煙々羅



 しづがのいぶせき蚊遣かやりけぶりむすぼゝれて、あやしきかたちをなせり。まことにうすものの風にやぶれやすきがごとくなるすがたなれば、烟々羅えんえんらとは名づけたらん。

            

            鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より


 一、紫煙


 時刻は午前三時三十分。閑古鳥かんこどりが鳴き出しそうな寂しい店内の様子を見て、君島きみしま史也ふみやはため息を漏らした。バーの経営が振るっていないことは明らかである。実際、口をのりするだけで精一杯の生活が続いている。

「どうにかしないと、店と共倒れしてしまう」史也ふみやはカウンターに置かれたタバコに手を伸ばしながら思う。状況は逼迫ひっぱくしているはずなのに、彼の挙動は緩慢かんまん優雅ゆうがであった。守るべきものを持たない主義が彼に余裕を与えている。「一代で築いた店なんだ、一代で潰しても恥じゃない」

 タバコに火をともして、宙空に向けて紫煙しえんを吹いた。暖色の照明の下で煙がからみ合い、ちょっと間を置いてからほどけてゆく。しばらく、史也ふみやはそれを無心で眺めていたが、こうしているうちにも経費は積もっていくことに気が付いて、店を閉める準備をしようと椅子から立ち上がった。

 二本目のタバコをくわえながら、バーの看板を仕舞しまおうと、飴色あめいろのウッドドアに手を掛けた途端とたんに、軽い目眩めまいに襲われた。史也ふみやは壁に肥満した身体を預けて耐えていたが、口端くちさきに挟んでいたタバコを床に落としてしまった。

 フロアタイルの上でタバコが煙を立てている。史也ふみやは定まらない視点で煙を見詰めていたが、じきに奇妙なことに気が付いた。風に揺れる煙が、徐々に像を結び始めたのである。史也ふみやは目を回しながらも、息を殺して見守り続けた。今晩、彼は酒を飲んでいない。

 やがて、煙はいとけない子どもの顔をかたどり、苦悩するかのようにゆがんで消えていった。霧散むさんしていく紫煙しえんを眺めながら、史也ふみやは幼いころに祖父母の家で見た一枚の絵画を思い出していた。それは、ノルウェーの画家であるエドヴァルド・ムンクの『叫び』であった。彼の背中を冷たい汗が伝う。あまり、良い記憶ではなかった。

 史也ふみやは七歳のころ、両親の離婚をきっかけに、祖父母の家に預けられて育った。祖父は戦中を生きた古人いにしえびとらしい厳格げんかくな男だった。両親に捨てられたも同然の子どもをあわれむどころか、祖父は意気地いくじがないと言って責めた。

 史也ふみやの祖父は絵を趣味にしていた。彼の書棚には沢山たくさんの画集が収められていたが、その中にエドヴァルド・ムンクのものがあった。祖父はおびえる孤児みなしご執念しゅうねく絵を見せ続けた。史也ふみやが泣き叫んだことは言うまでもない。

 童子どうじの幻影を見て、史也ふみやは胸がざわつくのを感じた。彼は達磨だるまのように肥えた身体を震わせると、煙を立て続けるタバコの吸殻すいがらを念入りににじって消した。とらえようのない不安が彼の背中を焼いていた。

「そろそろ潮時しおどきかもしれない」史也ふみやは考える。ウッドドアを押すと、真夏のなまぬるい風が顔面をめて去っていった。祖父が死んでから随分ずいぶんと経つが、いまだに史也ふみや意気地いくじのない孤児みなしご根性こんじょうを捨てきれずにいる。彼は三本目のタバコに火をともした。



 二、同情


「そりゃ、お前、煙々羅えんえんらというやつだよ」伊東いとう和海かずみはグラスをかたむけながら言った。史也ふみやは聞き覚えのない言葉を耳にして、ちょっとだけ首をひねって考えた。肥満した彼の挙動には愛嬌あいきょうがある。「それは、どんな漢字で書くんだろう。さっぱり分からない」

 史也ふみやも本を読む方だが、高等学校で国語を教えている伊東いとうにはかなわない。史也ふみやは自身の無知をさして恥じることもなく、素直に降参こうさんしてたずねた。「この男は歳を取らない」と思いながら、伊東いとうはポケットからタブレット端末を取り出してあやつり始めた。しばらくして、史也ふみやの前に一枚の浮世絵うきよえが差し出された。

