寝肥

 むかしみめうつらかなるおんなありしが、ねぶれる時はその座敷中ざしきぢうにふとり、いびきのこゑくるまのとゞろくがごとし。これなんにねぶとりといふものにこそ。

                           

           『桃山人夜話・絵本百物語』より 


 一、不思議 


 肝煎きもいり安藤あんどう為衛門ためえもん細君さいくんにまつわる不思議について、揣摩しま臆測おくそくが飛び交うようになって、久しい時が経とうとしている。

 文政ぶんせいの終わりか、天保てんぽうはつめの頃のことである。陸奥国むつのくに黒川郡くろかわぐんの寒村に住む人々は度重なる凶作に頭を抱えていた。やがて、大きな飢饉ききんが起こることは誰の目から見ても明らかである。日毎ひごとに苛烈さを増していく生活にえかねた人間は、より強い刺激を求めて娯楽ごらく遊戯ゆうぎくみする傾向があるものだ。実際、逼迫ひっぱくした現実を正視して座すよりも、弛緩した風聞を蔑視して弄ぶ方が、遥かに人間的な反応であるように思える。

 この裏寂うらさぶれた村落にも、「人間性から生じる病のような悪癖」とでもいったようなものが、執拗しゅうね蔓延はびこっているらしかった。本来ならば、御上おかみ威光いこうかさに着る立場にいる肝煎きもいりでさえ、飢饉ききんに怯えるたみくさの前にあっては、等しく四方山話よもやまばなしの種として扱われてしまうであった。

 「肝煎きもいり細君さいくん年甲斐としがいもなく瘧病わらわやみを患っているらしい」と言う者があれば、「いいや、水子を供養するために喪に服しているらしい」と言う者もある。そうかと思いきや、「いいや、やはり合点がいかない」と首を横に振る者がひょっこりと現れたりする。

 肝煎きもいり安藤あんどう為衛門ためえもん細君さいくん――名をおはつというが――が屋敷に姿を隠すようになって久しい、という些末さまつな出来事について、村人連中はあれやこれやと語り合い、一向いっこうに飽きることを知らない様子である。嫁入り前の見目みめうるわしい彼女の姿を記憶しているからこそ、この話題は人々の関心を集めてまないところがあった。

 無論、肝煎きもいりを前にして堂々と不思議を語るわけにはいかない。為衛門ためえもんが酒を好まないことを知っている村人連中は、煮売り屋で猪口ちょこを傾けながら、密かに噂話に興じるようにしていた。彼らのうちの大多数は文字を知らないし、算術にも長けていない。彼らが無知であればあるほど、口さがない噂話は自然とはなが咲いたようなにぎわいをていしていく。罪と断ずるにはあまりにいとけない遊戯であった。それは肝煎きもいりも充分に理解していたようである。

 安藤あんどう為衛門ためえもん奥州おうしゅうの寒村を世話するように、御上おかみから任をほうぜられてから、もう随分ずいぶんと経とうとしている。肝煎きもいりとしての為衛門ためえもん一方ひとかたならぬざえの持つ賢人であり、決しておごるところのない性質ゆえに人望もあつい、ちょっとお目に掛かれないほどの人格者でもあった。

 為衛門ためえもん朴訥ぼくとつとして弁こそ立たないが、公明正大であることは確かであり、風に吹かれる青柳の葉のようにおっとりとした人柄をしている。彼のことを悪く言う者さほどは多くはない。並々ならない学問の心得こころえがあるはずなのに、それを鼻に掛けて威張いばり散らすこともなく、むしろくわを手に土を耕す人々へ畏敬いけいの念を抱いている風ですらあった。

 村人連中は為衛門ためえもんのことを憎からず思っていた。肝煎きもいり細君さいくんに関する噂話も、いたずらに夫妻をおとしめるようとしたものではなかった。むしろ、それはいまだ幼い子が人の目を盗んで大人に悪戯いたずらを働くようなものであったに違いない。

