狂骨

 狂骨きやうこつ井中せいちう白骨はくこつなり。ことはざはなはだだしき事をきやうこつといふも、このうらみのはなはだしきよりいふならん。


     鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より


 一、骨


 旦那様、どうかご覧くださいまし。

 これが私の骨でございます。

 白々ととがった鋭利な骨でございます。

 どうして恐れる必要がございましょう。

 今の私は腐水ふすいに浮かぶ一つの髑髏どくろ

 実に無力な真っ白な骨に他なりません。


 旦那様。どうかご覧くださいまし。

 貴方が愛した肉はことごと落剥らくはく致しました。

 うじき、ねずみかじられた哀れな白骨。

 その正体が私でございましょう。

 暗い井戸の底で揺蕩たゆたう一体の骸骨がいこつです。

 腐敗した肉は水と交じりよどんでおります。


 旦那様、どうかご覧くださいまし。

 私の肉体は腐り落ちてけがれ水となり、

 江戸中にき散らされました。

 ここには何もございません。

 濡れた岩肌が四方を囲むばかりです。


 旦那様、どうかご覧くださいまし。

 私の願いはただ一つでございます。

 人々にすすられた私の肉汁にくじゅうを返してほしい。

 岩肌から滴る雨水が骨を打つ度に、

 私は寒さにさいなまれております。


 旦那様、どうかご覧くださいまし。

 肉を返してください。返してください。

 彼岸ひがん此岸しがん狭間はざまで寒さに凍える辛さを、

 貴方はご存じないのでしょう。

 肉が恋しくて骨は今宵も泣いております。



 二、煮売り屋の女将の陳情


 お願い申し上げます。このままではあきないどころではございません。どうか、あの井戸の底をさらってくださいまし。

 全く、酷い臭いでございます。煮売り屋にとって水は命に等しい大切な品なのです。麹町こうじまちに店を構えている者達は、この悪臭をして皆一同に閉口へいこうしております。

 あの井戸は死んでおります。それでもあきないには水が必要でございます。各々おのおのが頭を悩ませている次第です。隣町から水を買い求めることができない商店しょうてんは、軒並のきな暖簾のれんを下ろすことにもなりましょう。全く、酷いお話ではございませんか。

 このままでは、遠からず甲州街道こうしゅうかいどうに並ぶ店にも悪口あっこうが及ぶことにもなりましょう。そうなれば、沙汰さた益々ますます大事になりかねません。御上様おかみさまが本気で検分けんぶんなさる前に、町奉行方まちぶぎょうがたが井戸をお調べなさった方がよろしいかと存じ上げます。

 私とて、このような腹の探り合いは本意ではないのです。御奉行様ごぶぎょうさまを働かせよう等とは考えてもおりません。それが不遜ふそんであることくらいは、私共も承知しております。しかし、あの井戸から漂う臭気にはえられません。あの臭いのもとはもしかしたら――。

 五代将軍様が生類しょうるいを格別にあわれむようになって久しい歳月が経ちますが、私共は恐れております。あの井戸の底から何がさらわれるのか。きっと、我々にとって都合つごうの悪いものが出てくるに相違そういございません。

 巷間こうかん剣呑けんのんな噂で満ち溢れております。所詮しょせん、噂の域を出ませんが、火のないところに煙は立たないとも申します。噂は案外無碍むげにもできないものでございます。私は恐ろしいのでございます。

 あのですね――聞こえるのですよ。夜になると井戸の底から――女のすすり泣く声が。さめざめと泣きながら言うのです。「肉を返せ」と。

 皆殊ことさらには口外こうがいしませんが、あの井戸に潜むものについては知っております。犬や猫が脚を滑らせて死んだのなら得心とくしんもゆきます。仮令たとえ御上おかみから沙汰さたが下されても詮方せんかたなきことと受け容れるつもりでございます。

 しかし、あの嘆きが真実ならば――まことに恐ろしいことでございます。銭を持たぬ者は、あの井戸の水を飲むしかありません。あの水は呪われています。全く、呪われているのでございます。

 また、このような話も聞いたことがあります。夜半やはんくだんの井戸のそばを通り過ぎると、無惨むざんおもての崩れた女がたたずんでいるというのです。そのものはぐっしょりと濡れており、地に池をしているほどとのことです。そして、「肉を返せ、肉を返せ」と恨めしそうにつぶやいて、見る者を驚かすとか――。

