大首


   大凡おほよそ物のおほいなるもの皆おそるべし。いはんや雨夜あまよ

  星明あかりに鉄漿かねくろぐろとつけたる女のくびおそろし。なんと

  もおろか也。


            鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より



 一、聖別


「ああ、僕の愛しい女神よ」籐椅子に腰掛けた美しい女性の前にひざまずき、その御足を押しいただくと爪先に接吻せっぷんした。小さな貝殻を伏せたような可愛らしい爪がうっすらと唾で濡れた。胸が締め付けられるような多幸感が波となって押し寄せる。「これから、あなたを〈うつわ〉から解き放ちます」

 部屋の床を余すことなくブルーシートが覆っている。ポリエチレンの巨大な風呂敷ふろしきの上には、包丁やはさみ金槌かなづちのこぎりといった無骨ぶこつな道具が整然と並べられている。見映みばえは悪いが皆必要な品物であった。これから行われることは破壊ではない。余分な要素とそうでない部分を適切に振り分ける聖別せいべつ――けがれを取り除く神聖な儀式である。

 まずは眼球。僕は彼女の黒曜石こくようせきの瞳が好きだった。彼女の細首に指をからませ締めた時、その瞳から血の涙が流れたことを思い出した。

 赤い雫がまなじりを伝ってびんを濡らした。下品に染められた金髪がわずかに息を吹き返したようで、僕は嬉しくなって彼女の白首に益々ますます体重を乗せて苦しめた。そうした遊びを繰り返しているうちに、遂に女神は僕の肉体の下で息絶えてしまった。

 結局、彼女の血涙けつるいはほんの一部分だけ黒髪を取り戻すだけにとどまったが、頭皮に程近い根本の方は黒々とした美しい毛髪が生え揃っていた。

 さじを使って眼球をえぐり出した後に、この黒髪の新芽だけは取り残しておくことに決めた。大部分は失われてしまうが、頭皮ごと引き剥がせば彼女を現世うつしよに繋ぎ止めるよすがとなるだろう。籐椅子に座る女神からほとばしる鮮血でエプロンは早くも真っ赤に染まりつつある。

 ――エプロンを用意しておいて良かった。今は彼女の血液の一滴ですら愛おしい。後で絞って容器に移し替えておこう。そうだ、彼女の血には罪がないはずなのだから――

 そう、罪である。彼女は大罪を犯したのだ。美しい存在はそれを才能と自覚し、責務として全うしなければならない。誰しもが何かしらの役割をになって、この世に生まれ落ちてくるのだ。彼女――淡野あわの遙子はるこの場合は常に美しくある事が責務だったのだ。だが、美の女神は気まぐれに任務を放棄した。

 ――あの品性のない髪の色。それにメイクアップ。過度に露出した服装も気に入らない。彼女は美しさを何一つとして理解していなかったのだ。責務の放棄、それだけは認められない。決して看過できないし、許容するつもりも一切ない――

 だから、僕は女神を解体することにした。必要な部分を精査し、選別して切り分けて保存する。美しい女性の肉体に刃を突き立てて損なうことに躊躇ちゅうちょを感じなかったと言えば嘘になる。また、僕が手を加えた時点で少なからず偏向へんこうが介在してしまうことも理解している。だが、責務を放棄し、堕落してゆく女神の痴態ちたい漫然まんぜんと見続けるつもりもない。それは、僕がになうべき任務まで投げ捨てるに等しい愚かな行為である。

 誰しもが何かしらの役割を背負せおって生まれ落ちる。「美しい存在を守護すること」が僕に与えられた仕事であり、果たすべき義務でもあったのだ。世界との紐帯ちゅうたいを維持するためにも、僕は慎重に淡野あわの遙子はるこだった肉体を切り分けてゆく。室内はたちまち血の海となった。

