観測できぬテラヘルツ(4)
馬車は跳ね橋を渡り、蛇使いの宮へと続く遊歩道を進む。馬車の中は空気が重く、誰も声を出そうとしない。
アルファルドの裁判は、最悪の結果となってしまった。地獄と伝えられるタルタロスへの追放は、どんな処刑よりも重いものだ。
「死刑宣告の翌日に死刑とか、ふざけてるよ」
たまらずアヴィオールは呟く。皆その意見には同意したいが、言葉を発するだけの気力がない。
スピカは泣き疲れ、最早涙が枯れてしまっている。彼女の目は真っ赤に腫れ、髪は乱れていた。顔色は真っ青。死んだ魚のような目で、ぼんやりと床を見つめている。
「僕、ディクテオンさんに抗議しに行く」
「やめた方がいい」
アヴィオールの提案はグリードに止められる。
「君のような子供、潰すのは容易い。彼は大賢人だ」
「でもさ、納得できないよ。上告も
「大賢人への抗議は、大賢人がすべきだ。ですね、叔父上」
グリードはサビクを横目で見る。サビクは頷くが、返事ができない。声の出し方を忘れたかのように口を動かす。アルデバランに抗議するなど、小心者の彼には覚悟を要するものだったからだ。
「大賢人への抗議は、大賢人がすべき」
スピカは呟く。
「スピカはとにかく休んで」
アヴィオールがスピカに声をかけるが、スピカは上の空だ。
やがて馬車は跳ね橋を渡り、宮殿の敷地内へと入る。蛇使いの宮を目指して、二頭の馬は駆け足をする。
「私、ここで降りるわ」
唐突にスピカが言う。そして、馬車が停車していないにも関わらず、ドアを開けて身を乗り出した。
「何やってるんだよ!」
アヴィオールは咄嗟に手を伸ばし、スピカの片腕を掴んだ。スピカはアヴィオールの顔を振り返る。
「急に降りるだなんて、何考えてるの」
スピカは、誰に言うでもなく呟いた。
「牡牛の宮に行かなきゃ」
アヴィオールはスピカの手をぐいと引っ張って、彼女を馬車の中に引き込む。ドアが閉じられると、スピカは大人しく両手を膝に乗せた。
「牡牛の宮へ行ってどうする?」
グリードの問いに、スピカは答えない。
「君が抗議でもするつもりか?」
「だって」
「君は賢者ではないのだぞ。いくら娘とはいえ、ディクテオン殿が聞くと思えん」
スピカはスカートの裾を強く握る。
「グリード、言い過ぎだ」
サビクの静かな叱りに、グリードは唸って黙り込む。
確かにそうだと、スピカは思った。乙女の末裔という立場ではあるものの、今はまだ賢者ではない。
今は。
「やっぱり私、ここで降ります」
スピカの主張に、グリードはため息をつく。
「わからないのか」
「わかってます」
グリードはスピカの返事がどういう意味なのか理解できない。だが、アヴィオールは理解したようだった。
「早まっちゃ駄目だよ、スピカ」
「結局やらなきゃいけないことなの。それが早まるだけよ」
「それは君の意志なの?」
スピカは迷いながら頷く。自分の意志だとは言えない。だが、自分の存在を切り札として使わなければ、状況をひっくり返せる気がしない。
「そもそも、それでアルフが助かる見込みはある?」
「わからない」
「特例使われたら?」
「わからない」
「僕は嫌だ」
「だったらどうしろって言うの!」
たまらず叫ぶ。
「私にできることはこれしかない! 賭けるしかないの!」
今度こそスピカは、馬車のドアを開けて飛び降りた。
「スピカ!」
アヴィオールは手を伸ばす。しかし掴めない。咄嗟に白鳩を飛ばし、スピカを守護する。
一瞬の目眩。スピカの体はふわりと羽根のように地面に落ちる。白鳩はすぐに光となって消える。
馬車はすぐには止まれない。アヴィオールの「止めて!」という大声が後ろで聞こえる。
追い掛けてこないうちに、スピカは走り出した。自分を呼ぶ声が背中に突き刺さるが、構っていられなかった。
遊歩道を暫く走り、茂みの中へ飛び込む。ハーブのツンとした香りが鼻を抜け、その青臭さにむせ返る。自分の体にまとわりつく葉に構わず、スピカは牡牛の宮へと向かって走る。
昨日通った宮だ。道は覚えている。このまま茂みを通り抜ければ辿り着くはずだ。しかし、宮に着いたとしても、入れてくれるかどうかはわからなかった。
昨日、アルデバランに反抗したことを思い出す。許してくれるだろうか。話を聞いてくれるだろうか。不安ばかりが膨らんで、肺を圧迫してくるようだ。息が上手くできない。枯らしたと思っていた涙が再び溢れる。
やがて足が痛み始め、走っていたはずの足は駆け足に、そして覚束無い早足になる。その頃には牡牛の宮が眼前に見えていた。
門を潜り、庭を横切り、宮の扉に手を伸ばす。激しい息を整えながら、扉に両手をついて寄りかかる。暫く深呼吸して、取り付けられたリング状のドアノッカーを右手で握ると、二回軽く扉にぶつけた。
スピカにとっては随分と長い時間であったが、実際には数分のことだろう。暫く待っていると、ゆっくりと扉が開けられた。
「お入りください」
執事がスピカに声をかける。スピカは牡牛の宮の内部に足を踏み入れた。
