夢を追う羽根


「なんなんかな、もう……」

 雨が降っていた。それはもう、叩きつけるくらいに。

 梅雨空の、薄暗い公園で、コトエさんは似合わない大きな眼鏡がずり落ちたその瞳で、涙を流し立ち尽くしていた。

 オレだけ傘を差しているのが申し訳ない気がして、傘を閉じた。

 そして、キスをした。

 雨空は灰色で、暗くて、強い風が吹いていた。

 コトエさんの温かいはずの唇の体温が雨で冷えていて、生温い、不思議な温度がオレの唇に重なった。

「コトエさんが泣いているように見えるのは、きっと雨のせいだね」

 不思議そうに、至近距離で、コトエさんの目が問いかけてくる。

「きみは泣いてないよ。本当に求めている物があるなら、きみに泣いているヒマはない。雨だよ。全部ただ、この雨のせいだ」

「カッコいいこと、ゆうなぁ……」

「オレは性格が悪いから、泣いている年上の女を見ると付け込みたくなるんだ」

「そんなこと、ないもん」

「そうだといいけど、そんなに初心だと、簡単にオレに騙されちゃうよ?」

「そんなこと、ないもん」

「あったかいね、コトエさんは」

 温もりの言葉。

 コトエさんはこんなにも温かくて、そして悲しいくらいに、生きているんだって思った。


   ※


「台風六号は本州南岸を低速で移動しており、月曜日深夜から火曜の朝方にかけて関東地方に最接近する見通しで……」

 テレビから聞こえる、気象予報士のアナウンス。

 オレは19年生きてきて、その19年間ずっと梅雨が来て台風が来ていた筈だ。だから梅雨と台風が同時に来たってちっとも驚かない。

 そんな事より問題は千風ちゃんだ。

「ウソだあーー!!」

「うるさいんだけど」

「電車止まってるよ。タクシーよね。タクシーしかないもんね。歩いていけないもんね。そう、そうよ。この世にはタクシーがあるのよ」

「交通費って出るの?」

「出ると、思う。でもどうなんだろう? 雨だからタクシーで来ちゃいました、てへっ、って言ったら交通費出るのかな?」

「知らないよ。今日休校だしバイトもサボるから、ついでに千風ちゃんも休んだら? たまには平日ランチでもしよ?」

 そう言うと千風ちゃんは、むむむ、と言った表情になる。

「できるかっ! まったく甘えたお坊ちゃんね、あんたは。でもどうしよう、台風なのよね。こんな日に出勤したって……。ううん、ダメよ! そうよ、いいえ、大丈夫。この世にはタクシーがあるんだから」