 美の女神は四十八個の肉片に分割された。両手・両前腕・両上腕・両乳房・両乳首・左右下肋部かろくぶ・左右腰部・胃上部・臍部せいぶ恥骨部ちこつぶ・左右腸骨部・両大腿・両下腿かたい・両足・頭皮・左右眼球・鼻・唇・舌・左右耳・左右肺・心臓・横隔膜おうかくまく・肝臓・脾臓ひぞう胆嚢たんのう・胃・大腸・小腸・直腸・膀胱ぼうこう・左右腎臓・性器といった内容だが、この中で僕の審美眼しんびがんかなうものはわずかに十を数える程度ていどであった。

 ほとんどの肉は何かしらの人為的な細工が施されており、はらわたおびただしいまでの毒か薬に冒されていた。僕が落胆らくたんしたことは言うまでもない。

 僕は淡野あわの遙子はるこの裏切り行為に少なからず動揺した。決してのぞいてはならないものをあばいてしまったのである。彼女の正体は偽りの姿で礼讃者らいさんしゃあざむき、生き血をすす鬼女きじょであったということになる。

 そうだとしたら、僕はいつから幻想に取り憑かれていたのだろうか。或いは、初めから全てが妄想で、アワノ・ハルコなどという女性など存在していないのかもしれない。

 ――いや、希望的観測は止めよう。僕はこの女にたぶらかされてたのだ。物の見事にだまされて酔わされていたのだ――

 僕は余りの悔しさと情けなさに悶絶もんぜつした。血が池を成している床に尻餅しりもちをつき、髪の毛をむしらずにはいられなかった。四十八個に分割された肉片は早くも悪臭を放ち始めている。聖別せいべつの儀式は失敗に終わったのだ。それも、最も悪い形での破滅である。

 籐椅子に置かれたヌッペラボウな生首が、血だまりの中で煩悶はんもんする僕の様子をジッと見詰めてわらっている。眼窩がんかから目玉をえぐられ、口唇こうしんを切り除かれているにもかかわらず嘲笑ちょうしょうしている。そう感じてしまうのは、耳から耳に掛けて大きく裂かれた傷痕きずあとのせいだろう。

 ピピピピピ――というアラームが真っ赤に染まった部屋に鳴り響く。惨劇の夜が明けて、代わりに一日が始まろうとしていることをようやさとった。いずれにせよ、ヨコハマ港街にあるオフィスに連絡しなくてはならない。

 僕は職場のボスに休暇を申請するための言訳いいわけを考えながら天井をあおいだ。美の女神と心中する覚悟はあっても、鬼女きじょ欺瞞ぎまんのために犬死いぬじにするつもりは更々さらさらないのだから……。



 二、崇拝


 ヨコハマニュータウンの主要財源は東部に開拓された港街に依存している。この数年間で外港は行政府の支援を受けて拡大し、それに伴うように内港も相応の賑わいを見せることになった。

 毎日、種々雑多しゅしゅざったな船舶が埠頭ふとうを訪れるが、僕たちのビジネスは美術品の貿易に終始している。燃料や資源を巡って忙殺ぼうさつ余儀よぎなくされる貿易会社とは違う。収益は安定しないが、ほとんど独占市場に近いため倒産することだけはまぬかれている。

 無論、一人前のビジネスマンと認定されるまでに厳しい訓練課程カリキュラムをクリアする必要がある。美術の造詣ぞうけい真贋しんがんの鑑定、交易の交渉などの手腕を身に付けるために学び続ける向上心が求められる。狭き門を前にして挫折する者も少なくない。だが、僕はこの仕事を愛していた。

 入社してから三年間の月日が流れた頃、淡野あわの遙子はるこが秘書として勤務していることを知った。アルバイトも同然の事務員とは違い、いかにもリッチな雰囲気を身にまとった女性で、洗練された仕種しぐさ言様いいようが美しかった。仕事に行き詰まっていたこともあり、僕は直ぐに彼女の卓越たくえつした美貌に魅了されてしまった。

 ちょっと廊下ですれ違うだけでも心が洗われるようだった。つややかな黒髪、馥郁ふくいくたる香り、白磁はくじの肌、華奢きゃしゃな肩、桃色の唇、潤んだ瞳――総体としてのたたずまいは言うに及ばないが、彼女を構築する要素のどれをとっても、カンとした美しさを誇っていた。

