狐者異

    狐者異こわゐ我慢がまん豪情ごうぜう一名いちみやうにして、世話せわいふ

   無分別者むふんべつもの也。いきては法にかゝはらず、ひとおそれず

   ひとのものをとりくらひ、して妄念もうねん執着しうちやくおもひを

   ひき無量むりやうのかたちあらはし、仏法ぶつぽう世法せほうさまたげをなす。


             『絵本百物語・桃山人夜話』

              巻第壱/第三より抜萃



 一、頬肉の香草焼き


 「いつだってきっかけは些細ささいなことなのだ」と貝塚かいづかマコトはフライパンに油をめながら思う。長年にかけて愛用してきた鉄鍋てつなべは充分に手入れがほどこされ、持ち主の顔を鏡のように映すまでになっている。貝塚かいづかてのひらをくるりともてあそぶと、腕に掛かる重みに満足して、黒々と光沢する鉄鍋てつなべをキッチンの棚に納めた。

「また、ホトケサンを食べるつもりか。あんたの仕事の腕前は認めるが、さばいた肉だって、もとは人間なんだぜ。敬意を払って扱わなきゃ、いずれ罰が下るんじゃないか」

 貝塚かいづかが背後を振り返ると、バスローブを身にまとった青年が、髪をしとどに濡らしたまま、彼を屹然きつぜんにらみつけている。貝塚かいづかはこの青年――村田むらたミノル――のことを憎からず思っている。なま意気いきではあるものの、仕事には真摯しんしであるし、国立大学の出身らしく明晰でもある。融通ゆうずうかないが、いい加減な仕事をされるよりはマシだった。

 貝塚かいづかは彼の瞳を特に気に入っていた。そこには、貝塚かいづかが失って久しい輝きがあった。鋭くきらめく双眸そうぼうに見詰められるたびに胸の奥がざわざわする。しかし、不思議と不快ではない。若さへの憧憬どうけいとでもいったようなものを貝塚かいづかは抱いているらしかった。彼は今年で四十になる。

「ミノル、そこがお前の悪いところだよ。この商売に同情や共感はいらない。それは命取りになる感情だ。これは、肉の塊だよ。機能不全を起こした時点で物質になるんだよ。ホトケサンをさばくとき、初めに頭と腕を切り落とすのは、そういった共感的反応シンパシー遮断しゃだんするためでもある。人間としては立派な反応だが、俺たちのような掃除屋そうじやには必要ない。どうか、それを知っておいてくれ」

 貝塚かいづか幼子おさなごさとすかのような口調で言うと、キッチンに備え付けられていたガスコンロのつまみをひねった。オーブンに火がき、金網にせられたアルミホイルの包みをジリジリとあぶりはじめた。ほどなくして、包みの隙間から油がしたたち、部屋中にバターのこうばしい香りが漂う。

 村田むらたは不機嫌そうに濡れた前髪を指で払うと。しつらえられたソファに向かって歩き出した。あと、もう十五分もすれば、食事は出来上がるはずだ。貝塚かいづか咥内こうないつばきが満ちる。

 貝塚かいづかマコトが掃除屋そうじや――死体処理稼業にいたのは八年前のことである。三十二歳、彼ははたらざかりのサラリーマンであると同時に欲望の奴隷どれいでもあった。天涯孤独の身の上という事実が彼の野性を解き放ったと言っていい。転落は早かった。尋常じんじょうでない勢いで借金は膨れ上がり、じきに暴力が支配する世界へと身を落としていった。

 「細切こまぎれにされて魚のえさになる側」か「細切こまぎれにして魚にえさを与える側」に立つかを選べと迫られるようになった。そして、貝塚かいづかはさして悩むこともなく後者を選択した。

 その日から、貝塚かいづかマコトはとある組織の〈所有物〉となった。彼の仕事は組織から送られてくる死体を処理すること。以来、彼は山小屋にこもって死体をさばき、或いは燃やし続けている。それでも、貝塚かいづかマコトは幸せだった。彼は新しい幸福追求の手段を仕事の中に見出みいだしたのである。彼は執念の鬼――快楽をむさぼる一匹の餓鬼がきであった。

