甘えたら夏のシャーベットみたいに
自分の部屋で目覚めると、それは大切な土曜日の朝。
大口であくびをしてリビングへ向かう。部屋に入ると千風ちゃんがテーブルに座り、テレビの録画を見ながら美顔ローラーで顔をころころやっているところだった。
「あら? おはよう。もうそんな時間?」
「八時ちょっと過ぎ。飯は? すぐ食えそう?」
「待って。あんたがこんなに早く起きてくると思ってなかったからフェイススチーマーの準備しちゃった。三十分待って」
「別にさあ、千風ちゃん肌綺麗じゃん。いる、それ?」
そう言うと、すっぴんの顔で眉を八ノ字に曲げた千風ちゃんが抗議してくる。
「あんたはね、もちもちの良く伸びるほっぺだからそんなこと言うけど、肌ってね、年齢と共にケアが必要になるの。昔はマクラのシワでできた顔の線なんて三分で消えたわよ。でも今は二十分かかるの。愕然とするわよっ!」
「すごい実感こもってるね」
「喉が渇いた時ビールを飲むと、生き返ったあ、って思うでしょ?」
「それ、ラムネに置き換えてもいい?」
「何でもいいわよ。とにかく人間も肌も同じなの。渇いたら水分。そしてコラーゲンとビタミンと睡眠っ!」
「分かったよ。とりあえずコーヒー淹れるけど飲む? お肌に悪そうだけど」
「飲むわよ! 肌は肌、コーヒーはコーヒー。あれがないと私は世間でやっていけないの」
「はいはい」
ご所望のコーヒーと、トーストに、ブロックハムとほうれん草のオムレツ。申し訳程度にプチトマトとかブロッコリーとかを添えて。オレの平日の日課がようやく終わる。
平日の食事を含む家事一切と、土曜日の朝食。ここまでがオレに課せられたノルマだ。残りの土日は千風ちゃんの担当。
「ねえ、今日は予定あるの?」
「ん? ない。昨日もバイトサボったし今日は引き続きダラダラする予定」
そう言うと、てゅるんてゅるんの肌になった千風ちゃんは呆れた顔になりコーヒーを流し込む。
「あのね、まあね、そんだけ適当にやっててクビになったって痛くも痒くもない仕事なんて今しかできないんだから別にいいけど」
「金ってさ、誰かくれたりしないかな?」
「ないわよ、人生ナメるなっ! まあ、あんたは社会に出て使えなくてダメになるタイプじゃないから、今は好きなだけ遊んでなさい」
「そんなやついるの?」
「また私の愚痴が聞きたいの?」
千風ちゃんの目がマジモードになる。
「いや、やっぱいいです」
「買い物っ! 行くわよっ!」
「何でキレてんの?」
「買い物行って、甘いもん食べ、そしてカラオケ」
「夕食は焼肉がいい」
「いいわよ。目ん玉飛び出るくらい良い肉食べさせてあげる。一時間後に下のファミマ前で待つがよい」
「はいはい」
※
外に出てファミマの前でタバコを一本吸う。
美味くはない。でもなんかたまに吸いたい。部屋じゃ吸えないからオレの喫煙はいつもマンション一階のファミマ前の喫煙スペース。そしてそこが千風ちゃんとデートに行く時の待ち合わせ場所。
一緒に住んでいて待ち合わせる理由がオレには分からないけど、なんかもうそうなっている。
千風ちゃんは必ず五分以上遅刻する。七分だったり、九分だったり。でもオレがそれを見越してゆっくり部屋を出ると怒る。女はバカで、可愛いと思う。千風ちゃんがやるから特に。
待っているとエレベーターが音を立てて、千風ちゃんが下りてくる。ロゴとどこかの写真が写った灰色のTシャツ。下は折り返しの長いブルージーンズ。肩には白い柔らかそうなシャツ。モデルの雑誌から抜け出てきたんじゃないかと思う。