 万事においてそつがない肝煎きもいりが村人連中の悪戯いたずらに気が付かないはずもない。しかし、安藤あんどう為衛門ためえもんはこれをとがめようとも、異を唱えようともしなかった。ただ、やや青ざめた理知に富んだ面差しに曖昧な微笑びしょうを浮かべながら、陸奥みちのくの風に吹かれて飄々ひょうひょうと暮らすばかりであった。

 やがて、季節が巡って夏が訪れるようになっても、噂話の火種はくすぶり続けていた。相変わらず、肝煎きもいりは知らぬ顔を貫き通している。檜皮ひわだいろ小袖こそでの上に着古した黒羽織くろはおりを風になびかせて、砂埃すなぼこりの舞ううらさみしい村を悠々ゆうゆうと歩いては、何やらしきりに思案にふけっている様子である。その青ざめたひたいの内に巣食すくう苦悩について村人連中はまだ何も知らない。

 日が暮れて空があかねいろに染まる時分になると、安藤あんどう為衛門ためえもんは背に夕日を背負せおいながら小さな邸宅へと帰っていく。御上おかみから肝煎きもいりを任ぜられているはいるが、彼も飢餓きがに怯える百姓ひゃくしょうの一人であることに違いはない。屋敷というにはあまりにささやかな普請ふしん家屋かおくである。彼の小さな屋敷はいつだって水を打ったようにひっそりとしている。それがまた村人連中にとっては不思議でならない。

 ――本当に肝煎きもいりはあの屋敷の中で奥方おくがたとふたりっきりで暮らしているのだろうか――

 彼らはあまりにも人気ひとけのない屋敷の様子に首をかしげるばかりである。御上おかみから肝煎きもいりを任じられている以上は多少の生活のゆとりがあってしかるべきである。それにも関わらず、安藤あんどう家には人の出入りが一切いっさい認められない。今は下男げなん下女げじょも雇っていない様子である。質素しっそ倹約けんやくに努めなければならない時勢じせいとはいえ、あまりにも人の気配がない。新たに普請ふしんするつもりもないのか、家屋かおくを囲う築地ついじは風雨にさらされて崩れ果てているし、前庭ぜんていはむさくるしいくさむらに覆われて虫がさみしげに鳴いている。

 こういった小さな不審が重なって、やがては大きな不思議をすようになるのである。村人連中の関心は否応いやおうなしに膨張していった。あの屋敷の中で夫妻はどのような生活を営んでいるのだろうか。彼らは肝煎きもいりの目を盗んでは噂し合い、あら屋敷やしきに隠れ住む細君さいくんについて罪のない想像を膨らませるのだった。



 二、肉塊にくかい


 肝煎きもいり安藤あんどう為衛門ためえもん細君さいくんの不思議について、村人連中が随分ずいぶんと口さがない噂話を吹聴ふいちょうしてまわったことは先に述べた通りである。

 流言飛語りゅうげんひごとは耳をふさいでいても巡ってくるものだ。万事において抜かりのない肝煎きもいりがこれを聞き逃すはずがないのだが、彼は次第しだいに肥大していく浮世話うきよばなし是正ぜせいしようとは――とがめようとも、異を唱えようとも――思わなかったらしい。ただ、意味深長いみしんちょう微笑びしょうを浮かべながら、黒羽織くろはおりの袖を風に吹かせて、のらりくらりと暮らしていたにすぎない。それを見た村人連中は煮売り屋を根城ねじろ又候またぞろと噂話に興じるのであった。

 肝煎きもいりくすぶる噂の火種を揉み消そうと試みなかったことには理由がある。村人連中が好んで話す物語のほとんどは根も葉もない流言りゅうげんの域を出なかったが、ごくまれにではあるものの、肝煎きもいりの心臓――それはひどく弱々しく鼓動するのみの心臓である――をしかと掴むような話が紛れ込んでいることもないではなかったのである。

