絡新婦

 明けゆく東雲しのゝめ、しらみ渡れば、壁にあらはなぬきみ、けたなんどつたひ、天井を見るに、つまさきながき事、二尺ばかりの女郎蜘蛛じょろうぐもかしらより背中まで斬りつけらて、死したり。人の死骸有ありて、天井もせばし。

     

          『宿直草』/巻二・第一より抜萃


 一、化野あだしの


 洛陽らくようの外れにましま嵐山あらしやまふもと化野あだしのという無縁墓所がある。旧記にれば当時の平安朝のさびれ方は尋常じんじょうではなく、化野あだしのに打ち棄てられる死骸の数は枚挙まいきょいとまが無いほどだったらしい。

 その化野あだしのに投げやられた遺体を供養くようするために建立こんりゅうされた念仏寺の界隈かいわいいおりを結ぶ僧侶が一人あった。残念ながら、彼の姓名について詳しい記録は伝えられてない。ただ、念仏寺の住持職じゅうじしょくとは懇意こんいだったらしく、彼の為人ひととなりだけがわずかに語り継がれている。曰く「気風、穏やかにして、いさぎよよくなき人也」と。

 僧侶は化野あだしの無縁仏むえんぼとけ供養くようして廻ることを勤行ごんぎょうとしており、ほんの少しばかりの托鉢たくはつかてにして暮らす尊者であったらしい。

 その頃、都を飢饉ききんが襲ったこともあり、化野あだしのに捨てられる亡骸なきがらの数は膨大であった。にもかくにも、生活を支えるだけのしろが足りていない。京の都は衰微すいび一途いっとを辿り、ついには羅城門らじょうもん楼閣ろうかく鬼女きじょが出たという噂が立つ始末しまつである。

 罪人が現れても取り締まる役人である検非違使けびいしがいない。洛陽らくようの陥落も時間の問題かと都人みやこびとたちはささやき合い、口をのりするためならば手段を選ばないという無頼ぶらいやからが往来に溢れているほどだった、と旧記は伝えている。

 だから、嵐山あらしやまの惨状は筆舌ひつぜつに尽くしがたいものだった。無論、化野あだしのの凄惨は言うまでもない。亡骸なきがら腐肉ふにくついばからすを払いながら、僧侶は念仏を唱えて山野を巡り歩くのだが、獣に食い荒らされた御仏みほとけとむらう度に末法まっぽうを思い、御衣おんぞの袖を濡らさずにはいられなかった。

 化野念仏寺の住持職じゅうじしょくは彼の感受性を高く評価する一方で危険にも思っていた。「あの純粋さは場合によっては命取りになる。此岸と彼岸の垣根は曖昧あいまいなものだから、魔に魅せられることがなければ良いのだが――」と。

 実際、住持職じゅうじしょくの懸念は的を射ていたと言っていい。僧侶は勤行ごんぎょう専心せんしんするあまりに衆生しゅじょうに対して無関心でもあった。死者に近付くに伴って生者が抱く懊悩おうのうを軽んずるようになっていった。

 洛中らくちゅうに溢れる民草たみくさに説法するよりも、洛外らくがいに捨てられた亡骸なきがら供養くようする方が楽だったのだ。自己弁解を弄する生者よりも、物言わぬ死者の方が気安い存在だったのだ。

 あけに染まった天空に腐肉ふにくついばむためにからすが点々と飛んでいる。嵐山あらしやまは巨大な陰翳いんえいを都に落とし、大路を行く人々のひたいを暗くしている。

 化野あだしのの湿地にりんの音が響き渡り、いおりの中から誦経ずきょうの声が細々と漏れ始めた。念仏寺の小僧が梵鐘ぼんしょうを一つ鳴らして、黒々とした嵐山あらしやまの木立を微かに震わせた。京の都の一日が終わろうとしていた。



