生きるのに疲れたら
「この試合、お前を出さない」
「そうですか」
「お前が今のままなら、来年もその機会はない」
「そうなら、今年の秋にはテニス部にでも入りますよ」
「ふざけるなっ! お前の人生だろうがっ!」
「オレの人生だから、監督の気分はどうでもいい。勝てる試合に勝たないのなら、オレがここに居る理由はない」
「そうか。帰れ。二度と来るな」
「だから二流なんだよ、熱血くん」
バキィっ!
「死ねっ!!」
「お前が死ねよ! 高校生相手に監督気取りかよ? 来年はプロの球団からオファーがあるといいなっ!」
高校二年の夏の甲子園地区予選、東東京都の第三試合。
オレは試合に出ることなく、続けてきた「部活」を辞めた。
※
「双葉。試合出れなかったの?」
結城麻衣子が、エロい夏用の下着姿でオレの前に座っていた。
暮れていく、ただダルい昼下がりの午後三時。
麻衣子の実家の畳の部屋は湿気を押し溜めていて、申し訳程度の風鈴がキンと鳴った。
「出れなかったのって、毎試合見に来てただろ。監督、元監督か。あいつアホ」
オレはトランクス一枚の恰好で上半身に団扇で風を送る。
「どうせ素直じゃないこと言ったんでしょ?」
「麻衣子、よーく考えてみろよ。日本の全都道府県には何校も地区の強豪がいて、そのチームにはスタメンがいて控えがいて、控えにも入れない部員が山ほどいる。プロの野球選手に誰もが憧れているのに、運よく甲子園に行って、少なくとも一勝はしないとスカウトの目にもとまらない。高校野球は詐欺の同義語だよ」
「そんなこと言って、後悔しない?」
「別に。オレは使えないやつに使えないって言っただけで、こんな程度でそうなるのなら、うちのチームはどっちみち上に行けない。幸運が重なっても甲子園上位校になんて絶対になれない。個人競技でもやっときゃ良かったよ」
「そんな実力ある?」
「どうだろ。仮にテニスをやっていたとして、身体能力は、プロにやや劣る。技術でカバーできるかどうか微妙なライン」
「分かってるじゃん」
「だから野球にしたんだけどな。スポーツで世に出るのは無理だと悟った17歳、ってことで」
「ねえ」
「ん?」
「AV見よ」
「いいよ」
「必死な双葉見てたら、したくなっちゃった。自己弁護に必死な双葉」
「元野球部員ナメんなよ」
「分かった。いっぱい舐めてあげるね」
「あるあるだな、そのセリフ」
「双葉」「双葉、ノート写させてよ」「私のことどう思っていますか、双葉くんは」
みんな。みんなオレのことを双葉と呼ぶ。
オレの名前を呼びたくて、返すオレの笑顔が見たくて、セックスがしたいって、みんな顔に書いてある。くっきりと、痕が付くほどに。
オレは人間というものを知っている。
思いつく限りのネガティブな言葉の集合体で、ポジティブな部分は、自分に余裕のある時にしか発揮されない。
人はそれを偽善と呼ぶ。
嵐の中にいて自分よりも他人をって言えるやつは、想像力のない、自分が死ぬという現実が見えないバカか、聖者のフリをしたバカだ。
オレはバカが嫌いだ。
だから、人間が嫌いだ。
「私もバカなの?」
「バカだよ。でも麻衣子は愛すべきバカだ。そーゆーバカは保護しないと。生きていて良いのは愛すべきバカだけだよ」
「それは主観でしょ?」
「オレが世界の主役だから、オレの主観で良いんだよ。麻衣子だって、言葉にできないだけで、何かの物差しがある筈だと思うよ」
「私は私の周りがみんな幸せだったらいい。嫌いなやつを除く」
「オレと大差ないじゃん」
「なんで?」
「オレも愛すべきバカには笑ってて欲しい」
「それって愛のこくはくぅー?」
「死ね、マジバカ」
なんとなく笑い合って、重ねた体温も、ぐちゃぐちゃに混ぜた体液も通り過ぎた気がして、オレは麻衣子の裸の腕を撫でる。
「撫でるの好きだね、双葉は」
「そうかな。意識したことなかった」
「ふふっ」
「なに?」
「ううん。言わない」
「何だよそれ」
「この腐れ縁も、もうすぐ卒業だね」
「なに、好きなやつでもできたの?」
「うん。双葉の次に、好きな人が」
「毎回言ってるけどな、それ」
女といて楽しいと思ったことは、中学の頃、初めてのカノジョと過ごした最初の一か月くらいだ。
あとは、全部同じ。
重ねてって、駆け引きをして、いつか粘膜に触れて。
愛しているって、気持ち悪くて言えない。
カノジョだからってカノジョ面する女の神経が分からない。
PCのプログラムみたいに、いつか全部、記号になればいい。
※
「双葉くんは人間が嫌いなんだね」
「まあ、そうだね」
「じゃあ、なんで死なないの?」
野暮ったい、ダサい黒髪。
垂れた目と、ふっくらとした唇と、絹みたいに長く艶やかな、ダサい黒髪。
「自分で自分を殺すってことは、『自分は間違ってました』と言うことと同じだよ」
