古椿の霊

    ふる山茶つばきせいあやしきかたちして、人をたぶらかす

   事ありとぞ。すべて古木こぼくようをなす事多し。

           

           鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より



 これは、彼岸ひがん此岸しがんの境を右往左往うおうさおうするだけのお話である。毎晩、僕は死んでは生き返る。だが、泥濘ぬかるみに足を取られて、容易には浮上できない日もある。

 二度とは目をまさないことへの恐怖に震えながら起きるわけだが、焦点は早くもけて、具体性のない記憶の残滓ざんしばかりが手元に残る。

 人間は不条理を許せない生類しょうるいだから、肉のがれた貧しい記憶を必死になってかざることで、何とかして食べられるものにしようとする。理由を付けて解釈しようと試みる。

 これから、書き残すことも、そういった浅ましい根性から思い至っただけの自慰行為・・・・に過ぎないのかもしれない。そう――、これは夢のお話である。あの晩、僕はこんな夢を見た。


 黒地の天幕に穴を開けたような満月が、ポッカリと浮かんでいる。銀白の月光は冷々れいれいと降り注ぎ、座敷に濃い陰翳かげを落としている。開け払われたふすまの向こうでは、森閑しんかんとした十坪ほどの庭が粛々しゅくしゅくと照らされている。

 太陽とは違う、一度、死んだ光の下で咲き誇る花は椿つばきである。寒さにてつく土の上には、目にも鮮やかな赤の絨毯じゅうたんが広がっている。ポトリポトリとかすかな音を立てて、椿つばきの花が少しずつ落ちてゆく様は、物凄ものすごいまでに美しい。それは、丁度ちょうど、一本の古木こぼくが血のしずくを滴らせているようにも見える。

 屋敷はシンと静まり返り、まるで人の気配がない。僕は畳に広げられた布団から起き上がると、乱れた浴衣ゆかたえりを直して、寒さのために小さく身体を震わせた。鋭いまでに空気は澄み渡り、無論、口をく息は白くけぶっている。全てがカンと冴え切って、しかも清潔であった。肺腑はいふの隅々まで行き届くように深い呼吸を繰り返した。

 僕はこの屋敷を知らない。ただ、全く覚えのない場所であるはずなのに、不思議と懐かしい感じがする。座敷に漂うこうにおいも、庭園を飾る椿つばきいろどりも、奇妙なほどにしたわしく感じられるのである。

 相変わらず、屋敷は静寂に包まれていたが、拒絶されているようには思えなかった。長年、留守るすにしていた家に帰って来たような安堵あんどすら覚える。思わず、ホウと短いため息をついた。

 経帷子きょうかたびらにも似た白地の浴衣ゆかたすそを払うと、僕は裸足はだしのまま庭園に降り立った。一歩踏み出すごとに、足下あしもとで霜柱が音を鳴らして砕ける。骨に響くような冷たさでさえ、ゆかしい感じがする。

 僕は覚束おぼつかない足取りで、鮮血の赤に色づいた椿つばきに歩み寄った。真っ赤な絨毯じゅうたんが冷たく乾いた土埃つちぼこりで汚れるのが勿体もったいない。

 掌に収まるほどの大きさのつぼみを手折ると、優しく花弁はなびらむしりはじめた。柔らかく閉ざされた花蕾はなつぼみを少しずつほどいていく。やがて、内側に秘められていた厚みのある花弁はなびらを探り出すと、二本の指でつまんで口に含んでみた。

 粘りのある香気と甘味が咥内こうないに広がる。不思議な悲しさが込み上がり、胸が詰まった。一枚、また一枚と僕は花弁はなびらみ続けた。

「ホホホホホホホ」

 湧き上がる感情を噛み締めていると、背後の座敷から女の高笑いが聞こえてきた。僕の掌から椿つばき花蕾はなつぼみがポタリと落ちる。ゆっくりと振り返ると、陰翳かげの中に紛れるようにして、黒い留袖とめそで姿すがたの女がぼんやりと佇んでいることに気が付いた。しっとりと濡れた瞳と赤い唇が印象的な美しい女である。

 僕は息を飲んで女の美貌に見蕩みとれていたが、やがて、つつしみを思い出して目を伏せた。黒留袖くろとめそですそに織られた絵羽模様えばもようが、ユラリと動くのを目の端で追う。女は僕が横になっていた布団まで移ると、スルリという衣擦きぬずれの音を立てて、帯をほどき始めた。しばらくして、全ての着物がとこに落とされた。

 ――ああ、あの女の肌の白さの美しい事といったら、全く信じられないほどだ。おや、あれは誰だろう。僕が寝ていた布団に男がいる。ぐっすりと眠っているようだ――

 先刻さっきまで、僕が横たわっていた布団に誰かが潜り込んでいるらしい。裸婦らふは安らかに寝息を立てる男を見下ろしていたが、徐々に半身をかがめはじめて、ついには肉体をせだした。女の運動は段々と激しさを増してゆく。僕は二人の男女がむつう様を冷徹な眼差しで観察し続けた。

「ウフフフフフフフ」と笑いを噛み殺しながら、女は熱っぽく男に頬ずりする。肌と肌を打ち合う音がかすかに鳴っている。いつまでも、いつまでも、鳴り続けている。気がまどってしまいそうだ――。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。女は男の上で恍惚こうこつの表情を浮かべている。ようやく、荒くなった息が整ったのか、女は熱い接吻せっぷんを男の唇に残して立ち上がった。暗闇の中に仄々ほのぼのと玉の肌が浮かぶ。月光に照らされた裸婦らふは、ゾッとするほどつややかである。この時になって、初めて僕はまともに女を見た。

 ――ああ、あの男が恨めしい。彼女の柔肌やわはだでてみたい。唇をねぶってみたい。乳房ちぶさを揉みしだいてみたい。あの男が恨めしい――

 獣じみた僕の眼差しを見て取ると、裸婦らふあざけるように笑い始めた。僕は非常な羞恥しゅうちを感じて、赤面せずにはいられなかった。

「ホホホホホホホ」思わず、女から目をらした。ここは僕の場所であり、僕の時間であるはずだ。それならば――と思い、顔を上げた。だが、すでに女の姿はない。後には空しい情欲だけが取り残された。

 女の幻影を追うようにして、濡縁ぬれえんに足を掛けた。肉体を巡る血液が沸騰して、心臓は早鐘を打っている。全てが憎らしくてしようがない。僕は座敷に駆け上がると、暢気のんきいびきをかいている男のくびたまに飛びついた。

 ――殺してやる。この世界で僕以上に自由を楽しむことは許さない。どうせ、全てが幻で出来ているのなら、僕の手で始末しまつしてやる。この狂気じみた淫夢を終わらせるのだ――

 男の白首しらくびに指を絡ませた途端とたんに気が付いた。この顔を僕は知っている。記憶にないことだらけの世界の中で、たった一つだけ、見覚えのある人相が、そこにはあった。

 

 ――ああ、そうか。これは僕だ。こいつの正体は僕だったんだ。すると、僕は自分自身を殺そうとしているのか――


 安らかに寝息を立てる愚かな男の正体は、他でもない僕自身だった。か細すぎる首に絡んだ手指に力が入る。

 憎悪の情念は不思議な炎となって燃え盛り、「でも、このとぼけたつらで眠る分身を葬らなければならない」という残忍な使命感が背中を焼き始めていた。

 安穏あんのん惰眠だみんむさぼりながら、色欲をも満たそうとしている自身のしゅうかいさを、目前に叩きつけられたようで、はっきりと不快だった。僕は改めて、この男を殺そうと決意した。

 ――何ということはない。これは幻なのだから。この男の肉体は抜け殻のようなものだ。霊魂不在の人形だ。僕はこうして実存しているではないか。こんなものは必要ない。一つきりで充分だ――

 徐々に体重を乗せて、男の咽頭いんとうを締めていく。薄い肉の下を通る気管が押しつぶされ、青白い唇の隙間すきまから切なそうな息が漏れた。

 だが、男は一向に目覚める気配がない。ただ、ほうけたような間抜まぬづらをして、ヒュウヒュウと細い息を繰り返すばかりである。

 れた魂が、堕落した肉体に罰を下そうとしていた。暗然あんぜんとしたよろこびが脳髄をしびれさせ、思考する力を根こそぎ奪っていくようだ。男の口端くちさきつばきが泡となって溜まってゆく様を見下ろしながら、僕はひそかに性を意識せずにはいられなかった。

 ボキンという鈍い音が座敷に響いた。それはけいついつぶれる音だったのだろう。男の体が大きく跳ねて、馬乗りになっていた僕の尻を浮かせたが、数秒後には完全に止まった。

 僕は必死になって、男の咽喉のどを締め続けた。自分の分身が二度と息を吹き返さないように、念を入れて殺すつもりでいた。そして――。


 そして――、久しい時間が流れた。いつの間にか、夜は白々と明けている。真っ赤な太陽がのっそりと昇り、座敷の内を煌々こうこうと照らしていた。

 組み伏せられた男の顔には死相が浮かび、その気色は無論白い。人を殺したという実感はなかった。しかし、「ああ、この男は確かに死んでいるな」とだけ思った。

 暗闇の中では判然としなかったが、男の亡骸なきがら無惨むざんなものであった。苦悶くもんの表情こそないが、唇には唾液と胃液がじった不潔な吐瀉物としゃぶつが渇いてへばりついている。鼻をくような臭いの正体に考えを巡らせてみたが、おぞましさのあまりに止めた。

 男の細首ほそくびに絡みついた指をこうとしたとき、何かを口の中に含んでいることに気が付いた。窒息した際に、舌が膨張しただけかもしれないと思ったが、弛緩しかんした口端くちさきからのぞく赤色には見覚えがあった。僕は結ばれた唇を開けてみることにした。

 男の吐瀉物としゃぶつで指先を汚しながらも、閉じたあごけて、口腔こうくうあばいてみると、想像していた通りのものが、そこにはあった。


 それは、一輪の椿つばきの花であった。


 死人の体から血を吸い上げて咲いた花は、目にも鮮やかな赤である。男の肉を苗床なえどこにして咲き誇る大輪の花は、物凄ものすごいまでの美しさをほしいままにしている。

 僕はそこに女の幻影を見出さずにはいられなかった。これまでに、何人の男達が彼女の餌食えじきになったのだろう。

「ホホホホホホホ」女の哄笑こうしょうが聞こえた気がして、庭園を振り向いた。朝の陽光に照らされた古椿ふるつばきが、ポタリポタリと花を落としている。大地は椿つばきの赤で血だまりのようになっていた。

 無数の亡骸なきがらの上に、椿つばき古木こぼくが根を張り巡らせている。彼らの血肉をすすって、古椿ふるつばきの花は咲いて、または落ちてゆくのだろう。

 胃腑いのふに火がともったようなかすかなぬくもりを感じる。腹の底で古椿ふるつばき種子たねが芽吹き始めたのだ。椿つばき花弁はなびらんだ時からはらんでいたに違いない。僕は知らぬ間に古椿ふるつばきれいいていたのである。

 女の正体について思いをせているうちに、彼女のつやっぽい面差おもざしがボウッとにじんで、柔和にゅうわ微笑びしょうを浮かべた女性の顔に変わっていった。写真の中でしか会ったことがない愛しい女性の姿である。この屋敷に漂う懐かしい雰囲気の理由が、ほんの少しだけ分かった。

 もはや、恐怖は一切感じない。ただ、〈美しい存在に触れた歓喜〉と〈ゆかしい記憶と邂逅かいこうした満足〉とが、胸の内に広がっている。

 法悦ほうえついだかれている間に、視界はまばゆいまでの白に染まってゆく。大きな声で「お母さん」と叫ぶとともに――夢が終わり、目を醒ました。


 私たちは次の言葉を知らなければならない。どれほど理性で取りつくろうとも、夢の前では等しく無力である。私たちは野蛮やばんでこそないものの、決して利口りこうではないのだと微睡まどろみながら思うのだ。



  夢は、もっとも狂っているようにみえるとき、もっとも深い意

 味をもつことがしばしばある。

                                                            

             ――ジークムント・フロイト


                                                                       

                        (了)



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