 二、破戒


 化野あだしの腐食ふしょくした湿地を一人の僧侶がりんを鳴らしながら歩いている。一歩踏み出すごと御衣おんぞの裾を泥が汚し、飛沫しぶきが上がる。むせせ返るような瘴気しょうきが一帯を包み、生きている物は一つもない。ただ、むしばかりが盛んにうごめき、或いははねを鳴らしている。

 赤黒い泥土うひじねくりかたどったような屍体したいが山を成している。僧侶は新しく築かれた山を見つける度に深々と頭を垂れて誦経ずきょうを捧げた。果たして、彼の回向えこうが実を結ぶ日が訪れるのだろうか。念仏寺の坊主の中には彼の勤行ごんぎょう莫迦ばかにする者さえいる。

 まあ、それも詮方せんかたなきことである。僧侶自身も功徳くどくを疑ってしまうほどに化野あだしのは無法を極めていたのだから。

「おや、あれは一体全体何だろう――」屍体したいで築かれた山の合間をうようにして歩いていた僧侶が不意に立ち止まった。わずかに人の形を留めた亡骸なきがらの上に覆い被さるようにして何者かがうごめいている。僧侶は咄嗟とっさ羅城門らじょうもん鬼女きじょのことを思い出さずにはいられなかった。「人の世も堕ちたものだ。死者をはずかしめてまでしろを求める鬼まで現れたか」

 義憤ぎふんに駆られた僧侶は屍体したいもてあそ狼藉者ろうぜきもの襟首えりくびをむんずと掴んで引っ張った。枯れ枝のような弱々しい身体がいしゆみに弾かれたみたいに退いた。狼藉者ろうぜきものの正体は襤褸ぼろまとった老婆であった。老婆は目を白黒させて僧侶を見詰めている。その狼狽うろたえ方は尋常じんじょうではなく、過去に余程よほどの事があったらしい。

「不届き者めが。そこまでして生きたいか。その悪業あくごうは来世で因果を結ぶぞ。この鬼畜めが、早々にこの場から立ち去れ」

 僧侶が一喝いっかつすると老婆は赤面しながらも反駁はんばくしてきた。老婆は白く濁り始めている双眸そうぼうに涙をたたえて言う。

「何じゃ、乞食坊主こじきぼうずのくせに生意気なまいきを言うな。ってたかっていじめてきよって――生きたいに決まっておろう。饑死うえじにするくらいなら何でもしてみせるつもりじゃて。わしは生きたい。生きたいだけなのじゃ」

 老婆はそう叫ぶと遮二無二しゃにむになって僧侶に掴み掛かった。老婆の意外な抵抗に驚いた僧侶は咄嗟とっさに腕を突き出してしまった。当然、老婆のか弱い体は枯れ葉の如く吹き飛んだ。

 しばらくの間、老婆は腐食ふしょくの湿地に突っ伏していたが、やがて立ち上がるとフラフラとした足取りで墓所を後にするのだった。

 呆然としていた僧侶は先程まで老婆が伏せっていた泥水を覗き込んだ。うっすらと赤く染まった汚水の上に一匹の女郎蜘蛛じょろうぐもが腹を見せて浮かんでいる。彼はハッと息を飲むとおもてを上げて、老婆の後ろ姿を探したが、既に彼女は宵闇に紛れて消えてしまっていた。老婆は嵐山あらしやまの山林に分け入って隠れてしまったに違いない。

 僧侶は何とも言えない厭な気分を抱えながら、肩を落としていおりへと帰って行く。今日はもう死者をとむらう気にはなれなかった。戒律かいりつを破ってしまったことへの後ろめたさだけが、影法師かげぼうしのようにいつまでも付きまとって離れない。僧侶の嘆息たんそくが夕暮れの化野あだしのに大きく響いた。



 三、問答


 トントントントン――。

 ある晩のことである。嵐山あらしやまふもとに打ち建てられたあばら屋の戸が叩かれた。化野あだしのの僧侶は文机ふづくえ経典けいてんを広げて船を漕いでいたが、つづみを鳴らすかのような音に驚き、伏せっていた顏を上げた。彼は少なからず動揺していた。こんな夜半やはんに客が訪れるとは意外である。念仏寺の和尚おしょうだろうか。こんなことはついぞなかったはずなのだが。