 安藤あんどう為衛門ためえもんは嘘の中にひそまことが、おりれてひょっこりと顔をのぞかせることを、極度に恐れていた。彼は臆病であるがゆえに慎重であり、また、努めて誠実であろうとしていたのである。彼は世間との紐帯ちゅうたいを断つことで女房への誠実を果たそうとした。無関心を徹底することで女房を庇護ひごしようとしたのである。

 陸奥みちのく山陵さんりょうを夕陽が赤く照らし、天窮てんきゅうは徐々に紫色に染まりつつある。安藤あんどう為衛門ためえもんくわたずさえた人々が三々五々さんさんごごに散って家路いえじにつく様子を見送ると、代田しろたあぜに下ろしていた腰を叩いた後に大きくびをした。じき早苗さなえを田に植える季節となるだろう。為衛門ためえもんつかの退屈を噛み締めるように堪能たんのうすると、のろのろとした足取りで歩き始めた。皐月さつきの風が着古された羽織はおりすそを揺らしている。

 ――きっと、おはつは俺の帰りをびて、泣きじゃくっているのだろうな。坊主も医者も思わずさじを投げだしてしまいそうなものを、俺ひとりの力でどうにかできるはずがないではないか――

 「肝煎きもいり細君さいくんは病を患っているらしい」という巷説こうせつは正しかった。安藤あんどう為衛門ためえもんの妻であるはつは婚礼の後に程なくして疫病えやみかかった。騒動を恐れる肝煎きもいりが夜をてっして看病にあたったことは言うまでもない。為衛門ためえもんはそれまで雇っていた下男げなん下女げじょひまを出すと、切なく息する妻を抱えて奥座敷おくざしきに連れて行き、人目をしのぶように介抱かいほうを続けた。

 心を砕いた看護の甲斐かいもあって、女房は徐々に恢復かいふくしていったが、疫病えやみは彼女の身体からだにひどい痘痕あばたしこりを残して去って行った。端正な面立ちは痘痕あばたのために醜く崩れ、華奢な肉体はしこりのために始末しまつである。


 ――ああ、やっぱり泣いている――


 見る影もなく荒れ果てた屋敷に辿たどり着くと、安藤あんどう為衛門ためえもんおびただしいまでにくさむらの生い茂る前庭ぜんていに分け入り、かすかに響く妻の泣き声に耳をませた。薫風くんぷうやぶを揺らす音に紛れて女のむせび泣く声が聞こえる。閉ざした目蓋まぶたの裏側に、浅ましく泣き崩れる妻の姿が、鮮明に浮かび上がってくる。冷たく濡れる指先で背筋をそっとぜられたような感じがした。

「あなた、そこにいらっしゃるの」

 妻のしわがれた声を聞いて、夫ははじかれたように飛び退いた。障子しょうじ一枚をへだてた向こう側には、疫癘えきれい穢悪あいあくに悩む妻が横臥おうがしているはずである。為衛門ためえもんを呼ぶ声は次第しだいに荒々しいものに変わっていく。

「あなた、そこにいらっしゃるのでしょう」

 安藤あんどう為衛門ためえもんは妻の間歇的かんけつてきに鳴り響くわめき声にえかねて、茫々ぼうぼうと生い茂るやぶの中に膝を屈してしまった。為衛門ためえもんの脳髄の裏側で忌々しい記憶が激しく明滅する。目蓋まぶたの奥で眼球が渦を巻くように螺旋らせんする。胃腑いのふの底から酸っぱい液が込み上がる。


 ――肉の塊が俺を呼んでいる――


 肝煎きもいり安藤あんどう為衛門ためえもん細君さいくん疫病えやみかかった。疫病えやみは彼女の肉体に痘痕あばたしこりを残して去って行った。痘痕あばたしこりは彼女の美貌を崩した後も瘡腫はれものとなって肥大していった。瘡腫はれものは彼女の姿形をぶよぶよとした肉の塊に変貌させてしまった。


