犬神

          修験者しゆげんじやのかみつくやうに祈るなり

          病の憑きし犬神いぬがみの術

                     紫の染芳


                 『狂歌百物語』より



 一、退屈と憂うつ


 昭和六十二年の夏のことである。僕はだるような熱気にあてられながらも、自動車の運転席に座って、叔母おばの帰りを待ち続けていた。フロンド・ガラスに吊られた御守りは、そよとも動かない。

 北九州の盛夏は想像以上に苛烈かれつで、早くも東京が恋しく思われた。あの小便臭しょうべんくさい裏通りにある下宿すら、奇妙なほど慕わしい。

 あそこには虚無きょむしかないということは理解している。虚無きょむから逃げ出すために、遥々はるばる、北九州に住む親類をたよって来たのだ。それにも関わらず、僕はうつろな生活をなつかしく思いはじめている。首筋を一滴の汗がつゆとなって伝った。

 道路を挟んで向こう側に、筑紫国ちくしのくに建家たていえらしからぬ瀟洒しょうしゃな屋敷が堂々どうどうと立っている。モダンな様式の家であるが、住民は旧態きゅうたい依然いぜんとした風儀ふうぎとらわれた古人いにしえびとたちであることは調査済みである。

 叔母おばの仕事は彼らの無知に乗ずることで成り立っている。齋木佳代子さいきかよこ犬神いぬがみを使ってさわりをのぞくという。真偽のほどは定かではないが、叔母おば霊媒れいばいくらしい。今日は顧客への御機嫌伺ごきげんうかがいのためについやす予定だ、と彼女は言っていた。うんざりしながら、汗で湿ったタバコに火をともした。

 霊媒師れいばいし齋木佳代子さいきかよこの助手として働き始めてから一か月が経とうとしている。東京での暮らしにきていたし、何よりも金が欲しかった。背中を焼かれるような生活にも、胸の内に空いたうつろにも辟易へきえきしていた。現実を生きている感じがしない。世界の全てが色褪いろあせて見える。

 大学の夏季休校を利用して、北九州までやって来ると、ぐに親類縁者から避けられている叔母おばもとを訪ねた。何かが変わると思ったが、期待きたいしていたものは得られそうにない。齋木佳代子さいきかよこ埒外らちがいな悪人ではなかった。人々の無知につけ込んでくちのりしているが、法外ほうがい報酬ほうしゅうを求めようとはしなかった。九州に来ても、相変わらず、僕の視界はかすみがかって晴れそうにない。

 「人はおおむね自分で思うほどに幸福でも不幸でもない。肝心かんじんなのは望んだり生きたりすることにきないことだ」とロマン=ロランは言った。それには僕も賛同する。巨大な空白が胸の内に巣食すくっている。これは、ちょっと危険である。退屈たいくつが人を殺すこともあると知った。憂うつと退屈たいくつの味は驚くほど似ている。

 二本目のタバコに火をともそうとして手を止めた。信者に見送られながら、斎木佳代子さいきかよこが屋敷の門から出てきたからだ。楚々そそとした和服姿の女性で、つややかな黒髪をげている。彼女は五十路いそじを越えているはずだが、それを察することは難しいだろう。実際、彼女は美しい女性であった。

 佳代子かよこが着物のそでおさえて、軽く手を上げたのを見て、そろりそろりと車を屋敷の門口かどぐちに寄せた。住民たちが一斉いっせいこうべれたので、思わず僕もあたまげた。佳代子かよこだけが姿勢を正してたたずんでいる。彼女を中心にして世界がまわっているようだった。

柳原やなぎはらさん、ご苦労様です。お祈りはとどこおりなく終わりました。北九州の夏は暑いでしょう。さっそく、洗礼を受けたようですね。こんなに汗をかかれて――どこかでお茶でもしていきましょうね」

 斎木佳代子さいきかよこは貴婦人らしく微笑ほほえみを浮かべてみせた。僕は運転席から降りると、彼女のために後部座席のドアをうやうやしく開いて待つ。こうべれ続けている信者に会釈えしゃくして、美しい叔母おばはひらりと車の中に乗り込んだ。

「この度はお疲れ様でした。それでは失礼させていただきます。皆様のもとに安らかな日がおとなうことをせつにお祈りしております」

 適当な口上こうじょうを述べてお辞儀じぎをすると、僕も車に乗り込んだ。信者たちは誰もくちこうとしない。ただ、粛々しゅくしゅくあたまげ続けるのみである。きっと、そうするように叔母おばから指示されているのだろう。

 大通りの角を曲がり、屋敷が見えなくなるまで、僕たちも沈黙を守り続けた。斎木佳代子さいきかよこ周到しゅうとうに役柄を演じていた。彼女の演出を引き立てることが僕の仕事でもある。