 すげー揺らいでんな、心……。

「じゃあせめてオレがタクシー捉まえるまで部屋にいな。外でタクシー待ってても今日はすぐ拾えないよ」

「いいの! 気持ちだけ受け取っておくわ。じゃあ私、朝の準備があるから。そんじゃ!」

 なんか楽しそうに見えるのは気のせいかな。

 たぶん、気のせい。千風ちゃんは本気でテンパっていて、オレを気にするだけの余裕がないんだろう。

 月曜日。朝の五時。

 交通機関は自然現象にあっさり負けて、千風ちゃんは朝から大忙し。

 そう言えば、なんでオレ巻き添え食って朝から叩き起こされたんだろう。

 まあいいや。千風ちゃんが出たら、もう一回寝よう。


   ※


 雨、好きだな。

 雨降りの外出、好きだ。

 人が少ないから。顔を見られないから。見たくもない顔を、見なくて済むから。

 予報では、今夜から明日の朝、夜のあいだに大雨になるらしい。今もけっこう降ってるのにな。今回の台風、デカいみたいだ。

 昼飯を食いがてら出かけた街は雨と風が躍っていて、築地に出て定食屋に向かう。

 時間は正午前、十一時半。オレはこの天気のこの時間を狙って昼飯をするのが好きだ。

 バスを降りて歩いていると馴染みの店が見えてくる。

 築地って言うと鮮魚のイメージがあるかもしれないが、築地市場を避けて街を歩けば老舗のウナギ屋や鶏肉の専門店、蕎麦屋や多国籍料理などけっこう色々ある。

 むしろ場内の観光客用の店は割高で、本当に美味しい魚介を出してくれるのはほんの一握り。まあ、この街に関して言えば土日に開いている店が少ないのが欠点だ。


「いらっしゃい! なんだ、双葉か」

 ヤンキーを卒業して料理人になったやつらの見本のような孝志たかしくんが、オレ見て途端にやる気の失せた声を出す。

「こんちは。孝志くん今日も店開けてんだね。まあ開けてる気はしてたけど」

「今日は麻衣子まいこいないぞ」

「別にいいよ。飯食いに来ただけだし。空いてるね、今日も」

「この雨だからな。つーか雨の日以外にも来い。そん時は大概混んでんだよ」

「チキン南蛮で」

「チキン南蛮以外も食え! うちの刺身定食とか超うめーぞ」

「いや、孝志くんのチキン南蛮最高だから毎回頼んじゃうのよ」

「相変わらずクソ生意気なガキだな」

「今日バイトの子は?」

「来れねーんだとよ! 根性ねーんだよ、最近の若いのは」

「耳が痛いなあ」


 孝志くんの妹の麻衣子とは、小学校からの腐れ縁だ。

 この店は築地にあるけど、孝志くんたちの実家は月島にあって、オレも晴海から月島の小学校に通っていたからもう十年くらいの付き合いだ。その頃から孝志くんはやんちゃな子どもで、孝志くんに殴られたことない男子は孝志くんの友だちとオレくらいだって小話があったくらいだ。


「最近よお」

「ん?」

 孝志くんが厨房から声をかけてくる。

「麻衣子にカレシができたらしい」

「あ、そう」

「どんなやつか会わせろって言ったら、俺には会わせたくないんだと。昔からだよ。あいつに恋人紹介されたことなんて一回もない」

「でしょうね」

「俺は毎回紹介してたんだぞ? 今の嫁だって、親より先に麻衣子に会わせた。反抗期とかなんかなあ?」

「そうだといいね」

「ちゃんと聞けっ!」

「ちゃんと作れっ!」

 麻衣子の今のカレシ、オレ、会ったことあるんだけどな。言わないけど。


 一時半か。二時間いるな、この店。

 孝志くんはもう普通に諦めていてオレの席でタバコを吹かしている。彼の子ども自慢話にも飽きてきてこの後どうしようと思っていると、店の入口が、がらり、と音を立てて引き開けられた。