 トントントントン――。

 戸を叩く音は中々鳴り止まない。ついに僧侶は意を決して戸外に向かって声を掛けた。だが、いくら呼び掛けても返事がない。ただ、つづみを叩くような音が裏寂うらさびれたいおりの内に鳴り響くばかりである。四半時程しはんときほど、そんな応酬おうしゅうが繰り返されたが、最後には僧侶の方が折れた。理由わけあって口を閉ざしているやも知れぬ。

 僧侶は散々逡巡しゅんじゅんした末に、ガタガタと音を立てながら苦労して戸を開けてみた。戸外に立っていたのは意外な人物だった。

 それは唐紅からくれない小袖こそで蘇芳すおうしびらを身にまとった美しい女であった。長い睫毛まつげには涙の露が光り、華奢きゃしゃな方は小さく震えている。

「こんな夜更けに訪ねてくるとは何事かな。何故なにゆえ、返事をせなんだ。これこれ、そう泣くでない。余程よほどのことがあったのだな。にもかくにも、中に入りなさい――」

 そう言うと、僧侶は悲嘆ひたんに暮れているらしい女をさびれたいおりの中へと招き入れた。しばらくの間、女は静かに泣きじゃくっていたが、やがて落ち着きを取り戻したのだろう。非礼を詫びながらも訪問の理由わけをポツリポツリと語り始めた。

「夜分遅くの訪問をご容赦ようしゃください。私は都でいやしい稼業かぎょうに就いて糊口ここうしのぐ女でございます。本来ならば、このような訪問は決して許されないことなのでしょう。しかし、どうしてもお願いしなければならない事情ができまして――。

 嵐山あらしやまの奥に一人の老婆がみ付いていることはご存知ぞんじでしょうか。かつては洛中らくちゅうきょかまえていたのですが、盗賊に襲われてから山奥に隠れ住むようになったのです。その老婆が、今朝方けさがたついに息を引き取りました。どうやら、頭を強く打ちつけたことが原因らしいのです。大方、つまずいた途端とたんに壁にでもぶつかったのでしょう。随分と足腰も弱っておりましたから――。

 その老婆は――私の母親なのでございます。本当に可哀想なことをしてしまいました。もっと足繁あししげく通ってさえいたら、母の不調にも気が付いてやれたかもしれないと思うと不憫ふびんでなりません。せめて、きちんと供養くようしてやろうと思い立ち、こうして無礼を承知で伺った次第しだいでございます。化野あだしのに徳の高いお坊様がいらっしゃることは都でも有名でございますから、わらにもすがるつもりで――」

 遊女の訴えを聴いていた僧侶は生きた心地がしなかった。女は事故の真相を知らないらしい。彼は真実を打ち明けるべきか悩んだが、結局は口をつぐむ方を選んだ。彼は老婆の所業を心底しんそこ嫌悪していた。彼は自身の過失かしつと老婆の悪業あくごう天秤てんびんに掛けたのである。

「うむ、その老婆のことなら知っておる。化野あだしの無縁仏むえんぼとけ悪戯いたずらをしていたところを叱責しっせきしたこともある。死人をはずかしめてまでしろを得ようとするなどあってはならないことだ。お前の母親は偸盗ちゅうとうの罪を犯したのだ。悲しいことだが、これもまた因果なのだろう。だが、安心して任せると良い。私がきちんと供養くようしておくつもりだから――」

 僧侶は口ごもりながらも、そのようなことを言った。当初こそ、女は静かに頷いて僧侶の話に耳を傾けていたが、「偸盗ちゅうとう」という言葉を聞くや否や眼の色を変えて、ジッと僧侶を真っ向からめ付け始めた。とうとう、女は爛々らんらん双眸そうぼうを輝かせながら反駁はんばくを加えだした。その語勢に僧侶は思わずたじろいだ。