「さあ、お茶にしましょうか。ようやく、一息つくことができそうだ。どこのお店にしますか。疲れちまいましたよ」

 車を走らせてから、きっかり十分後にたずねた。今日の訪問スケジュールは終わったはずである。佳代子かよこが本気でいたわわってくれるとは思っていなかったが、このハリボテめいた厳粛げんしゅくえられそうになかった。叱責しっせきされるのを知っていながらも、軽口かるくちの一つでもいてみないと、馬鹿らしくてやっていられない。そういう気分だった。

「あら、タバコをたしなむほどのひまがあったというのに、休憩きゅうけいが必要なものですか。以前にも言ったと思いますが、この車は禁煙のはずです。私はタバコをたしなみませんし、節度せつどを守れない方に助手はつとまりません」

 過ぎ行く街並みを眺めながら、佳代子かよこしとやかに言ってのけてみせた。上品につくろってはいるが、彼女の舌鋒ぜっぽうは鋭いものだった。機嫌きげんそこなうと厄介やっかいなので、「すみません」と口先だけでも謝っておくことにした。

「もう、けっこうです。それでは、この住所のおたくまで車を回してください。どうやら、私に紹介したい方がいらっしゃるようなのです。さあ、もう一仕事ですよ」

 路肩ろかたに自動車を停めて、差し出されたメモを受け取った。地図を広げてみたが、目的地とはさほど離れていないようである。また、炎天下えんてんか無為むいな時間をごすことになるのか、と考えるとさすがに憂うつだった。

「とはいえ、私の留守中に車の中をけむりでいっぱいにされてはかないません。今度は私と同伴してもらいます。あなたは何も話してはなりません。私の指示に従うように」

 意外な申し出に少なからず喜んだ。僕は外界がいかいからの刺激にえていた。もしかしたら、僕の胸の内に巣食すく空虚くうきょめてくれるかもしれない。どのように叔母おばが人をだますのか興味は尽きない。憂うつを払い除けるように、アクセルを強く踏み込んだ。目的地の多田家ただけを目指して、車は一直線に駆けて行った。



  二、依頼人


 とあるマンションの一角に多田家ただけきょかまえていた。先ほど訪ねた瀟洒しょうしゃな屋敷とくらべれば、幾分いくぶん見劣みおとりはするが、立派な部類の建物である。築十数年といったところだろう。ある種の風格ふうかくを感じさせる建物である。

多田たださんは熱心な信者ですが、慣例にとらわれない進歩的なご意見を持っていらっしゃる方です。相手の土俵どひょうがるような下手へたを打たないようにしてください。極力、沈黙を守った方が良いですね。話し合いは私にまかせてください」

 斎木佳代子さいきかよこ多田家ただけが暮らす部屋の前で、そんなことを述べた。僕はいつも通りの神妙しんみょうな顔つきで、適当に相槌あいづちを打っていればいいだけで、それ以上の仕事は求められていない、ということだ。

「今日は私に紹介したい方がいらっしゃるみたいだけど、った話は後日にしましょう。多田たださんには申し訳ないけれど、私も少し疲れていますしね」

 そうつぶやくと、佳代子かよこ多田家ただけが住む部屋のインターフォンを鳴らした。その横顔は弓をしぼったように鋭いものであり、彼女の精神が役にいた合図あいずでもあった。僕もネクタイをめて居住いずまいを正した。

「はい、多田朔太郎たださくたろうです。斎木様さいきさまでしょうか。お待ちしておりましたよ。今日はぜひともご紹介させていただきたい方がいらっしゃっているのです。さあ、中へどうぞ――」

 主人の朔太郎さくたろうに導かれるまま部屋に上がった。間取りは一般的な3LDKであるらしい。見える範囲の中には祭壇さいだんのような仰々ぎょうぎょうしい仕掛しかけは見当たらない。リビング・ルームのソファには先客せんきゃくが腰掛けていた。神経質そうな顔をした、長身ちょうしん痩躯そうくの男である。僕たちの姿を見るなり、彼はいそいそと立ち上がった。

「お会いできる日を心待ちにしておりました。相島直和あいじまなおかずと申します。今日は先生にご相談したいことがございまして、うかがわせていただきました。朔太郎さくたろうくんには随分ずいぶん迷惑めいわくも掛けてしまったようで、申し訳なく思っていたところなのですよ」

 相島直和あいじまなおかず物腰ものごしやわらかいものだったが、くぼんだ眼だけは一切いっさい笑っていなかった。下手したてに出ているが、こちらをうたがっていることは明らかだった。佳代子かよこもそれに気が付いたのだろう。穏やかに微笑ほほえんでいるが動こうとしない。どうしようか、と迷っていると多田ただ朔太郎さくたろうそでを引かれた。佳代子かよこが小さく「いってらっしゃい」と言ったので、そのまま主人と共に別室に向かうことにした。