中は乙女の宮と差程変わらない。だだっ広いホールがあり、二階へ続く階段がある。左右と奥には、他の部屋へと続く廊下。ただ、照明は少ないように見える。
「ああ、スピカ。いらっしゃい」
アルデバランは、やはり既に帰宅していた。執事の隣に立って、スピカを笑顔で見下ろしている。
「昨日はあんなこと言ってたのに、気まぐれだね」
嫌味ったらしいとスピカは思う。彼が父親らしくないのは、子供のような意地悪さが原因なのだろうと。
しかし、その反抗心は喉奥に飲み込んだ。そんなことを話に来たのではない。
「アルフについて話しに来ました」
スピカは言う。心臓が破裂しそうなほどにうるさい。それを悟られまいと、口の中を噛んで無表情を徹する。
「今からティータイムなんだけど、一緒にどうかな?」
「聞いてください!」
スピカの悲痛な声に、アルデバランは表情を無くす。
「だから話し合いの場を設けるんだ。私は拒否することもできる」
寒々しい程に冷たい声。スピカは肩を震わせた。
「どうする?」
アルデバランは笑顔を貼り付け、スピカに再度問いかける。スピカは頷くしかなかった。
アルデバランはスピカに手を差し出す。スピカは、その手を取るか取るまいか悩んだ。
「付き合ってくれるならそれでいいよ」
アルデバランは手を引っ込め、後ろを振り返り廊下に向かって歩き出す。スピカは、大股の彼について行くために早足に歩き出した。
靴音が響く廊下には、ブラケットライトが取り付けられてはいたが、やや薄暗い。静かな廊下には、二分の靴音しか聞こえない。いつくか扉があるうちの一つ、一番奥にあったそれを、アルデバランは開く。
そこは客室のようだ。部屋の中央に丸テーブルが一つ、それを挟むように設置された一人掛けのソファが二つ。窓際にはセミダブルの天蓋付きベッドが置かれている。
ベッドの傍には、トルソーに着せられたキトンが置かれていた。生地は真っ白、裾には金の糸で刺繍が施されている。隣には楕円形の姿見もあった。
「座って」
アルデバランは中に入り、椅子を引いてスピカに声をかける。スピカは言われるまま椅子に腰掛けた。
数分もしないうちに、メイドがワゴンを押して部屋に入る。ナッツパイを二人分並べ、紅茶をティーカップに注ぎ、それが終わるとメイドはそそくさと部屋を後にした。
アルデバランはティーカップを口に運ぶ。スピカは彼の顔を
「交渉しに来たんだろう?」
言い当てられ、スピカはただ口を開閉する。言いたいことは頭の中に纏めてきたはずだが、調子を崩されてしまったために、想定していた順序が頭から抜け落ちてしまった。
「スピカはその行為に、一人の命と同じだけの価値を見出しているのかい?」
わからない。しかし、自分に出せるものはこれしか残っていない。
「それに、そもそも君は、時期乙女の大賢人だ。誰かの命がかかっていようがいまいが、しない選択は有り得ない」
「でも、私がいつまでも覚悟を決めないから、こうなったんですよね」
スピカは問う。アルデバランは言葉を返さない。
「ただ、聞かせてください。特例を使ったら、私は死んでしまうのではないですか? 私が耐えられるとは思えません」
スピカの
「それは心配しなくてもいい。死にはしない」
「でも、カルキノスさんは私に危険が近づいていると言いました」
「それは、ある意味ではそうかもね。でも、死ぬというよりは、そうだな。生まれ変わるようなものだ」
彼の言い方が気になるが、死なないと聞くと少しばかり
「君は、アルファルドのことが好きなんだね」
「当然です」
スピカは迷いなく頷く。
「私を育ててくれたのはアルフです。何か見返りを求められたこともなく、ただ私を無条件で愛してくれています。私は、私のお父さんに死んで欲しくない」
実父に対してそう語るのは、失敗だったかもしれない。アルデバランの目には感情がない。スピカに冷たい視線を向けていた。
だが、交渉すると決めた時点で、アルデバランとは親子になれないと割り切ったのだ。自分の父は、アルファルド一人だけだ。
スピカは涙ながらに言う。
「私、乙女を継ぎます。特例だって何だって受けます。だから、アルフを殺さないでください」
椅子に座ったまま深く頭を下げる。鼻は膝とくっつきそうなくらいだ。そのまま一分、二分と時間が流れる。
「仕方ないね。一旦考えよう」
スピカは顔を上げる。
「君には本当に手を焼かされる」
アルデバランは、スピカに鍵束を見せつける。何を言いたいのかは、容易に理解できた。彼の顔は、先程の会話からは考えられない程の清々しい笑顔。這い寄るような寒気に、スピカはぶるりと震える。
「今日の夜に継承の儀を行おうか。早い方がいいだろうしね」
そう言って、アルデバランは客室を後にし、扉に外鍵をかける。
スピカは、ただ一人客室に閉じ込められた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます