くだん
防州上ノ関民家之牛、
『密局日乗』文政二年五月十三日条
一、隠蔽
閉め切られた窓の向こうで、子ども達の
子ども達の世界は決して無秩序ではない。
子ども達は自然を
教師の仕事は彼らを
重厚な
先生に呼び出される、というシチュエーションには
「それでは、
学校長は引き出しから手帳を取り出すと、小さくなった鉛筆で何事かをさらさらと記録しはじめた。彼女が慎重になる気持ちも分からないでもない。事と次第によっては、彼女のキャリアが大きく損なわれる状況でもあるからだ。
私は言葉を選びながらも、丁寧に事件の
「五日前の八月三十日、旧校舎のゴミ置き場で小規模ながら火災が起こりました。夏季休校中であり、旧校舎の敷地には生徒も近寄らないこともあって、人的被害はありませんでした。
午後四時ごろに、用務員の池田さんが校舎を
保護者各位への報告は済んでおりません。まずは学校長の判断を
「事情の
「それで――」痩せ細った指を組みなおしながら、学校長は冷たく言い放った。「それで、事故の発生を立証する記録は全て破棄しましたか。文書や写真は残されていないのでしょうね」
学校長の口調は
「我が校の生徒で喫煙する者は何名ほどいますか。少なくとも、十名はいるでしょう。正直に言ってみてください。指導の対象となっている生徒の人数は何名ですか」
心臓に刃を立てられたみたいだった。学校長が子どもに罪を押し付けようとしていることは明らかだ。不品行であるということを理由に、ありもしない罪を
「お言葉ですが、校長先生のお考えは的外れもいいところです。品行の良し悪しはありますが、彼らが火災を起こしたとは思えません。全く、ありえないことだ」
学校長は
「先生のおっしゃりたいことは充分に理解できます。私も生徒のことを疑いたくはないのです。しかし、可能性がある以上は慎重になるべきだとも思います。
事故の原因を追及する過程で、火災の発生源がタバコの不始末であったと判明したとします。その場合、学校側は生徒達のことを
全ては子ども達を守るためのことなのです。火災が起きたことを外部に知られるわけにはいきません。以上の理由から公的記録は全て
私は
午後の授業を
二、予言
「
私はデスクに広げられた書類を片付けると、新任の職員に椅子を勧めた。彼の名前は
「いいえ、実は支援級の夏休みの宿題について、ご相談したいことがありまして――。あの、ご迷惑だったでしょうか」
各教科の担当職員は、週に二三度の周期で特別支援学級に
「ああ、夏休みの宿題をどう扱うかは支援級の職員で話し合った方がいいんじゃないかな。定期試験というわけではないし、ある程度の採点をした後は、
そう言うと、私は
「これなんですが――」一冊のノートを開きながら、
ノートの正体は絵日記だった。漢字の使用頻度が
「よく書けていると思うけどなあ。苦手な漢字や文法も知れるし、二学期からの学習指導に活用できる。どこがおかしいのか、自分には分からないなあ」
「はあ」と
ゆめをみました。とてもこわいゆめです。こわいか
いじゅうが出ました。うし の体に人のかおがつい
てます。こわいことを言ってました。よく、おぼえて
ません。
お母さんにはなしました。すごくおこられました。
かなしくて泣きました。
「
新米講師は納得できないといった
「これはどうですか」と言うと、
不安を確信したといった風な上ずった調子の
ゆめをみました。とてもこわいゆめです。だれか
が学校に火をつけます。でも、すぐにきえます。お
母さんにいったら、おこられました。ぼくは泣きま
した。とてもかなしかったからです。牛のおばけが
ゆめに出ます。おばけがはなしかけてきます。こわ
いです。
くろいふくの人たちがいえにきました。おばけの
はなしばかりです。くろいふくの人たちはきらいで
す。はやく、学校にいきたいです。
「牛のお化けって、これですよね」そう言うと、
じっくりとノートを
絵日記を閉じて、持ち主の名前を確認してみると、「
「確かに不思議な
「やはり、管理職に報告すべきですよね。まずは生活指導部の
私は思わず天井を
無論、生徒の一人が登校していないという事実は放って置けない。しかし、絵日記の内容を
――五日、いや、三日間は様子を見よう。三日間の内に
新任の講師を前にして、大きく
三、瓦解
期日が過ぎても、
「やはり、少し変ですよ。保護者の様子を見るためにも、家庭訪問した方がいいんじゃないですか」と
「
新米講師の暴走を止めるために、
結局のところ、あの鼻持ちならない学校長と私の間に大した違いはないのかもしれない。
長月の
最終下校時間を告げる校内放送――シューマンの『子供の情景』の第七曲、トロイメライ――が流れるころになって、ようやく、職員室に
これから、
「ああ、
用務員の
「ご苦労様です」老人の機嫌を損なわないように
しかし、奇妙なことに電話の主は
「く、だ……、く、る。ち、が……、れ、る。ひ、と……、ろ、し」
それは地中を
デスクの上に残されていたマグカップを手に取って、冷め切ったコーヒーを胃に流し込んだ。ただの
〈全職員に連絡します。
暗闇が
しばらくの空白の時間を経て、数名の職員が
「本日、午後五時十八分に、下校中だった我が校の生徒五名と、
それが呼び水となって、会議室に激しい
「あの
老人は
解答は例の絵日記に秘められているような気がした。もしかしたら、あの悪意に満ちた電話の正体も分かるかもしれない。全ては可能性の
「人殺し、人殺し」
四、深淵
責任の
「人殺し、人殺し」という学校長を
血液が
駅に近づくに
私は肉に食い込むネクタイの結び目を片手で
夜空には
大人になるということは、《無関心を学ぶこと》に他ならない。大人は関心を失うのではなく、無関心を選ぶのである。今日、それを知ることもないまま、五名の子ども達が命を落とした。空白の時間が、そういった冷酷な現実を
――私は罪人だ。事件の
それに、この日記のこともある。もっと慎重に取り扱っていれば、
誰かに裁かれたいと思った。
――それにしても、気味の悪い
疑問の背後には
ノートに
たくさんの人がしにます。車がはしってきて人とぶ
つかります。でも、
くれます。とても、かなしいゆめです。牛のおばけは
きらいです。こわいことばかり言ってくるからです。
くろいふくの人たちがくると、お母さんが泣きま
す。冬がきたら、ぼくをつれていくと言っているから
です。秋になったら、つぎに子どもをさがすと言いま
した。友だちになれるかな。
「脅迫電話、荒い息遣い、
――天保七年丹波国倉橋山のくだん……。あの
「ここまでは見逃すが、ここより先は許さない」という拒絶の意志を感じる。黒服の人々が
ポケットの中で携帯電話が鳴った。嫌な想像が
〈お仕事、お疲れ様です。はるちゃんのお絵描きが幼稚園で展示されたよ。気を付けて帰って来てね〉
写真の中で娘の
私の眼は日常に紛れ込んだ異物を見逃しはしなかった。満面の笑みを浮かべる家族の
(了)
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