リホ
朝目が覚めて、部屋の中は灰色の時間。
曇り空の向こうに、夏の気配はもう近づいていて、開けたまま眠った窓の奥で湿気と嫌な温度が部屋に流れ込む。
シングルのベッドで上半身を起こすと聞こえるのは、隣りで眠るリホのささやかな吐息だけ。静寂が自分を包んでくれる事を確認する。
「はあ」
何だか、懐かしいような、悲しいような、少し暴力的なような、そんな夢を見ていた気がする。
夢なんだから、事実じゃない。
でもあの日々の知り合いが出てきた気がするし、映画よりも、知っている分だけ、リアリティを伴ってオレは起き抜けから少し憂鬱な気分。
深呼吸が必要な気がして、大きく息を吸って、そして吐いた。
仙人にでもなれればな。あの謎のじいさんはきっと、起き抜けに溜息なんてつかないし、つまらない過去を思い出して鬱になることもない。
そんな人生、死んでもゴメンだけど。
「双葉、元気ないね」
「朝からこの暑さなんで」
「そんな顔じゃないように見えるけど」
「どんな顔、それ?」
「おねーさんが聞いてあげよっか」
「悩みなんてねーよ」
「そう?」
そう言って、リホはタバコの煙を吐き出す。
リホの死因は絶対に癌だと思う。別にいいけど。
土曜日の遅く起きた朝。
リホのマンションのベッドの上で、キスをして胸を揉むいつもの時間。
リホの、細い腕。リホから香る、タバコとなにかの匂い。
リホの見た目と性格がオレは好きだ。
恋愛をするうえで他に満たすべき項目がオレには思いつかない。
年上好きのオレが、見た目だけで声をかけた彼女。仕事をしているリホには、デート代とかおんぶにだっこだ。オレが真面目にバイトしない理由は、リホの存在も無関係じゃないんだろうなって思う。
リホの良いところは、サバサバと自分勝手で、束縛して来ないところ。
今の付き合い方をみていると、他にも男がいるんじゃないかなって思っていたから、純平にカノジョだとは言えなくて、でもそれでいいと思っている。
「双葉?」
オレはなんとなくどうでもいいような気持ちでリホを見る。
「話してよ」
「だからあ、何にもないって。なんか昔の夢見てちょっとナイーブってだけ」
「ナイーブになる昔?」
「リホしつこい」
「悪かったな」
「へえ、リホって拗ねるんだ?」
「拗ねてねーよ」
ボサボサになった自分の長い黒髪を指で梳いて、リホがあぐらをかいたまま悪態をつく。
「分かったよ。失恋した昔、さっきまでそんな夢見てた気がする。誰にだってあるでしょ、そんだけ」
「出た出た。男のその、自分が一番傷付きやすい、みたいなアピールね」
「リホにそんなもんアピールしても意味ないだろ」
「あれ、拗ねてるの?」
おどけたように、リホが言葉を被せてくる。
「ははっ。オレがそんなのに引っかかると思う?」
そう言うと、リホは触れられるに任せていた胸を引いて、オレの目を見つめる。
「引っかかると思ってるよ。ほんとの双葉は、割とピュアなんじゃないかって、最近思ってるから」
「ねえ?」
「ん?」
「今日のTシャツ、触り心地いいね」
「柔軟剤変えたから」
「いい匂いする」
「誤魔化せたつもり?」
「胸もいつもよりおっきい気がする」
「うれしくねーんだよ。そんなんで騙されるか、バカっ!」
言いながらもリホが笑った。
笑うと細い目が、すっ、とシャープになって目尻にしわが入る。リホは、年齢っていうより、もともと目のしわが多い。だから普段笑わないんだって前に聞いた気がする。
基本的にローテンションで、無表情で、口が悪い。
美人かブスかで言えば美人なんだろうけど、どっちかというと雰囲気美人だ。
背が高く細い身体に、長い黒髪。
連れて歩く女という意味で、申し分がない。
お互いが打算で付き合っている、居心地の良い関係。
※
ブランチ目的で出かけた桜木町のカフェで昼過ぎまで過ごして、散歩がてらリホのマンションまでの細い小道を並んで歩いていく。
駅前の雑多なビルの群れを避けて、裏路地ばかりを歩いていると、キャバクラやヘルス、ラブホテルなんかが点在していて、はっきり言って趣はない。
でもこの町の雰囲気は、なんだかリホに合っている気もする。
雲間から太陽が顔を出して、細長い空が、雲の乳白色に映えている。
「なんか天気良くなってきたね、今日」
「なに、突然?」
「いや。世間話」
「きみでも世間話するんだね」
「恋人と世間話したらいけないの?」
「きみ恋人だったんだ、私の」
「ダメ?」
「別に。恋人だったら、恋人らしいことしろよって思うよ」
「まあまあ。十六茶あげるから」
オレがリュックから取り出したペットボトルを受け取った彼女は、ちょっと驚いた顔をして、右手にそれを持ったまま額の上に手をかざし、空を見上げた。その頬は、少し汗ばんでいる。
「双葉」
「ん?」
「ありがと」
