影女

 ものゝけあるいへには月かげに女のかげ障子せうじなどにうつると云。荘子さうじにも罔両もうりやうと景と問答もんだうせし事あり。景は人のかげ也。罔両もうりやうかげのそばにある微陰うすきかげなり。


    鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より



 一、すずろ歩き


 宝永ほうえい享保きょうほうの冬の頃だったと思う。益田屋ますだや喜三郎きさぶろう柄樽えだるを手にぶら下げながら、人で賑わう永代橋えいたいばしを横目に歩いていた。

 じきよるとばりが下りるはずだ。橋向こうの深川ふかがわに群衆が崩れ込もうとしている。人間は快楽のためなら、いくらでも野放図のほうずになれる。喜三郎きさぶろうは江戸が――というより、そこに住まう人間が自然じねんと身にまとう貪婪どんらんが嫌いであった。

酒屋ざかや吉右衛門きちえもんあきないの相談をしてきます」喜三郎きさぶろうは来年に売り出すことになっている新酒を柄樽えだるに注ぐと、番頭の目を盗んで店から逃げ出した。商用というのは必ずしも嘘ではない。実際、吉右衛門きちえもんを訪ねるために永代橋えいたいばしまでやって来た。だが、新酒の出来具合できぐあいについて彼と議論するつもりはない。喜三郎きさぶろうはさまで熱心な旦那ではない。「所詮しょせん、これはまどみず。飲んで酔えるならば不足はないのだ」

 人群れを掻き分けて、坂井屋さかいや吉右衛門きちえもんの邸宅に辿り着いた。表口には暖簾のれんが掛かり、酒を求める人でごった返している。喜三郎きさぶろう逡巡しゅんじゅんした末に都合つごうを考えて、裏口から朋輩ほうばいを訪ねることにした。人と会いたくないくせに、人と話したい気分だった。

 坂井屋さかいやの裏手に回り、安普請やすぶしんの木戸に手を掛けた。そこで、喜三郎きさぶろうは意外なものを見た。得体の知れない蔓草つるくさがまとわりついた板塀いたべいの向こうに障子窓しょうじまどがある。普段は閉め切られているはずなのだが、今日は違った。

 暗がりの中に女の横顔がかすかに見える。しばらくの間、女の影はじっとしていたが、やがて薄闇に紛れて消えていった。

「はてな。吉右衛門きちえもん寡夫やもおだったはずだ。病で妻を亡くして久しいのだが」喜三郎きさぶろういぶかしんだが、別段、不思議でもないことに気が付いた。永代橋えいたいばしの先には深川ふかがわがあり、深川ふかがわの中には女がいる。吉右衛門きちえもんが誰かとねんごろになっていたとしてもおかしくはないのだ。「坂井屋さかいやも隅に置けない男だ。だが、彼もまだ若い身空である。後妻を迎えるのも悪い考えではないかもしれない」

 喜三郎きさぶろうげていた柄樽えだるを見た。友人を祝うにはちょうど良い手土産かもしれない。喜三郎きさぶろうは江戸の人間を嫌悪していたが、坂井屋さかいや吉右衛門きちえもんだけは別だった。彼が見初みそめた女なら許せる気がした。そこまで考えて、喜三郎きさぶろうは自分が存外に傲慢ごうまんであることに気が付き、ちょっとだけわらった。

 不意に一陣の風が襟元えりもとでて吹き過ぎて行った。益田屋ますだやの若旦那は大きなくさめをすると、数少ない友人を祝福するために、裏木戸を押し開いて邸宅に入ってゆく。柄樽えだるの中でとろみのある水がかすかに揺れていた。



 二、酒宴


 行燈あんどん灯芯とうしんがジリジリとかすかな音を立てて燃えている。風が吹く度に灯火ともしびが揺れて、板壁に映じる陰翳いんえいをヌラリとうごめかしている。もう、随分ずいぶんと以前から火鉢の炭は白い灰となってくすぶっている。寒さを忘れるためにも二人の男は酒をわし続けていた。