「ほら、これが煙々羅えんえんらだ。石燕せきえん先生が描いているが、おそらく彼の創作だろう。りの煙のように立ち上り、薄絹うすぎぬのように破れやすい――とらえどころのない妖怪だ。お前が見たのは、これじゃないかな?」

 うすぼんやりとした煙が立ち上り、人の子どものような像を結んでいる。鳥山とりやま石燕せきえんの『煙々羅えんえんら』は、エドヴァルド・ムンクの『叫び』によく似ていた。思わず、史也ふみやは眉を曇らせた。

「あまり、見ていて楽しい気分になる絵じゃないな。何だか不安を掻き立てるような、妙に居心地が悪くなるような感じがする。少なくとも、俺は好きになれそうにないな」

 伊東いとうはタブレット端末を仕舞しまうと、史也ふみやの顔をしげしげと見詰め始めた。二人は小学生の頃からの旧知の仲であるが、対照的な老い方をしている。伊東いとう華奢きゃしゃな肩を揺らしながら笑うと、史也ふみやも豊満な腹を揺すりながら笑った。しばらくの間、閑散かんさんとした店内に二人の笑い声が響いた。

「いや、石燕せきえん先生にしては優しい画風の絵だと思うぜ。何と言うか、喜劇的な要素がある。間が抜けているようだ、と言っちゃ失礼だけどね」

 伊東いとうが言わんとすることも分かる気がした。確かに緊張を感じさせない絵である。石燕せきえんは様々な妖怪を描いているが、これは飛び抜けて丸みを帯びているようにも見える。しかし、どうしても史也ふみやには優しい絵には感じられない。「石燕せきえんもムンクも人が悪い」と彼は思ってしまう。

「お前は昔から臆病なところがあったからな。僕も度胸がある方じゃないが、お前のはのみ心臓しんぞうだ。身体ばかり大きいくせに、些細ささいなことで悩んでばかりいるじゃないか」

 伊東いとうは酔いが回った頭で様々な思い出をもてあそび出した。史也ふみやはタバコを吹かしながらうなずいたり、こうべったりしている。愉快ゆかいではないが友達をもてなしていると考えると苦痛ではない。実際、伊東いとうは友人として史也ふみやのことを心配していた。史也ふみやはあらゆる意味で若々しい。だが、伊東いとうは違う。それなりの辛酸しんさんめてきたつもりでいるし、身の振り方も熟知している。それは引き際をわきまえているということだ。

「いつまでうわついた生き方を続けるつもりだ」伊東いとうはその一言を口に出せないでいる。言ってしまえば、友情に亀裂きれつが走ることは必至ひっしである。また、言ったところで、史也ふみや貧困ひんこんから救えるわけでもない。伊東いとうは自身の浅はかさを悔いながら、グラスに満たされた酒をあおり続けた。「それこそ余計なお世話というものだ」

 伊東いとうは心の隅で君島きみしま史也ふみやという男を見くびっていた。旧友が巨体を揺すぶって笑う度に、彼は良心が痛むのを感じずにはいられなかった。神経を鈍麻どんまさせるためにもアルコールが必要だった。史也ふみや存外ぞんがいに旧友が酒に強いのを嬉しがって、酒を振る舞うばかりである。

「お前も結婚してみろよ。嫁さんが家にいるっていうのは良いもんだぞ。生きている理由が一つできるからな。子を授かれば二つも理由ができるんだ。ひとはいないのか?」

 伊東いとうの顔は赤い。大分だいぶん、酔いが回っていることは明らかである。史也ふみやは天井をあおぐと、細く長い紫煙しえんを吐き出した。タバコの煙が暖色の照明にからみついてはほどけていく。史也ふみやはちょっと考えた後に、言葉を選びながら、ゆっくりと答えた。

「いないな。こんな不安定な商売をしている奴にとつぐ女が可哀想かわいそうだ。俺はガキのままで大人になれない男なんだ。母親に捨てられた子どもだからかな――、大人になる方法が分からない。親の背中のたくましさを知らない子どもは、それにあこがれることはあっても、なりたいとは考えられないのかな。孤児みなしご根性こんじょうが抜けきらないというか、いつかポイッと捨てられるんじゃないか、と不安になるばかりで、安心して眠れないんだ」