「あんた、斎木さいき先生の助手さんだよね。相島直和あいじまなおかずのことはすまないと思っている。迷惑めいわくだということは理解しているつもりだ。でも、相島あいじま無碍むげにはできない事情があるんだ。あいつは山口では名の知れた暴力団の構成員なんだよ。あいつにはちょっとした額の借金をしている。今、人払いをしているから家族はいない。それまでにあいつを納得させて、追い払ってくれないか。報酬ほうしゅうは用意できているから」

 そう言うと、多田ただは厚みのある茶封筒を押し付けてきた。中身を確かめてしまうと承諾しょうだくしたと思われかねない。いずれにせよ、佳代子かよこに黙ってふところおさめるわけにはいかない。自分のつとめは最後までまっとうするべきだ。僕はそう判断した。

斎木さいきの意見をあおがないまま受け取るわけにはいきません。しかし、僕たちも最善を尽くすつもりでいます。ご安心してください。きっと相島あいじまさんもご満足していただけるはずですよ。祈りましょう」

 多田ただ納得なっとくしていない様子だったが、茶封筒を押し返すと、渋々しぶしぶではあるがふところまった。僕は悄然しょうぜんとする多田ただの肩を軽く叩くと、うるわしい祈祷師きとうしが待つ部屋に戻るために歩きはじめた。

 扉を開けると斎木佳代子さいきかよこ相島直和あいじまなおかずが向かい合ってソファに腰を下ろしていた。依頼人いらいにんは何やら熱心にうったえている。祈祷師きとうしは静かにみみかたむけている。相島直和あいじまなおかずは正体不明の頭痛に悩まされているらしい。話は大学病院の体制的な診察方法への不満から始まり、先祖の霊への供養くようの作法にまで飛躍ひやくしていた。

「とにかく、頭が痛くてしようがないのです。あまりに痛くて立っていられなくなることもあるくらいです。病院に行っても曖昧あいまいな答えしか返ってきません。あれですかね、何か悪いものにでもかれているのでしょうか。最近は、そんなことばかり考えてしまって――。ご先祖せんぞさまへの供養くようが足りていないのでしょうか」

 相島あいじまはしばらく立て板に水を流すように話し続けた。やがて、満足したのかスーツの胸ポケットからタバコを取り出すと火をともした。紫煙しえんうずいてのぼる。佳代子かよこは黙ってそれを眺めていたが、相島あいじまが平静を取り戻した頃合ころあいを見計みはからって口を開いた。

「ご先祖せんぞさまは満足なされていると思います。それよりも、相島あいじまさんの心のかたの問題だと思います。気の持ちようということではなく、たましい純度じゅんどとでも申し上げましょうか。負の念がよどみとなってまり、しきものをまねいているのでしょう。清き水には聖なるものが、汚れた水にはしきものが集まり流れ込みます。まずは、祈りをささげてまどいを払いましょう。犬神いぬがみつかわして負の念を追い払ってしまうのです」

 そういうと佳代子かよこ相島あいじまの手を優しく握ってみせた。彼の顔色は依然いぜんとして青いままである。佳代子かよこが立ち上がると共に、多田ただがいそいそと働きはじめた。和室へと通ずるふすまを開け放ち、種々雑多しゅじゅざったな道具を押し入れから取り出して丁寧に並べる。助手として彼を手伝うべきなのだろうが、僕には儀式の知識がない。ただ、相島あいじまの顔色の悪さだけが気になってしかたがない。そこで、佳代子かよこにそっと近寄って耳打ちした。

「あの、これから祈祷きとうをはじめるのでしょうか。随分ずいぶんとご気色けしきが優れないご様子ですが、大丈夫なのでしょうか。日を改めるということもできると思いますが――」

 しかし、佳代子かよこの返答はすげないものであった。彼女はきつと前を見据みすえたまま、ごく小さな声で答えた。

「あなたが気にする必要は、これっぽちもありません。立場をわきまえなさい。儀式をおこなうかどうかは私が決めます」

 斎木佳代子さいきかよこは儀式の準備が整いつつある和室へと向かって歩きはじめた。僕は暗然あんぜんとした心持ちで、それを見送ることしかできない。胸の内に空いた穴に、しきものが流れ込んでくる。そんな感覚に襲われた。

 むなさわぎがする。不吉なことが起きる気がする。これなら暑さをしのんで車中で待機たいきしていた方が良かったかもしれない。相島あいじまのゼエゼエという荒い息遣いきづかいが、いたずらに大きく聞こえる。柱時計がポーンと三度続けて鳴り響いた。



