惑い廻る君と僕(2)

 ようやく朝日が昇る。眠気に負けそうな瞼を無理矢理開いているが、足取りはフラフラとしている。そんなスピカとアヴィオールは、我慢することなく大きく口を開けて欠伸あくびをしていた。

 朝日はまだ東の空に顔を出したばかりで、町にはうっすらと靄がかかっている。冷えた空気に体を小さく震わせながら、スピカはくしゃみした。


「流石にきついね……」


 寝床が確保できなければ寝なければいい。そう言い出したのはアヴィオールだが、それがかなり無茶だったと気付き後悔していた。昨日の疲れが体に蓄積しているようで、眠気も辛いが、体の怠さも辛かった。



「神殿、行ってみる?」


 アヴィオールの提案に、スピカは頷きたかった。だが、時間を考えると厳しいのではないかと不安がよぎる。

 

「まだ五時よ? あんまり早くないかしら」


 スピカは旅行雑誌を開き、宮殿近くにある神殿とその広場のページに目を通す。アヴィオールはスピカの袖を軽く引いて、近くのベンチに座らせる。

 座るだけで意識が薄れそうだ。アヴィオールはミント味のガムを一枚口に入れる。


「宮殿の側にある、アズテリスモス神殿の開園が八時から。まだ二時間も時間が……」


「三時間だよ」


「そうね。四時間……あれ? 三時間?」


 まともに計算すらできない。それが妙におかしくて、二人は大笑いし始めた。普段であれば、このようなくだらないことで笑いはしないだろうに。今の二人はすっかり疲れきっている。

 スピカは笑いながらも、人通りがない時間帯でよかったと心底思った。誰かに見られていたら、きっと異常だと思われただろうと。

 笑いがおさまる頃には、二人とも息切れしてしまっていた。スピカは大きく息を吐き出して呼吸を落ち着かせると呟いた。


「やっぱり、行ってみようかしら」


 アヴィオールは口を動かしながら首を傾げる。どうやらアヴィオールには意味が通じていないらしい。彼の頭の鈍さに苦笑しながら、スピカはもう一度言う。


「やっぱりアヴィの言う通り、神殿に行ってみようかしら?」


「行くの? まだ早いよ?」


 先程とは意見が逆転している状況に、スピカは呆れてしまう。

 二人とも限界なのだ。今すぐ柔らかなベッドに飛び込んで眠りにつきたいくらいに。だが、今の状況では難しい。

 せめてクラウディオスに来た目的は達成したい。そのためには、宮殿に行く必要があった。


「体を動かしてれば眠気も誤魔化ごまかせるわ。ほら立って」


「あ、うん。そうだね」


 二人は腰を上げ、それぞれ鞄を担ぎ直す。スピカが欠伸をすると、アヴィオールはミントガムを差し出した。スピカは受け取り、包装を剥いで口に入れる。メンソールの爽快さと舌に感じる刺激に、少しだけ思考が回復する。

 スピカはアヴィオールの手を握り、再び歩き出した。空いた方の手には地図を持ち、それを眺めながら。


「今何処にいるのかしら」


「誰が?」


「私達よ」


 アヴィオールもまた地図を覗き込む。そして周りの建物に目を向けた。

 石造りのセンター街、まだ朝靄に包まれているここは、人通りがまばらであった。並ぶ建物はどれも似たり寄ったりで、一見特徴がないように見える。その中で、大きな百貨店を見つけた。地図にも大きく載っているその店は、かなり有名な店らしい。


「センター街のちょうど真ん中くらいだよ。ほら、この店、あの建物だし」


「ほんとね。なら、神殿まであと少しなのね。真っ直ぐ行ったら着くじゃない」


 スピカは道の先を見つめる。遠くに高く長い石壁とゲートが見えた。おそらく神殿の入り口だろう。

 日はどんどん昇ってくる。まるで道を真っ直ぐ切り開くように、陽光が東……神殿のゲートの向こうから大通りを照らした。誘われているかのような神秘的な光景に、スピカは高揚した。


賢神様けんじんさまが導いてくれてるみたいね」


「なんかすごい」


 二人の足は次第に速くなる。そのうち、眠気など忘れて走り出していた。大通りに二人の足音が響く。導かれるように、惹かれるように。

 やがて神殿の入り口、ゲートに辿り着く。

 旅行雑誌には、クラウディオスの中央に位置していると書かれていた。確かに、この神殿こそ国の中心と意識させられてしまう。

 そのゲートはあまりに巨大だ。成人男性が手を上げても届かないくらいの高さのそれは石造りのアーチになっており、黄金色をした両開きの門がそこにはまっている。アーチには藤の蔦が絡まりついて、それ自体が優美な装飾となっていた。