「もう、たくさんだ――、やめてくれ」


 為衛門ためえもん咽頭のどしぼるようにして短い叫び声を上げると、渾身こんしんの力込めた一足飛いっそくとびで濡縁ぬれえんに駆け乗り、勢いのままにぴしゃりと戸を引いた。途端とたんに、えたような臭いが辺りに漂い出した。それはうみあぶらまじじった腐肉くさにくの臭いだった。為衛門ためえもんは決して慣れることのない臭気にてられて嘔吐えずいてしまった。

「ああ、ひどいじゃないか。こんな姿になってしまったのはあなたのせいでしょう。初めからお医者様にまかせていればよかったのです。それなのに、あなたは私のことを座敷に閉じ込めて――。ああ、ひどいじゃないか。ひどいじゃないか」

 妻は夫の不義理を恨めしそうに訴えてまない。彼女の姿は筆舌ひつぜつくしがたいまでに醜悪なものであった。浮腫むくんで膨れ上がった肉体は小柄の力士のように見えなくもないが、薄桃色の肌は弛緩しきって分厚い肉輪にくりんとなっている。彼女がとこの上で窮屈きゅうくつそうに身じろぎすると肉輪にくりんは波打ち、ぬらぬらとした粘り気のある汗がつゆとなってしたたり落ちた。こぼれる汗を吸った汚目しみだらけの布団は悪臭を放っている。

 安藤あんどう為衛門ためえもん六分ろくぶの憐憫と四分よんぶの嫌悪の念がぜになった眼差しで妻を見下ろした。妻のらして赤く染まった目尻めじりを見るといかにも憐れに思えてくる。妻の陳情ちんじょうは確かに正鵠せいこくているといえた。為衛門ためえもん可愛かわいさゆえに、疫病えやみかかった妻を奥座敷おくざしき幽閉ゆうへいした。それは紛れもない事実である。

 しかし、今さら悔いてもどうにもならないではないか。彼は肝煎きもいりの家に生まれた者として最善を尽くしたつもりだった。それをかえりみることもせずに、恨み言を滔々とうとうと述べられても始末しまつえない。

 いつしか天窮てんきゅうは夕闇に染まり、奥座敷おくざしきの内にも陰翳いんえいが迫る刻限となっていた。醜悪な肉の塊は幼子おさなごのように泣きじゃくっている。安藤あんどう為衛門ためえもん相反あいはんする感情――六分ろくぶの憐憫と四分よんぶの嫌悪――の波間なみまに揉まれて困惑するばかりであった。



 三、恍惚こうこつ


 安藤あんどう為衛門ためえもん癇癪かんしゃくを起してむせび泣く妻をようやくの思いで宥めると、りょうもとめて濡縁ぬれえんに飛び出した。土埃つちぼこりの積もった縁側に胡坐あぐらしてから随分ずいぶんと経つが、腋窩えきかしたたる汗は一向いっこうに引きそうになかった。

 何処どこかへ逃げ出したいが何処どこにも行き着く先がない。為衛門ためえもん大儀たいぎそうにため息をくと、脳裏をよぎ不穏ふおんな思いを払うために頭を振った。

 前庭ぜんていくさむら一陣いちじんの風に吹かれて大きく揺れると共に、障子しょうじえいじた病人の影がゆらりと動いた。病人は耳にさわしわがれた声で言う。

「あなた、先刻さっきは本当に失礼いたしました。悪気はなかったのよ。ただ、胸が苦しくてしょうがなかったのよ。あなた、どうか私をゆるしてくださいまし。

 ああ、何だかまた胸が切なくなってきました。いっそうのこと、このまま死んでしまえればいいのに。私の身体からだはぶくぶくと醜く肥えるばかりで、妻としての役目を何も果たせそうにありません。