リホは今、なに考えてるんだろう? 照れているのは分かるけど、その理由がオレには分からない。
「リホ。こっち向いて」
「いやだ」
「どうしたの?」
そう聞くと、リホは内気な子どものようにアスファルトを見つめた。
「私がこのお茶を好きな事をきみが知らないのは、私に興味がない事と同じだと思っていた。だからちょっと、ほんの少しだけ、嬉しいよ」
「幸せは何気ないとこにあるってことで」
「双葉はほんとにひねくれ坊主だね」
「リホ?」
「ん?」
「キス」
調子に乗った学生のように、路上で唇を重ねるオレたち。
キスのあと、リホは距離を取ってオレに視線を合わせた。
「恋人かどうかはともかく、きみの理想の女を演じてもいいって、ちょっと思ったよ」
「分かるようで、分からないような」
「自分が全部理解できるって錯覚をしてるとこが、きみの悪いとこだ」
「恋かな、これって」
「はいはい、そうだといいな」
空いた片手で、オレは彼女の髪を撫でる。
笑って、リホはペットボトルのフタを開けた。
※
三時を過ぎて、部屋に戻ってきて、なんとなく二人でゲームしながらまたキスをして、胸を揉んで、ああ、なんもしてないな、今日。
「ウナギってさあ……」
「うん」
「いや、いいや。ウナギってさあって、さあって、私」
「なんで? 聞きたい」
「まあいいや。ウナギってさあ、関西と関東で味が違うんでしょ。思ったのよ。関東のウナギ、もしかして美味いんじゃないかって」
「あれ? リホって関西生まれだっけ?」
「ううん。名古屋。ひつまぶしの名古屋よ。地方色出すのに必死な名古屋」
「んで?」
「だから関東のウナギ、美味いんじゃないかって。どっちがどうとかじゃないんだよね。ただ私には舌に合うっていうか」
「関東の方があっさりだっけ?」
「うん。上司に連れていかれたのよ。日本橋の店でさ、関東来たからにはウナギ食えって。美味かった。あいつ財布にしてまた行ってやろうかなってくらい」
ゲームが一段落したところだったので、オレはリモコンを取り上げてテレビの画面を消す。
「じゃあオレとも行こう?」
「いいね、双葉は。基本的には素直でいい子」
「育ちがいいんで」
「顔が良いって良し悪しだね。冗談が冗談に聞こえない」
「リホは顔が良くていい子だよ」
オレの言葉に彼女は目を細めてオレを見る。
「双葉?」
「ん?」
「軽くしなきゃ、もっといい」
「使い分けてるんだよ」
「なに、私の前では軽くしてんの?」
「まあまあ」
「なだめんな」
そう言いながら、リホは身体を押し当ててきてオレは肩を抱く態勢になる。
「どうしたの、急に」
「たまには甘えさせてよ」
「リホが可愛くおねだりしてくれたら」
「好きで生理やってんじゃねーよ」
「早く終わってくれないと、こっちにも予定があるのにな」
「ぶっ殺すぞお前」言いながらくすくすとリホが笑う。
リホといるとダルくて、ダルさが心地良くって、千風ちゃんといるのとはまた違った安心感がある。
たまに会って、たまに飯食って、たまに抱き合って。
こんな関係が、朝から湯船に浸かっているような関係が、ずっと続けばいいと思う。
つまらない世の中で、つまらない人間に疲れて、それを癒したいから、きっと大人は恋人を作る。若い頃の好きだから告白する、みたいなピュアな気持ちで恋愛してる社会人っているのかな? いるんだろうけど、そいつらはきっと、幼稚な自己陶酔が得意なやつらなんだろう。
今わたし恋してる、すぐにでもカレに会いたい。
ゲボでそうな、幼稚な脳で生きている女。
そういうのに限って、見た目だけでオレに言い寄ってくる、同い年だけど代返ちゃんなんて正にそれだしな。
だからリホの存在は「頑張らなくていいよ」って言ってくれているみたいで、こんな世の中に真正面から立ち向かっていく必要なんてないよと思わせてくれる。
「どうする、夕食食べてく? それともどっか食べに行こうか?」
「うーん。やめとく。千風ちゃんが飯作ってくれてると思うし」
「きみ、ホントにおばさん好きなんだね。近親相姦ってやつ?」
「そうだよ」
「そうだよ、じゃねーよ。でも双葉がそんだけ好きなチカゼちゃん、ちょっと興味あるけどな」
「リホはたぶん、千風ちゃん苦手だよ」
「なんで?」
「オレたちみたいな人間には、眩しいから」
「あー、なるほど。そういうタイプの人か」
納得したようにリホは頷いて、突然、急にオレを押し倒して首筋を舐めた。
「溜まってるんでしょ。帰る前に、抜いてってやるよ」
「あ、そう。じゃあ遠慮なく」
「双葉」
「あ?」
「生理が終わったら、最初のセックスはきみとしてやるよ」
「じゃあその時は、ウナギ食って精つけさせてね」
「了解。その代わりその日はガクガク腰砕けになるくらい、頑張れよ」
※
ああ、腰ダルい。
口嫌いじゃないけど、ちょっと物足りない、もったいない射精をして電車に揺られる。