 こんな事があった。僕は淡野あわの遙子はるこの存在を知ってから数か月後の冬の頃であった。

 その日、僕は大事な案件を抱えて秘書室を訪れていた。僕が勤める会社には三人の秘書が交代制で職務に就いている。そのうちの一人が淡野あわの遙子はるこであるのだが、普段はまじめに仕事に励んでいる彼女が、珍しいことに昼寝をしている様を目撃してしまった。

 秘書室の隣は社長室であるため、あまり体裁ていさいの良い状況ではない。社長の苛烈かれつな性格を思えば自分がすべきことは明らかである。だが、僕はその場にくいで打たれたように身動みじろぎ一つできなくなってしまっていた。

 ちょっと物思いにふけっている――そんな印象を抱かせる寝姿だった。

 やや前傾の姿勢で、デスクに右肘をついて掌を頬に柔らかく当てている。左腕は緩やかに曲げられて机上に置かれており、左右対称でありながら全体を和やかな雰囲気が包んでいる。

 ロダンの〈考える人〉ほど精悍せいかんではなく、むしろ菩薩ぼさつ柔和にゅうわを思わせる姿勢――遠い昔に焼失してしまったという広隆寺こうりゅうじの〈弥勒菩薩半跏像みろくぼさつはんかぞう〉を髣髴ほうふつとさせる寝姿である。

「ああ、きっと彼女は夢を見ているに違いない」弥勒菩薩みろくぼさつ衆生しゅじょうことごと済度さいどするため思惟しゆいふける姿と無垢な寝息を立てる美女の様がピタリと一致した。僕はポケットから携帯タブレット端末機を取り出し、淡野あわの遙子はるこの寝姿をつぶさに撮影することにした。この天啓てんけいを逃してはならない。「これこそが本物のアートだ。血が通った至上の美術品だ」

 その日から僕の人生は一変した。無明むみょうの闇に閉ざされていた世界にひと筋の光明こうみょうが差した。人は誰しもが何かしらの役割をになって生まれてくることを知った。自分は息を吸って、命を食べて、糞を垂れるだけがけだものではないことをさとった。祝福されない子などいないし、してや救済されない魂などありえないのだと信じることができた。

 ――淡野あわの遙子はるこが僕に生命を吹き込んでくれた。夜と共に死に、朝と共によみがえる。当然の事にもかかわらず目を向けようとしなかった。無関心でありながら救済されることばかり願っていた。それは傲慢ごうまんというもんだ。僕は知らない間に大罪を犯していた――

 とうの昔に人類が投げ捨てた信仰を取り戻し、図書館で様々な経典けいてんあさってみたりもした。紙の書籍を貸してほしいと申請する度に司書から怪訝けげんな目で見られもした。電子ネットワーク上に散らばった情報を夜通し検索し続けたこともある。


 だが、天が授ける試練は長く険しい。僕は気まぐれな女神による容赦のない裏切りを受けることになる。


 ある春の日の事である。僕は淡野あわの遙子はるこに密かな祈り捧げるために、早朝の秘書室を訪れた。無論、堂々どうどうと正面扉から乗り込むべくもない。ただ、ほんの少しだけのぞき窓から彼女の様子をうかがうことできれば満足だった。

 初めは眼を疑った。明かり窓から射す日光が秘書室内を優しく照らしていた。だが、光背こうはいを負うべき黒髪の女神の姿はそこにはなく、代わりに露骨なこびていする金髪の遊女あそびめが男連中に囲まれて耳障みみざわりな嬌声きょうせいを上げていた。

淡野あわのさん、髪の色を変えたんだあ」一人の男性職員が無意味に感嘆して見せた。彼女の気をこうという魂胆こんたんが透けて見えるようだ。先日まで誰も関心を払おうとしなかったはずなのに軽薄な連中だ。また、それを知っておきながら嬉々ききとして談笑する彼女も不気味である。これは侮辱なのだ。美に対する冒涜ぼうとくに他ならない。「何だか綺麗になったね。とても似合っていると思うよお」