「いらっしゃい! 空いてる席へどうぞ!」

「どこも空いてるじゃん」

「うるっせえ、双葉!」

「お、おじゃまします……」

 小さな声で呟いた女を見る。

 ずぶ濡れで、今時っぽい丸眼鏡が逆にダサいけど、顔の作りが整っている。

 ウェーブをかけていた筈の髪は雨粒に濡れ、おまけにメガネも水滴だらけだ。ダサい女って見るやつもいるんだろうけど、ダサいってポイント高いけどな、オレ的には。

「タオル使う?」孝志くんが笑顔で客を見る。なるほど。オレと同じでいい女だって思ったらしい。

「大丈夫です。ハンカチ、あるんで」

「この人、気を遣うのに値しない人だから借りなよ。外そんなに雨強かった?」

 そう聞くと、大人しそうに俯いて、指で小さな輪っかを作った。

「ちょっと。傘、折れちゃって……」

「貸そうか? 近くにコンビニもあるけど」

「じゃあ、帰り寄ります」

 孝志くんが強引に渡したタオルを髪に当てる姿は、正直絵になっている。気弱そうな、大人しそうな感じは「守ってあげたくなる」って言葉がピッタリだ。

 きっとこの子は、この性格のせいでモテなくて、でも「だからいい」ってやつも大勢いるだろうと思うんだけど。

「なんにします?」

「あ、じゃあ、お刺身定食で」

「まいどっ!」

 刺身か。あんま美味くないんだけどな、ここの刺身。

「お前が今考えてることを当ててやろうか?」孝志くんがオレを睨む。

「当たり」

「言う前に答えるなっ!」

 オレたちのやり取りを見て、彼女は、ふふっ、と笑った。

「せめて一番いい部位を出してね」オレは言う。

「せめてって言うなっ!」


   ※


「コトエさん、次あそこの席。おしぼりとつき出しもね」

「はいっ」

 うーん、返事は良いんだけど、テンパってるな。

 孝志くんの店、「つきじ亭」でオレと例のメガネ美人、コトエさんが夜のバイトを手伝っているのには理由があった。

 昼飯時に来たコトエさんは、お会計の時になって初めて、財布がないことに気づいた。

 それから交番で落とし物届を出し、カード会社に電話して、「ちょうどいいから夜の店手伝って」と言う孝志くんの鶴の一声でバイトに勤しむオレとコトエさん。

 交通機関は遅延や運転停止だし、金もなくて家にも帰れないコトエさんへの、孝志くんなりの優しさなんだろうけど、オレはせっかくの休みの日に絶賛勤労させられている。

 それでもまあ、店は普段に比べたら混んでいないらしい。仕事帰りの会社員が数組、出たり入ったりしてる程度。

 それでもコトエさんは、このテンパりようである。

「注文はいります。タコの唐揚げと、ホッケ、あと……」

 もじもじするコトエさん。

「忘れちゃったんだね。いいよ。オレ聞いてくるから」

「すみません、双葉さん」

 たぶんもう、三十回はコトエさんのすみませんを聞いている。

「コトエ。休憩入っていいよ。ちょっと外の空気吸って来い。この雨だから軒下から出るなよ」

「はいっ! すみません」

 オレは前にこの店を手伝っていた事があるから分かる。孝志くんの「外の空気吸って来い」は、客の前で怒れない孝志くんのお叱りだ。

 まあ分かってはいたけど、彼女に接客は向いてないよな。

「悪いな、双葉。お前出ずっぱりだろ」孝志くんが声をかけてくる。

「いいよ。食器溜まってるね。オーダー聞き終わったらオレやるよ」

「溜めてんだよ。あの子戻ってきたらそっちやってもらう」

「なるほど。それは気付きませんで」

「おまえもなあ……」

「ん?」

「仕事はできるんだから、勤労意欲を持つことが必要だな。バイト、サボりまくってるんだろ、麻衣子が呆れてたぞ?」

「大学出たら四十年働かなきゃいけないんだ。ペース配分ってやつ?」

「男に必要なのはペース配分じゃなくて、歯ぁ食いしばって働く根性だ」

「そう言うの流行らないよ、カッコいいけど」

「コトエ戻ってオーダー全部出したら十分休憩だ。タバコでも吸って来い」

「ありがとう」


 十時か、ピークは過ぎたな。

 店には一組、サラリーマン四人組の一団がいるだけだ。さっきからドリンクの注文だけだし、あとはなんとかなるだろう。

「双葉。コトエ。今日はありがとう。助かったよ。少ないけど、今日の給料だ」

「はいまいど」

「す、すみません。迷惑しかかけてないのに」

 コトエさんがそう言うと、孝志くんは笑ってコトエさんを見つめる。

「運動苦手なやつっているだろ?」

「は、はあ」

「あれはな、慣れだ。例えばサッカーで、ボールが飛んできたことにびっくりしてあたふたするやつが素人。上手いやつは心が揺れない。トラップするのか、パスか、ドリブルか、シュートか。冷静だから次が見える。今日の双葉、良く働いてたろう? でもこいつはちょっとの隙間時間に上手くサボってたし、忙しい時は優先順位をすぐに格付けしてた」

「…………」

「どんな仕事も、もっと言えばどんなことだって、いっぱいいっぱいのやつに、最高のパフォーマンスなんてできない。コトエも将来、何かの仕事に就いたり、結婚して子どもが出来る時だって来るはずだ。相手が人間なら、なおさらなんだよ。自分で手いっぱいのやつに、人の面倒なんて見れない」

「はい」

「今日コトエは一生懸命だったな。だから大丈夫だ。いつかできる。横にいる要領の良いガキも、昔はがむしゃらに頑張ってた時期があった。今は年齢のせいなのか、かなり根性曲げてるけどな」