 喜三郎きさぶろうしきりに酒を勧めるので、吉右衛門きちえもんの顔は酔いのせいで赤く染まっている。もとより、吉右衛門きちえもんは肌の薄い男である。酒屋ざかやを営んでいるくらいだから、酔いには強いはずだが、直ぐに顔に出てしまう性質たちをしている。喜三郎きさぶろうはそれが愉快でしかたがない。彼はますますさかずきを重ねた。両人の酔い方は対照をなしている。

「それにしても、吉右衛門きちえもんさんも思い切ったことをなさる方だ。奥方を亡くしてから随分ずいぶんと経つ。もう、十分に供養してきたはずであろ。ただ、嫁を迎えるつもりなら言ってほしかったな」

 しばらくの間、吉右衛門きちえもんは間の抜けたように口を開けて呆然ぼうぜんとしていた。だが、やがて何かを察したのか、細い身体を二つに折って笑い始めた。喜三郎きさぶろうもその痙攣けいれんじみた笑い声につられて笑い始めた。暗闇の中にゲタゲタという病質な声が響いては消えてゆく。

益田屋ますだやさん、それは思い違いというやつですよ。妻のかやが亡くなってから久しい月日が流れましたが、嫁子を迎えるつもりなんて全然ありません。根も葉もないうわさというものです。誰から聞いたか分かりませんが、うまいことかつがれましたね」

 吉右衛門きちえもんは大きな瞳に涙を浮かべて言う。嘘をついているようにも見えない。そのまま、水に流してもかまわなかったが、湧いて生まれた疑問を前にして立ち止まらずにはいられなかった。では、あの時、垣根越かきねごしに見た女の正体は誰だったのだろう。喜三郎きさぶろうさかずきに酒を注ぎながら言った。

「いや、誰かにそそのかされたというわけじゃない。実際にこの目で見たのだよ。窓の向こうに女が立っているのを確かに見た。ぐに影に隠れてしまったがね。僕はてっきり彼女が坂井屋さかいやの新しい女将おかみさんになるのかと思っていたよ。あの女は誰なのかしらん」

 吉右衛門きちえもん行燈あんどんの火を見詰めながら、ホウと小さく嘆息たんそくした。やはり、女を囲っているのだろうか――と喜三郎きさぶろうが疑い始めたころである。吉右衛門きちえもんがポツリポツリと呟き出した。どこまで本気かは知れないが、その言葉には不思議な重みがあった。

「それは、きっと影女かげおんなというやつですよ。何でも、ものたぐいだとか。傾いた家にみ付くと聞いたことがあります。かやが死んでから、随分ずいぶんと寂しい家になりましたからなあ」

 確かに坂井屋さかいやあきないは勢いを失いつつあるようだった。吉右衛門きちえもんの髪にも白いものが目立ち始めている。商売人としての威勢はほとんどない。妻のかやを亡くしてから、吉右衛門きちえもんは変わってしまった。だが、喜三郎きさぶろうには現在の彼の方が好ましく感じられる。妻を失ったことにより、品性を取り戻したように思えてしまう。喜三郎きさぶろうは微笑するとさかずきたたえられた酒を飲み干した。

「だが、こんな夜には化物のたぐいでも女っ気の一つでも欲しいものだね」

 喜三郎きさぶろうの冗談に吉右衛門きちえもんこたえない。江戸の夜は深々と更けてゆく。行燈あんどん灯芯とうしんがジリジリとかすかな音を立てて燃えている。何処どこからともなく、大きな風が吹き込み、板壁に映じた陰翳いんえいをヌラリと揺らした。

 益田屋ますだや喜三郎きさぶろう大儀たいぎそうに欠伸あくびをすると、コクリコクリと舟を漕ぎ出した。しばらくの間、吉右衛門きちえもんはそれを眺めていたが、やがて立ち上がると、寝床ねどこ支度したくをするために座敷の奥へと消えていった。