「じゃあ双葉くんは筋金入りの人間嫌いなんだね」
「まあ、そうだね」
そう言うと、
授業後の部室。
蝉の声が、じりじりと響く。
この音と夏の中で野球をしていたのが嘘のようにこの部屋は涼しくオレと裕香さんは二人っきりだ。
都内でも名の知れた野球部だったから、女子マネージャーなんてたくさんいる。
その中でも、ユニフォームの洗濯くらいしか任されない、ノックも打てない三年のマネージャー。
「でも驚いた。なんで死なないのって、初めて言われた」
「純粋に、疑問だったから。嫌いなことたくさんあるのに、それだったら死んだ方が楽なのに」
「オレは間違ってないのに、なんで間違ってる周りのために死ななきゃいけないの?」
「そっか。双葉くんは、そうなんだね。世の中は間違いだらけだって、私も思うよ。田嶋くんは上手なキャッチャーじゃなかったから、みんなが非難しても、私は双葉くんの方が正しいことを言ってるって思ってたよ。でももっと単純に、だったら野球なんてしなければいいのにって思ってた」
「今気付いたんだけど、意外なことに、裕香さんは極論が好きなんだな」
「見た目通りの、害がない子だって思ってた?」
「冷静な人だとは思ってた。あと、流れに逆らわない人だなって」
そう答えると、裕香さんは春の綿毛みたいに笑って、小さな胸を、ぽん、と叩いた。
「私たちみたいな人ってね、世間と相成れないの。だから双葉くんは自分を絶対だって思って、私は無邪気に笑うの。実際今日まで、私がこんな風だって知らなかったでしょ?」
「大人だね、裕香さんは。オレは周りに笑顔を振りまけるほど大人じゃない」
「双葉くんはさ、優しいんだよ。優しくて、素直。だから間違っていることに噛みつくの。私はね、間違っていることに噛みつかれないように、笑顔でいるだけなんだよ」
「オレも裕香さんみたいに笑顔でいたらいいのかな?」
聞くと、裕香さんは首を振った。
「ううん。私も、双葉くんも、なにをしても無駄だよ。双葉くんの生きやすい生き方で、これからも生きていけばいい」
それから……。そう言って、裕香さんは笑った。
「生きるのに疲れたら、一緒に死んであげるよ」
春の綿毛みたいな、その、清らかな笑みで。
※
川口裕香は、変わることがなかった。
オレはオレで、なにも変わらない。
裕香さんと、デートに行くようになった。前のカノジョとはあっさり別れた。麻衣子とは相変わらずで、野球部の部活を辞めて残りの、高二の夏休みを歩いた。
ラブホテルに行く金がなくなると、裕香さんは自宅にオレを呼ぶようになった。
土日に行くと、父親がいた。
母親は離婚していていなかった。
小さな一軒家だった。裕香さんの父親がリビングにいるのに、オレと裕香さんは彼女の部屋で気がふれたようにセックスをした。裕香さんは漏らす声を抑えようとはしなかった。女の、生の声にはウソがない。演技ではないその快楽の声は当然、一階にいる父親にも届いていただろう。異常なくらいに、感じる子だった。
「頭がおかしいと思う?」
「別に。本来学生ってそういう物だと思うし」
「ほとんどのそう言う人が、大学を出て、会社員になって、この世界の常識を吸収していくのね」
「オレから見れば高校生も大人も大差ない。そして日本人だけが特別なんじゃない。アメリカ人らしさとか、ドイツ人らしさとか、子供らしさとか、大人の良識とか。人間は他人の影響を受ける生き物だから、加えて集団は、低俗になっていくものだから。負のサイクルは終わらない。ほぼ全ての人間には自分がない。誰かは誰かのコピーなんだよ」
「じゃあ双葉くんは誰のコピー?」
「対人類へのアナーキストのコピーかな」
「じゃあ私は、その劣化コピーだ」
そう言って、裕香さんは寝転んでいた体勢から身を起こし腰を押し上げ、光る性器をオレの顔の前にもってきた。
「もっとしよ?」
「オレもう動けないんだけど」
「なんのために野球部で走り込んでたの?」
「洗濯しかしてないのに、オレより体力あるね、裕香さんは」
「恋愛感情の代わりを性欲がしてくれるみたいなの、私」
「今フラれたのかな、オレ?」
ブスじゃないかわりに、美人でもなく、目立たない普通の女の子。野暮ったく見えるのは、計算だと思う。計算と、学習。オレが裕香さんの見た目に生まれたのなら、オレもきっと裕香さんと同じような生き方を選ぶように思う。
緻密な幾何学模様みたいに裕香さんの心は整っていて、そしてなにもなかった。
※
「その人と会うのやめた方がいいよ」
「どうして?」
「最近の双葉、なんか前と違う」
「理解者が出来たからかな」
「違う。悪い影響受けてるよ」
「そうかな。オレは元々、そういう考えしてた。麻衣子には言わなかったけど」
「バーカ」