 敷地を囲うように積まれた大理石の石壁は何処までも長く続いており、等間隔に大賢人のモチーフである動物や植物のレリーフが埋め込まれている。

 おそらくこのゲートの向こうは広大な神殿なのだろうと、スピカは推測する。そして、何処から入れば良いのか悩んだ。


「ゲートはすっかり閉めきられちゃってるし……どうしよう?」


 アヴィオールは門を両手で握り、棒と棒の間に顔を押し付ける。両頬がひんやりと冷たい。当然ながら顔すら通すことができず、狭い視界で神殿の中を覗くのみ。

 早朝ということもあり、神殿はひっそりと静まり返っている。美しい芝生が広がっていることは目に見えるが、どのような建物があるかというところまでは把握できない。


「ここで三時間も待つのはナンセンスね」


「んー……」


 アヴィオールは門から顔を離し、呟く。


「忍び込む?」


 正にナンセンスだ。普段ならこのような考えなど頭に浮かぶはずもない。しかし、今の二人はまともな判断を下せる心理状況ではない。それどころか、その非現実的で非行的な言葉に、冒険心がくすぐられていた。


「警察呼ばれないかしら」


「ここまで来たんだし、思いきってみようよ」


 スピカはアヴィオールと顔を見合せ、互いに頷き合った。思いきってみよう。その意見に同意したのだ。

 まず、門から入れないか抜け穴を探した。鉄鋼の隙間が狭すぎて顔すら通さないことは、アヴィオールが実証した。

 門の装飾に足をかけて登れないか考える。門は大きく高いが、決して登れない高さではない。アヴィオールは門を両手で掴み、装飾に足をかける。


「落ちないで頂戴ね」


「大丈夫だよ」


 鉄骨を掴み直し、足を動かし、アヴィオールは登っていく。足場は不安定で揺れが大きく、風が吹くとその危うさに冷や汗をかいた。たまらずアヴィオールは指で円を描き、白鳩を呼び出す。無論、落ちるつもりなどないが。

 時間をかけ確実に、門を登りきる。アーチの蔦を模した装飾に手をかけると、腕の力で体をぐっと持ち上げる。体を横に振ると、右足を牡羊のレリーフに引っ掻けて更に高く登る。


「ああ、罰当たりよ……」


「スピカ、ちょっと静かにしてて」


 牡羊の角を踏み、体を押し上げる。やがて石壁の頂上にやってくると、アヴィオールは大きく息を吐き出した。登るだけで疲れてしまったのだ。

 神殿の中へは飛び降りることにした。自分の周りに白鳩を旋回させ、思いきって飛び降りる。危険を回避するその光は、地面に彼の足がつく寸前で体を浮かせ、衝撃を最大限緩めてアヴィオールを着地させた。


「上手くいったよ」


「アヴィ、すごいわね!」


 二人は門を挟んで侵入の成功を喜ぶ。しかし、スピカがまだ門の外だ。

 門にはダイヤル式の南京錠がついていた。五桁の数字を組み合わせるそれを手に取り、アヴィオールは眺めた。

 スピカの目線からは、ダイヤルの数字は見えない。だが確率を考えれば、当てずっぽうで解けるものではないと察しがついた。


「流石に無理だわ」


「だよね」


 スピカはため息をつく。

 その時だった。


『回しなさい』


 頭の中に声が響いた。


「アヴィ、何か言った?」


 スピカは問うが、アヴィオールは首を傾げるだけ。空耳だろうか。だが、やけにはっきりとした声だったなと、そう思いながらアヴィオールの手元を見る。

 アヴィオールは手当たり次第に数字を試すつもりらしく、右端のダイヤルから回し始めた。カチカチと断続的に小さな音がする。無心で手を動かすアヴィオールは真顔であった。

 暫くぼうっと見ていると、スピカの頭に再び声が響いた。


『一、一、八』


「一、一、八……?」


 スピカはつられて声をもらす。


「スピカ?」


 アヴィオールは手を止めてスピカを見詰めた。彼から見たスピカの顔は、ぼんやりと上の空のようだ。

 だがスピカは、何処から聞こえるのかわからない声を聞き取ろうと、耳を澄ましているのだ。


『一、一、八、三、七』


 五桁の番号だ。そして、鍵についているダイヤルも五桁。この声は解錠のための番号を自分に伝えてくれているのではないか。スピカはそんなことを考え……否定した。そんなに上手い話があるものなのかと。