  三、儀式


 四つの影がヌラリヌラリと座敷ざしきの壁を濡らしている。蝋燭ろうそく灯火ともしびが揺れるたびに壁にえいじた四人の影が不気味にうごめくのである。真夏の太陽に焼かれた室内は人いきれのためにかえるようだ。腋窩えきかから止めどなく汗が流れ落ちる感覚が不快だった。

十種神宝とくさのかんだらふるたまへ。神宝かんだから瀛都鏡おきつかがみ邊都鏡へつかがみ八握劔やつかのつるぎ生玉いくたま足玉たるたま死返玉まかるがえしのたま道返玉ちかえしのたま蛇比禮へびのひれ蜂比禮はちのひれ品物比禮くさぐさのもののひれ――」

 祝詞のりと奏上そうじょうするをみなを囲うようにして、僕たちはしててのひらを合わせている。おもてを伏せるように叔母おばから命じられていたが、がる好奇心をおさえることは難しかった。

 斎木佳代子さいきかよこは神聖な儀式にのぞんでいるつもりらしいが、俯瞰ふかんして見れば稚拙ちせつまがものであることは瞭然りょうぜんである。じきに好奇心は退屈たいくつ侵食しんしょくされていった。しかし、頭の隅にかる不吉な予感から、目をそむけることもできないでいる。相島直和あいじまなおかずの顔色は依然いぜんとして青い。

一二三四五六七八九十ひふみよいむなやここのたり布瑠部ふるべ由良由良止ゆらゆらと布瑠部ふるべきわめきたなきもたまりなければきたなきはあらじ。内外うちと玉垣たまがき清浄きよくきよしもうす」

 壁にえいじた一つの影がぐらりと揺れて消えた。一心不乱に祝詞のりとを唱える祈祷師きとうしは、それに気が付かない。ぐに相島直和あいじまなおかずが倒れたのだとさとったが、それを指摘して良いのか、判断するまでに少しだけ時間をようした。おもてを伏せて祈りをささげているため、多田ただ朔太郎さくたろうも動こうとしない。

 さんざん、逡巡しゅんじゅんしたすえに横たわる男に向かって膝行いざった。そっと声を掛けたが返事はない。ようやく、異常な事態じたいおちいっていることをみなさとった。多田ただ叫喚きょうかんが耳をつんざかんばかりに響いた。

「息してない。息してないよお」

 相島あいじまの顔色は青紫あおむらさきに染まり、早くも鬱血うっけつのために浮腫むくみはじめている。蝋燭ろうそくとぼしい明かりのそばでもはっきりと見て取れた。多田ただはさめざめと泣きしきるばかりで役に立ちそうにない。僕も足をもつれさせながら、叔母おばもとへ駆け寄ってうったえた。

叔母おばさん、相島あいじまの野郎が死んじまった。死んじまったんだよ。息してないんだよお」

 僕は叔母おば華奢きゃしゃな肩をつかみ、震える声で叫んだ。しかし、佳代子かよこうつろな眼で中空を見詰めるばかりで、一向いっこう手応てごたえが感じられない。しばらくの間、僕は叔母おばの肩をつかんで揺さぶっていたが、やがて彼女が何かを口の中でつぶやいていることに気が付いた。

はらたまへ、きよたまへ、かんながらまもたまへ、さきわたまへ。犬神いぬがみよ、いのりをかなたまへ」

 佳代子かよこは遠くを見詰めたまま、小さく祝詞のりとを唱え続けている。多田ただは男の遺体の前で恐慌きょうこう状態じょうたいおちいっている。僕が彼らを導かなければならないのだろう。

 僕は座敷ざしきを後にして、救急車を呼ぶために電話を探しはじめた。電話は玄関のサイド・デスクの上にあった。受話器に手を伸ばそうとした途端とたんに、多田ただ朔太郎さくたろう怒鳴どなりながらはばんできた。受話器は叩き落とされて床に転がっていった。

「どこに電話を掛けるつもりですか。もう、手遅れです。相島直和あいじまなおかずは死んでいます。あの男がここに来て死んだことが露見ろけんしたら、きっと、もっと面倒めんどう事態じたいになります。助けを呼ぶことなどできません」

 多田ただ朔太郎さくたろうは半狂乱になりながらも、大体だいたいではあるが、そのようなことをくしてた。どうやら、二人の間には相当に後ろ暗い事情が横たわっているらしい。そういえば、相島あいじまは暴力団の構成員であると言っていた。その友人である多田ただも、叩けばほこりの出る身の上なのだろう。大事になることを恐れる気持ちも理解できないわけではない。