「綺麗だよ」
「ありがとう」
オレは、オレの胸までしかない千風ちゃんの頭を撫で、手を繋いで歩き出す。
「さって、どうしよう? バスでもいいけどタクシーがあったら乗っちゃおうか?」
「バスでいいよ。来てなきゃ待てばいい。タクシーを乱用するのは老いの始まりだよ」
「ホント可愛くないわね、あんた」
バス停に並ぶ。
晴海。東京都中央区の、何もない街。元をただせばそもそもは埋め立て地らしくて、今は海と隅田川に囲まれた陸の孤島だ。勝どきや月島、築地に出れば交通の便はまあまあ。そして銀座が近い。
バスは止まったり走ったりしながら、ゆるゆると進んでいく。勝どきを突っ切り、左手に築地市場を眺めて、右手には歌舞伎座、そして繁華街、銀座の四丁目でバスが停まる。
「やっぱりここで降りる人多いわね」
オレは先に降りて手を差し出す。
「おばあちゃん、足元気を付けて」
「つまづいて転んだってあんたの手は借りない」
ああ、今日もここは人で溢れているな。
銀座って街の独特の雰囲気。ここがただの街だって、きっと歩いているやつらは思わない。自分が主役でこの街にいる自分ってやつを意識してるんだろうな。
オレは別に銀座好きじゃないんだけど、こんだけ近ければさすがに庭だ。なんか最近ばたばたっと二つくらい大きなビルが出来たからそこら辺はあまり詳しくないけど。
「服が見たい」
千風ちゃんが繋いでいた指を絡めて、わざと甘えたような声を出す。
「え、ユニクロ?」
「ここ、どこだが知ってる?」
「オレは銀座来てもユニクロとドコモショップしか行かないから」
「いい? 今から私たちは名前を買いに行くの。バカバカしいわよ、でもね、女はいい名前が好きなの。覚えときなさい」
「確かに。ユニクロって名前のやついたら、絶対友だちになるけどな」
二人でカラオケのある有楽町から再び東銀座方面へと歩く。
いい加減歌い疲れてオレが食べログで焼肉屋を調べていたら、この近くに何軒か店があった。今はそのうちの一軒の店に向かっている。
気付けば街は薄闇に、人口光が浮かぶ。
東京は都会だって言うけど、確かに日本の首都で間違いなく都会なんだけど、つまるところ人の賑わう街はファッション系や食事の店が多いだけで、ヨーロッパの街並みのような、その街である、と言う必然を感じない。
オレは服で飾る必要のない男で、服で飾る必要のない年齢だから、繁華街って正直苦手だ。なにより人混みが嫌い。人混みって言うか、人が嫌いなんだろうな。
街を歩く人は、風景の点。大学のやつらだって点。名前があるのは魅力のあるやつだけで、それ以外は見たくもない。いっそ人類の八割くらい間引きすればいいのにって思う。
その中でも特に嫌いなのが、オレと対等だと思っている男と、オレを男だと意識する女。
なんでさ、張り合おうとするの?
なんでさ、脈あるかもって思うの?
オレは別に自分が傲慢だと思ってない。ただ平均より二、三段階上だとは思ってる。前に、大学に入ってすぐの頃に「愛想良いのにクールだね」って言われたことがある。
愛想が良いのは猫をかぶってるだけで、クールに見えるのは周りに興味がないからだけなのに。
昔はそう言うやつと関わるのが嫌で無視していた。でも少しだけ社会を知って、無視してごちゃごちゃ言われるよりは心を閉ざして愛想良くするようになった。
心と思考がどんどん離れていく。
それが落ち着いていつか受け入れた時、オレはどんな大人になっているのだろう?
