第2話 竜の肉を喰うということは 02
聖竜歴454年、栄華を誇ったアンテリナム王国は一瞬にして黄金の光の中に消えた。かの王国から離れ、大陸の端にあるビティス王国でも、その黄金の光は目にすることが出来るほど、眩しく、強い光だった。
黄金の光に人々は崇める聖竜が現れたと驚喜にした。それもそのはず、目の前で暴れていた巨躰なドラゴンが人の姿に変じたのだ。
見上げる以上に大きかったドラゴンが、目線の同じ人の姿になった。これは魔法使いでなくても倒せると、人の姿であれば会話が出来ると、脅威は消えたと喜んだ。
が、束の間の歓喜が叫喚に変わったのは、人化したドラゴンたちが今まで以上に凶暴で、残忍で、魔法使い……
部屋の外が騒がしいと、今読んでいた本を置き、肌寒いと膝に掛けていたショールを肩にかけ直し、扉を開ける。
「フルール姫様!」
必至な形相をした隣の家の男が手にしているものは槍だ。いつもの農具はどうしたのだろうと、フルールが声を出す前に男の胸から血が吹き出した。
ばたりと倒れ、男から流れる血から思わず一歩後退る。
扉の外、倒れた男の後ろでは悲鳴が響き、不気味な笑い声が混じり、物が壊れる音がけたたましい。
男の体を跨ぐように現れた婚約者の男が、フルールの顔に安堵の表情を見せた。
「姫様、無事でよかった」
「無事って……マルタンこれはなにが起こって」
「竜人だ。とにかく逃げよう」
マルタンに手を引かれてフルールは村の外へ向かって走る。助けを求める声を無視して、恐怖に泣く声から逃れるように、今は自分の身を守る事に専念する。
「どうして……村が」
フルールの独り言に答えられるはずもない。
「姫様。絶対にあなただけは守るから」
真っ直ぐに前を向くマルタンの声にフルールは顔を上げる。
「こんなのでも、一応王国の騎士だし。自国の王女様くらい守ってみせるよ」
「こんな時くらい愛する婚約者を守ると言って欲しかった」
国の決めた二人の婚約、そこに愛情はないと、フルールは知っていたし、納得していた。マルタンは出世のために。フルールは生きるために。前国王の忘れ物と揶揄される王女であるために、いつ殺されてもおかしくない生立ちだった。
邪魔者扱いの果てに国の端にある村に追いやられ、出世欲に目を眩ませた一兵卒に過ぎない男を婚約者とあてがわれた。政治利用するには、前国王の忘れ物は現国王にとって厄介な代物だ。生かされているだけ、ましというもの。
これからだってそうやって生きて行くしかないと、気持ちを押し殺したばかりだと、フルールは涙を拭った。目の前を走るマルタンにだけはこの涙は見せたくなかった。どこかで自分のせいでと、彼のことを思う。それは彼には最愛の恋人がいたと知っているからだ。
目の前にそびえ立つ氷の壁に二人は立ち尽くす。逃げ道を塞ぐように氷の壁は村を被っていた。誰1人逃すまいと。逃がすことが恥だというかのように氷の壁は厚い。
「なんだよ……これ」
剣を叩きつけても氷は欠片も溢さない。
「マルタン退いて」
フルールは壁に向かって手の平を向けて力を込める。
「姫様! 駄目だ」
真剣な目をしたマルタンがフルールの手首を掴む。強い力で掴まれた手首が痛い。
「まだ俺がいる」
首を横に振るマルタンの表情に固唾をのむ。
「これはこれは……真っ赤な髪のお嬢さんが居ります」
背中から聞こえた声に振り向く間もなく、フルールは村の上に居た。
悲鳴さえも喉に張り付いて、息を呑む音だけが漏れる。竜人に後ろ手に掴まれている腕を離されれば、地面に向かって真っ逆さまだ。
竜人からの恐怖に逃げ出すことも出来ない。為すがままでいるしかないのかと、目をギュッと瞑る。
「そんな風に目を閉じては折角のショーが台無しですよ」
耳元で囁かれる竜人の声に肌が粟立つ。静かに地上に降りた立ち、膝裏を突かれ体勢を崩す。
「なにも恐くなんてありません。ただ、死があるだけです」
村人たちの死体がそこら中にあった。
今、竜人の手で放り投げられたのはフルールの母親だ。
朝いつも通りの優しい笑顔で寝起きを迎えてくれた。
