迷光より出づ(6)
スピカが目を覚ました。
「スピカ! しっかりして!」
アヴィオールはスピカの体を揺らしていた。
時間にして数分のことだろう。最後の
アルデバランが立ち上がる。スピカに近付こうとして、レオナルドがそれを止めた。
アルファルドがスピカに近付き、アヴィオールの隣でスピカの顔を覗き込む。
「スピカ、大丈夫か?」
スピカは、アヴィオールとアルファルドの顔を見比べる。どちらとも不安を顔に浮かべ、スピカの返事を待っている。スピカにはそれが
体を起こし、口元を片手で覆って咳払いする。僅かに血が手のひらに付着する。
「うわ……きたな……」
ぽつりと呟く。
スピカは、先程の体の痛みなどまるでなかったかのように、しっかりと両足で立ち上がる。
「スピカ、無理しないで」
アヴィオールに声をかけられるが、それが
「まだ調子悪い?」
そう問いかけるアヴィオールから、スピカは体を離した。
「気安く触らないで」
刺々しい言葉に、アヴィオールは息を詰まらせた。
「アルデバランは? 何処なの?」
スピカは辺りを見回す。アルデバランはスピカの声に応えるように、レオナルドの静止を無視してスピカに近付いた。
スピカは笑みを浮かべる。その笑顔は何処か寒々しい。
「ありがとう。あなたのおかげよ。
スコーピウスも。助かったわ」
スコーピウスもまたスピカに近付く。彼らはスピカの正面までやって来ると、その場に跪いて頭を垂れた。
あまりに異質なその状況に、その場にいた誰もがぎょっとしていた。アヴィオールも、アルファルドも例外ではない。
「スピカ……いや……」
アヴィオールは問いかける。
「君は、誰……?」
スピカの体を借りたそれは、キトンの裾を持ち上げ腰を落として挨拶する。
「みなさん、初めまして。初代乙女、エウレカと申します。以後お見知り置きを。なんてね」
ケラケラと笑う声は邪悪さを
「スピカ、ふざけている場合じゃないだろう」
しかしアルファルドはそれを信じない。
否、頭ではわかっている。エルアが以前言っていた『頭の中で声がする』という現象。エウレカの名前も聞いていた。
しかし信じたくなかった。
エウレカが中にいるのであれば、スピカは何処に行ってしまったと言うのか。
「スピカ、帰ろう。な?」
アルファルドはスピカの体に手を伸ばす。しかし、その手は払い除けられた。
「スピカの義父があんたとはね。忌々しい」
彼女の顔に浮かぶのは憎しみだろうか。
「だからあの時に言ったんだ……」
レオナルドは拳を握り呟く。アルファルドはそれを聞きたくなくて頭を振った。
「こいつ、タルタロス送りなんでしょ? さっさとやってよ」
スピカの体を借りたエウレカは、アルデバランに声をかける。アルファルドには一瞥もせず、顔を逸らせている。
「キロン」
アルデバランがキロンに声をかけた。キロンは一連の会話を唖然と見ていたが、すぐ我に返るとこう言った。
「番人の賢者、我が名はルクバトーラ・キロン。冥府の鍵を開けし者成」
アルファルドの足元に割れ目が現れる。
床が割れたのではない。それは、時空がねじ曲げられ、こじ開けられた真っ黒な割れ目だ。それはアルファルドを中心に、広間の端から端まで広がる。
それに飲み込まれまいと、賢者も子供達も広間の隅へと逃げる。広間は叫び声で埋め尽くされる。
レオナルドはアヴィオールに駆け寄り、彼の腕を握った。力任せに引っ張り、安全地帯へと連れていこうとする。
「アルフ、まずい! 逃げよう!」
アヴィオールは叫ぶ。しかし、アルファルドは呆然としたまま立ち尽くしている。にっこりと笑い片手を振るスピカを、ただ見ている。
「アルファルド!」
アヴィオールは再び叫び、レオナルドの腕を振りほどく。そしてアルファルドに向かって走り出す。
「アヴィオール! 戻ってこい!」
レオナルドは言うが、アヴィオールは聞かない。アルファルドの腕を掴んで引っ張るが、アルファルドは動かない。
「このままだと死ぬよ! 早く逃げろ!」
アヴィオールの怒鳴り声に、アルファルドは反応を見せない。茫然自失としていた。
ガパッと裂け目が広がった。中から黒い闇が溢れてくる。それは物質という物質を吸い込んで飲み込む。
足場が急速に崩れていき、アヴィオールは立っていられない。
その時見たスピカの目は、アヴィオールを
「スピカ、なんで……」
思わず出た言葉は、誰にも聞こえない。
裂け目の中へと、二人が落ちる。アヴィオールは驚愕を、アルファルドは絶望を顔に浮かべ、深い深い闇の底へと。
二人を飲み込んだ地獄への穴は、役目を終えると閉じていく。そして口をぴったり閉じると、何事もなかったかのように消え去った。
エウレカはそれを見て、片手で口を覆ってみせる。
「あらら。アヴィオールくんまで送っちゃった」
しかし慌てた様子はなく、まるで他人事であった。
「まあ、私が望むのはこの世界の破滅なわけで。人間が一人消えようが何しようが変わらないわけだけど」
レグルスは肩を怒らせ、エウレカへと近付いていく。エウレカの肩を掴むと、強く揺さぶりながら怒鳴る。
「スピカ! 何言ってんだよ、お前!」
「だから、私はエウレカなの。言葉通じないの?」
「意味わかんねえ。ふざけんなよ!」
エウレカをスピカと信じて疑わないレグルスは、なおもエウレカを揺さぶり、両手に力を入れる。