 ねえ、あなた――最後に枕を共にしたのはいつのことでしたかしらね。この醜く太った身体からだではあなたをなぐさめることは出来ないことくらい、私にも分かります。あなたは私のことを不快に思っていらっしゃるのでしょう」

 為衛門ためえもん総身そうしん逆立さかだつと共に、肌が粟立あわだつのを感じた。おはつの声はれてしわがれてはいたが、明らかに「性」を彷彿ほうふつさせるつやを帯びたものだった。為衛門ためえもんは妻の貪婪どんらんなまでのよくふかさをたりにして戦慄せんりつせずにはられなかった。彼は居心地いごこちが悪くなって、障子しょうじうつ陰翳いんえいから目をらした。

「そんなことはないさ。お前は充分に妻としての役目を果たしているよ」

 為衛門ためえもんは乾いた唇を舌で湿らせながら、空々そらぞらしい世辞せじを口にした。それが本心からの言葉ではないということは瞭然りょうぜんだった。おはつは夫が咄嗟とっさかたった空言そらごととがてはしなかったが、同時に弁明する機会を与えようともしなかった。長い沈黙の後におはつようやく口を開いた。

「ねえ、あなた。もう二度と私を抱いては下さることはないのでしょうね」

 それは為衛門ためえもんが最も恐れていた言葉であった。おはつ明白あきらか冷笑れいしょうを込めた声風こわぶりで言い放つことで、夫の抱える欺瞞ぎまん射抜いぬいて見せたのである。おはつは夫にとって都合つごうのいい愛情を受け入れるつもりはなかった。また、彼女は夫の人格の奥底に隠された利己主義者エゴイストの側面を決して見落としはしなかった。為衛門ためえもんは食いしばった歯の隙間すきまからうめき声がれるのをおさえられずにいた。

 ――俺はどうしようもないまでに矮小わいしょうな人間だ。おはつの言うことは正鵠せいこくているに違いない。俺にはとてもではないが、あの得体えたいれない肉の塊を抱くことはできそうにないのだから――

 為衛門ためえもん胸中きょうちゅうを占めていた憐憫と嫌悪の情動は、おはつの放ったごく短い言葉をきっかけに、安堵と羞恥の情念に変わっていた。

 為衛門ためえもんは妻から閨房ねやに誘われることを非常に怖れていたが、彼の懸念けねんは全くの杞憂きゆうに終わったことになる。

 おはつおりれてみせる夫の陰気な顔色を決して忘れはしなかった。また、彼の心が自分から離れつつあるという事実を、彼女は早いうちに察してもいた。

 おはつの問い掛けは為衛門ためえもんの抱いていた危惧きぐを的確に捉えていたが、それは言外げんがいに「夫婦として枕を共にすることを諦めつつある」と告白しているに等しかった。為衛門ためえもんは深い安堵を覚えたことは言うまでもない。

 しかし、為衛門ためえもんは同時に強い羞恥を感じずにはいられなかった。おはつ嘲笑ちょうしょうが彼の男性としての自尊じそんしんひどく傷つけたのである。

『私は妻としての役目を果たすこともできない身体からだに成り下がったが、お前は夫としての責務を十分に全うしているのか』

 要するに、おはつ為衛門ためえもんの臆病を冷笑れいしょうしたのである。彼女は貞淑ていしゅくな妻であるよりも、一人ひとりの女性であることを選んだということになる。

 これほど妻に挑発ちょうはつされても夫の胸中きょうちゅうに熱意が宿ることは一切いっさいなかった。為衛門ためえもんの心には致命的なまでに熱誠ねっせい欠落けつらくしていたのである。彼がいくら自分をふるたせようとしても全ては徒労とろうに終わってしまう。彼は自身の不能を大いに恥じた。