「ありがとう、ございました。今日、ここで働かせてもらったこと、忘れません。ありがとうございました」

「おう、気をつけて帰れよ」


   ※


 店のすぐ近くの公園で、オレはタバコに火を付けて、コンビニで買った傘を差したコトエさんが、なんとなくオレの傍にいる。

「お疲れさま。大変だったね」

「私今日、双葉さんの半分も働いてないです」

「双葉でいいよ」

「年下の、双葉が、あんなに助けてくれたのに、私何も出来なくて……」

 慰めの言葉をかけるべきだろうか。でもこのタイプにはきっと逆効果なんだろうな。

 オレはしばらく右手の灰を叩いて、言葉を紡ぐ。

「コトエさんは、将来やりたいことってある?」

「え?」

「オレはないんだ。就活に入ったら、条件の良さで、オレは将来を決めると思う。ないんだよ、何も。何にもなりたくない。どこにも羽ばたけない。だけどコトエさんは違う気がする」

 コトエさんは視線を落とし、オレはタバコの煙を一つ吐いた。

「私ね。これでも働いてたんです。高知で育って、高知の専門学校出て、高知で動物園で働いてました。でも、そうじゃないって思った。やりたいことあるのに、愛想笑いして、俯いてご飯食べて、そんなのっ! そうじゃないって思った」

「うん」

「動物が好きだったの。動物に囲まれて仕事ができたら幸せだって思って。でもね、それは違ってたの。動物を見て、喜ぶ子どもたちの顔は嬉しかったよ。でも違うんだっ! 動物たちは、笑顔じゃなかったっ! 勝手に攫われてきて、檻に入れられて。違うんだもん! おかしいもん! だからっ! だからちゃんと、この手で守りたいって思った!」

「立派じゃん。そうだね。オレもそう思う」

「今の大学を出たら、アフリカに行くんだ。本当の意味で守りたいから、私はレンジャーになる。そう思ってた。そうだったのに……」

「…………」

「居酒屋のバイトも満足にこなせなくて、迷惑かけて、私、私……」

「うん」

「なんなんかな、もう……」

 俯くコトエさんの手から、傘が抜け落ちた。

 俺はそれを片手で押さえて、その拍子にタバコが落ちて火が消える。

 雨が降っていた。それはもう、叩きつけるくらいに。

 梅雨空の、薄暗い公園で、コトエさんは似合わない大きな眼鏡がずり落ちたその顔で、涙を流し立ち尽くしていた。

 オレだけ傘を差しているのが申し訳ない気がして、傘を閉じた。

 そして、キスをした。

 雨空は灰色で、暗くて、強い風が吹いていた。

 コトエさんの温かいはずの唇の体温が雨で冷えていて、生温い、不思議な温度がオレの唇に重なった。

「コトエさんが泣いているように見えるのは、きっと雨のせいだね」

 不思議そうに、至近距離で、コトエさんの目が問いかけてくる。

「きみは泣いてないよ。本当に求めている物があるなら、きみに泣いているヒマはない。雨だよ。全部ただ、この雨のせいだ」

「カッコいいこと、ゆうなぁ……」

「オレは性格が悪いから、泣いている年上の女を見ると付け込みたくなるんだ」

「そんなこと、ないもん」

「そうだといいけど、そんなに初心だと、簡単にオレに騙されちゃうよ?」

「そんなこと、ないもん」

「あったかいね、コトエさんは」

 温もりの言葉。

 コトエさんはこんなにも温かくて、そして悲しいくらいに、生きているんだって思った。


 夢を見れば。

 夢を見ればいつだって、何かを失うことが怖くなる。

 今手の中にある今を、失う可能性を、先に考える。

 なりたかったもの。憧れ。夢って言う、なにか。

 本当に何にもなりたくないけれど、オレだって夢を見る。

 あの日から、叶わないことを、夢、って呼ぶようになった。

 どんなに手を伸ばしても届かないから、諦めることを、夢、って呼ぶようになった。


 コトエさん。

 今日限りで、きっともう会う事はない、すれ違うだけの他人。

 でもこんな人間ばっかりだったなら、世界はもう少し、マシな筈なのにな。

「コトエさん?」

「なに?」

「コトエさんのコトエさんらしさが、悪いなんて絶対ないから」

「双葉……」

「夢、叶えてね」

「うん」


 じゃあね、バイバイ。

 ありがとう、双葉。


 オレはそう言って彼女の手に傘を握らせ、頬にもう一度キスをして、今さら開いても意味のない傘を開いてバス停へと歩いていった。

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