多田たださん、あんたにとって災難さいなん結末けつまつかもしれないが、大局たいきょくを見れば、するべきことは決まっているようなものじゃないか。これは僕たちのあまる状況だ。誰かが相島あいじまを殺したわけじゃないんだ。調べれば分かることじゃないか。今すぐ、誰かを呼ぶべきだ」

 僕の説得せっとくを聞いても、多田ただうべなおうとはしない。捜査そうさ当局とうきょくに調べられたら不利になるような要因があるのかもしれない。でも、それは彼にとっての重大事であって、僕には関与かんよしないことでもある。しばらく、二人の男は問答もんどうを続けたが、議論は平衡へいこうしたままで、らちきそうになかった。

「先生のご意見を伺いましょう。先生なら良い知恵をさずけてくれるに違いありません」

 突如とつじょ多田ただが叫んだ。その面にはしゅし、感情が昂揚こうようしていることは一目瞭然いちもくりょうぜんだった。だが、僕は彼の間歇的かんけつてきともいえる感情の起伏きふくに、ある種の病質びょうしつな影の端を見ていた。一人の男の死をきっかけに、みなが少しずつ狂いはじめていた。無論むろん、そこには僕も含まれている。

 ――斎木佳代子さいきかよこの判断力はにぶっているが、理がこちらにあるのなら、説き伏せることも可能なはずだ。多田ただ朔太郎さくたろうの保身のために、みずかどろかぶるほどおろかではないはずだ――

 僕たちはたがいに牽制けんせいいながらも、いまだに熱気の漂う座敷ざしきに踏み込んだ。佳代子かよこ相島直和あいじまなおかずの死体の前に屈んで、てのひらを合わせて祈りをささげている。死者をとむらっているのだろうと思ったが違った。

 佳代子かよこ神棚かみだなかざっていたさかきを手に取ると、相島あいじま強張こわばった肉体を激しく打つすえはじめた。僕はついに彼女が正気しょうきいっしたのだと思い、慌てて近づくと手からさかきを奪い取った。彼女はうらみがましい眼差しで、僕をにらみつけるとえるように言い放った。

「何をするのです。あなたは大変な思い違いをしているのです。相島あいじまさんの霊魂れいこんは、まだ近くをさ迷っています。犬神いぬがみおろろして、彼の肉体を蘇生そせいさせるのです。さあ、あなた方も祈りをささげなさい。邪魔じゃまてはゆるしませんよ」

 多田ただ朔太郎さくたろうは僕の手からさかきたばをもぎ取ると、憤然ふんぜんと直立している斎木佳代子さいきかよこうやうやしく差し出した。僕は一連の光景を呆然ぼうぜんと見詰めることしかできなかった。

 多田ただは冷たくなった相島あいじまの手を取り、涙を流して祈っている。死者の肉体を打つ音がうつろな空間に鳴り響く。あまりの恐ろしさに部屋から逃げ出した。信じているのだ。あの二人は死者が蘇生そせいすることを疑っていない。

はらたまへ、きよたまへ、かんながらまもたまへ、さきわたまへ。犬神いぬがみよ、いのりをかなたまへ」

 佳代子かよこ多田ただうなるような祈祷きとうの声がふすまの奥から聞こえてくる。死体を鞭打むちうつ音と共に聞こえてくる。視界がグルグルと回り、得体えたいれない恐怖と疲労のために、立っているのもままならなくなってきた。

 ――狂っている。世界が狂っている。どうにかしないと、僕までおかしくなってしまいそうだ。僕は恐怖を感じている。退屈たいくつなど微塵みじんもしていない。これほどまでに恐ろしさが力強いものだとは知らなかった――

 いまや、僕の身体は恐怖によって屈服くっぷくさせられていた。背中を壁にあずけて座り込んでしまう。この機会を逃してはならないと脳裏のうりで警告音が鳴っている。だが、意に反して肉体は動こうとしない。神経は極度に緊張し、今にも音を立てて切れてしまいそうだ。

 数分後、ふすまの内側で鳴り響いていた音の一切いっさいが止んだ。座敷ざしきの引き戸が静かに開けられ、誰かが跫音きょうおんしのばせて、近寄ってくる気配がする。しかし、おもてを上げる気力も残されてはいない。

 突如とつじょ、後頭部をしたたかに打たれて視界が暗転あんてんした。二度、三度と殴打おうだが続き、ついには意識を手放した。暗闇へと急降下していく感覚。多少たしょうの痛みはともなうものの、それはとても心地良ここちよい感覚だった。



 四、禊


 冷水れいすいを浴びせ掛けられて目をました。意識を取り戻すとともに、ひどい頭痛にさいなまれることになった。もう一度、冷水れいすいを浴びせてほしいと願ってしまうほどに頭がにぶく痛む。