 その日を境に女神の堕落が始まった。髪を染め、香水を付け、宝石で飾り、爪を塗り、口紅を差すようになった。日毎ひごと淡野あわの遙子はるこ華美かびへの執着を深めていく。衆生しゅじょうことごと済度さいどするため思惟しゆいするという弥勒菩薩みろくぼさつの面影は永遠に失われてしまったのである。

 だから――だからこそ、僕は自分の役割を全うすべきだと判断したのだ。美への憧憬しょうけいを守るために偶像イドラを徹底的に破壊する。そして、翌年の一月十五日の未明――僕は淡野あわの遙子はるこを殺すことを決心した。



 三、懺悔


 赤レンガ倉庫から歩いて十数分ほどの距離にある高層ビルディングの一室――そこが私のオフィスである。

 窓の外には夕闇のとばりが下り始めており、十分後には山下公園に並ぶガス灯に火がともる頃合となるはずだ。就業時間までに幾つかの書類を整理する必要がある。私はマグカップにわずかに残っていたコーヒーをあおると席に着いた。

九条くじょう美紀香みきか先生、外来患者の木村きむら勇斗ゆうとさんが起こしです」事務室から内線電話を取ると、私は書棚のカ行の欄を指で辿り始めた。木村きむら勇斗ゆうとか……ユニークな患者ではある。病症そのものは典型的なうつ病なのだが、誇大妄想パラノイアの傾向が認められる。美術に対する偏執へんしゅうと空想――そして興味深いことに。「木村きむら勇斗ゆうとさんですね。どうぞ、お入りください」

 程なくして扉を押し開き、自称殺人犯の青年が深く項垂うなだれながら入室してきた。長髪が

 額を隠していたが、その下の表情は無論暗い。それは彼の不自然な挙動から容易に察することができた。――また、せたな、と冷静に観察しながらも私は患者に椅子を勧めた。

「失礼します……」消え入るような声で呟くと木村きむら氏は椅子に倒れ掛かった。患者は往々おうおうにしてこういう演技をすることがある。医者の関心を引こうという心理が働くのだろう。だが、彼の疲弊ひへいは真実らしい。顔面の神経に痙攣けいれんが見られる。彼は唇をひくつかせながら言う。「もう、うんざりです」

 詐病さびょうではないとすると木村きむら氏の妄想の程度ていど随分ずいぶんと酷いことになる。或いは――とも考えたが軽率な判断は控えることにした。しんば、その憶測が正しかったとして、自身の本分が医師である以上はどうしようもない事でもあった。

 殺人犯を自称する患者は、そろりそろりとした声風こわぶりで世にも奇妙な夢語ゆめがたりを披露ひろうし始めた。それは、丁度ちょうどこのようなお話であった。


 もう、うんざりです――こんな暮らしが続いたら、きっと気がれてしまう。或いはすでにおかしくなっているのかもしれない。そうだとしたら、恐ろしいことだ。恐ろしいことだ……。

 先生、僕は人をあやめはしましたが、それは――わば天から授かった使命のようなものだったのです。あの女から恨まれるのは筋違いというものです。あまりにも不条理ふじょうりなお話ではありませんか。

 人は誰しもが何かしらの役割をになって生まれてくるのです。それなのに、あの女――淡野あわの遙子はるこは責務を放棄し、みずかいやしい人間へと堕落しました。天との間に交わされた約束を反故ほごにしたに等しい行為です。彼女が使命を忘れたことによって世界が微妙に変容しました。僕はそれを是正ぜせいしようと試みたに過ぎないのです。

 誓って言いますが、僕は一片たりとも彼女の肉体を無駄に費やしはしませんでしたよ。四十八個の肉塊のうちでスポイルされていないものはわずかに十を数える程度ていどでしたが、時間と労力を掛けて丁寧に処理したつもりです。余分なものは取り除き、そうでないものは大事に保管してあるのです。

 それでも、あの女は呪う事を一向に止めようとしないのです。断言しますが、天に対して不誠実を働いたのは彼女の方です。僕は責務に従って裏切り者を糾弾きゅうだんしたまでなのです。それが、こんな――もう、うんざりです。