「生きるために奪うことが罪でございましょうか。私どもは贅沢ぜいたくを期待しているわけではありません。その日を暮らせるだけのわずかなしろがあれば満足なのでございます。それを求めることが罪なのでしょうか。

 私は都の男連中に自身の肉体を売ってしろを稼いでおります。いやしい稼業かぎょうだとは思いますが、決して恥じてはおりません。そうしなければ饑死うえじにをするからでございます。私は死にとうございません。生きとうございます。ただ、生きたいと願うことが罪になるのでしょうか」

 僧侶は反論することができなかった。女の生業なりわい邪淫じゃいんであると断ずることができなかった。彼は説法することを諦めざるを得なかった。

 生きようとする者の熱意に当てられて、歳若い僧侶は眼を白黒させるばかりである。ここに至って、彼は自身の内側に充満する欺瞞ぎまんの臭いに感付いた。それは耐え難いまでの悪臭となって、彼の胸中をざわつかせた。

 女は憎しみのほむらを宿した瞳で、僧侶を正面から見詰めている。彼のひたいにはおびただしいまでの汗の露が浮かび、青く染まった唇は小さくおののいている。「この女は鏡なのだ」と僧侶は思わずにはいられなかった。この遊女は僧侶の内側に秘められていた欺瞞ぎまん利己心りこしん否応いやおうなく暴き立てる鏡であった。

 自身の醜悪さを真っ向から覗き込んでしまった僧侶はついには発狂した。化野あだしのの湿地に男の咆哮ほうこうが響き渡る。喪神そうしんの森のこずえから、幾羽かのからすが羽をひるがえして飛び立った。



 四、女郎蜘蛛じょろうぐも


化野あだしのの坊主は無事だろうか」夜が明けると共に念仏寺の和尚おしょうは仏堂を飛び出した。法衣ほうえの裾を尻端折しりはしょりした姿で腐食ふしょくした湿地を駆け抜ける。和尚おしょうが慌てふためいているのにも事情があった。「昨晩、化野あだしのに人魂が飛び交っていた。それもおびただしいまでの数の人魂が。それにしてもあの叫び声は一体――」

 念仏寺の和尚おしょう嵐山あらしやまふもとまでやって来ると粗末ないおりの戸を叩いた。だが、いくら呼び掛けても返事がない。和尚おしょうは言い知れない胸騒ぎを覚えてあばら屋の戸を引いた。

「ああ、やっぱりか。あの悲鳴のぬしは君だったのか。もっと早くにさんじていれば、こんなことにはならなかったかもしれない」

 念仏寺の和尚おしょうの予感は的中してしまった。いおりの中で一人の坊主が首を吊って死んでいたのである。あばら屋のはりに縄を掛けて縊死いしはかったのだろう。僧侶のけいついは無惨にもへし折れて、畳には糞尿ふんにょうが小さな池を成している。それが、鼻を覆いたくなるほどの悪臭を放っており、和尚おしょうは堪らずせてせきをした。

 にもかくにも、遺体をはりから下ろしてやらなければならない。だが、おとろえた坊主一人の力では難しい。和尚おしょう合掌がっしょうをして念仏を唱えると朋輩ほうばいの死に顔をまじまじと見た。

 その時である。一匹の女郎蜘蛛じょろうぐもがクルクルと回りながら天井から降りてきた。糸の先を辿ると僧侶の口許くちもとに行き着いた。死者のよだれ見違みちがえたものの正体は一筋のか細い蜘蛛の糸であった。

 和尚おしょうは不吉を感じ取り、思わず大きく胴を震わせた。念仏寺の住持職じゅうじしょく後退あとじさりしながらいおりを立ち去った。はりからぶら下がった僧侶の死体がブラリブラリと揺れていた。

 暁鴉あけがらす化野あだしのに打ち棄てられた屍体したい腐肉ふにくついばむために空を飛び交って鳴いている。腐食ふしょくの湿地を念仏寺の和尚おしょう尻端折しりはしょりをして駆け抜ける。こうして、京の都の一日が慌ただしくも始まろうとしていた。


                                   (了)

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