 視界が白い皮膜ひまくおおわれているような感じがする。乳白色のかすみが視界をせばめているみたいである。薄ぼんやりとしてようとして知れない。ひどく明るい場所にいることだけは分かった。おそらく、浴室だろう。

柳原やなぎはらさん、目をましましたか。このような手荒い方法をったことをゆるしてちょうだい。これは身をきよめることもねているのですよ」

 乱暴とはそぐわないうるおいのある優しい声の主は叔母おば佳代子かよこである。あれから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 身体が椅子にしばけられているために自由がかない。それほどの膂力りょりょくが彼女にあるとは思えない。一連の暴行は多田ただ仕業しわざなのだろう。かすみがかった脳髄で、そんなことを考えた。

叔母おばさん、まだ遅くはないはずだ。今からでも警察に行こう。死人がよみがえるわけがないことくらい分かるだろう。僕たちはよくやってきたと思う。でも、もう、終わりにしよう」

 罵声ばせいとともに冷水れいすいを浴びせ掛けられた。視界をおおっていた乳白色のきりが晴れる。ひたいに血管が浮くほどに激昂げっこうした多田ただ朔太郎さくたろう口端こうたんつばきあわばしている。一方、斎木佳代子さいきかよこは一応の冷静をたもっているように見える。いずれにせよ、説得せっとくは難しいように思えた。

「この不心得者ふこころえものが。先生の御力みちからうたがうどころか、けなすようなことを言いやがる。お前みたいな不信心ふしんじんやからがいるから、俺たちがむくわれないのだ。相島あいじまさんはよみがえる。先生がよみがえらせてくださるのだ」

 多田ただは完全に正気を失っている。血走った眼球をぐるぐると渦巻うずまかせている様子は狂人そのものである。しかし、僕の恐怖は叔母おば佳代子かよこに向けられていた。この狂人を容易たやす手懐てなずけてみせるまでに、彼女は徹底てっていして役を演じているということになる。そのはかれないごうふかさが恐ろしい。

多田たださん、かまいませんわ。この方の内側には邪念じゃねんが満ちてあふかえりそうになっているのです。ぐにでもみそぎおこなう必要があります。邪気じゃきが彼をまどわせているのです。言葉を聞いてはなりません。心を強くお持ちなさい」

 佳代子かよこ目弾めはじき合図あいずにして、多田ただがいそいそと働きはじめる。なわしばられた身体が椅子いすごと反転させられた。視界から佳代子かよこの姿が消える代わりに、なみなみと水が張られた浴槽が現れる。

 突然とつぜん、後ろ髪をつかまれたと思いきや、浴槽にそそがれた水の中に頭を突き入れさせられた。佳代子かよこ祝詞のりとが遠くで聞こえる。

きわめきたなきもたまりなければきたなきはあらじ。内外うちと玉垣たまがき清浄きよくきよしもうす」

 鼻と口から水が流れ込み、次第しだいに意識が薄れていく。後頭部をおさえていた手から力が抜けたのをさいわいに、急いで水中からおもてを上げて息をする。しかし、すぐさま水中に押し戻されてしまう。

 執拗しつようみそぎが何度もかえされた。おぼれる一歩手前で救われ、救われた途端とたんおぼれさせられる。地獄じごく呵責かしゃくが何時間も続いた。あるいは十数分間ばかりのことだったのかもしれない。多田ただがゲタゲタと笑いながら言う。

まいったか、この野郎。けがれに満ちた不信心者ふしんじんものめ。もっと水を飲ませてやろうか。臓物ぞうもつ隅々すみずみまでどろんでいやがるのだろう。そら、どろかせてやる。け、くんだ」

 多田ただは明確な悪意をもって暴力をたのしんでいる。僕に残された勝算しょうさんかすかなものであったが、彼が嗜虐心しぎゃくしんふとらせれば好機こうきが訪れる可能性も高くなるはずである。そして、ついに機会がめぐってきた。

「もう、そろそろいいでしょう。なわいてやりなさい。みそぎの効果もあらわれる頃合ころあいでしょう。邪気じゃきが払えていないようなら、また、はらいの儀式をおこないます」

 佳代子かよこみそぎめることは分かっていた。彼女は賢い女性である。たとえ、まどっているとしても、自身がつとめるべき役割を彼女は決して見失わない。佳代子かよこの目的は死体を作ることではないし、優秀な助手をみすみす手放したくはないはずだ。ましてや、相島あいじまの死体を処理するつもりなら、明らかに多田ただでは役不足やくぶそくである。彼女は必ず打算ださんする。いつになるかは分からないが、その時は確実に訪れるのである。