 先生、切断された人体が成長――いや、なんてことが、一体全体ありえるとおもいますか。

 そう、膨らみ続けているのです。斬り落としたはずの生首が冷蔵庫の中でブクブクと太り続けているのです。目と鼻、耳と唇、そして舌と頭皮を引き剥がされた生首が腐臭を放ちながら肥大ひだいし続けているのです。


 勿論、何度もあれを遺棄いきしようと試みました。が、そういった算段さんだんことごとく失敗に終わりました。あの女の頭蓋ずがいの内側では途方とほうもない悪意が渦を巻いているに違いありません。

 きっと信じては下さらないでしょうが――あれはまだ生きているのです。まるで、自切したばかりの蜥蜴とかげの尻尾みたいに執念しゅうねく抵抗するのです。

 一度、激情に駆られてあれを石打ちして完全に潰してしまおうと考えた事があります。冷蔵庫に押し込めていた首を床に投げ棄て、ブロック塀で顔を滅茶苦茶めちゃくちゃに叩き潰そうとしたのです。

 その頃、淡野あわの遙子はるこの頭はまだ蛸壺たこつぼほどの大きさにとどまっておりましたから、念入りに仕事をすれば破壊できたはずなのです。が、それもえなくはばまれました。先ほども申し上げたでしょう――あれはまだ生きているのです。

 僕は殺人を犯しましたが、罪をたのしんでいたわけではありません。死体をもてあそそこなうには覚悟と勇気――ある種の自己陶酔が必要不可欠です。しかし、あの女の首はそういった酔いを根こそぎ否定してくるのです。

 わらうのですよ、あの首は。僕が苦しみもだえる度に嬉しそうにゲタゲタとわらうのです。耳から耳に掛けて裂かれた口を大きく開けて、いかにも楽しそうにわらうのです。

 あの様子をひと目でも見たら、石打ちして叩き潰す気など失せてしまいます。触れるのさえいとわしいものを冷静に始末しまつすることなどできるはずもありません。難儀なんぎしながら冷蔵庫に押し戻し、腐臭が進まないように祈るばかりでした。

 しかし、生首の膨張は一向に止まりそうにありません。冷蔵庫の中には隙間すきまも見つからないほどの腐肉ふにくがみっしりと詰め込まれています。床には汚水が池を成していて物凄ものすごいまでです。

 そして、そういった悲惨がおかしいのでしょう――あの首はゲタゲタという不愉快な嘲笑ちょうしょうを一日たりとも止めようとしないのです。もう、うんざりです……。



 四、反駁


 そこまで一気呵成いっきかせいに話したのち木村きむら勇斗ゆうとみずから殻を閉ざし、深く首を落とした姿勢のまま動かなくなってしまった。

 ――ある種の恐慌状態に陥ってしまったみたいね。ここは無難に立ち直るまで待つべきなのだろう。けれど――

 腹の底でフツフツと嗜虐心しぎゃくしんが煮えたぎり、泡沫あぶくを生じては弾けてゆく不快感を律することができなかった。所謂いわゆる同族嫌悪どうぞくけんおの情に突き動かされ、医師としてあるまじき発言をしてしまったのである。とはいえ、長々くだくだしく説教をしたわけではない。木村きむら勇斗ゆうとの歪んだ人格を否定するために必要な言葉はさまで多くを要しなかった。

「人間は誰しもが何かしらの責任をになって生まれてくる、というのがあなたの持論でしたね」

 私の質問を聞くやいなや、木村きむら氏は伏せていた顔を上げて何度も小さくうなずいた。彼が興奮して弁解を始めようとするのを片手で制止しながら、私は次の質問を彼に投げ掛けた。それは木村きむら勇斗ゆうとという人間が自身に課してきた欺瞞ぎまんあばくために用意した質問だった。

「あなたが天から与えられた責務を果たすために殺人を犯したというのなら、どうして嬉しげに話していられるのかしら。少なくとも、あなたは楽しんで淡野あわの遙子はるこの死体を解剖したように聞こえるのだけれど」