 三、かげいてわく


 あれから、どれほどの時間が流れたのだろう。益田屋ますだや喜三郎きさぶろうは座敷に広げられた布団の上で寝返りを打ちながら、坂井屋さかいやの行く末について考えを巡らせていた。

 自分は別として、吉右衛門きちえもんくさびから解放されるべきだと思う。新しい妻を迎えることで彼に平穏が訪れるならば、そうするべきなのである。

 吉右衛門きちえもんの力ない微笑の下には破滅への願望のようなものが常に見え隠れしていた。彼が人生の指針を見失っていることは明らかだった。友人として、自分は何をすべきなのだろうか――と考えながら、うつらうつらしていると、不意に声を掛けられた。

「もしもし――。益田屋ますだやさん、そこにいらっしゃるのでしょう」

 喜三郎きさぶろうが振り向くと、閉められた障子襖しょうじぶすまに女の影が映じていた。ふすまの向こうには庭がしつらえられているはずだ。女は月光を背にして座しているらしい。その声は消えてしまいそうなほど細いものだった。喜三郎きさぶろうは息を殺して影の様子を見詰めるばかりである。

益田屋ますだやさん。お天道様てんとうさまが昇ったら、この家をぐに出て行って下さいまし。そして、二度と吉右衛門きちえもんに近づかないで下さいまし。あの男は私のものでございます。誰にも渡しは致しません」

 細いが芯のある声だった。喜三郎きさぶろうはその声の主を知っていた。彼は障子しょうじに映じる影に問い掛けた。明確な憎悪を向けられて、喜三郎きさぶろうは少なからず戸惑とまどっていた。

「その声はおかやさんだね。あなたは三年も以前に亡くなったはずだ。どうやら、道に迷ってしまったらしい。哀れなことだが、どうして、私を憎む必要があろうか。吉右衛門きちえもんさんのことは任せてほしい。悪いようにはしないつもりだから」

 しかし、女の影はがんとして喜三郎きさぶろうの提案を聴き入れようとしない。どうしても、喜三郎きさぶろうを夫に近づけたくないらしい。ちょっとの間、押し問答が続いたが、女の影はその理由をポツリポツリと語り始めた。それは、大体だいたい、このようなことであった。

益田屋ますだやさん、あなたはおめでたい方でございます。夫の吉右衛門きちえもんはあなたに恋慕れんぼしているのでございます。私は随分ずいぶんと苦しめられました。あなたの横顔を熱心に見詰める夫の様子を思い出すだけでも怖気おぞけが立ちます。あの飢えたような物欲ものほしげな目といったら――全く、恐ろしいほどです。

 あなたを見掛ける度に、吉右衛門きちえもんは私を抱きました。浅ましいまでの勢いで求めてくるのです。枕を共にすることが耐え難い苦痛になりました。夫は私のことなど微塵みじんも愛してなどいませんでした。私は益田屋ますだや喜三郎きさぶろうという男の身代わりにしかなれなかったのです。その悔しさを理解できますか。

 ですが、今の私は満たされています。私が死んでから夫は変わりました。吉右衛門きちえもん良心りょうしん呵責かしゃくから私を愛し始めているのでございます。ようやく、私は人並みの幸福というものを手に入れたのです。悔恨かいこんが愛情の源泉げんせんだとしても構いません。私は吉右衛門きちえもんが枯れてしまうまで、この慈愛をしゃぶり尽くすつもりでいるのでございます」

 喜三郎きさぶろうは女がいだ物凄ものすごいまでの執念を前にして、ゾッとせずにはいられなかった。人間の業の底知れなさを前にして、恐れずにはいられなかった。この女は吉右衛門きちえもんのことを愛しているし、同時に憎んでもいる。そこに一握りの矛盾も介在かいざいしていないことが怖いのである。

「分かった。朝になったら、この家を出て行くことにしよう。吉右衛門きちえもんにも会わない。おかやさん、彼はあなたのものだ――」

 乾いた唇を舐めながらも答えた。すると、障子しょうじに映じていた影が大きく揺れて消えた。喜三郎きさぶろうは布団を頭からかぶると、震える身体を両腕に抱き締めるようにして横になった。

