惑い廻る君と僕(3)
『お帰りなさい』
暗い視界の中、声が響く。
スピカは何か言おうとするが、言葉は闇に吸い込まれ聞こえない。
『あなたの帰りを待ってたのよ』
声は相変わらず暗闇に響く。それは、鍵の暗証番号を教えてくれた、あの声だ。おそらく女性だろう。自分と同世代くらいだろうかとスピカは考える。
『二度と見つけられないと思ってた。あいつらが邪魔するから……でも、もう見失わない』
女性の声は軽やかに笑う。
暫くするとその声は聞こえなくなった。代わりに誰かの寝息が耳に入る。
スピカは目を開けた。視界に入るのは白い天井と金のブラケットライト。自分の体は柔らかなベッドに横たわっているようだ。
顔を動かすと、椅子に座りベッドに突っ伏したアヴィオールの頭があった。聞こえていた寝息は彼のもののようだ。肩は小さく上下し、長い三つ編みがゆっくり揺れる。
周りを見回す。まるで童話で読んだ城の中。部屋の内装はどれもこれも品があり豪華であった。
猫足のベッドには真っ白なリネン。椅子も机も猫足で、白の塗装と金の縁取り。ダマスク織のカーペットは手入れが行き届いているようで、埃一つさえ落ちていない。
ふと窓の外を見ると、既に夜になっていた。しかしそれよりも驚いたのが……
「湖に夜空が映って……って、湖?」
外には湖。遠くにはアズテリスモス神殿がライトアップされている。
位置関係を考えると。
「宮殿の中?」
まさかと思い頭を振る。
蝶番が軋む音がして、音の方向へと顔を動かす。部屋の扉を開けたのは見知らぬ男性。否、顔だけは見た覚えがある。
スピカは思い出す。湖に落ちる寸前、自分達を叱るように迫ってきたスキンヘッドの男性だった。彼は水が張った銀色のボウルを抱え、その中には一枚のタオルを入れている。スピカの看病をしようとしたのだろうが、目を覚ましている彼女を見ると安堵を顔に浮かべた。
「目を覚ましたか」
神殿で会った時とはうって変わって穏やかな男性の言葉に、スピカは頷く。男性は机にボウルを乗せると、椅子をベッドまで引き寄せてアヴィオールの隣に並べる。そこに座ると、スピカの顔を見つめた。
「痛むところはないか?」
男性に礼を言うと、彼は首を振る。何処か悔しそうだ。
「
どうやら男性は、自分の輝術に絶対の自信を持っているようだ。聞く限り、癒しの術だろうか。
しかしスピカには、どれだけ優れた術であっても意味を成さない。それどころか体調が悪化しかねない。それを
「輝術……?」
スピカは呟き、はたと気付いた。
「あなた、賢者……?」
「おお、名乗るのが遅れてしまったな!」
彼は眉を吊り上げ、自信に満ちあふれた顔で胸に片手を添える。浮かべた笑顔は、友好的であり、同時に不敵にも見える。
「13の大賢人の内、癒しの賢者の見習いだ。我が名はグリード・アスクラピア」
スピカは目を大きく丸く見開いた。大賢人で癒しの術を持つ者。蛇使いの大賢人だと名乗ったも同然だった。
「まさか……神話時代は軍医だったっていう蛇使いの一族の……」
「先程そのように名乗った筈……しかし、
開いた口がふさがらないとは正にこのことだ。ということは。
「ふああ……おはよ……」
気の抜けた声がスピカの思考を遮った。アヴィオールが目を覚ましたのだ。彼は体を起こすと両拳を突き上げて背筋を伸ばす。少しの間スピカを見てぼんやりとしていたが、グリードが隣に座っていることに気付くと、肩を跳ねさせて驚いた。
「お、はよう、ございます」
「驚かなくても良い」
アヴィオールはたじたじで、グリードの顔を正面から見られない。目を泳がせていると、グリードは眉間にしわを寄せた。彫りの深さもあり、彼の表情に迫力が増す。
「
純粋な心配からの提案であったが、アヴィオールにはそう聞こえなかったようだ。裏返りそうな声を押さえながら、空笑いを含ませて返答する。
「スピカが心配で……つい。はは、は」
グリードはアヴィオールが緊張していることには気付いていない。きょとんとしてしまうが、端から見れば不機嫌そうにも受け取れる。
アヴィオールは頬を掻き、シーツを握る自分の左手を見る。
大賢人の前だということも要因の一つだが、ここまで緊張しているのは無断で神殿に入ったせいだ。