※
「当たりね。このお店」
「うん。悪くないよね。ワインも結構充実してる」
小さなビルの階段を下った、狭く仄暗い店内はなかなかに雰囲気が良くって来ている客層も悪くない。
そして、その店の雰囲気を裏切らないくらい肉も美味い。
店内を見渡すと、社会人のカップルや仕事仲間っぽい女性グループがほとんどだ。
「肉の旨みもそうだけど、しっかり下処理してる肉ってかんじだね」
「そうだね。血の味でお肉って変わるから」
「肉も良いし、バカ騒ぎする学生とかサラリーマンがいないのが良いよね。あれ見るとほんと鬱になる」
「まあまあの値段だもん、ここ。双葉っ子には今まで少し贅沢させ過ぎたかな。お金がない若い頃ってね、そういううるさい店に行くしかないのよ、普通は」
千風ちゃんはそう言ってトングでハラミをひっくり返す。開いた片手には当たり前のようにビールのグラスがある。
「大学はどう? 楽しんでる?」
「別に。周り見てると人間ってアホだなって思うくらい」
「なによそれ?」
「高校の時も思ったけど、高校とか大学に入って新天地で自分なりに輝こうとしてる、あの虫唾の走る自意識ね。あと東京に来て東京人ぶるやつ。こっちからすると日常の風景なのにね。クラブが渋谷がってうるせーのなんの」
「それ、社会人になってもう一回経験するわよ」
「違う感想とか違う行動するやつがいないんだよね。みんな同じ。そのくせ男も女も恋人作りたくてギラギラ。ああいう目を視線で犯されたって言うんだろうね。顔見るなら金払えって思うよ」
そう言うと、千風ちゃんは困ったように笑ってグラスを置く。
「双葉っ子はちょっとだけ大人で、ひねくれてて、やっぱり子どもなのよ」
「自覚はある。でもああいうの見て優しい気持ちで眺めてられたらそれはそれで異常だとも思う」
「潔癖ね。双葉っ子はどこかで人間と折り合いつけないといけないかも。じゃあ勉強は? あんたが家で机に向かってるところ見たことないんだけど」
「ちかちゃんには話してなかったっけ? オレ、一年だけどあるゼミに顔出してるんだよね。そこ行けば昔の試験問題とか置いてあるし。クラスにも代返してくれる子もいるし」
「そこはちゃっかりしてるのね」
「万太郎おじさんに教わった。大学出るには使えるゼミと女があればいいって」
「あいつ、ろくなこと教えないわね」
万太郎おじさんって言うのは、柴山万太郎、柴山家の母さんと千風ちゃんの弟だ。
ちなみに既婚者。うちの血筋に漏れず、当然相手は年上。子どもも女の子が三人いてオレにとっては三人とも従姉妹ってことになる。
母さんの名前が百花で、下が千風ちゃん、そして万太郎おじさんになる。
ちなみにおじいちゃんの名前は三郎。柴山の家は名前に数字を入れるのが決まりらしい。
だからオレの名前、飯塚双葉にも「双」の文字が入っている。
「あいつのこの話知ってる?」
千風ちゃんが目を垂らして笑顔になる。
「なになに」
「あのね、あいつ高校の頃にノルウェイの森読んだんだって。村上春樹の。それ見てなんか大学のイメージ勝手に想像してて、大学って行かなくてもなんとかなるんじゃないかって思ってたのよね。それで一回生の前期の単位が四単位。そっから気付いて勉強し始めて、やっとギリギリで卒業したのよ。理由聞いた時は、家族そろってお前はアホかってツッコんだものよ」
「知ってる。おじさん言ってたよ。あれは人をダメにする小説だって。オレはその言葉を信じてあれだけは未だに読んでない」
「あんた、そう考えると万太郎にちょっと似てるわね」
「人生の師匠だから」
「ダメな人ってダメな人に何故か惹かれるのよね」
「言い方ね」
やっとお互い笑顔になって目で笑い合う。
なんか、気付いたら愚痴ってたな。
千風ちゃんは酔っているのか背もたれもない横長のイスの上でふらふらと身体を揺らしている。千風ちゃんが肉を焼いて、しばらく油が爆ぜる小さな音が卓に響く。彼女は何かを考えていて、俺は彼女の問いかけに、気の利いた冗談を返したいなと思っている。