 そこまで言うと、史也ふみやはショットグラスに注がれたウィスキーを一気に飲み干し、代わりに伊東いとうはチェイサーに手を伸ばした。時計は二時を指し示している。そろそろ別れの時間が近づいていた。家に帰ったら、嫁を抱き締めようと伊東いとうは思った。なぜだか、妻子が恋しくなった。

「そういえば、お前のところの雷爺かみなりじいさんは元気か?」伊東いとうはチェイサーの水を胃腑いふに流し込みながらたずねた。史也ふみやはカウンターに広げられたグラスや皿を片付け始めている。伊東いとうはこのまま史也ふみやを一人にするべきではないと思ったが、口をいた言葉は空虚くうきょなものだった。肉の着いた大きな背中を丸めて、キッチンを立ち回る旧友の姿は酷く寂しげだった。史也ふみや伊東いとうに背を向けたまま答えた。「死んだよ」



 三、ゲーム


「女性が一人歩きして良い時間じゃない」そう言うと、史也ふみや安斎あんざい令子れいこの前に一杯のカクテルを差し出した。サービスのつもりだったが、口をいて出た言葉は苦言だった。令子れいこは美しく彩られた酒を見詰めながら言った。「早く帰らせたいなら黙っていればいいのに」

 史也ふみや安斎あんざい令子れいこのことをほとんど知らない。月に一度か二度程の頻度で、ふらりと店を訪ねてきては、驚くほど酒を飲んで帰っていく。無口な女なので、二人の間に会話はない。史也ふみやは小言めいた発言を早くも悔い始めていた。

野暮やぼなことを言っちゃったな。俺も歳を取ったもんだ。でも、あんたは美人だからね。心配の一つもしたくなる」

 史也ふみやの言葉は本当である。彼は令子れいこのことを好ましく思っている。洗練された美しさを令子れいこは身にまとっていた。先日、伊東いとう和海かずみたずねられた時に真っ先に思い浮かんだのは彼女だった。たが、史也ふみや令子れいこに抱く感情は恋心とも違っているのも事実だった。それは、親が子に抱く愛情とも異なる不思議な感情だった。

「それはありがたいけれど、このお店も困ってるんでしょ。稼げる客は大事にしておいた方がいいんじゃないかしら。絞れる時に絞っておくべきよ」

 令子れいこはズケズケと物を言う。史也ふみやは頭を掻きながら微笑んだ。こういった気取らない応酬おうしゅうが好きだった。「かなわないなぁ」と思いながら、彼はカウンターに置かれたタバコを手に取ると火をともした。糸のような紫煙しえんが立ち上る。史也ふみやは安心を感じて、思わず、ホウッとため息をついた。

「以前からきたかったんだけれど、あんたはいつも一人で飲み歩いてるのか?」

 史也ふみやもつれ合う紫煙しえんを眺めながら呟いた。令子れいこについて知りたいと思ったことは幾度もあるが、いつも勇気を出せないでいた。だが、今晩は少しだけ違った。ちょっと話してみるのも良いかもしれない。伊東いとうに背中を押されたような気がした。

「そうね、一人が好きなのよ。今日はおしゃべりなのね。何だか私のことを色々と知りたいみたい。いいわ、それじゃ、ゲームでもしましょうか?」

 令子れいこ華奢きゃしゃな指でカクテルグラスの縁をなぞりながら言った。「ゲーム?」と史也ふみやは小首をかしげていぶかしんだ。相変わらず、令子れいこ物憂ものうげな表情のまま、グラスをもてあそび続けている。史也ふみやは彼女の気を引くために提案に乗ることにした。令子れいこの他に客はいない。暇を持て余しているくらいなら、彼女とたわむれてみるのも良い気がした。

「十の質問というゲームよ。あなたの質問にイエスかノーで答えていく。その回答から私が就いている職業を推察してみなさい。もし正解したら、あなたの願いを一つ叶えてあげる」

 令子れいこは赤色のカバンからペンを取り出すと、カウンターに備えられているペーパー・コースターの裏に何かを書き込んだ。おそらく、それが解答ということなのだろう。令子れいこの準備が整ったことを知ると、史也ふみやはちょっと考えた後に質問を始めた。質問の内容は初めから決まっていた。史也ふみやにはどうしても彼女にたずねたいことがあった。


