善意の罪

やけに疲れた。


まともに寝ていないせいもある。

麻薬密売に手を染めた構成員が、自らも薬におぼれ、幻覚から目を覚ますことができなくなり、銃を持って暴れまわった。死人が出なかっただけ幸いだった。

体力を消耗しきった構成員がやっと静かになった明け方に、武器庫襲撃の報を受けた。


それからは嵐のようだった。襲撃の犠牲となった構成員の遺体処理と後始末。幹部殿の命で敵勢力の情報を得んために靴底をすり減らす。

若ければ、二日ほど寝ていなかったとしても何とかなったのかもしれないが、この年ではそうもいかない。仮眠は取ったが、どうにも本調子ではない。


明日には猫たちを病院から引き取らなくてはいけないが、引き取り手を見つけることもできていない。


その前に、あのヤク中をどうしたらいいのか…


「旦那。おひさしぶりですね」


露店のオヤジが声をかけてきた。たまに見かけるおでん屋台。


「寄っていきませんか?今日は商売あがったりでしてね」


お代はいいですから。

オヤジは人懐っこい笑顔でこちらを誘う。


ちょうど腹も減ってきたところだった。

黙って席に着く。

ひやでいいですかい?」

「あぁ」

短い会話の合間に、オヤジは手際よく小さな酒宴を整えていく。

お通しの漬物。具材ごとに仕切られ、たっぷりの出汁に満たされたおでん鍋から大根、卵、こんにゃくを取り出す。それらが載った皿の隣には、升に入れられたコップが置かれる。

トクトクトク…と、小気味よい音を立て、一升瓶からグラスに注がれていく酒。グラスからあふれても構わず、升がいっぱいになるまで。


「ずいぶんとサービスがいいな」

「気に入った客が一人で来てくれりゃ、嬢だっていいサービスするでしょうよ」

「例えが微妙だな」

「多様性ってやつですかい?やめてくださいよ旦那。あっしは抱くのも抱かれるのも、女に限りまさぁ」

「それはよかった。私もだ」


先に升から少し酒を吸い取る。赤ちょうちんならではの飲み方だ。小綺麗な嬢などは顔をしかめるだろう。

ライターを取り出し、煙草に火をつけると、オヤジが黙って薄い灰皿を差し出す。

「すまんな」

「旦那、あっしもいいっすかね?」

えへへ。と自嘲しながら、オヤジが煙草をくわえた。

「あぁ。」

ライターの火を差し出すと、黙って咥えた煙草ごと身を乗り出してきた。


「禁煙禁煙、の世の中ですからねぇ。…旦那が相手なら、気が楽でさぁ」

「こっちもそうだよ」

しばらく、黙って煙草をふかしていると、オヤジは別のグラスに酒を注ぎだした。

そして、カウンターの端に黙ってそれを置く。

「なんのまじないだ?」

「いやぁ。…弔い酒ですよ」


オヤジはそういうと、新聞を差し出す。手に取ったそれは競馬新聞で、少々れていた。


「あっしがひいきにしていた馬がね、死んだもんで」

「死んだ?病気か?」

そこでやっと、小さな記事に目を落とす。

レース中の骨折事故により、安楽死。と書かれていた。

「…親が名馬でね。その子供でさぁ。これから活躍しそうだと、期待してたんですがねぇ。」

「骨折ぐらい、治してやれんのか?」


オヤジは、煙を外に向けて一吹きすると、こちらに顔を向けた。

「旦那は、馬、やらねぇんですかい?」

「付き合いで馬券を買ったことがある程度だ」

「そうですか…あっしは好きなんで、いろいろ馬の事も調べてるんですがね。旦那、馬って動物は…まぁ、たぶん、四足歩行する、ある程度体の大きい動物だったら、大概当てはまるんでしょうけれど…足がダメになったら、先に見えてるのは死、のみなんですよ。」