 ある時、彼は敬虔けいけんな信徒である。また、ある時、彼は冷酷なサディストでもある。

 木村きむら勇斗ゆうとは大義をかかげて私欲を満たす卑劣漢ひれつかんでしかない。私にはそれが許せなかった。美しいものを踏みにじられ、挙句あげくつばきされたようで恨めしかった。

「――そんなことはありません」

 木村きむら氏の声は震えていた。彼は明確に動揺していたし、表情は醜く崩れ果てていた。そうだろうとも――あなたの経歴は虚偽きょぎまみれているのだから。あなたは美に対して裏切りを働いた。あなたに美を論じる資格はない。

木村きむらさん、失礼ですが今一度、あなたの職業を伺ってもよろしいでしょうか」そう、あなたの正体はアート・ディーラーなんかじゃない。だから、淡野あわの遙子はるこなる女性を殺害する理由もまがものに過ぎない。或いは、自分でも偽りに気が付いていないのかもしれない。もう、いい加減に目を覚ますべきなのだ。これ以上、醜態しゅうたいさらす必要はないのだから。「あなたはヨコハマ港で勤務する郵便配達係で間違いありませんね」

 ウウウウウウ――と木村きむら氏は青ざめた唇をおののかせてうめいた。両腕で頭を抱えながら椅子から転げ落ち、やがてリノリウムの床に横たわってしまった。背中を丸めて、ウウウウとなおうめき続ける姿は胎児を髣髴ほうふつとさせた。どうやら、私の指摘は崩壊寸前で踏みとどまっていた彼の精神を破滅へと追いやったようだ。

 木村きむら勇斗ゆうとの職業がアート・ディーラーでないことは大分だいぶん以前から知っていた。守秘義務があるとはいえ、殺人犯を自称しているからには探偵しないわけにもいかなかったからだ。

 幸いにも、木村きむら氏の仕事場を突き止めることは容易だった。少しでも、彼に理性が残されていたら調査はずっと難航していたに違いない。

 木村きむら勇斗ゆうとの正体はヨコハマ港に雑然と建設されたビルディングてに届けられる郵便物を管理する配達事務員だった。彼は郵便配達をよそおってビルディングの中を自由に行き来することが可能だったはずだ。

 淡野あわの遙子はるこという秘書が実在しているかいなかは定かではない。それを探り出すのは医師としての職務の範疇はんちゅうを逸脱している。また、つまびらかにしたとしても、どうにかなる問題ではないのだ。

 このオフィスで交わされる問答もんどうは守秘義務が適用される。真偽しんぎを明らかにしても意味を成さないし、それは私のポリシーに反する仕事だった。

「じゃあ、あれは――冷蔵庫の中でひしめいているは」正気を失っていた患者がようやく意識を取り戻したようだ。が、それも長くは続かないだろうと私は直感した。まだ、木村きむら氏は自身が抱いている誇大妄想パラノイアを確信していないらしい。その声風こわぶりから不安と焦燥しょうそうは感じられても、自覚と悔悟かいごみ取ることはできなかった。「もう、うんざりだ――ここに来たこと自体が間違いだったんだ」

 木村きむら氏は発条仕掛ばねじかけの玩具おもちゃよろしく床から跳ね上がり、耳障みみざわりな金切り声で猥雑わいざつな文句をわめらすと、きりきり舞いを演じながらもかかとを鳴らして診療室を後にした。

 一連の流れはまるで嵐のように展開されたが、それも想定の範囲内に収まる程度ていど顛末てんまつに終わったらしい。

 ――取るに足らない患者だったな。結局、人間は自身にとって都合つごうの良い物事しか観測しようとしないのだ。そして、人間は誰しもが破滅にあこがれて生きている――

 そんなことを考えつつ、そろそろ帰り支度じたくをしようと書類の整理を始めた頃に――ドンッ、キーッという重い音が窓の外で鳴った。続いて、ガヤガヤという人集ひとだかりがする騒ぎ声が聞こえてきて……どうやら、表通りで酷い交通事故が起きたらしい。あの男は最期さいごにひと花を咲かせたということになりそうだ。


                                     (了)






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