短編小説『お隣さんが村上春樹だった』

手塚ブラボー

短編小説『お隣さんが村上春樹だった』


 金曜日の夜のことだった。

 定時で会社を出て、TSUTAYAでDVDを借りた帰り道、コンビニに立ち寄った僕は缶ビールを二本と、茹でた豚肉の乗ったパスタのサラダを買った。店員さんはにこやかに割りばしとおしぼりを用意し「レジ袋はご利用ですか?」と僕に訪ねた。形式的な一連のやり取りの中でさえ、そのコンビニ店員はにこやかな癒しの提供を惜しまなかった。僕は3円のレジ袋を一つお願いした。

 環境に配慮してレジ袋を貰わない日もあった。僕達地球人はある程度の不便さは享受しなければならない。一枚3円のレジ袋を購入することによって、持ち帰り時の安心感は跳ね上がる。そして汁漏れなどの不足事態に対するうれいもない。

 僕の後ろに一人の男が列をなした。

 男は買い物かごに食パンとチーズ、それからトマトとクラッカーをいれてぼんやりと立っている。

 僕はその顔を知っていた。


『村上春樹』だ。


 瞬間僕は慌ててレジ袋を受け取ると店を出た。

 自動ドアからすこし離れた位置に小さな灰皿が置かれただけの喫煙所がある。そこでタバコに火をつけた。

 三回ほどニコチンとタールを肺に入れたとき、自動ドアが開かれ男が歩いて出てきた。春樹だ。僕は後をつけることにした。

 春樹は白いコットンシャツにウールのパンツといういで立ちだった。この近くに住んでいるのかもしれない。

 僕は見失ってしまわぬように数メートル後ろを歩いた。さながら探偵小説の主人公になった気分だ。相棒はいない。

 タバコ屋の角を曲がったとき春樹は消えていた。助手席に座っていたかつての恋人が去った時のような濃密な存在感を残して。



 翌日の早朝、またもや春樹と遭遇した。

 ランニングシャツにハーフパンツを着用し、足元はアシックスのランニングシューズを履いていた。サングラスの奥の眼球が視線を送っているように感じる。

 近寄ってきた春樹は、勘違いだと言わんばかりのスピードで駆けて行った。見事なランニングフォームだった。突然の遭遇に見ているだけの僕だったが、どうやら本当にこの近くに住んでいるのだ、というその事実が分かっただけでも十部な収穫だった。来月行われるマラソン大会の練習をしているのかもしれない。



 翌日の日曜日、今度は近所のレストランで春樹をみつけた。

 レイモンド・チャンドラーの小説を片手にエッグマフィンを頬張る春樹は、どこか物まねタレントのように大袈裟な印象だった。ウエイトレスにコーヒーのおかわりとケチャップを注文していた。

 僕は、セーターの虫食いを入念に探す主婦のように、入念にその咀嚼の様子を眺めた。何かの役に立つのかもしれないと必死にメモをとるように脳内に焼き付けた。



 それから数日、ぱったりと春樹は僕の前から姿を消した。

 僕が観察していることを訝しげに思ったのか、はたまた僕を試しているのか、それとも春樹の身に何かあったのかも知れない。

 一度も会話すら交わしたことのない老年男性の身の危険を案ずる僕であった。


 やれやれ。どうしたって言うんだ。ため息は6畳の寝室の白いカーテンを揺らした。

 だけれど、薄暗い寝室でカタツムリの冬眠みたいに黙って首をかしげていても何も解決したりはしない。

 そうだ。春樹を探しに行こう。そう思い立ち、紺色のカーディガンを羽織ったとき玄関のチャイムが鳴った。突然のその電子音に不信感を抱く。なぜならここで生活をもって早10年間、このチャイムが音を鳴らした回数は片手に収まる程度にとどまっている。そのどれもが予定されていた来客などの、予め鳴らされるのを前提にした音色だったのに対し、先ほどのチャイムは、7月の夕暮れに雷を伴って降りしきる大雨のように前触れもなく鳴り響いた。


 できるだけ足音を立てずに玄関までそろそろと向かうと、ドアを隔てて人の気配を感じた。おそらくドアの外には何者かが立っている。それもずっしりと腰を据えて。僕を守るために存在しているこのマンションの一室は今やもうシェルターの意味を成していないように感じられた。