「そういうものなのか?」

「足なんてただの飾りです。なんてのは、モビルスーツだけの話でさぁ」

オヤジはそこまで言うと、煙草を再び口に咥え、深く吸い込んでから再び外に向かって煙を吐いた。

それから、夜の闇に視線を向けて、独り言のように話を続ける。


「昔ねぇ、いい馬がいたそうです。重賞レースは全部かっさらっていっちまう活躍ぶりだったそうで…。その馬がね、やっぱり骨折で予後不良と診断された。ところが、馬主も競馬ファンの連中も、ここで死なすのはかわいそうだっつってね。安楽死に対して世論が一斉に反対した。そこで、医療団を作って盛大に治療をしたそうです。…それ、どうなったと思います?」

「…その話の流れじゃ、いい結果ではなかったのだろう?」

「えぇ。…大がかりな手術をして、最初の骨折についちゃどうにかなるめどが立った。だが、故障した足を他の足がかばう。そのことによって結局、別の足がダメになっちまった。

競走馬きょうそうばってのは、競争に特化した体を作るために品種改良された種なんですよ。その歴史は古く、そして血統配合の研究も当初から重ねられてきた。現在活躍しているサラブレッドのほぼすべての血統が、『三大始祖』と呼ばれる、三頭の馬につながっているそうです。…人間の酔狂で生み出された品種ですよ。ただ速く走る馬が欲しいってだけのね。その弊害が、ガラスの足と呼ばれる故障の多さだ。ほかの品種に比べて、絶対的に骨が弱い。だから、体のバランスをひとたび狂わせてしまったら、もう取り返しがつかなくなる。

結局のところ、その馬は衰弱していって、周囲は自然死を待つしかなかった。…獣医師達はとっくに匙を投げていたのに、世論が邪魔をして安楽死させてやることが、もはやできなかった」


オヤジは、うなだれてから言葉を繋ぐ。


「中途半端な人間の善意なんてのは、時として凶器になる。

 それも、ずいぶんと残酷な武器だ。」


不意に、今朝のあの、少年幹部の顔が脳裏に閃いた。

「麻薬がらみで問題を起こした部下は、早々に切り捨てた方が善い」

冷徹な笑みと共に。

「その部下は処分すべきだよ」

心の臓を、えぐり刺すような目で。


「その馬は、身をもってそれを示してくれたのかもしれねぇが…馬にとっちゃ迷惑な話だよねぇ。まぁ、それがあって今の競馬業界じゃ、苦しみを無駄に引き延ばすのは善ではない。という風潮になっている。…あっしのひいきにしていた馬も、死ぬまで続く苦痛を短くしてもらえて、むしろ良かったんだろうな」

再び煙草をくわえたオヤジは、口の周りに白煙をまとわりつかせながら言葉を吐いた。


「生きてさえいりゃ、いいことがある。なんてのは、幸せもんの戯言ざれごとでさぁ。死ななきゃどうにもならねぇ苦しみってのが、結局のところ存在するんですよ。馬でも、人間でもね」


自らの幻覚が見せる恐怖に抗い、口から白い泡を吹きながら暴れまわる、無残な部下の姿が、身を締め付ける。


かつて、首領ボスが言っていたことがある。

麻薬は脳をおかす。

脳に再生能力はない。

つまり、一度でも麻薬にひたった脳は、それ以前の状態には、決して戻れない。


「壊れてしまうんだよ。かなり辛抱強く、長期間に渡りやってくるフラッシュバックに堪え忍んで、欲求を抑えられるのなら、ある程度の希望は持てるようだけどね。完全じゃない。…それに、麻薬におぼれるような脆弱ぜいじゃくな精神の持ち主が、それを克服するための過酷な試練に耐えられるのだろうか?」


自らの罠にはまった者に、差し伸べる手などないよ。

そういって、首領は笑った。


「人間など、無力なものだな」

頭を駆け巡る、様々な記憶をかき消すように、酒をあおる。

オヤジは、黙って酒を注ぎ足した。


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