あれで風俗だったら二万か。男はバカだな。
それにしても、リホの何が良いって、オレを男扱いしないとこが、ホント良い。
男と女だからエロい事はするけど、それ以外はほとんど弟扱いだ。
ちぐはぐだけど、男扱いされない相手に惚れる傾向、あるよなオレって。
中学とか高校で、付き合った途端に女の顔になって、女みたいな態度で接してきたカノジョたちを思い出すと、またゲボ吐きそうな気分になる。
車内には不特定多数の息が満ちている。
みんなスマホいじって、みんなイヤホンしてて、その他はデカい声でバカ話。
こんな狭い空間でぎゅうぎゅうになって出勤しているサラリーマンの、そこだけは偉大に思える。
毎朝出荷されていく、働く肉。
数年後には、オレもそうなってるんだろうな。
こんな仕事がしたいとかポリシーとか何もないけど、マイカー通勤だけはオレの中でマストだな、まだ免許取ってないけど。
そんな事を思いながら、見たくもないニュースサイトをザッピングしていた。
※
千風ちゃんの作った茶色多めの夕食を食べる。
マズくはない。でも茶色い。
千風ちゃんは割と美食家だし不器用って訳でもないんだけど、家で作る飯の彩りまでは手が回らない、そんな家事レベル。
「どうかな、美味しい?」
「うん。旨い。なんか旅館の和食みたいなメニューだけど」
卓に並んだ焼きイワシや、肉抜きの肉じゃがもどき、ニンジンとおからの和え物、赤だしのけんちん汁に鳥そぼろの炊き込みご飯。
「品数頑張ったね」
「でしょ。あんたがこの前、赤だし飲みたいって言ってたから買ってきたのよ。ちょっとしょっぱくなっちゃったけどさ」
「ううん、ちょうどいいよ。でもこんだけ作ったって事は」
「そう。明日の朝昼もこのメニューだからね」
そう言って千風ちゃんが強気な表情をする。
不安な時ほど、強気になるんだよな、この人。
しばらく箸を動かして食事を進める。
「昨日から、カノジョさんのとこだったの?」
千風ちゃんが何気なく聞いてくる。
「うん、そうだよ。飯食いに行ってゲームしてって、なんか微妙な過ごし方しちゃったけど」
「あんまりうるさく言いたくないけどさ、ちょっと泊ってくる回数多くない?」
「普通でしょ。それに毎晩やましい事してる訳じゃないし」
答えると、知風ちゃんが少し黙る。
甥っ子の性生活とか、確かに嫌そうな話題なのでオレも無言を決め込む。
「あのね。そもそも私がここに来た理由って、あんたの生活のお目付け役を百花お姉ちゃんに頼まれたからなのよね。カノジョさんとこ行っちゃダメとは言わない。でも節制はしなさいよ」
「はい」
来週も泊まるって言い辛くなったな。純平と朝まで飲んでたことにしよう、とオレは決意する。
そんな事を考えていると、話題を変えようと思ったのか、千風ちゃんが声のトーンを変えて話しかけてくる。
「料理ってさ、どうやったらもっと上手くなれると思う?」
「美味い料理を食いに行ったら、味を忘れない事」
「いや、私も味は覚えてるのよ。でも再現できないの」
それはさ、と言いかけてオレは箸を置く。
「ちかちゃん料理する時いつもレシピサイト見てるでしょ」
「うん」
「それをやめればいいんだよ。たとえば今日のけんちん汁。オレが作るならここにプラスして出汁が出る食材を入れるかな、キノコとか高野豆腐とか。あと油分が少し足りてないから厚揚げ入れたり」
「なるほど」
「ちかちゃんレシピに頼って味見あんまりしてないでしょ? 自分で作りながら、それが店で出てきたらって考えれば足りないものが分かるんじゃない? この味噌が少し濃いって自分で思うなら適当に水足したり出汁とかしょう油足したり、トライしてけばすぐにもっと上手くなると思うよ」
「べ、勉強になります……」
しまった。いかん、千風ちゃんがちょっと萎縮しかけている。
「双葉っ子はさ、なんで料理もできちゃう訳? この前まで高校生で、しかも百花お姉ちゃんがご飯作ってくれてたんでしょ? はっきり言って謎」
「なんでって言われてもな。高校の時、友だちのお兄さんがやってる居酒屋ちょっと手伝っててさ。基本のキの字はそこで学んだ。そしたらもっと上手くなりたいって思うじゃん? ちかちゃんももうちょっと慣れたら、レシピにアレンジとかしてみなよ。ひと手間でより美味しくなった、ってなったらもう楽しくなっちゃうよ」
「なるほど、成功体験の積み重ねって訳ね」
「でもオレ、今日の飯旨いって思ってるよ。愛情感じた」
そう言うと千風ちゃんは目を瞬かせて、分かりやすいくらい動揺した。
「あんたは、女ったらしの才能が一番あるわね」
「オレがこんな事言うの千風ちゃんだけだよ」
「そ、お、ゆ、う、と、こ、ろっ!!」
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