「質問、あんたは仕事に就いているのか?」

「回答、イエス。定職に就いているわ」

「質問、充分な収入を得ることができる仕事か?」

「回答、イエス。食うに困らない程度には稼げているわ」

「質問、あこがれて就いた職業か?」

「回答、無回答ね。あこがれの程度が分からないもの」

「質問、仕事に満足しているか?」

「回答、それも無回答。満足の程度が分からないわ」

「質問、体力が求められる仕事か?」

「回答、イエス。重労働だと思うわ」

「質問、他人に奉仕ほうしする仕事か?」

「回答、イエス。ある種のサービス業に違いないわね」

「質問、女性にしかできない仕事か?」

「回答、ノー。以前まで女性の仕事だったけどね」

「質問、恋人はいるのか?」

「回答、ノー。あら、焦点しょうてんがぶれてきたわね」

「質問、子どもはいるのか?」

「回答、ノー。面白い質問ね」

「質問、親は健在か?」

「回答、イエス。両親共に健康よ」

 

 十の質問が終わった。史也ふみやまぶたを閉じて情報を整理し始めた。といっても、初めから解答は決まっていたようなものである。ただ、それを口に出して良いものか史也ふみやは悩んでいた。しばらく、考えた後に史也ふみやたりさわりない答えを口にした。

「あんたは公務員だ」

 史也ふみやが導き出した解答は的外まとはずれなものであった。それは彼自身も知っている。だが、美しいものに泥をってまで、正解したいとも思えなかった。史也ふみやは彼女の謎を受け入れることにした。あばいてはならない領域というものを人間は持っている。史也ふみや令子れいこの気高さにかれていたことを知った。それをにじるような真似まねはしたくなかった。

「不正解。あなたは優しい人ね。初めから正解する気なんてなかったくせに。でも、私はあなたのことをちょっとだけ理解したわ。当ててみせましょうか?」

 史也ふみやは質問する側であり、令子れいこに一切情報を明かしていないはずである。それでも、彼女は自信ありげに微笑むのを止めない。しばらくの間、令子れいこは返事を待っていたが、史也ふみやが観念してうなずくのを見ると、一つずつ推理を披露ひろうし始めた。

「まず、あなたが私に好意を抱いていることは明らかだわ。そうでなくちゃ、私の生活について知りたいなんて考えないからね。思い上がりじゃないといいのだけれど、たぶん的外まとはずれではないと思う。

 次に、あなたの質問には、ある種の偏向へんこうがあると感じたわ。初めから解答が決まっていて、それを確かめるために質問しているような気がしたの。具体的に言うと七つ目と八つ目の質問ね。あなたはそれが知りたかったのでしょう。他の質問はフェイクね。

 面白いのは、それを確かめた後の質問よ。あなたは家族についての質問を連続でしている。あなたは確信を得たはずなのに、それを非難するような質問をした。これはちょっと不自然よね。私は色々と考えたわ。

 ここからは、私の勝手な想像よ。あなた、お母さんと確執かくしつかかえてるんじゃないかしら。あなたは愛煙家あいえんかみたいだけど、お母さんから愛情を注がれない環境で育ったと感じているんじゃないかしら。

 いずれにせよ、あなたは口唇期こうしんき撞着どうちゃくしているように感じられるのよ。その喫煙癖きつえんへきはちょっと異常だと思う。ねえ、もしかしたら、あなたは私にお母さんの面影おもかげを見出したんじゃないかしら。あなたの好意はちょっと不思議な感じがするもの――」

 史也ふみや令子れいこの推理を聴きながら、天井に滞留たいりゅうしているタバコの煙を見詰めていた。令子れいこの推理は当たっているようにも、間違っているようにも思えた。自分の話を聞いているはずなのに実感が湧かない。薄靄うすもやに包まれているように不確かな感覚である。ただ、やはり令子れいこの言うことは正しいのだろうと思えた。

意気地いくじのない孤児みなしごは母親に抱かれたかっただけなのかもしれないなあ」そんなことを史也ふみやは考えていた。安斎あんざい令子れいこは確かに母親に似ていた。写真でしか見たことがない母親を彷彿ほうふつとさせる容姿をしている。令子れいこに寄せる不思議な感情も、母親への恋慕れんぼの情と言われれば納得できるような気もする。「煙の行先ゆきさきとらえようとするようなものだ」