「あんたは腕のいい掃除屋そうじやかもしれない。でも、人間が人間を食ってよいという理屈にはならんだろう。僕は仕事の手解てほどきを求めているんじゃない。論点はそこじゃないんだ。あんたは話をはぐらかしているだけさ。今、僕は罪について話しているんだよ。あんたは罪を意識したことはあるかい」

 村田むらたはソファに身を横たえながら挑むような口調で貝塚かいづかに問い掛けた。貝塚かいづかは戸棚から食器を取り出しては机に並べていたが、村田むらたの声の内に込められた熱をやがてさとった。

 貝塚かいづか村田むらたの顔色をうかがおうとしたが、華奢きゃしゃてのひらおもてを覆っているため、ようとして知れない。ポケットから抜き出したタバコに火をともすと、努めて穏やかな口調で自身の考えを述べはじめた。

「罪を感じなかったと言ったら嘘になる。だが、そういう感覚の鮮度はすぐに失われていくのも事実だ。正義や真理が不朽ふきゅうならば、罪もまた絶対であるべきじゃないか。だから、俺は大罪たいざいおかしているとは思わない。人は大なり小なり罪を抱えているものだからな。ならば、みんな誰にゆるしをえばいい。罪に対して誠実せいじつであろうとするならば、破滅はめつを覚悟しなくてはならない。俺たちはおろものではあるかもしれない。だが、神さまから見捨てられるほど罪深くはないはずさ。俺はそう考えている」

 貝塚かいづか紫煙しえんを吹きながら、だいたい、そんなことを語った。村田むらたは顏をてのひらで覆ったまま動こうとしない。これが詭弁きべんであるということは貝塚かいづかにも分かっていた。彼は正義や真理を信じていない。それと同じ程度に罪の実存を疑っていた。

 明晰な頭脳を持つ相棒のことである。村田むらたがこの欺瞞ぎまんに気が付かないはずがない。

 沈黙を破ったのは、キッチンタイマーのアラームであった。貝塚かいづかはタバコの火を灰皿に押し付けて揉み消すと、台所にまわり込んでオーブンのふたを開けた。かぐわしい香りが煙となって部屋に満ちる。バターと香草、それと肉からしたたちたあぶらが溶けあったにおいだ。

 アルミホイルの包みを白磁の皿にせてほぐしていく。ホロホロと崩れ落ちてしまいそうなほど柔らかい肉――一般にツラミと呼ばれる頬肉の部分――が銀箔ぎんぱくの隙間から顔をのぞかせる。付合つきあわせに入れた人参にんじん榎茸えのきだけが赤白のいろどりをえていた。ローズマリーとタイムの香りが湯気となって立ち込め、鼻腔びくういっぱいに甘くさわやかな風格が広がる。〈頬肉の香草焼き〉である。貝塚かいづかは食卓に着くと、さっそく、銀のナイフとフォークをあやつりはじめた。

「なあ、僕たちは罪人じゃないよな。たのむから、もう一度だけ、そう言ってくれ。神さまは僕たちを見捨てちゃいないと。なあ、お願いだよ。ひどく心細いんだ」

 村田むらた哀訴あいそふいごを鳴らすような、か細くたよりないものだった。無我夢中で肉をむさぼ貝塚かいづかの耳にはわずかに届かない。ただ、カチャカチャと食器が互いに触れ合う音だけが、いたずらに響いている。シルクのヴェールが薄い皮膜ひまくとなって彼らの間に介在かいざいしているようだった。その晩、二人の男が言葉を交わすことはついになかった。



  二、内腿肉のユッケ


 昨晩、さばいた死体は鮮度が良かったため、いつもより多くの素材を切り取ることができた。人の肉はぐに味が落ちる。処置をほどこさないと十日が限度といったところである。貝塚かいづかマコトは必要以上に肉を取らないようにしている。彼にとって食事は神聖な行為である。素材を無駄にしたくはない。

 貝塚かいづかは冷蔵庫の中からバットにせられた肉の塊を取り出した。赤身あかみあぶら対照たいしょうが美しいももの肉である。貝塚かいづか牛刀ぎゅうとうを手にすると、サシの入った肉を細く薄く切り分けていった。手際てぎわよく肉を麺状めんじょうに切りそろえると、戸棚から気泡の入った青いガラス皿を取った。涼しげな皿の上に円錐えんすいになるようにけていく。親指の腹で山のいただきしてくぼみをつくり、そこに卵黄らんおうを静かに落とす。