 ああ、どうかお願い申し上げます。あの井戸には何かが沈んでおります。麹町こうじまち商人しょうにんの皆が怖れ、また脅かされております。このままでは日々の暮らしもままなりません。

 御奉行様ごぶぎょうさまわずらわしい思いをさせてしまい、誠に申し訳なく存じ上げます。しかし、どうか与力よりき同心どうしんの力をお借りしたいのです。あの井戸には必ず秘密が隠されております。それも、おぞましい秘密が――。

 ああ、御奉行様ごぶぎょうさま、これではあんまりでございます。このままではけがれが江戸中に蔓延まんえんしてしまいます。どうか、最後までお聴きください。何卒なにとぞ、よろしくお願い申し上げます。さもなければ、このままでは、このままでは――。



 三、八丁堀与力同心屋敷での合議


 各々方おのおのがた、これが密議みつぎであることを努々ゆめゆめ忘れてはならぬぞ。まさか、井戸の中からあのようなものが出てくるとは思いもよらなかった。煮売り屋の女将おかみ陳情ちんじょうは正しかったということになりそうだ。非を認めれば、麹町こうじまち界隈かいわい商家しょうかは黙ってはいないだろう。さて、どうしたものか――。

 煮売り屋の女将おかみには幾らかの金子きんすを握らせて口をつぐんでもらうことにしよう。騒動になれば町奉行方まちぶぎょうがたに大いに迷惑をかける事にもなろう。

 それにしても、あれほどまでに至るまで、誰も井戸を検分けんぶんしようと思わなかったのは、明らかな不手際というものだ。肉が腐り落ち、うじたかっていたではないか。眼窩がんかへびに食い破られ――思い出すだけでも怖気おぞけが立つ。

 しかも、そのくされ水を客に振舞ふるまっていたとあっては、この麹町こうじまち一帯の商家しょうかは信用を失うぞ。無論、我々にも御上おかみから沙汰さたが下されるだろう。いずれにせよ、難儀なんぎな立場にあることだけは確かである。これは困ったことになった。何か、良い打開策はないだろうか。

 この際、下手人げしゅにんの有無など問題のうちにならない。否、彼奴きゃつ捕縛ほばくされて世間にさらされては、我々も窮地きゅうちに立たされることにもなろう。井戸のむくろ随分ずいぶんと上等な衣を身にまとっていたようだな。下手人げしゅにんの身分も相応なら、とんでもないことになる。種々しゅじゅのことをかえりみると、何か策を講じる他にあるまい――。各々方おのおのがた、異論はござらぬな。

 江戸中に腐乱死体のけがれ水が振舞ふるまわれていた、と知られてはならない。しかし、人の口に戸を立てられないのも事実であろう。たみくさは既に違和いわを感じているらしい。だが、くされ水の正体が、女のむくろのものであれば騒動にもなろうが、他の生類しょうるいのものであれば憐憫れんびんせざるを得ない。

 御上おかみ御触書おふれがきも存外ありがたいものであるかもしれない。異変の正体は、畜生が井戸をのぞき込み、足を滑らせたことにしようではないか。

 井戸から上がったむくろには、厳重にむしろを掛けて、そのまま麹町こうじまち心法寺しんぽうじに運び、ねんごろに荼毘だびしてもらうことにしよう。坊主にも幾らかの金子きんすを握らせて、煮売り屋の女将おかみと同様に口をつぐんでもらうことになるだろう。

 それにしても、人間とはごうの深い生き物ではないか。今度の下手人げしゅにんにせよ、我々にせよである。御上おかみ御法ごほうを利用して、人の生死や罪科ざいか有耶無耶うやむやにしてしまおう、としているのだからな。

 江戸中にかれた女の腐肉ふにく、また、腐水ふすいは呪いとなって静かにりをひそめている。民草たみくさに覚られてはならない。騒動は波紋となって世を乱すことになる。これはれきとした呪いなのだ。せめて、我々、与力よりき同心どうしんだけは心を強く持たなければならない。これは必要な悪行あくぎょうなのだろう。