好きだから、愚痴りたくない。でも、好きだから、愚痴りたい。
甘えたら夏のシャーベットみたいにどこまでも溶けてしまいそうだから、俺は彼女にいつも全部を晒せない。
「そう言えば友だちはいるわよね、大学で。なんか今の話聞いてると不安になる」
「一人いる」
「まあ、一人でもいればいいけど、どんな子?」
「見ててガキって思わないやつ。ほとんどのやつは大学生って雰囲気に呑まれてるけど、あいつは違うな。普通に話せるやつ。あとは適当に会話する程度のやつらはいるよ。女子が多いけど」
「ふーん」
「肉、焼けてるよ」
「おっといけね」
千風ちゃんが肉をとりオレの皿にのせてくる。本当は食事のエスコートは男の仕事だと思うんだけど、千風ちゃんは焼肉に限っては自分で焼かないと気が済まないらしい。
やがて二人前の焼肉セットの盛り合わせがなくなって、どうしようかなと思っていた時、思い出したように千風ちゃんが口を開いた。
「双葉」
「なに」
「自分を嫌いにならないでね」
千風ちゃんの目がちょっと潤んでいる。
「ならないよ。オレはちかちゃんの次に自分のことが好きだから」
そう言うと、曖昧な表情で薄く笑った後、千風ちゃんは言う。
「そういう人のがね、危険なの」
※
家に帰って、しばらくまったりとする。
千風ちゃんは缶ビール片手にソファでテレビを見ていて、オレは風呂上がりのラムネを飲む。オレは千風ちゃんの後ろのテーブルで携帯をいじりながら千風ちゃんの後頭部を眺める。
オレはきっと、どこか壊れているんだよな。人間が嫌いで、憎んですらいる。地球上の、人間だけを殺せる化学兵器でもできたら、オレは躊躇わずにそのスイッチを押すと思う。昔、なにかの登場人物が「世界が優しくありますように」ってセリフを言っていた。
本当にそう思う。意識してなかった誰かが、仲良くなると案外良いやつだったって経験はある。でも「外」から眺めた世界は自分勝手な人間で埋め尽くされていて、それならいっそゼロになればいいと思う。
小学校は、楽しかった。
中学校は、小さな違和感を感じていた。
高校は、その違和感が気のせいじゃないって気づいた。
大学生になって、たった数か月で、ここは自分の居場所じゃないって思った。
たぶん、いつか大人になっても……
「双葉っ子」
声が聞こえて千風ちゃんの方を見ると、彼女はいつの間にかオレを見つめていた。
「そんな事ね、誰にだってあるよ」
なんのことだか分からなくて、しばらくして、さっき焼肉屋で言ったセリフを今まで千風ちゃんが考えてくれていたんだって知った。
「優しくしないでよ」
「なんで?」
「千風ちゃんだけは大好きだから」
ねえ、双葉。彼女はそう言ってソファから立ち上がり、身を乗り出してオレの手を握った。
「あんたが何を言っても、何をしても、何を言わなくても、私は双葉が好きだよ。どんな事があっても大丈夫だって、想像してみて。その想像は少なくとも、私だけは現実だから。例えばあんたが殺人鬼で、殺して殺して殺しまくって泣いていたら、私はあんたを愛して愛して愛してあげる。だから大丈夫よ。どんだけ愚痴られたって平気。ほんとのあんたがどんなに悪いやつでも平気。愛してるから」
頭がボーっとした。カウンターでパンチをもらったみたいに。
どれだけ汚くても、甘えても、きっとこの人なら全部受け入れてくれる。
だから。
甘えられない。
自分の醜さや悪意を、一欠片でも、この人に見られたくない。受け入れてくれると知っていても。
まるでシャーベットだ。
触れると溶ける。きっと、触れなくてもいつか溶ける。
溶けて溶けて、液体になった俺を、彼女はスプーンですくって、躊躇わずに飲み干すのだろう。
千風ちゃんはオレを見ている。
俺はその顔の輪郭をただ眺めている。
それしかできない。
甘えたら夏のシャーベットみたいに、どこまでも溶けてしまいそうだから。
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