 〈内腿うちももにくのユッケ〉。貝塚かいづかはこれを胡麻油ごまあぶら苦椒醤コチュジャンの合わせタレで食べるつもりでいる。いろどりとして果物くだものが欲しかったが備蓄びちくはない。今日は伝達係――メッセンジャーが来るはずであるが、昼食までにはいそうにない。貝塚かいづかは少しだけ残念に思いながらも、はし卵黄らんおうを崩して、麺状めんじょうに切られた肉と混ぜ合わせはじめた。香り高いタレを肉の上にサッとかける。唾液だえきせんからよだれが湧いてきた。

 くちふくむと、胡麻油ごまあぶらの豊かな風味と苦椒醤コチュジャンの甘辛いような味わいに包まれた肉がほどけていく。上品なあぶらは舌の上でトロリとけ、柔らかい赤身あかみは頬の内側にじんわりとしたうまみを広げる。卵黄らんおうが調味料の角をまろやかにしていた。貝塚かいづか滅多めったに食べられない肉の刺身に舌鼓したつづみを打った。肉の美味うまさをめる。

「ああ、食料が底を尽きそうだよ。メッセンジャーはまだ来ないのかい。もう、クラッカーは食べきちまった。もっとも、あんたには関係ないようだけどな。えとは縁遠えんどおい暮らしをしているみたいだから」

 勢いよく玄関の扉が開け放たれると同時に、村田むらたミノルが苛立いらだたしげに言う。山小屋の外に普請ふしんされた倉庫の備蓄びちくあさっていたのだろう。服のあちらこちらにほこりがついていた。

 ――たしかに、飢餓きがとは無縁むえんな人間に見えるのだろう。だが、それは思い違いというものだ。飢餓きがを経験したからこそ、今の俺がいるというのに。いつだってきっかけは些細ささいなことなのだ――

 村田むらたミノルがこの山小屋に送られるよりずっと以前のことである。貝塚かいづかマコトは飢餓きがを経験した。

 組織の伝達係は物資の運輸うんゆも担当しているのだが、こちらから連絡する手段は一切いっさいない。貝塚かいづかマコトはどこまでも組織の〈所有物〉であった。

 いつのことだったか、伝達係がふっつりと山小屋を訪れなくなったことがあった。二か月間ほど、貝塚かいづかくるしんだ。食料が底を尽きたとき、彼は死を覚悟したほどだ。

 最後に残されたものは、組織から処理を押し付けられた一つの死体だった。貝塚かいづかは散々に悩んだすえに、それを食べることにした。生きるためには必要な行為だったし、えが判断をにぶらせてもいた。それは、とても美味うまそうに見えたのである。

 貝塚かいづかは泣きながら肉を食べた。彼が罪を感じたのは、その一度きりである。ほどなくして、彼はみつきになった。

 ――やめようと思えばやめることもできた。でも、俺は人間の肉を食い続けている。楽しんでいるのだ。だが、それが悪いことなのだろうか。仕事に楽しみを見出みいだしでもしなければ、耐えられそうにない。俺はどこかおかしいのだろうか――

 村田むらたはまだ部屋をうろつき歩いている。貝塚かいづかはそれを横目に見ながら思う。彼にも限界が近づいているのだ、と。貝塚かいづかくるっているかもしれないが、村田むらたよりもはるかに人間として生きていた。

「あッ、メッセンジャーのクルマが来たぞ。もう、腹がいて死にそうだ。荷物の運搬うんぱんは僕がやっておくよ。あんたは食事を楽しんでいてくれ。って、メッセンジャーと話したいこともあるし。それじゃ、行ってきます」

 そう言うと、村田むらたあわただしく外へけて行った。おそらく、物資の一部を占有せんゆうするつもりなのだろう。それが彼にとっての唯一の楽しみであるということくらい貝塚かいづかも知っている。

 村田むらたとすれ違うようにして、組織から送られてきた伝達係が部屋に入ってきた。

 油の浮いた顔面に、薄くなった頭髪。あかじみたシャツを着た小柄な男が、黄色い歯をして笑っている。この男はさすがに食えないな――と貝塚かいづかは思う。食欲がせた。

悪食あくじきぶりは相変あいかわらずのようだな。それは生肉かい。腹を壊さないようにしろよ。この仕事は身体が資本なんだからな。しかし、まるでコワイだな。同じ人間とは思えんよ」

 耳馴みみなれない言葉を聞いて、貝塚かいづかは少しく興味をいだいた。いずれにせよ、この男の登場によって、食欲は完全にせてしまった。彼ははしを置いて伝達係をにらみつけると、「コワイって何のことだ」と不愉快ふゆかいそうにたずねた。伝達係は頭をきながら答える。

「気を悪くしないでくれ。狐者異こわいというのは悪食あくじきの妖怪のことだ。お前が死体の肉を食らう姿を見て思い出しただけさ。これでも、大学ではみん俗学ぞくがく専攻せんこうしていたんだ」

 この男の気まぐれのせいで、六十日間にわたって飢餓きがあえいだ。貝塚かいづかは食人という行為をいたことはない。彼にとって食事は神聖な儀式である。伝達係の怠慢たいまんゆるすつもりはないし、無礼ぶれい見逃みのがしてやる理由もない。

「あんたは俺のことを侮辱ぶじょくした。気を悪くするな、というが無理な注文だな。はっきりと不快ふかいだ。さっそくで申し訳ないが、この山小屋から出て行ってくれないか。あんたを見ていると食欲がせる」

 貝塚かいづかマコトの声は冷たく鋭かった。伝達係の顔に血がのぼり、額に玉の汗が浮かぶ。タバコ臭い気焔きえんを吐きながら小男が詰め寄る。

随分ずいぶんめた口をくじゃねぇか――豚野郎。お前が生きていられるのは、会社のおかげだということを忘れるな」

 貝塚かいづかマコトはどこまでも冷静沈着だった。伝達係は恫喝どうかつが通じないと知ると、ぐに身をひるがえして部屋を後にした。そろそろ、村田むらたミノルの運搬うんぱん作業さぎょうも終わるころいだろう。しばらくして、外から自動車のエンジン音が鳴り響き、次第しだいに遠ざかっていった。

 村田むらたが部屋に戻ってきたのは、それから二時間後のことである。「倉庫の整理をしていた」と彼は言っていたが、貝塚かいづかぐにそれが嘘であることをさとった。

 村田むらたの靴底は水で濡れていた。倉庫にいたのなら、そんなことにはならないはずだ。そういえば、彼は伝達係に話があると言っていた。あれはどうなったのだろう。嫌な予感がする。

 しかし、貝塚かいづかただそうとしなかった。相変あいかわらず、越えがたい壁が二人の間にそびっているようだった。

 貝塚かいづか微温ぬるくなった料理をゴミ箱に捨てると、晩の献立こんだての内容を考えはじめた。さて、次はどのように料理しようか。

 


  三、胸腺の赤ワイン煮込み


 ――おそらく、あのメッセンジャーは殺されているのだろう。そして、その犯人は村田むらたミノルであるに違いない。あいつは嘘がへたくそだから、組織もじきに気が付くはずだ――

 両手鍋にたたえられた赤ワインのソースを煮込にこみながら、貝塚かいづかマコトは考える。

 玉杓子たまじゃくしで鍋の底をさらうと、トロリとした肉片がすくい上がった。肉片の正体は胸腺きょうせんである。上質なあぶらけて、赤身あかみからまりらしている。ブーケガルニは、パセリ、セロリ、タイム、玉葱たまねぎのぼる湯気は葡萄酒ぶどうしゅと香草の香りだ。

「あんたの料理はさぞかし美味うまいんだろうな。でも、どうしてもホトケサンを食べる気にはなれないんだ。僕はそこに罪を感じずにはいられない。情けないことに、僕はまだ自分が清廉せいれんな身の上であると思い込みたいらしい」

 村田むらたは缶詰の果物くだものをフォークで突きながらつぶやいた。この数日間のうちに、彼は随分ずいぶんと憔悴していた。貝塚かいづかは油の抜けた後輩の顔を一瞥いちべつすると、小さくため息をついた。銀の皿に葡萄酒ぶどうしゅ煮込にこみ料理をよそい、仕上しあげにパセリの葉をひとつまみだけ散らす。