「ファミラナ? 近くにいるの? ……いや、違うわ」


 スピカは尋ねる。誰にも聞こえない声といえば、ファミラナの輝術ではないか。そう思い至るが、すぐに否定した。もしこれが輝術であれば、スピカはとうに倒れてしまっている。そうでないとするならば、他の何かがやはり自分に話しかけてきているのだろう。


「ねえ、あなたは誰?」


『一、一、八、三、七。信じて回しなさい』


 声はそれだけ言うと、すっかり聞こえなくなってしまった。一体何だったのだろうか。スピカは不思議に思った。


「スピカ、どうしたの?」


 アヴィオールに声をかけられ我に返る。そして、彼に数字を伝えた。


「一、一、八、三、七」


「え?」


「ちょっとダイヤル回してみて頂戴」


 アヴィオールは首を傾げた。先程、スピカの方から「当てずっぽうは無理だ」と言われたばかりだ。何故特定の数字を指示されるのか不思議だった。


「いいから」


 スピカがだめ押ししてくる。そのスピカの表情も、自信があるようには見えなかった。だが、どうせ解けないことが前提の問題だ。試してみてもいいかと、アヴィオールは言われた通りの数字にダイヤルを回し始めた。

 左側から、一、一、八、三、七と、ダイヤルを合わせる。

 すると、どうだろう。カチリと軽い音がしてロックが外れたではないか。


「開いちゃった……」


 スピカが驚きから呟く。アヴィオールは鍵を地面に置くと、重たい門を引っ張り始めた。しかし一人の力ではあまりに重く動かない。スピカも外側から門を掴み、体重をかけるようにして押し始めた。ようやく門が動き始める。

 金属が擦れる耳障りな音が辺りに響く。ゆっくりと時間をかけて、門は隙間ほどの広さまで開いた。スピカは体を捩じ込むようにして神殿の中に入った。

 上手くいくと思っていなかった二人は、互いの呆けた顔を見つめ合った。じわじわと嬉しさが込み上げてきて、遅れて顔に笑みを浮かべる。叫びたい程の興奮だったが何とかそれを押し殺し、互いの両手を握り合って喜んだ。


「まずは、忍び込んじゃったこと、ユピテウス様に謝らなくちゃ」


「じゃあ、まず行くのは祭壇だね」


 二人は神殿の中へと進む。

 そこは美しい庭園であった。

 アーチ状に剪定せんていされた月桂樹げっけいじゅのゲートが手前にあり、それを通り抜けるとただっ広い広場があった。そこには芝生のエリアと大理石が嵌め込まれた遊歩道がある。緩やかにカーブを繰り返す遊歩道を歩いた先には、巨大な噴水があり、その中には観光客が投げ込まれたであろう硬貨がまばらに散らばっている。噴水の台座には、上半身が山羊で下半身が魚といった山羊魚やぎの像が、その上には双魚さかなの像が座っている。その頂点から水が噴き出すのだろうと想像できるが、今は噴き出す水もなく水面は穏やかだ。

 スピカはぐるりと辺りを見回す。デジャヴを感じて眉を寄せた。初めて来たという新鮮さがないように思えた。


「スピカ、何見てるの?」


 アヴィオールに問われ、スピカは首を振る。 

 噴水の裏手は階段が続き、高台となっている。その高台の上にあるのが、大賢神だいけんじんユピテウスをまつる神殿。階段の両脇にある芝生の地面を暫く進めば、山羊魚やぎが泳いだといういわれがある湖が広がっているのだ。

 しかし、今目指すのは神殿側。スピカとアヴィオールは、並んで階段を上り始める。

 階段は傾斜が強く、加えて長く、段数もかなり膨大。最初こそ軽快に上っていた二人だが、百段程登った中腹の辺りで、足取りが重くなり始めた。二人が抱えている重い荷物が、足を引っ張っているのだ。


「次に来る機会があったら、今度は荷物置いていこうね」


「次の機会なんてあるかしら。下手したら出禁になっちゃうわよ」


 全部で百五十段の階段を上りきり、二人は周りを見る余裕もなくその場に座り込んだ。特にアヴィオールの疲労は大きく、ショルダーバッグを投げ出して仰向けに寝転がる。二人の激しい息づかいだけが響く。


「うわあ、綺麗……」


 アヴィオールは目を開き、天井の装飾に見とれた。天井には絵画が描かれていたのだ。スピカもつられて寝転がり、絵画を眺める。

 漆黒の巨大な竜に捕らわれた乙女と、竜に立ち向かっていく十二の兵士。兵士達は輝術を使っている設定のようで、彼らの回りには輝術を模した宝石が嵌め込まれていた。それは太陽の光を跳ね返し、きらきらと光輝いている。