 丸い蓋のついたドアアイから外を覗くと、そこには老年の男性がただなんでもなさそうに立っている。


『村上春樹』だ。


 ねぎを背負ったかもを捕まえた気分だった。

 まさに僕は春樹を欲していたのだから、そんな風に思ったとして誰が僕を責められようか。春樹がうちにやってきたのだ。しかし、一体どんな話をすればいいのだろう。

 僕にはクラシックの素養もジャズの何たるかも、高尚な語彙力ごいりょくも、安直でいてユーモラスな比喩ひゆ表現も備わってはいないのだ。これからするであろう日常的な会話にこれほど怯えたためしはない。正直なところ、この老年の有名作家のことを僕は紛れもなく恐れてしまっていた。

 ノーベル文学賞に一番近いといわれる日本人作家はもう一度チャイムを鳴らした。僕はかされた気分になる。


 深呼吸をして、風圧で重くなったドアを押した。


「は、はい。なんでしょう?」


 自分の口から他人のような声が聞こえる。

 開いたドアの先にはやはりこれまで三度も遭遇した春樹の姿があった。


「初めまして。隣に越してきた村上です。物書きをしています。どうぞよろしく」


『物書きをしている』


 やはりこの男は紛れもなく村上春樹だった。


 こちらこそよろしくお願いします。私は安藤です。会社員をしています。

 まるで中学の英語のテキストのような、直訳じみた言い回しで自己紹介をした。春樹はそんな僕の表情を温かく見ている。七夕前の小学生が短冊に書いた願い事よりも短い僕の自己紹介を。まるで評価でもされているかのようなむず痒さを感じる。

 春樹はにこやかな表情と共に右手を差し出した。こと現代の日本において挨拶の際に握手を求める者などほとんどいない。絶滅したと言ってもいい。だが僕は反射的に手を取ると中世の騎士よろしくお互いの目を見つめあった。その二秒ほどのやり取りが終わると再び春樹が口を開く。


「もしよければ私の部屋で一杯いかがですか?」

 喜んで。願ってもない申し出に僕はすぐに表へ出た。

 この村上春樹の生態を観察するという、またとないチャンスに胸がおどる。


 春樹の部屋には何もなかった。

 というよりはこれから生活が始まろうとする予感はあった。多くの生活必需品は段ボールの中にあるらしく、いくつかの段ボールの口は開かれ、中には数本のウィスキーのボトルが首を出していた。

 カティサーク、シーバスリーガル、ジョニーウォーカー、ホワイトラベルなど、庶民的だが存分に旨いウィスキーが見える。春樹はその中の一本、12年のカティサークのその丸っこいフォルムの瓶を可愛がるように手に取り、二つ用意したグラスに注いだ。古い友人をもてなすかのような温かい手つきだった。

 軽くお互いのグラスを合わせると「コン」と「テン」の中間的な小気味良い音がした。カティサークの12年は華やかな青リンゴのような甘い香りがした。

 もはや彼が村上春樹本人だということに疑いはなかった。だがしかし、なぜこんな安マンションに越してきたのだろう。彼ならば日本の隅々から摩天楼まてんろうの最上階までありとあらゆる贅沢な場所に居住することだって可能だ。たとえそれが執筆に不向きな場所だとしてもその財力をもってすればそれは彼の好みの場所へと作り変えることだってできるだろう。作家の先生という生き物はそんなに単純な思考過程をしてはいないことは容易に想像はできたのだが、よりによって築30年のコンクリートの小部屋に引っ越す理由なんて無い。それは限りなくゼロだ。

 ひょっとすれば春樹は何か良くないことに巻き込まれているのではないだろうか。悪の組織からの逃亡の末に辿り着いたのがこのマンションであるという可能性も捨てきれない。いや、そんな危機的な状況にひんしている要人が、暢気のんきに土曜の朝からランニングをしているというのは合点がてんがいかないではないか。


「村上さん。大変失礼かもしれませんが、何か良くないことがあってこちらに引っ越してきたのではないのでしょうか?」

 そんな軽い調子を演じて尋ねた。


「実はそうなのです。どうやら私の周囲には私という人間を詮索しようとする何者かがいるようなのです。朝起きて外にごみを出すと視線を感じ、レストランで一人食事をとっているときにも何者かの視線を感じる。何やらずっと見張られているような状況が続いているのです。それも段々とエスカレートし、マンションの玄関先に猫の死体が置かれていたり、変な張り紙がされていたりと、もはや常軌を逸している。私は自分の精神が弱いとは思ってはいませんでしたが、どうも体調にも影響をきたしてきた。これを放っておくほどには強くないようでして・・・」

