの中に枝を力任せに突き刺した。
茂みの中から男が転がり出てきた。ワーウルフだ。宮殿から追ってきたのだろう。黒ずくめの服装は、リュカが率いるワーウルフ達と同じものだ。肩につけた傷は、おそらく先程レグルスが突いたものだろう。服が裂け、擦り傷から血が滲んでいる。
マーブラはキャンディを後ろに引かせて庇い、ファミラナは枯れ枝を拾い上げる。ファミラナの腰につけたポーチには、組み立て式の
「追ってきたのか!」
レグルスが枯れ枝を構える。しかし枯れ枝は、先程ワーウルフを突いた際に折れてしまっていた。短い枝を捨てるべきか、一瞬悩む。
次の瞬間、ワーウルフはレグルスに飛びかかった。
「うわっ!」
着込んだ服と背負った荷物の重みで、避けようとしたレグルスの足がふらついた。その場に尻餅をつくと、その上にワーウルフが馬乗りになる。
「くっ……」
背中を地面に強く打ち付けられ、息が詰まる。起き上がりたいが、自分より体格が大きい成人男性に組み伏せられているのだ。顔を起こすのが精一杯だ。
ワーウルフの大きな手に顔を捕まれ、レグルスは逃げられない。顔を引っ張られ、地面に打ち付けられるところまでが、一瞬で頭を過ぎる。鳥肌が立つ。
しかし、その通りにはならなかった。ファミラナが枝を横に薙ぎ、ワーウルフの胴を叩く。ワーウルフは寸前でレグルスから手を離し、受身を取って地面を転がりレグルスから離れた。
「ありがとう。助かった」
レグルスは起き上がる。ファミラナがレグルスの前に出て、ワーウルフと対峙する。
「中途半端に
立ち上がったワーウルフは、ぽつりと呟く。
「なんの事だ?」
レグルスは問い掛ける。
「いや、それよりも。
宮殿を出た時には誰にも会わなかったし、三日間誰も襲いに来なかった。ずっと追ってきてたなら、何で今のタイミングで襲ってきたんだ?」
マーブラも重ねて問い掛ける。
ワーウルフは何も言わない。ただこちらを睨むだけ。
「退いてください。退かないなら、退かせます」
ファミラナが、凛とした声でワーウルフに言う。ワーウルフはやはり返事をしない。
ファミラナが足を踏み出した。枝がしなり、ワーウルフに叩き付けられる。しかしワーウルフは左手に飛び退いてそれを避けた。
続けて枝を左に薙ぐ。確かに当たったが、相手は右腕でそれを受け止め防御している。枝が掴まれ引っ張られると、ファミラナは枝から手を離して飛び込むように前転し、ワーウルフの目の前で屈むと、ワーウルフの足を自分の足で引っ掛けた。ワーウルフはバランスを崩して転び、横腹と肩を地面に打ち付ける。
ファミラナは枝を奪い返し、ワーウルフの眼前に突き付けた。
「まだやりますか?」
ワーウルフはニヤリと笑う。
「ああ、こりゃ自分で気付いてねえな」
ファミラナは眉を
「退かないのなら」
「殺すか?」
ファミラナは一瞬たじろいだ。
ワーウルフはその隙を見逃さず、ファミラナの腹を蹴り飛ばす。華奢な体は耐えられず尻餅をついた。受けた衝撃により、思わず咳き込む。
「ファミラナ! 大丈夫か?」
レグルスがファミラナに駆け寄る。しかしファミラナは片手を広げ、近付かないよう態度で示す。
ワーウルフは立ち上がる。しかし攻撃を仕掛けてくることはなかった。茂みの中に隠れると、木々を揺らす音を立て、その場を立ち去る。
ファミラナは立ち上がる。一同耳を澄ませ、ワーウルフが消えた茂みをじっと見つめる。
数分そうしていた。木々を揺らす音は段々と小さく遠くなる。どうやら退いたらしい。
「レグルス君、大丈夫?」
ワーウルフと対峙した時とは打って変わって、ファミラナは普段のおどおどとした様子でレグルスに問い掛ける。
「はあ……」
レグルスはその場に屈み、ため息をついた。ファミラナはびくりと肩を震わせる。
「ご、ごめんね」
「いや、謝ることなんかねえよ。そうじゃなくてさ」
レグルスは顔を俯かせる。
「女の子に守られるとか、俺、かっこわりいなーって」
ファミラナがいなければ、おそらく頭を割られていただろうと思うと、それを恐ろしくも、自分を情けなくも感じる。
「そうだね。ファミラナがいなかったらどうなってたか」
「ファミラナちゃん、ありがとう」
マーブラやキャンディにも労いの言葉をかけられ、ファミラナは頬を真っ赤に染めた。
「いや、あの、私、こういうことしかできないから」
言葉を素直に受け取れないファミラナに、レグルスは笑いかける。
「戦えるってのは、すげーことだろ。自信持てよ」
ファミラナはより一層顔を赤くする。照れ臭さから顔を背けてしまうと、小さく「ありがと……」と呟いた。
「また狼達が来たら面倒だし、さっさと進もう。山に入ったら、簡単には追い掛けて来れないはず」
マーブラが、キャンディの手を引いて歩き出す。早足に進む双子の背中を見て、レグルスは立ち上がる。
「マーブラの言う通りだな」
レグルスはファミラナの肩を叩く。ファミラナはまだ赤みが残る顔でレグルスを振り返り、彼と共に森を歩いて行く。
森はそれほど深くないように見える。木々は密集しているものの、獣道はしっかりと踏み固められている。
動物だけではなくヒトも利用しているのだろう。時折、食料品の外袋と思しき紙片が散らかされていた。だが、そのいずれも随分と古く、朽ちかけていた。
「君たち、夢見の
マーブラが振り返らず問いかける。ぶっきらぼうにも聞こえるその言葉に、レグルスは機嫌を悪くした。
だが、レグルスが言葉を口にする前に、キャンディが振り返りながら弁解する。
「あの、知ってると知らないじゃ大違いなの。あの
キャンディの説明で、レグルスはいくらか冷静になれたようだった。暫く思案する。全く何も知らない状態だと気づいた。
「わりい。全く知らん」
「だろうね。僕らだって全貌はわからない」
マーブラは、レグルスとファミラナを振り返る。少しだけ立ち止まると、歩幅をレグルスに合わせ、並んで歩く。
「
けど、あまりに危険だっていうことで、先代である叔父上達の代でその慣例はなくなった」
「危険……?」
「滑落だよ」
レグルスの問に、キャンディが答える。
「
突然の眠気に対処できず、もしくは氷で滑って山から落ちる。山を転がり落ちると、死体は出てこないか……あるいは……」
ぞっとした。
「嘘だよね?」
ファミラナが震える声で問いかける。しかしキャンディは首を振るだけ。マーブラは覇気のない声でファミラナに言う。
「そんな事態にならないように気をつけようって話。ほら、
マーブラが立ち止まる。どうやら森を抜けたようだ。
レグルスは正面に顔を向ける。そこには見たことがない世界が広がっていた。
目の前には真っ白に染まった山。そこから吹いてくる風は、とてつもなく冷たい。
目の前には、まるで境界線があるかのように、緑と白がはっきりと別れた地面。白いそれを素手で触れてみると、刺すように冷たくまとわりついてくる。
「なんだこれ」
レグルスは、白いそれに触れていた手を引っ込める。あまりの冷たさから手のひらに痛みを感じて、それを振り払うように手を振った。得体の知れないそれに触れた手は、水で濡れていた。
「それが雪。空から落ちる氷屑のことだよ」
キャンディが雪を両手で掬う。雪は彼女の体温で溶けていき、暫くすると水の雫が手から零れた。
「雪って、あの?」
ファミラナは問いかける。雪は、冬が訪れると空から舞い落ちると言われている。だが天気は快晴。空から何か落ちてくる様子はない。雨粒一つさえ気配はなかった。
「まあ、冬なんて来てないから。雪が落ちてくるなんてことないけどね」
マーブラがそう応える。
だとしたら、山を覆う白い大地は、一体何なのか。
「
マーブラの説明に、ファミラナは理解できない。それはレグルスも同じで、首を傾げて山を見つめている。
「ここから先は牡羊の領土だ。大地が眠り、ヒトが眠る。入る覚悟はある?」
マーブラは問いかける。彼としては、入りたくない気持ちが強いのだろう。気だるげな声色だ。
しかし、レグルスもファミラナも、キャンディまでもが、覚悟を持って頷いている。
マーブラはため息をついた。
「仕方ないね。登ろうか」
ポケットの中に入れていた手袋を取り出し、彼自身も覚悟を決める。
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