 史也ふみやが物思いにふけっている様子を見て、令子れいこは席を立ち上がった。時計の短針は深夜二時を指している。令子れいこはカウンターに多めの金を置くと、ぼんやりと天井を見詰めている史也ふみやに、しっかりとした声で話し掛けた。それは、叱責しっせきするような明確な口調だった。

 

ぐに医者に診てもらってください。あなたの目は白内障はくないしょうに冒されている可能性があります」

 

 令子れいこが立ち去った後に、史也ふみやはカウンターに残された紙細工のコースターを裏返した。それを見て、史也ふみやは納得すると共に羞恥しゅうちを感じることとなった。コースターの裏には楚々そそとした文字で、「看護師」と小さく書かれていた。

 


 四、孤独


 いつの間にか白々しらじらと夜が明けて、苛烈かれつな夏の陽射ひざしがアスファルトを焼く時刻となっていた。君島きみしま史也ふみやはカウンターにすようにして、物思いにふけっている。安斎あんざい令子れいこが言い残していったことが、彼の心を悩ませていた。

「俺は母親が恋しいのだろうか」史也ふみやはウィスキーをあおりながら考える。久しく母親の顔を見ていない。息災そくさいならば七十歳のろうになっているはずだ。令子れいこの推測を確かめるために母を訪ねるつもりはない。「俺はいつまでもガキのままだ」

 史也ふみやはカウンターの隅に追いやられていたタバコをつかむと火をともした。肺腑はいふの隅々まで煙を満たした後に吐き出す。自暴自棄じぼうじきになって酒をむのは久しぶりだった。頭蓋ずがいの内側で脳髄のうずい肥大ひだいしていく感覚を味わいながら、史也ふみや紫煙しえんを吹かし続けた。令子れいこの指摘を否定しようとするほど、それに執着していることがりになっていくようだった。

 宙空に漂う煙が、暖色の照明の下でからみ合い、ほつれてゆく。史也ふみやの豊かに盛り上がった頬に一筋の涙が伝った。腹の底でわだかまっていた感情が一つずつあふれてくる。史也ふみやは孤独を噛み締めながら、タバコの煙の軌跡きせきを目で追った。「この目もじきに見えなくなる」と考えると、悲しくてたまらなかった。視界は涙でゆがんで光源をとらえることすら難しい。

 タバコから立ち上がる煙は、ぼんやりと膨らみ、次第に像を結びつつある。史也ふみやは止めどなく流れ落ちる涙を拭おうとしない。無心で見詰めているうちに、紫煙しえんは人の顔や獣の姿に形を変えてゆく。あらゆる判断を中止して、彼は夢中になって幻影を追い続けた。

 史也ふみや茫漠ぼうばくたる荒野こうや一人佇たたずんでいるような孤独を意識せずにはいられなかった。みじめであった。なさけなかった。そして、何よりもさびしかった。エドヴァルド・ムンクが見た世界が目前に広がっているような気がした。それは、魂が止まるほどの荒涼こうりょうとした情景だった。真っ赤な太陽が天空を焦がし、冷たい風が大地をてつくしている。しの岩肌と砂地が地平線の彼方かなたまで続いている。誰もいないし、何もない風景が無情にも広がっていた。史也ふみやは煙が見せる幻影を眺めながら、徐々に深い眠りへといざなわれていった。

 数分後、アルコールがみずとなったのか、君島きみしま史也ふみやは安らかな寝息を立てていた。指に挟んでいたタバコがポロリと床に落ちたことに、彼は気が付かない。やがて、くすぶっていた煙が大きく膨らみ始めた。天井を火炎が焼くようになっても、史也ふみやが目をますことはなかった。

 夏、だるような白昼はくちゅうに火災が起きた。遠火とおびがゆらゆらとけぶっている。あらゆる判断を止めて、じっと見詰めていると、次第しだいに像が浮かんでくる。美しい女の顔、怪しい獣の姿――最後に、いとけな童子どうじが影となって結び、ちょっと微笑びしょうして消えていく。煙々羅えんえんらとは、そういうものである。


                     (了)










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