 遠くで夜鷹よたかの鳴き声が響いている。今晩はどうしても眠れそうにない。坂井屋さかいやは潰れるだろうな――と思いながら、喜三郎きさぶろうは夜明けを待つ。まだまだ、あけぼのまでは遠いようである。吉右衛門きちえもんいびきだけが無闇矢鱈むやみやたらに大きく聞こえる。彼を見下ろす女の影を想像して、ブルリと胴を震わせた。



 四、沈黙


 朝六つの梵鐘ぼんしょうが鳴ると共に、益田屋ますだや喜三郎きさぶろう寝床ねどこを抜け出した。そのまま、坂井屋さかいやを後にして戻らないこともできたが、吉右衛門きちえもんの様子が気掛かりでしようがない。せめて、一宿一飯いっしゅくいっぱんの礼を言ってから帰ろうと身支度みじたくを整え始めた。

益田屋ますだやさん、朝餉あさげにしましょう」座敷のふすまが開かれて、吉右衛門きちえもんがひょいと顔を出して言った。彼の気色に変わったところは微塵みじんもない。昨晩の出来事は夢か幻であったのかもしれないと喜三郎きさぶろういぶかしんだ。「ああ、これはどうも――。今、そちらに行きます」

 居間に移ると既に食事の用意がされていた。質素ではあるが心尽くしを感じさせる料理である。味噌汁と粥が食傷気味の胃腑いのふを底から温めるようだった。喜三郎きさぶろうは茶をすすりながら思う。「やはり、あの影との問答は妄想のたぐいだったのだ」と。

「昨夜、おかやさんが夢枕に立ったぜ」喜三郎きさぶろうは微笑すると小さく言った。無論、彼は吉右衛門きちえもんが笑い飛ばすだろうことを期待していた。それは確信に程近い予感のようなものだった。「君が僕に特別な感情を抱いているというのだから面白い。全く、お笑い草だ」

 だが、吉右衛門きちえもんの反応は、喜三郎きさぶろうが予期していたものとは違っていた。沈黙――それが坂井屋さかいや吉右衛門きちえもんの示した解答だった。喜三郎きさぶろうは自分が口にした言葉が如何いか野暮やぼであり、それに対する相手の応酬が如何いかいきなものであるかを知り、かえって羞恥しゅうちを感じて赤面せずにはいられなかった。

 結局、坂井屋さかいやとの紐帯ちゅうたいを断ち切った原因は幽霊の恨言うらみごとではなく、喜三郎きさぶろう軽率けいそつにあったことになる。彼は人情の機微きびを理解していなかった。すれば花となる恋模様こいもようあばいてしまったおめでたい人間であった。

 喜三郎きさぶろう坂井屋さかいやを出るまで漠然ばくぜんとした罪の意識にさいなまれ続けた。吉右衛門きちえもん泰然自若たいぜんじじゃくとした素行そこうが、喜三郎きさぶろうの愚かしさを逆説的に証明していた。女の影が残した無念は正鵠せいこくていたと言えよう。益田屋ますだや喜三郎きさぶろうは全くのぼんやり者であった。

 喜三郎きさぶろう永代橋えいたいばしを渡りながら考える。「この薄靄うすもやの掛かった両眼を開かせるには、苦い薬が必要なのかもしれない」と。

 昼九つの梵鐘ぼんしょうが鳴り始めた。この橋の行く先に深川七場所ふかがわななばしょひらかれている。江戸のからかぜに吹かれて、人々が肩をすぼめながら歩いている。喜三郎きさぶろうは彼らを見くびっていた。人間の内奥ないおうのぞいた気分になり、鼻先で笑っていた自分の愚鈍ぐどんさが情けない。

 空になった柄樽えだるを手にたずさえて、益田屋ますだやの若旦那は永代橋えいたいばしを下ってゆく。何処どこからともなく、カンラカンラという女の嬌声きょうせいが聞こえた気がした。


                                  (了)


                             

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