手込めにされたといってもおかしくない前国王との出来事を、フルールに出会うためには必要な事だったと恨み言一つ言わない人だった。
前国王を誑かした夢魔だと指を指されても、笑顔を絶やさなかった。
寧ろそのことをフルールに謝るくらいだ。
溢れてくる涙に視界がぼやける。
ただ優しかった母がごみのように投げ捨てられて、なにも感じないわけがない。
フルールの躾けに厳しく怒ることもあったが、思い出されるのはいつもの優しい笑顔だ。込み上げてくる思い出が涙に滲んでいく。
大好きな母の元に駆け寄りたいと、腕を解こうと藻掻いてもびくともしない。人の力で竜人に敵うわけがない。
一人で必至に逃げている小さな女の子が、一瞬のうちに火柱に呑み込まれる。女の子の手から落ちたのは見覚えのあるヌイグルミだった。女の子の母親が子供のために作ったと、自慢していた。そのヌイグルミもすぐに炎に呑み込まれ黒く消えていく。
今し方、胴を切り離されたのは村長を務めていた男。
胸から血飛沫を上げたのは……もう見ていられないと、フルールは顔を逸らし、目を瞑る。
「ほら、ちゃんと見て下さい」
顎を掴まれ無理やり視線を固定され。悲鳴の中に混じる笑い声に吐き気を感じても、体勢を変えることも出来ない。ギュッと瞑った目もどうしてか、勝手に開く。見たくないと思っても、耳に入る音に目が開いてしまうのだ。
雄叫びと一緒に向かってくるマルタンの姿に、一人でも村から逃げれば良かったのにと、こちらに来てはいけないとフルールは首を小さく横に振る。
「おかしいですね。この村では同胞の肉を喰らっているのではなかったのですか?」
何のことを言っているのだろうかと、顔を竜人に向ける。心底不思議そうに首を傾げていた竜人の手が緩んだような気がした。だからと、藻掻いても逃げられない。
「この村の人間は誰も魔法を使わないのですね」
フルールは涙が溢れて止まらない。ここに魔法を使える人がいたら助かったはずなのにと思わずにいられない。藁にも縋る思いだ。
魔法があればと思うと同時に、マルタンの顔を見る。
かつて巨躰を誇ったドラゴンに魔法は有効だった。今だって魔法は強力だ。だが、ドラゴンのいない今、『竜の肉』は減る一方。『竜の肉』は厳重に管理され、人々はその存在すら知らない。魔法を使える人は昔ほどいないのだ。蔑む程の人数もいないため、魔法使いはもう世の中に居ないと思っている人がほとんどだろう。魔法使いと呼ばれなくても魔法を使えるものは今だっている。この村にその魔法を使える修道士がいないというだけだ。
「姫様を離せ!」
マルタンが斬り下ろす剣をフルールを捕えている竜人は後ろに下がることで躱す。マルタンの剣がフルールの肌を掠めそうになり、代わりに彼女の真っ赤な髪が一房落ちた。
「くだらないことを」
静かに響く声音と一緒にマルタンの首が落ちた。どこから攻撃されたのか、フルールにはわからなかった。
ゆっくりと落ちていくマルタンの首は金色に包まれ砕け、残った体は音を立てて倒れる。
今まで恐怖に出なかった声が、悲鳴が、堰を切ったように溢れそのまま意識を失った。
「どうでもいいが、お前達は相変わらず趣味が悪い」
リュカの一言に竜人たちは面白そうに笑う。力のままに暴れることは勿論気持ちがいい。だが、心を壊すように人間をいたぶることも楽しかった。ドラゴンの巨躰では出来なかったことだ。
「この赤い髪の娘はいかが致しましょうか?」
リュカは赤い髪に興味を寄せなかった。屍人形となったオーロルと同じ赤い髪というだけで興味が沸くはずもないだろう。一瞥された竜人は膝を折る。「殺せ」と一言、竜人はその言葉を待っていた。
だが、リュカは一瞥するだけでなにも言わなかった。不思議そうに首を傾げている竜人をよそに、リュカは手にしていた本をフルールに向かって放り投げた。それは先程までフルールが読んでいた本だ。
偶然にも開いたページにはリュカの事が書かれている。
――アンテリナム王国が聖人である王子を蔑ろにしなければ、世界がここまで脅威に怯えることもなかった。
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