胸腺きょうせんの赤ワイン煮込にこみ〉。貝塚かいづかは少しだけ悩んだすえに、それを青年の前にそっと差し出した。

 きっと、村田むらたミノルは食卓にる料理を拒絶するに違いない。彼は清廉せいれんではないが誠実せいじつな人間ではあった。欺瞞ぎまんを許せない性質たちの人間なのだ。貝塚かいづかは彼のおろかしさが好きだったし、うらやましくも思っていた。彼は拒絶されることを期待きたいしていた。

「気持ちはありがたいけれど、僕はあんたのようにはなれないよ。これを食べてしまったら、神さまに見捨てられてしまうような気がするんだ。どれほど、血に濡れようとも、越えてはならない境界がある。それをおかさなければ、僕はまだ人の子でいられる――そんな気がするんだ。馬鹿ばかげているよな」

 そう言うと、村田むらた自嘲じちょうめいた微笑びしょうを浮かべてみせた。「たしかに、馬鹿ばかげている」と貝塚かいづかは思ったが言葉にはしなかった。この青年は本気で神さまに救いを求めている。貝塚かいづかは神さまを信じていなかったが、神さまにすがる人々の苦しみは理解しているつもりである。

ためすようなことをしてすまなかった。ミノル――お前は人の子だよ。この料理は相応ふさわしくないのだろうな。拒絶してくれてよかったよ」

 貝塚かいづかは銀の皿を取リ下げると、さじを手にして食事をはじめた。肉はけるほど柔らかい。葡萄酒ぶどうしゅ煮汁にじるは胃袋をじんわりと温めるようだ。鼻腔びくうに香草のさわやかな風味が広がる。ひとつまみのパセリが味わいに奥行きを与えているみたいだった。

 ――ああ、この味だ。脳髄のうずいとろけてしまいそうだ。なるほど、俺は人の道を外れた魔物なのかもしれない。だが、それがどうしたというのだ。恍惚こうこつ陶然とうぜんとはこういう境地きょうちを示すに違いない。こればかりはやめられそうにない――

 伝達係の男は貝塚かいづかのことを悪食あくじきと呼んでさげすんだ。それは彼にとって屈辱くつじょくきわみである。だが、貝塚かいづかは自分が人倫じんりんに反した行為を繰り返していることも知っていた。しゃくではあるが、人の道を外れた者は妖怪や魔物と呼ばれてしかるべきだし、神さまから見限られてもしようがないのである。

「僕は神さまに嫌われてもしかたがないことをしてしまったんだ。取り返しのつかないことをしてしまったんだ。僕はあんたの料理を拒絶したんじゃない。臆病おくびょうなだけなんだ」

 村田むらたミノルが何を言おうとしているのか、貝塚かいづかには理解できるような気がした。

 食人と殺人のどちらの方が罪深いのか、彼らには分からない。しかし、この仕事を始めてから、どこかわけめいたものを探し続けている自分がいることはたしかである。解答はいまだに導き出せていない。

 村田むらた潔癖けっぺきを思えば地獄のような状況だろう。村田むらたすでに境界を越えてしまっている。だからこそ、食人にまで手を伸ばしたくないのだろう。村田むらたは顔色を青くして震えている。貝塚かいづかはそれを見守ることしかできない。いくらかの沈黙の後に、とうとう、村田むらたは細い声で話し出した。

「あのな、どうやら、僕は大罪たいざいおかしてしまったみたいなんだ。僕はあのメッセンジャーのことを――」

 だが、村田むらた告解こっかいなかばでさえぎられてしまった。玄関の扉が勢いよく開け放たれ、黒いスーツを身にまとった男たちが部屋に侵入してきたからだ。聖餐せいさんにじられて終わりをむかえた。物々しい雰囲気が辺りを包む。彼らが組織の人間であることは明らかだった。長身痩躯ちょうしんそうくの男が一歩進み出て訪問のよしを語りはじめる。

夜分やぶんに押し掛けてしまって、申し訳ございません。よんどころない事情がありまして、失礼させていただいた次第しだいです。貝塚かいづかマコトさん、あなたに殺人の容疑が掛けられています。単刀直入におたずねします。あなたはうちの伝達係を殺しましたか」

 村田むらたは椅子から立ち上がると、ひどく狼狽ろうばいしながら男に詰め寄った。その様子を見て、貝塚かいづかマコトは全てをさとった。

 このおろかな青年は罪からのがれるために隣人りんじんを売ったのである。きっと、彼は銀貨の代わりに誠実せいじつを買い戻そうとしたのだろう。それが欺瞞ぎまんだとしてもあこがれないわけにはいかなかったのだ。そう考えると、不思議と怒りは湧いてこなかった。