 ――薄情者だとそしられても妻には堪忍かんにんしてもらうしかあるまい。俺はどうしても妻を愛することができそうにない。夫としての責務を果たせそうにない。いくら自分に言い聞かせてもダメなのだ――

 安藤あんどう為衛門ためえもんは覚悟を決めると、濡縁ぬれえんから立ち上がり、妻の陰影いんえいが色濃くえいじた障子しょうじを引いて、座敷に踏み入った。

 桃色の肉塊にくかいとなった妻は、面を両掌りょうてで隠しながら、うつ伏せになって巨体を震わせている。ポタリポタリ、としずくしたたる音を耳にした途端とたんに、為衛門ためえもんの脳裏を嫌な予感がよぎった。

 為衛門ためえもんもつれる足で妻のもとへと駆け寄った。行燈あんどんの乏しい明かりに照らされて、ふたつの影はしばらく格闘を続けていたが、小さな影が大きな影を仰向あおむけに押し倒すような形で決着した。

 おはつ双眸そうぼうは固く閉ざされていたが、目蓋まぶた隙間すきまには赤いしずくわずかににじんでいた。枕元にはひびの入った柄鏡えかがみが投げ棄てられている。妻は破片を用いてみずからの両眼りょうめつぶしたのだ――、と為衛門ためえもんじきに察した。夫にかれた妻は切なそうな息を繰り返しながら、ぽつりぽつりと話し始めた。

「あなた、どうか許してくださいまし。私は醜く肥え太っていく己の姿をゆるすことができないのです。私は美しい品々しなじなに囲まれて生きていきたいのです。見下みくだされて生きていくことに飽きてしまったのです」

 為衛門ためえもんは妻をひしといだきながら、おのれすべきことについて考えを巡らせていた。妻は微笑びしょうを浮かべて浅い呼吸を繰り返すばかりである。何かを与えてやりたい、という感情が彼の中に芽生えつつあった。しかし、いくらふるたせようとしても、肉体に流れる冷血を取り除くことはできそうになかった。桃色をした肉塊にくかいいだきながら為衛門ためえもんは思う。

 ――もはや、これまでだな。俺は誠実であろうと努めてきたが、怪我を負った妻をなぐさめてやることすらできないでいる――

 為衛門ためえもんかかえていた肉塊にくかいを優しく寝かせると、ふらふらとした足取りでくさむらの生い茂る前庭ぜんていに降り立った。天空にはぎんぼんのような月が上がり、燦然さんぜんと輝く星々ほしぼしが暗闇をほのかに照らしている。

 ちてくずれつつある納屋なやの方を見遣みやると、ギラリと光る物が壁に掛けられていることに気が付いた。――それは一本の鋸鎌のこぎりかまだった。

 下男げなん下女げじょひまを出してからろくに手入れをされていない鋸鎌のこぎりかまは、所どころにさびを浮かべている。為衛門ためえもん躊躇ちゅうちょなく鎌を手に取ると、妻が待っている奥座敷おくざしきの内に消えた。



 四、無惨むざん


 大肝煎おおきもいり百姓ひゃくしょうを連れて安藤あんどう為衛門ためえもんの邸宅を訪れたのは、それから三日後のことだった。彼は為衛門ためえもんが村人連中にあなどられていることをこころよく思っていなかった。――御上おかみ威光いこうそこなうような為衛門ためえもんの振る舞いは是正ぜせいされるべきである。大肝煎おおきもいり為衛門ためえもん叱責しっせきすることで、失墜しっついした威厳いげんを取り戻そうとしていた。やがて、到来とうらいするだろう飢饉ききんに備えて風紀を正す必要もある。

 しかし、大肝煎おおきもいりが邸宅を訪れても出迎でむかえる者は一向いっこうに現れない。百姓ひゃくしょうたちは幽霊ゆうれい屋敷やしきさながらの家屋かおくの様子に怯えだす始末しまつである。