「あ、何かブツブツとつぶやいてやがる。聞こえねえよ。はっきりとしゃべりやがれ」

 なわかれるとともに、わざと声をひそめて略拝りゃくはい祝詞のりとを唱えはじめた。半死はんし半生はんせい手負ておびとらしく振舞ふるまってみせる。

 多田ただ横面よこづら徐々じょじょに眼前にせまってくる。みじめな弱者の哀願あいがん期待きたいして彼はみみませる。肉がついて、白くだぶついた首筋が見えた。その時、佳代子かよこが叫んだ。

多田たださん、危ないッ」

 犬歯けんしして、多田ただ朔太郎さくたろうのどぶえいた。ふいごを鳴らすようなたよりない息が音を立てて傷口から漏れる。流れ出る血潮ちしおが僕の口許くちもとをしとどに濡らした。おびただしい量の血を飲みながらも歯を肉に突き立てる。頭を左右に振って肉を食いちぎった。

 やがて、多田ただの身体が大きく痙攣けいれんし始めたが、五分も経たないうちに止まった。僕は獲物えものをしとめる執拗しつようさで白首しらくびに食らい続けた。一匹のあさましいけだものがそこにいた。

はらたまへ、きよたまへ、かんながらまもたまへ、さきわたまへ。犬神いぬがみよ、いのりをかなたまへ」

 佳代子かよこは静かに言うと、さめざめと泣きはじめた。彼女のみじめな姿を横目に見ながら、僕は血だまりの浴室を後にした。

 脱衣所のとびらを開けると強烈な腐敗臭が鼻を打った。部屋中が風呂ぶろのような熱気にめられている。臭気の発生源は容易よういに想像できたが、それを確かめるほどの勇気はない。

 白いシャツは血に染まり、髪は水に濡れていたが、さほど気にすることもないまま、惨劇さんげきのマンションを出た。街はよるとばりりて久しいらしい。ぎんぼんのような満月が天空にぽっかりと浮いている。一体いったい全体ぜんたい、どれほどの時間が経っているのだろう。二日か、三日かもしれないし、一日にも満たないわずかな時間なのかもしれない。

 僕は疲労のためにおぼつかない足取りで街をさ迷い歩きはじめた。どこを歩いているのかは知らないが、どこへ行くべきなのかは明らかだった。運が良ければ、僕の身なりを見て、向こうの方からむかえに来てくれるかもしれない。まさに、喪家そうけいぬというていたらくである。

 多くのものを失った気がしてならない。一滴の涙が頬を伝って落ちたが、その理由は自分にも分からない。ただ、惨劇さんげきの外では退屈たいくつな日常が平然へいぜんと広がっているという現実がにくたらしい。生きているということがバカバカしくなってくる。全ての現象が薄っぺらい贋物がんぶつのように思えてならない。現実げんじつ虚構きょこう遠近えんきんが失われていくような感覚に襲われた。

 それにしても、ここはどこだろう――。どうやら、喪家そうけいぬは本当に道にまどってしまったらしい。



  五、ある雑誌記事の抜粋


 北九州市で猟奇事件発覚か?

 

 昭和六十二年八月九日、福岡県北九州市内の歓楽街かんらくがい血塗ちまみ姿すがたの男性・柳原良助やなぎはらりょうすけ(二〇)が徘徊はいかいしていたところを警察官に保護された。言動は支離滅裂しりめつれつであり、聴取に時間をようしたが、身体検査の結果、怪我を負っている様子はなく、危険物を所持しているわけでもないことが確認された。

 柳原やなぎはらの身体に附着ふちゃくしたおびただしい量の血液から、事件性があると判断した警察官は、柳原やなぎはらを警察署に連行して、詳しい事情聴取じじょうちょうしゅおこなった。

 事情聴取じじょうちょうしゅの結果、柳原やなぎはらは北九州市内の住宅地である某マンションで殺人を犯したことを認めた。彼は夏季休校を利用して北九州市にアルバイトをしに来た大学生であり、土地に明るくなかったために、惨劇さんげきひろげられたというマンションを特定するまでに時間がかかったようだ。

 同年八月十二日、警察は市内の某マンションに踏み込んだが、あまりに凄惨せいさんな現場の様子に驚愕きょうがくしたという。部屋中の窓が閉め切られていたため、現場は異様いような熱気に包まれていた。三人分の死体が発見されたが、熱気にあてられたせいで腐敗の進行がいちじるしく、かえるほどの臭気が満ちていたという。

 すぐに遺体の身元調査みもとちょうさおこなわれた。調査の結果、三人の遺体は、相島直和あいじまなおかずさん(三〇)、多田ただ朔太郎さくたろうさん(三〇)、斎木佳代子さいきかよこさん(五二)のものと判明した。