「太陽がもうこんなに高いのね」


 スピカは起き上がり、東の空を見て目を細めた。日差しはすっかり強くなっていて、あまりの眩しさに手をかざし影を作った。

 光は神殿の内部を照らす。神殿には壁らしい壁がなく、開けた造りになっていた。膨らんだ形をした柱は真白の石を切り出して作ったらしく継ぎ目がない。幾つもの柱は重たげな天井を支えている。その天井には、先程見た絵画とは別に、神話をモチーフにした絵画がいくつか描かれていた。牡牛が美しい花嫁と婚姻を結ぶ絵、獅子と戦士が闘う絵、青年が水瓶から酒を注ぐ絵……他にも様々だ。

 二人は天井を見上げたまま歩く。そのうち神殿の最奥にあるユピテウス像の前にやってきた。

 筋肉粒々とした、男性の像。それは玉座に座り、太陽と月を模した杖を手にしている。その優しげでいて力強い風貌ふうぼうに、スピカは圧倒された。像のはずなのに、生きているかのような光輝く瞳。スピカはそれを見つめていた。


「ユピテウス様の足元って、こんな風になってたんだね」


 アヴィオールは呟く。彼は像の足元に目を向けていた。

 足場が崩れているかのような装飾加工。玉座は崩れ行くかのように、故意に石を削っているようだ。その下には人の手のようなものが、真っ黒な穴から伸びていた。全て石で表現されているにも関わらず生々しい。

 一説によれば、罪人が脱獄せぬよう、ユピテウス自らが、地獄であるタルタロスの蓋として座しているのだと言う。

 スピカは目を閉じてその場に膝まづき、両手を握って祈る。アヴィオールも同じ仕草をした。

 まるで心が洗われるかのような清涼感。スピカは清々しい表情で目を開く。


「うわあ、見てよスピカ」


 目を開けたアヴィオールが、神殿の向こうを指差す。

 神殿の裏側は巨大な湖になっている。山羊魚やぎが泳いだとされるその湖は関係者以外立ち入り禁止であるのだが、その理由がアヴィオールの指の先にある。

 湖の上には、陸から隔離されたかのように島がある。そこに、二人が目指していた宮殿があった。

 真っ白な外装の宮殿は、かなりの規模があるようだ。遠目からでも、大きな窓、扉、跳ね上げ橋が見える。それぞれの塔についた半球状の青い屋根が可愛らしい。庭も広大であるようで、何の植物かまでは判別できないが、色とりどりの花が咲き乱れていた。


「あそこまでどうやって行けばいいのかしら……ふああ……」


 神殿に入り込めたことで緊張が緩んでしまい、スピカは欠伸あくびをもらす。

 アヴィオールもまた、眠気を思い出したようで目をこすり始めた。

 少しだけ寝てしまおうか。そんなことを考えると、足元がふらふらと覚束なくなってしまう。


「何者であるか! 神聖なる神殿に無断で立ち入る愚か者は!」


 背後から突然聞こえた大声に、二人は飛び上がらんばかりに驚いた。

 振り返るとそこには、白が基調のローブを纏った、強面の男性が立っていた。スキンヘッドが彼の彫りの深さを際立たせている。その顔はしかめられており、スピカもアヴィオールも気迫を感じて肩を震わせる。


「ごめんなさい! ごめんなさい!」


「僕ら用があって仕方なく……!」


 一歩一歩、迫ってくる男性から逃げるように二人は後退あとずさる。パニックから頭が回らず、上手い言い訳が思い付かない。

 まともに返事ができないスピカ達にしびれを切らし、男性は大股で一歩二歩と踏み込んだ。


「何者であるか! 名乗らなければ、神罰が下ろうぞ!」


 二人はまだ後退あとずさる。

 と、その時、スピカの踵が段差に引っ掛かった。背後には彼女の腰程の高さの柵。神殿の橋にまで追い詰められていたことにようやく気付く。だが遅い。

 柵があまりに低すぎて、背中は柵を越え、神殿の外へと投げ出される。真下には湖。スピカは驚愕きょうがくを顔に浮かべるが、あまりの出来事に叫ぶことができない。


「スピカ!」


 アヴィオールが手を伸ばす。しかし届かない。

 咄嗟に白鳩を飛ばした。白鳩は光と共に、スピカの元へと飛ぶ。

 スピカの意識は闇の中へと落ちていく……

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