 春樹は途中で声を詰まらせた。どうやら相当に参っている様子だ。しかし猫の死体はやりすぎじゃないか。警察に相談すべきだろうが当てにはならないだろう。何とか力になってあげたいのだがどうすればよいのだろうか。春樹本人には見当もつかないようであるし、捜査のしようがないような気がしてならない。そうこう考えているうちに重要なことが頭に浮かぶ。


 その『何者か』は僕ではないだろうか。


 レストランで観察していたのは僕だし、ごみ捨ての様子を観察したこともあった。さすがに猫の死体には心当たりはないのだが、彼の見えない敵は僕ではないのだろうか。


 どうしよう。


 こんなに春樹の迷惑になっているとは思ってもみなかった。正直に白状しよう。そして許してもらおう。きっと分かってくれるはずだ。『村上春樹』が突然目の前に現れたら誰だって詮索したくなるのではないだろうか。誰もが共感するだろう。いや、その理屈が通じるのは『村上春樹』本人以外に限るのだが。


「あの村上さん」

 僕が切り出したそのとき、春樹は興奮した面持ちで段ボールの中から白いTシャツにくるまれた物体を持ち出した。春樹はゆっくりとそのTシャツを開いていく。中に隠された黒い物体に刺激を与えないようにゆっくりと。

 そこには拳銃があった。

 映画やドラマでよく見る拳銃だった。確かベレッタナノと呼ばれる銃だ。小さく6発しか入らないが携帯性に優れていると新聞記事で読んだことがあった。興奮気味でそれに触る村上春樹に恐怖を覚える。と同時に彼の小説の一節を思い出した。

『ロシアの劇作家アントン・チェーホフがうまいことを言っている。物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない』と。

 途端に大量の汗が湧いてきた。春樹は犯人を殺す気だ。

 僕はさっきまでの白状しようとする気持ちを紙屑かみくずのように丸めて捨てた。バレないように細かくひっそりと丸めて屑箱くずばこの底に封印する。


 絶対に僕が犯人だということをバラしてはいけない!


「少し落ち着きましょう。それは本物なんですか? そんな物騒なものはしまって、二杯目のカティサークを頂きたいものです。あのとても香り高い余韻を切り取って持ち帰りたいくらいですよ。


 春樹の目が一瞬開かれた気がした。


「安藤さん。いま私のことを何とお呼びしましたか? 最近、耳が少し遠いようで。」

「ですからもう一杯頂きたいと。春樹さん。」

。だと?」


 春樹の表情がまるで変わる。それは一言で表せば怒りの表情に。


「私は春樹などという名前ではありませんが。あ、そういうことですか。分かりましたよ。よく分かりました。そいういうことだったんですね。合点がいきましたよ。ちょうど最後のピースが揃った。そんな感じです。安藤さん、あなた私のことを『村上春樹』だと思っていますね? ハハハ、よく間違えられるんですよ・・・・・・でも違う。私はただのそっくりさんだ。生れつき『村上春樹』に似ているただの『村上』。パチンコ雑誌の編集者をしているただの『村上』です」


 なんと春樹は春樹ではなかったのだ。

 彼はただのそっくりさんだったのだ。だがあまりに似すぎている。むしろ寄せてきている気さえしたが、それに関しては彼に非があるとは言えない。彼はただの『村上』という一般人に違いないのだから。


「おかしいと思っていたんですよ安藤さん。あなたが私を観察していたのですね? 好奇の目で見ていたわけだ。そして歯止めが利かなくなった。ちょうど地下のガス爆発から逃げまどうトロッコのように速度のコントロールを失った。そして残酷な行為に及んだ」


 違う!僕じゃない!猫の死体や張り紙なんかに心当たりなどない!!



「パンッ」




 全ては一瞬のできごとだった。

 薄れゆく意識の中で安藤は劇作家チェーホフの言葉を思い出す。

『物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない』


「やれやれ」

 村上はまだ熱いベレッタを再びTシャツにくるんで段ボールにしまった。そしてキッチンに立つとクラッカーにチーズを乗せて食べた。

 動かなくなった安藤を眺めながら。

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