 マンションの持ち主である多田たださんの遺体の損壊そんかいは激しく、三人の中で唯一ゆいいつ、他殺された形跡けいせきが残されている。また、相島あいじまさんは病死、斎木さいきさんは自殺していることが確認された。各々おのおのの死因がことなる点が、この事件の全貌ぜんぼう複雑ふくざつ怪奇かいきなものにしているといえよう。三人の関係性についても依然いぜんとして疑問が残る。

 柳原良助やなぎはらりょうすけの身体と衣服に附着ふちゃくしていた血痕けっこんと、自宅マンションで惨殺ざんさつされていた多田ただ朔太郎さくたろうさんの血液型が一致している。柳原やなぎはら多田たださんの殺害に関与かんよしているか、現在調査中であるとの事である。柳原やなぎはらの証言は要領ようりょうないところが多々あるようであるが、自殺した斎木さいきさんと親戚関係であることが確認されており、先月七月から共に活動していた様子も目撃されている。柳原やなぎはらが働いていたというアルバイトが斎木さいきさんと関連している可能性もあると捜査そうさ関係者かんけいしゃは言う。



 死体を蘇生そせいしようと奮闘する祈祷師きとうし 

 

 八月十二日に北九州市の某マンションで発見された死体遺棄事件に進展があった。事件は八月九日に同市内の歓楽街かんらくがいを血だらけの恰好かっこう柳原良助やなぎはらりょうすけ(二〇)が徘徊はいかいしていたところを保護されたことから発覚した。

 柳原やなぎはら事情聴取じじょうちょうしゅに対して、不明瞭ふめいりょうな返答をかえしていたが、十二日に北九州市内の某マンションに死体が遺棄いきされていることを証言した。警察の調査によって三体の死体が発見されたが、三人の死因が各々おのおのことなる点、三人の人間関係が不明瞭ふめいりょうな点から、捜査は難航なんこうしていた。

 惨劇さんげき舞台ぶたいとなったマンションの持ち主である多田ただ朔太郎さくたろうさん(三〇)を殺害したうたがいで柳原やなぎはらは身柄を確保されていたが、昨日十五日、正式に刑事告訴けいじこくそされることとなった。また、同マンションで自殺していた斎木佳代子さいきかよこ(五二)との関係性についても新たな事実が発覚した。

 柳原やなぎはら斎木さいきは親戚関係にあることは確認されていたが、二人が霊感れいかん商法しょうほうによって利益りえきていたことも明らかになった。遺体として発見された、多田ただ朔太郎さくたろうさんと相島直和あいじまなおかずさん(三〇)は二人の信者であり、一同は儀式のために多田たださんたくに集まっていたようである。また、多田たださんの家族は、この会合の直前に、朔太郎さくたろうさんのすすめで実家に帰省きせいしている。家族は朔太郎さくたろうさんが信者であることを知らなかったようだ。

 事件は会合中に相島あいじまさんが急死したことから始まった。儀式の最中さなかのことだったらしく、斎木佳代子さいきかよこ相島あいじまさんを「祈祷きとうの力のよって、蘇生そせいさせてみせる」と主張したと柳原良助やなぎはらりょうすけ供述きょうじゅつしている。また、柳原やなぎはら自身は反対したが、れられることはなく、蘇生そせいの儀式が進められたとも供述きょうじゅつしているようだ。この三人の意見の対立が惨劇さんげきの原因となったという。

 斎木さいき多田たださんは蘇生そせいの儀式の失敗は、柳原やなぎはらが協力しなかった点にあると結論付けた。彼らはみそぎしょうして、柳原やなぎはら執拗しつような暴行をくわえたようである。命の危険を感じ取った柳原やなぎはらは抵抗したが、その際に多田たださんを殺害してしまったと自白している。また、柳原やなぎはら多田ただ朔太郎さくたろうさんの殺害を認めているが、斎木佳代子さいきかよこの死亡については関与かんよを強く否定してる。

 警察官らが現場に踏み込んだ時、部屋の中は異常なほど熱気がただよっていた。そのため、三人の遺体はひどく腐乱ふらんしており、少なからず、科学分析のさまたげとなっているといえるだろう。

 柳原良助やなぎはらりょうすけは事件の加害者であると同時に、最後に残された証人しょうにんでもある。事件の全貌ぜんぼう解明かいめいするためには、今後の彼の証言が重要となってくることだろう。しかし、捜査そうさ関係者かんけいしゃの中には柳原やなぎはら供述きょうじゅつ整合性せいごうせいについて疑問をいだいている者も少なくない。真実はということになりそうだ。


                                  (了)


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