「約束と違うじゃないか。こんな大勢でやって来て調べるなんて聞いていないぞ。あんたらは全てをぶち壊したんだ」

 口角こうかくあわばしてげきする村田むらたとどめて、長身痩躯ちょうしんそうくの男は静かに言う。村田むらたミノルは明らかに進退これきわまっていた。彼の嘘を信じている者は誰一人としていないようだ。

「あなたの指示にしたがう理由は一切いっさいありません。我々は必要に応じて速やかに行動します。あなたの供述は信頼できないと判断しました。村田むらたミノルさん、率直そっちょくに申し上げますと、我々はあなたのことを疑っています」

 村田むらたは反論しようとしたが、黒服の男たちがはばんだ。一本のこぶしが彼の鳩尾みぞおち穿うがつ。痛みと苦しさのあまりにかがんだところを、幾本もの腕にかららえられた。一方的な暴力の嵐が村田むらたを揉みくちゃにする。長身痩躯ちょうしんそうくの男は我関われかんせずといった表情で貝塚かいづかに問い掛けた。

貝塚かいづかさん、この男はあなたが当社の伝達係を殺害したと言っています。それは本当のことでしょうか。もう一度、おたずねします。あなたは伝達係を殺しましたか」

 貝塚かいづかマコトはしばらく逡巡しゅんじゅんした後に、銀の皿からスープをすくうとくちふくんだ。すでに熱はうしなわれて微温ぬるくなっている。それが残念でならない。彼は静かにさじを置いた。

 ――俺たちはおろものであるかもしれない。だが、神さまに見捨てられるほど罪深くはないはずだ。俺は食人をおかし、奴は殺人をおかした。俺は自身の行為をいてはいないが、二つの罪をおかしたくはない――

 貝塚かいづかマコトは青年のことをよく知らない。青年がどうして殺人をおかし、虚偽きょぎよそおったのか知らない。彼は青年を救おうとは思っていない。ただ、ほんの少しだけ、誠実せいじつでありたいと願っただけである。

「人の子よ、なんじすべきことをせ。狐者異こわいになり切るのは大変だ……」

 彼は黒服の男たちに羽交絞はがいじめにされている青年に微笑ほほえむと穏やかに語り掛けた。



 四、フィレ肉のステーキ


 このくさりからはなたれたい、と村田むらたミノルは願っていた。大なり小なり、常軌じょうきいっしていなければ、死体処理の仕事は続けられない。肉を切り分け、骨をくだたびに人間性がちょっとずつがれ落ちる感覚――それに彼は耐えられなかっただけである。

 村田むらたミノルは十五歳の頃に父親から捨てられた。組織に買い取られなければ、臓器を抜かれて魚のえさになる運命のはずだった。組織は彼に教育の機会を与えたが、その他のことに関しては一切いっさいの干渉をくわえなかった。

 実際、村田むらたは長年にわたって自身が組織のこまであると意識することはなかった。八年間、彼は自由に暮らした。金に困ったことはない。その点において、組織の羽振はぶりは実によかった。それだけに、この山小屋での軟禁生活は苦しく感じられるのだった。

 貝塚かいづかマコトは実に上手うまく仕事と付き合っていたといえよう。彼は必要に応じて正気と狂気の合間あいまを自由に行き来するすべを身につけていた。彼は確固かっこたる自我じがを持っていた。がん彼岸ひがん往来おうらいするに強固きょうこ意志いしを持っていた。それは、村田むらたミノルにはない個性である。

「私が知る唯一の自由は、精神および行動の自由である」とカミュは説いた。彼らが組織の〈所有物〉である以上、行動は常に制約せいやくされる。貝塚かいづかは誰も手を伸ばせない領域りょういき――精神の中に自由の神殿をきずげた。死が彼の心臓を止めるまで、宮殿は不滅であるはずだ。彼は肉体の内側に自由を求めたのである。村田むらたはそれに気が付かなかった。

 春の嵐が山小屋を翻弄ほんろうしている。滝のような雨が水幕すいまくとなって窓を濡らしている。屋根裏を野鼠のねずみたちが走り回っているのだろう。稲妻いなずまが空にひらめたびにカタカタと天井が鳴った。時計は正午を示していた。昼食の時間だ。