アヴィオールの緊張を膨らませるかのように、グリードは彼らに問い掛ける。
「して、改めて
スピカとアヴィオールは顔を見合わせる。
先程話してみた限りでは、グリードと名乗る彼は真面目そうである。果たして自分達の考えをまともに聞いてくれるか、いささか疑問であった。
しかし、理由を言わないというのも失礼だろう。
話し始めたのはスピカの方からだ。
「私、体質に問題があって……私、輝術を受け付けない体なんです。輝術を受けると体調を崩してしまって……
鷲の賢者様に相談したら、首都に行けばいいと言われて。宮殿に助けを求めればいいのですかと訊いたら、否定されなかったので……」
彼女が話している間にも、グリードの顔は険しくなっていく。やはり話すべきではなかったか。スピカは身を縮こませた。
しかし、グリードから返ってきた言葉は意外なものであった。
「ファミラナが言っていた子達か?」
スピカは顔を上げて目を丸める。続いてアヴィオールも。ファミラナの名前が出てきたことが想定外で、返事ができずにいた。だがグリードは「ふむ」と顎を擦りながら思案して言う。
「今朝、ファミラナが電話で
状況が全く読めず、スピカは首を傾げた。
「ぐ、グリード君……ちゃんと説明してあげないと駄目じゃないか?」
グリードは扉を振り返る。続いて、スピカ、アヴィオールも。
扉に体の半分を隠しながら部屋を覗く中年男性の姿があった。ひょろりと細い紫の髪をした彼は、頼りない笑みでグリードを見る。
「叔父上、出てきたらどうだ」
「ああ、そうだね。そうだ」
ひょろりとした彼は、扉の影から出て来てへらりと笑う。
「癒しの賢者、サビク・アスクラピアさ。以後よろしく」
グリードと違って、彼は他人と話すことが上手くないようだ。おどおどと頼りない口調の彼は、首元に蛇を巻き付けていて、いかにも蛇使いという出で立ちである。
「僕ら蛇使いの一族は、五代前の賢者の時代から関係があってね。有事の際には互いに手助けをする約束をしているのさ」
サビクと名乗った彼は、ヘラヘラと力ない笑いをしながらそう説明した。首に巻いた蛇も、聞こえるはずがないサビクの言葉に頷いている。
じゃあ、とスピカは呟いた。
「ファミラナはもう、私達が宮殿に向かったこと、知っているんでしょうか?」
グリードはスピカの考えに頷く。
「宮殿を訪ねたいのに貴殿のお義父上が許してくれぬとも聞いている」
グリードの側にサビクが近寄る。彼は一冊の本を持っていた。それは、レグルスから借りた導書によく似ている。しかし違うのは、それには南京錠がつけられておらず、また表紙に「医学書」と書かれていたこと。
グリードはサビクのために椅子から立ち上がるが、サビクは首を振った。グリードは再び椅子に座り直す。
サビクはスピカの膝の上に医学書を置いた。反射的に背を反らすスピカ。獅子の導書と同様に光が溢れ出ることを警戒したのだ。しかし、サビクが本を開いても光は溢れてこない。
これは導書とは違うのだろうか。
「これは輝術の媒体であると同時に、私達蛇使いの一族にとっては医学書でもあるんだ」
医学書には少女の裸体が大の字の格好で描かれている。それには注釈として各部位の名称と小難しい説明が書いてある。
女性の脳は月の満ち欠けによって感情のリズムが変わるだとか、肌の
サビクは右の人差し指で医学書の一文に触れる。精神の働きを書いた文章だ。それには、一般人であった場合のことが書いてあったが、サビクが指を滑らせると、光が溢れ宙に
「だからスピカは輝術を受け付けない体だから……!」
サビクはスピカの顔を見つめ、ぎこちなく微笑む。お世辞にも良い笑顔とは言えないが、信用するには十分なほどの誠意が感じられた。
「スピカ、君は輝術を受け付けない体だったね。それを治す方法が知りたくて、ここに来たと」
スピカは頷く。話がスムーズに進むのは、おそらくファミラナがそこまで説明をしてくれているからだろう。いつの間にと思うが、それは口に出さないでおく。
サビクは宙に浮かぶ文字を読み上げる。それは一般人ではなく、賢者の子供について書かれていた。
『賢者の子は、強き星の輝きをその身に受けて生まれる。その力が身に余る場合、他者の術を受けることで体が異常な反応を見せるようだ。それを仮に発作と呼ぶことにしよう』