「あ?」
「そんなのね、誰にだってあるよ。私だってある。全部壊したくなって、全部憎んじゃって、自分も他の人たちも滅茶滅茶になっちゃえばいいって。でもさ、本当にそうしないから人間なんじゃないの?」
「へえ、お前が人間を語るんだ?」
「バカにしたでしょ、今」
そう言って麻衣子は制服のスカートを直して足を組んだ。うちの高校で唯一の、「男子サッカー部」の部員。フィジカルで劣る。何をしても、身体が女の麻衣子は男の部員には敵わない。テクニックをいくら磨いても行きつく壁。
空は青く、どこまでも青く、九月の校庭隅のベンチに降り注いでいた。
「私流の解釈をしてみてもいい?」
「聞こうか」
麻衣子はコホン、とのどを一つ鳴らしてオレを見つめる。オレはその瞳が眩しくてグラウンドのサッカー部の景色を見つめる。
「生まれ持った性格。みんな違う。でも、何パターンかに分類できる」
「うん」
「そこから色んなこと経験していって、色んな人とふれあって、似ていく部分とか、常識? そういうのが備わっていく」
「そうだね」
「その結果、おんなじ部分を持ってても少しだけ違う人間がいっぱい生まれるの。カッコよく言うなら星の数ほど。私は、それでいいと思う。同じ部分があって、違う部分がある」
「なるほど。その通りだと思うよ」
「双葉はその人と似た部分があるのかも知れないけど、違う人間なんだよ。同じじゃないの。分かり合えるのは嬉しいかも知れないけれど、それなら私と双葉だって似たとこあるよ。強情さとか自信過剰なとことか」
「つまり、なにが言いたいの?」
「双葉らしさが、今消えかけてる。私はそう思った」
「オレらしさってなによ」
「分かんないよ。分からないけど、良くない。これは友だちとしての警告」
「一つだけ分かった」
「なによ」
「オレも、他人の影響を受けるんだなって」
そう言うと隣に座っていた麻衣子は大きなため息を校庭に吐き出して遠くを見た。
「心から、あんたは性格悪いって再認識したわ」
「知らなかったの?」
「知ってたよ。子どもの頃からずっと」
それからしばらくして、裕香さんはこの世を去った。
素晴らしいと思った。有言実行は実行されて、あえて言うなら、彼女が一緒に死んだ相手はオレじゃなく、どこにでもいるサラリーマンだった事だけ。
彼女が死んでみて気付いた。
ああ、オレは彼女をそれなりに愛していたんだなって。
そして彼女は、オレを、愛していなかったんだなって。
身体を重ねれば重ねるほどに、きみの瞳に映ってないと知る事が、なんだか虚しかった。
吹き抜けるように高校生活は終わった。
彼女が死んだ、オレの高二の冬から卒業までは、まるで彼女の微笑みの綿毛のように、軽やかに宙を舞った。
オレは、変わったと思う。
彼女の死の教訓から。
いや。
彼女と関わっていたあの頃から、オレはどこかで変わっていたのだろう。
影響を、受けていたのだ。
死にたいという欲求は、オレには分からなかった。
その、僅か数センチの距離だけが、彼女とオレとの差だった。
生きようという強い意志はない。でも死のうというより強い意志もない。
オレの他人への憎しみは、きっと重かったのだろう。
そして、彼女はそれすらなかった。
綿毛のようだ。
本当に、ふわふわと舞う、綿毛のような人だった。
あの日あの時きっと、彼女に強い意志はなかった。
ふわふわと軽く、いつものように、屋上からいつもの場所までの数秒、彼女は本当に空を舞ったのだ。
夢を見る。
彼女と一緒に空を舞うその夢を。
叶わない夢。もう、叶わない夢。
夢を見れば。
夢を見ればいつだって、何かを失うことが怖くなる。
今手の中にある今を、失う可能性を、先に考える。
なりたかったもの。憧れ。夢って言う、なにか。
本当に何にもなりたくないけれど、オレだって夢を見る。
あの日から、叶わないことを、夢、って呼ぶようになった。
どんなに手を伸ばしても届かないから、諦めることを、夢、って呼ぶようになった。
そして思った。
彼女の死が残した、一つの教訓。
オレは、死にたくない。
どれだけ夢に描いても、それは夢だから飛び降りられる。
でも、夢じゃなかったら?
オレはきっと死ねなかった。あの頃。
何にもなりたくなくて、どこにも羽ばたけず、それでも死ぬという選択肢はオレにはなかった。
だから彼女はオレを選ばなかった。
死のうとするのには、オレには何かが足りなかった。
この世界に引っかかる何かがオレの心にはあった。
それが何なのかは分からない。
「生きるのに疲れたら」
答えはいつも、あの空の中にある。
生きるのに疲れたきみを呼び寄せた、あの冬の空の中に。
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