 それでは、各々方おのおのがた、心根は決まったか。むくろは人目を忍んで夜半やはんに上げて、速やかに心法寺しんぽうじに運び込むこと。金子きんすの準備も余念よねんなく整えておくように――。

 では、さっそく、連判状れんぱんじょう支度したくを行なうことにしようではないか。我々は今夜にも罪を犯すが、神仏への誠意を忘れたわけではない。今宵の合議ごうぎは皆の総意としようではないか。

 さあ、時間が惜しい。用意のできた者から署名を願う。また、今度の連判は傘連判状からかされんぱんじょうにするつもりである。誰の責任でもない。我々は一蓮托生いちれんたくしょうということにしよう。それにしても、恐ろしいことよ――。



 四、麹町心法寺住持の告解


 ええ、全てとどこおりなく供養くようは致しました。しかし、まさかこのようなことになろうとは、全く思いもかけない事態でございます。仏様に試されているような心持ちです。むくわれないお話ではありませんか。不憫ふびんで仕方がございません。むくろが泣いております。

 いえ、これは本当のお話でございます。八丁堀はっちょうぼりのお屋敷の者達が、この寺に遺体を運び入れてからのち、実に不可思議ふかしぎなことが続いております。小僧達がおびえるようなことも屡々しばしばございます。きっと、女の無念がうずしてどよめいておるのでしょう。

 障子しょうじに女の影が映ずることもありますし、時にはそれがふすま隙間すきまから此方こちらのぞき込むこともあります。腐乱臭を漂わせながら、此方こちらをじっとうかがう姿を見て、卒倒そっとうした小僧もおります。あわれな女でございましょう。いまだに此岸しがん未練みれんを残しているようで――。

 不思議を数え上げると枚挙まいきょいとまがございませんが、あの声のことに関しては皆が頭を抱えている次第でございます。

 逢魔おうまときと申しましょうか。坊主が暮六くれむつの梵鐘ぼんしょうを鳴らす頃になりますと、蚊のうなるような細い声が、何処どこからともなく聞こえてくるのでございます。

 それは、「肉を返せ、肉を返せ」という怨嗟えんさの声です。きっと、あの女のむくろは江戸中にかれた自身の腐肉ふにくが恋しくてしようがないのでございましょう。

 恐ろしいことですが、麹町こうじまち界隈かいわいに暮らす多くの者達が、知らずとはいえ、彼女の腐肉ふにくすすり、またはみました。八丁はっちょうぼり与力よりき同心どうしん達の判断は間違ってはおりません。それは、あの不気味な声を一つ聞いてみたら、きっと分かっていただけると存じ上げます。

 我々、僧侶は彼女の声を耳にする度に勤行ごんぎょうの念仏と供養を欠かさないようにしております。彼女の怨念おんねんしずめるために、どれほどの月日が掛かるか見当もつきません。それでも、このことが人々の知ることとなれば――と考えればめることなど到底とうていできません。この呪いはあまりにも危険なものとなってしまいました。全く、恐ろしいことでございます。

 それにして、恐ろしいことは、下手人げしゅにんがいまだに大手を振るって、この江戸の何処どこかに暮らしている現実でございます。彼岸ひがんの者よりも、此岸しがんの者の方が狂気じみているだけ、より厄介な事のようにも思えてきます。

 我々の説法せっぽう祈祷きとうも、おそらく彼の下手人げしゅにんにはしるしなくえるでしょう。私はそれが何よりも恐ろしいように思えてしまうのです。弱気になっていけませんな。神仏の御力みちからを信じることを失念しておりました。如何いかなる時も、住持じゅうじとしての意識を忘れてはなりません。

 ああ、そろそろ、暮六くれむつの梵鐘ぼんしょうが鳴る時分でございます。今宵も肉にがれた骨が狂おしく泣くことでしょう。「肉を返せ、肉を返せ」とすすり泣くことでしょう。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏なむあみだぶつ――。

 さあ、早くお帰り下さいませ。無事に家路を辿たどれるようにお祈り申し上げます。少々、おしゃべりが過ぎてしまいました。この度のことは、どうか胸中きょうちゅうとどめておいて下さると、私も人々も救われます。それでは、失礼させていただきます。さようなら。


                  (了)


               

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