 村田むらたは冷蔵庫を開けると、バットにった肉の塊を手に取った。黒胡椒くろこしょうの香りがほのかに漂う。肉にはフィレを使うことにした。背中のうちで腰に近い部位である。薄い桃色をした岩塩がんえんをサッと振りかけると、さっそく、フライパンを温めはじめた。

 ――貝塚かいづかさん、随分ずいぶんと小さくなっちゃったな。あなたの肉は全て僕が食べます。僕はあなたのおかげでながらえている。ありがとうございます――

 村田むらたミノルは二人の男を殺した。一人は組織の構成員。もう一人は相棒の男である。きっかけは些細ささいな口論だった。

 村田むらたミノルは自分が組織の〈所有物〉であることを失念しつねんしていた。伝達係に対する警戒をゆるめ、待遇たいぐう有利ゆうりになるように交渉をしようとこころみた。当然のごとく、伝達係は激昂げっこうした。村田むらたは罵詈雑言を浴びせ掛けられた。

「どうやら、お前は自分の立場を勘違かんちがいしているようだな。生意気な口をきやがる。お前は親父の借金のために売られた惨めな孤児みなしごだということを忘れるな。うちの会社が拾ってやらなきゃ、闇に消えていたということを忘れるな。ふざけるのもそこら辺にしておけよ。今から、本社に報告して、バラバラの死体にしてやる」

 頭蓋ずがいつぶれるまで石で打って殺した。男の死骸しがいは車と一緒に山奥やまおくの沼に沈めた。貝塚かいづかマコトに罪を着せようとしたが、それは全くのくるまぎれの思い付きだった。首尾しゅびよく終わるとは彼自身も考えていなかったし、組織の追及ついきゅうから上手うまおおせられるとも信じていなかった。

 要するに、村田むらたミノルは沈黙と停滞にえられなかったのである。臆病おくびょうが彼を大胆にしていた。全てが終わった時、村田むらたは伝達係からうばった携帯電話をにぎめて、通話ボタンを押していた。そこからさきのことはあまり覚えていない。

「罪に対して誠実せいじつであろうとするならば、破滅はめつを覚悟しなくてはならない」

 村田むらたミノルはそうつぶやくと、熱した鉄鍋てつなべ黒胡椒くろこしょういたフィレ肉をゆっくりと落とした。ぐにこうばしい香りが漂いはじめる。赤身あかみに焼き跡がつくころいを見計みはからって、大蒜にんにくのチップを散らしてあぶる。パチリという音を立てて油が跳ねた。

 ――僕は誠実せいじつの本質を知らなかった。それにも関わらず、自分は純粋無垢な存在であると、心の隅で信じて疑わなかった。おろかであるということは幸福なのかもしれない。誠実せいじつが行き着く先は破滅はめつなのだから。貝塚かいづかさんは、それを理解していたように思える――

 青年の脳裏のうりよぎる言葉は「殉教じゅんきょう」の二文字ふたもじだった。貝塚かいづかマコトは食人行為をあらためようとしなかったし、神さまの存在を信じてもいなかった。それでも、彼は神さまのために生命をささげたように思えてならない。青年は一人の男の信念――或いは執念によって生かされていた。

 「人の子よ、なんじすべきことをせ」とだけげて貝塚かいづかマコトは死んでいった。しかし、村田むらたミノルが福音ふくいんしたがうことはない。彼は誠実せいじつであることをあきらめている。彼は生きることを選んだのである。それは罪から目をそむけることに他ならない。

 組織との連絡が途絶とだえて三十日が経とうとしている。しばらくすれば、山小屋の食料も底を尽きるはずだ。冷蔵庫の中にある肉も残りわずかになった。やがて、飢餓きが時節じせつが訪れるだろう。だが、村田むらたミノルは最後まで生にしがみつき、しゃぶり尽くすつもりでいる。

 ――神さまに嫌われてもかまわない。僕は生き抜いてみせる――

 焼き加減を見るために、フィレ肉にナイフを入れる。さらりとした血があぶらと共に流れた。したたる肉汁が蒸気となって中空ちゅうくううずを描いて消えた。ガーリックの香りが鼻腔びくうに満ちる。グウ、と胃袋が鳴った……。


(了)

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