 仕方がないので、大肝煎おおきもいりおびただしいまでに茂ったくさむらを分けて、前庭ぜんていから屋敷をうかがうことにした。百姓ひゃくしょうたちの顔色は依然いぜんとして青い。大肝煎おおきもいり初夏しょか陽射ひざしに汗しつつも、座敷に向かって大声を張り上げた。――無論、返事はない。

 ごうやした大肝煎おおきもいりは、百姓ひゃくしょうたちがそでを引くのを無視して縁側えんがわがると、閉ざされた戸を勢いよく引いた。大肝煎おおきもいり肩越かたごしに座敷の内をのぞいていた百姓ひゃくしょうの中で、悲鳴を上げなかった者は一人としていない。大肝煎おおきもいりでさえ、うめき声をらさずにはいられなかった。――奥座敷おくざしきうちには地獄じごくめられていた。

 ふたつの死体が折り重なるようにして横たわっている。ひとつは肝煎きもいり安藤あんどう為衛門ためえもん亡骸なきがらである。だが、もうひとつの亡骸なきがら正体しょうたい判然はんぜんとしない。そもそも、人間の死体であるかどうかもうたがわしいものである。確かに人の形はしている。力士のように見えなくもない。しかし、よくよくうかがうと女であることが分かる。さて、大肝煎おおきもいりたちは首をひねるばかりである。この得体えたいの知れない巨大な肉塊にくかいは誰なのか。

 初夏しょかの熱気にてられたせいか、男女の亡骸なきがらは早くも腐敗ふはいし始めているようである。騒動を恐れた大肝煎おおきもいりは遺体をその場であらためることにした。こと次第しだいでは、御上おかみに報告する義務が大肝煎おおきもいりにはある。かった災難をなげきながらも、大肝煎おおきもいり亡骸なきがらまとっている衣服をいだ。またもや、大肝煎おおきもいりの口からうめき声がれた。


 安藤あんどう為衛門ためえもんの下腹部はひどそこなわれていた。陰茎いんけいが切り取られていたのである。


 大肝煎おおきもいりは血に染まった手拭てぬぐい為衛門ためえもん疵口きずぐちをそっと隠した。背後で怯えている百姓ひゃくしょうたちに衝撃を与えないように配慮はいりょしたのである。

 彼は惨劇さんげきあと生々なまなましくのこされた座敷の中をぐるりと見渡した。とこかれた布団の端にギラリと光る物がある。――それは、血脂ちあぶらに濡れた一本の鋸鎌のこぎりかまであった。

 ――これで羅切らせつしたのか。すると、女の方はどうして死んだのだろう。身体からだ刃傷にんじょうはないようだが――

 大肝煎おおきもいり肉塊にくかいのような女の亡骸なきがらの前で合掌がっしょうすると、固く結ばれたくちびるに指をませて中をさぐった。舌がなかった。

 ――思った通りだ。女の方は自殺に違いない。男の下腹部には陰茎いんけいがない。女の咥内こうないには舌がないとすると――

 大肝煎おおきもいり百姓ひゃくしょうたちを家に帰らせると、御上おかみ沙汰さたしらせるために筆を取った。紙の上にさらさらとすみが走る。太陽が西にかたむき始めた時分じぶんになって、ようや書簡しょかん出来上できあがった。

 大肝煎おおきもいりが導き出した結論は、『心中しんじゅう』だった。安藤あんどう夫妻ふさい亡骸なきがらは日が暮れてから、信頼しんらいける村人の手によって、あの荒れ果てた屋敷から運び出されることになっている。

 大肝煎おおきもいり為衛門ためえもん羅切らせつされた陰茎いんけい行方ゆくえについて考えてみたが、それを追求ついきゅうしたところで何にもならないことをやがてさとった。肝煎きもいり安藤あんどう為衛門ためえもん細君さいくんについての不思議は、天保てんぽう十年までにはすっかり語る者がなくなったらしい。


                                                    

(了)

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