スピカは体の怠さを堪えて文字を目で辿る。これは自分の発作に完全に一致する。そう思うと目が離せない。
『この発作は、特定の一族にしか発症しない。発作の原因は突き止められておらず、また根治は難しい。
緩和の方法は以下の通りである』
サビクの説明をそこまで聞いたところで、スピカの体は限界を迎えたようだ。酷い
「グリード君、石榴水を持ってきてくれるかな? 濃いめで」
「了解した」
グリードは立ち上がるが、スピカは首を振る。そして、ベッド下にあるリュックサックを指差した。スピカは石榴水を携帯していたのだ。
アヴィオールはスピカの指が差すものが何かわかったようで、小走りにリュックサックを取りに行く。それを開けてタンブラーを取り出すと、蓋を開けてスピカに渡した。スピカは礼を言う余裕もなく、石榴水をあおった。一口目が食道を抜けると、
サビクはスピカの様子に首を捻る。そして、タンブラーの中にある紫の水を覗くと、息を飲んで呟くように問いかけた。
「石榴水……? 何故石榴水が効くと知っていたんだい?」
サビクは眉を寄せる。驚きを圧し殺すような、いぶかしむような、疑いを孕んだ瞳だ。しかしスピカにはそれを気にする余裕はなく、大きく息をしながら呟く。
「義父が……私が調子を崩す度に作ってくれていたものですから……」
「君のお義父上がかい?」
スピカはまともに働かない頭で、彼から不審がられている理由を考える。しかしきっと、頭の回転が普段通りであったとしても、その理由などわかりはしないだろう。
しかし、サビクの言葉によって、それは明らかにされた。
「その石榴水はね、輝術によって精神を
その説明に、スピカは
そのような秘薬をアルファルドが偶然作れたとは考えにくい。
アルファルドは海蛇の賢者。否、賢者であることを拒否したと語っていた。つまり外れ者だ。
また、サビク自らが門外不出の秘薬だと語ったのだ。外部に漏らしている可能性は考えにくい。
「スピカ、君のお義父上は何者だい?」
スピカは首を振る。
彼は自分の義父であり、しがない時計屋、そうであったはずだ。だが今まで、スピカにも明かしていない別の顔があったことを最近知った。もしかしたらそれは彼のほんの一部分でしかなく、まだ何かを隠しているのではないか。
サビクはスピカの手を握る。そして決定的とも言える一言を放った。
「蛇使いの医師として言おう。君は賢者になりきれていない賢者だ。君の症状を見る限り、それ以外に考えられない」
きっと以前の彼女であれば黄色い声をあげて喜んで友人と抱き合っただろう。しかし、不信感と不安感に苛まれた今の彼女は、喜ぶどころか困惑してしまっていた。
信じていた義父に裏切られた。家出してからずっと思っていたはず。しかしそれが眼前に突き出されると、どうしようもなく苦しかった。
「叔父上」
グリードがサビクに声をかける。ドアの向こうを顎でしゃくる。サビクは頷いて立ち上がった。
スピカはうつ向いたまま押し黙っている。アヴィオールがそれを心配して、背中を擦った。
二人が気付かぬうちに、グリードとサビクは部屋を出た。扉を閉めて、廊下で何かを相談している。しかしスピカはそれに気付くことなく、言葉にならない暗い感情をただ喉奥に押し込んでいるだけだ。
アヴィオールはベッドに腰掛けてスピカの肩を抱く。そして肩にスピカの頭をもたれさせて、ゆっくりと舟を漕ぐような速度で体を揺らした。
「僕がいるよ。安心して」
静かに声をかける。
「僕が側にいる。頼りにしていいんだよ」
スピカは顔を上げる。おずおずとアヴィオールの顔を見上げると口角を上げた。しかし笑えていない。ぎこちなく頬を動かしているだけだ。
そんな彼女が痛々しい。
「無理に笑う必要なんてないよ。色んなことが起こりすぎて、僕も君もついて行けないんだから。
でもこれで、確実に前に進めた。今はそれでいいんじゃないかな」
アヴィオールの言葉が、スピカの胸に染み入った。途端に目から涙が溢れ出る。悲しいわけではなく、当然嬉しいわけでもなく。ただ感情が整理しきれず、涙が勝手に溢れてきてしまっているのだ。スピカはそれを拭うことなく、ただ黙って呆けていた。