「レグルス!」
レオナルドが声をあげ、レグルスの襟元を掴み引っ張った。レグルスの体がエウレカから離れる。その瞬間、レグルスの目の前で雷が落ちた。
「ありがと、アルデバラン」
エウレカはアルデバランを振り返る。アルデバランはエウレカの前に立ち、レグルスとレオナルドを睨みつけた。
「痛かったわ。だから男の人って嫌いよ」
「後で蛇使いに診させましょう」
「平気よ。掴まれただけだもの」
レオナルドはエウレカを見据えた。見た目はスピカそのものだが、纏う空気が全く違う。今の彼女には、近寄り難い刺々しさがあった。深く息を吸い込み、吐き捨てるように問いかける。
「お前が闇をもたらす者か?」
エウレカはきょとんとした。その表情は年相応の少女とも見えるものである。
「ああ、カオスのことね」
「カオスと言うのか、あれは。お前は何のためにカオスをもたらす……」
レオナルドの言葉が途中で途切れる。広間中にパンパイプの音色が響いたからだ。レオナルドの頭の中には、耐え難い程の恐怖と絶望感が湧き出てきて、立つこともできずくずおれる。
それは他の賢者達も同じで、皆呻きながら頭を抱えていた。エウレカが率いるアルデバランとスコーピウスを除いて。
このような術を使えるのはただ一人。
「みんなさ、僕を忘れないで欲しいよね」
「なんかさ、スコーピウスに言われたからやったけど、これでいいんだよね?」
「ああ、上出来だ。ありがとう」
スコーピウスはアルゲディに手を差し出す。アルゲディはそれを見て、しかしため息つきながら目を逸らし、エウレカの正面に跪いた。
「おはよう、お姫様」
「あら、知らない子ね。だあれ?」
「自己紹介は後にしようよ。それよりさ、踊らないの? 今なら伴奏つけられるよ?」
アルゲディの誘いに、エウレカはくすりと笑う。さも楽しげに。
「そうね。お願いしようかしら」
エウレカはくるりと回る。それを合図に、アルゲディは後ろに下がり、パンパイプを吹き始める。
くるり、くるりと、キトンの裾を翻し、エウレカは踊る。振り積もった光の粒は、エウレカの踊りに合わせて舞い上がる。光に包まれ、穏やかな笑みを浮かべる彼女は神々しく、神のようであった。
「なん、だ、これ」
レグルスは膝をつき、頭を抱える。恐慌に陥りながら、ドラッグを浴びたかのような快楽に包まれ、混乱してしまう。これは、ヒトが処理しきれる感情ではない。快楽の渦に囚われて狂ってしまいそうだ。
『レグルス君、前を』
ファミラナのテレパシーが聞こえる。彼女も精神を掻き乱されているのだろう。テレパシーのノイズは荒く、途切れ途切れだ。しかし、辛うじて認識できた単語を拾い、レグルスは顔を上げる。
エウレカを中心に、光の粒子が舞う。スピカの体を使っているというのに、彼女は晴れやかな顔で光を全身に浴びている。
それより驚愕したのは、彼女の足元。彼女が回る度に、足元の床から色が抜けていく。
それだけではない。
光は次第に黒ずみ、崩壊するかのように消えていく。ガラス天井の向こうでは、星が一つ、また一つと消えていく。
雲が、木々が、崩壊していく。
黒に塗りつぶされていく。
「これが、カオス……?」
レグルスは呟いた。何かまずいことが起こり始めた。そう思った。
「それ以上好きにはさせん」
アルヘナの、苦し紛れの声が聞こえた。次の瞬間、フルートの二重演奏が辺りに響き渡る。
光はアルヘナとワサトに集まる。彼らがフルートを奏れば奏でる程、恐慌も高揚感も消えていく。精神が安定していく。
エウレカは面白くなさそうに舌打ちする。そして更に回る速度を上げていく。
「なんかよくわかんないけどさ、いい加減にしろよ」
マーブラの声が聞こえた。
もう一対のフルートが、重ねて奏でられる。マーブラとキャンディも、大賢人に合わせて輝術封じの曲を奏でる。
エウレカは踊りをやめた。キトンがふわりと静止する。
「あーあー、やめたー」
エウレカは、幼子のように頬を膨らませる。そしてふいっと顔を逸らせた。
「あんた、一体どういうことよ」
ロディが頭を押さえながら問いかける。随分と混乱し、加えて先の輝術で頭はダメージを受けているようだ。
「さっきとは別人じゃない。あんた、何者なの?」
エウレカはその問いに答えない。
次の瞬間、広間の扉が開けられた。中に入ってくるのは、黒い衣装に身を包んだワーウルフ達。彼らは賢者に近付くと、力づくで手錠をかけていく。
アルゲディとキロンは除外されたが、広間に集ったほぼ全てが、ワーウルフに捕えられる。
「お前ら、狼の一族か!」
アモルが叫ぶ。しかし、ワーウルフは誰も何も言わない。
「ご苦労。それぞれの宮に閉じ込めておけ。一切外に出すな」
アルデバランはワーウルフに指示を出す。アモルはアルデバランを睨みつけた。
「狼の一族を率いているのはお前か、アルデバラン」
アルデバランは何も答えない。
そこへレグルスの声が飛ぶ。
「おい、アルデバラン! 何なんだこれは! ちゃんと説明しろよ!」
レグルスもファミラナも例外なく、ワーウルフに捕われている。レグルスは答えを求めるが、それに対する返事はない。
「連れて行け」
アルデバランの一言に、ワーウルフ達は敬礼した。
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