アヴィオールはスピカの頭に自分の頭をコツンとくっつける。彼女の苦しみを全て引き受けたいのに、それができない自分が歯痒い。できるのは共感することだけだった。
「ねえ、アヴィ」
スピカが呟く。
「なあに、スピカ」
アヴィオールは尋ねる。
スピカは泣き続けながら、アヴィオールにか細く問い掛ける。
「私って、誰なのかしら」
アヴィオールは笑顔を作って、スピカの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
「スピカはスピカだよ。君が賢者であってもなくても、それは変わらない」
慎重に丁寧に言葉を紡ぐ。これが最善の答えかどうかはわからないが、アヴィオールの素直な気持ちであることは確かであった。
スピカは頷き、シーツを握りしめる。しわがついたそれには、点々と涙の染みがついて広がる。
「失礼。スピカ、提案があるのだが」
扉が開き、グリードが部屋に入りながら声をかけてきた。スピカが泣いていることには気付いたようだが、それには触れず彼女に近付き椅子に座る。あえてそうしたのかはわからないが、スピカにはありがたかった。
グリードは足を肩幅に開き膝に手をつく。前のめりになってスピカの顔を覗き込むと、
「貴殿は今混乱の最中だ。どうだろう、落ち着くまで宮殿で暫く過ごすというのは」
グリードの提案にスピカは驚き、その拍子に涙が止まってしまった。何を言われているのか、理解するまでに少々時間を要したが、次第にスピカは慌て始める。
宮殿で過ごすなど、考えてもいなかった。話を聞いたらすぐ帰宅するつもりであったのだ。接触できるかもとは考えたが、宮殿内部に留まることができるなんて。
「勿論、アヴィオール。
「え? いや……え?」
アヴィオールもまた、突飛な話に慌てふためいた。家族や学校へどう連絡すべきか迷う。だがグリードはその辺りのフォローも考えていたようだ。
「今、叔父上よりアヴィオールのご両親へ連絡をしているところだ。学校の電話番号がわかれば、そちらにも連絡をしておくが、どうだ?」
なるべく学校は休みたくないと思いながらも、明日の朝までに帰宅できる見込みもない。それに、スピカをこのまま放っておけないとも思った。
乗り掛かった船だ。せめてスピカのルーツがわかるまで、彼女と共に行動しようじゃないか。
「スピカ、グリードさんとサビクさんを信用してみようよ」
「信用……」
アヴィオールは頷く。
「スピカの力になってくれようとしてるんだし。確かに今の僕達は、急に入った情報で混乱してる。ゆっくり休む時間が必要だよ」
スピカは暫く黙り込む。混乱しているのは事実。一度冷静に情報を整理するべきかもしれないと、そう考えた。そしてそのためには、アルファルドの存在は障害になりかねない。なら、彼の邪魔が入らない
「決まりだな」
スピカは拒否しなかった。グリードはそれを好意的な態度と受け取ったようだ。穏やかな笑みを浮かべて頷く。
話はまとまった。これから暫く、二人は宮殿で過ごすことになるのだ。今は実感もなくただ言葉を受け入れるだけだが。
まるでタイミングを見計らったように、部屋の中へメイドが二人入ってくる。彼女らはそれぞれワゴンを押している。そこに乗っているのは、どうやら夕食のようだ。
真っ白な磁器に乗っているのは馴染みのある料理達。羊肉の蒸し焼きに、ロールパン、青菜野菜とオリーブのサラダ。飲み物には水とコーヒーが用意されていた。そして、片方のワゴンにベルが置かれる。使用人を呼ぶ時に使えということだろう。
メイド達が下がると同時に、グリードは立ち上がる。
「ゆっくり休め。といっても、朝からずっと寝ていたのでは、目が冴えているだろうがな」
グリードはそれだけ言うと部屋を後にした。
二人はベッドに座ったまま呆けていた。首都に来てから今まで、心が休まっていない気がしていた。精神的な疲れでため息を吐き出したくなるが、それは飲み込んでなかったことにする。
アヴィオールは、不安を吹き飛ばすかのように声をあげた。
「冷めないうちに食べちゃおう! すっごく美味しそうだよ」
スピカは「そうね」と呟いて、笑顔を作った。
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