油すまし

 人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。肝心なのは望んだり生 きたりすることに飽きないことだ。               ロマン・マロン



 一、依頼人の訪問


 ひろは生きることに飽き始めていた。東京という雑多な土地が彼の肌には合わなかった。右を向いても左を向いても人が群れを成している。ふゆれの風にえるようにしてうつむき歩く人々の姿は巡礼者じゅんれいしゃのようであるが、彼らが信奉しんぽうするものはひどく曖昧で醜悪しゅうあく機械きかい仕掛じかけの人形である。

 大正十一年の東京の冬は千尋ちひろにとって苦痛の時でしかなかった。故郷こきょうの熊本に別れを告げて、東京の大学に進学したものの、彼には野心が致命的なまでに欠落していた。両親は遠く離れた九州の大地で、息子が立身出世して帰ってくることを待ち望んでいるに違いない。しかし、千尋ちひろには他の大多数の人々が信仰しんこうする、「社会」という名の機械きかい仕掛じかけの神につかえるつもりはなかった。そこに意義を見出すことができなかったのである。

 千尋ちひろが大学に通わなくなってから、数か月が経とうとしている。彼の自堕落じだらくな暮らしぶりをたしなめる人は下宿先の大家ぐらいである。しかし、それもとどこおりがちな下宿代を催促する延長でしかなく、本心から彼の堕落だらくした生活を正そうという気はない。

 千尋ちひろは東京都大田区の多摩たまがわ沿いにかまえられた下宿で、れた脳髄のうずいあましながら、幾度も読み返した推理小説のページをめくり続ける。孤独と退屈が紫煙しえんの漂う部屋で横たわる彼のことを圧殺あっさつしようとしていた。

 幾度目かの欠伸あくびを噛み殺したころになって、部屋の引き戸がコンコンと叩かれた。千尋ちひろは手にしていた推理小説を文机ふづくえに伏せると、大儀たいぎそうに立ち上がって薄っぺらな戸を引いた。千尋ちひろは大家がまた小言を繰り返しに来たのだと思っていたので、そこにたたずんでいた女性の姿を見て少なからず驚いた。千尋ちひろの叔母にあたる古賀暢恵こがのぶえが息を弾ませて立っていたのである。

千尋ちひろさん、お久しぶりですね。お邪魔してもよろしいかしら。東京は本当に胸が苦しくなるほどににぎやかな場所ですわ。ほら、こんなにも息が上がってしまって――、千尋ちひろさんも大変ですわね」

 古賀暢恵こがのぶえは熊本の天草市あまくさし栖本町すもとまち河内かわちにある古賀こが本家を如才じょさいなく仕切しき才媛さいえんであり、日露戦争で夫を亡くしてから、その美貌に磨きをかけた、妖艶な雰囲気をまとう油断ならない人間でもあった。

 千尋ちひろは意外な人の来訪をこころよくは思わなかった。彼は腹の底が知れない叔母のことを以前から薄気味悪く思っていたからだ。古賀こが千尋ちひろ脳髄のうずいは夢想家らしいれた性質を多分たぶんに含んでいたが、その一方で分析家らしい冷徹れいてつな気質もそなっていた。

「あら、お部屋に上げてはいただけないのかしら。ひと月前にお手紙を差し上げたはずよ。ご相談したいことがあるので、上京するとおしらせしたのだけれど、まさかご存じなかったのかしら」

 美しい叔母は自分が猜疑さいぎしんの込められた眼差まなざしで見詰められていることをじきに察したようだった。暢恵のぶえの言うように千尋ちひろは郵便物を確かめる習慣を持っていなかった。ことにこの数か月の間はいて郵便を受け取らないようにしていた。彼のもとに届く物は大抵たいていの場合は何かを催促さいそくする内容だったし、それらを見るたびに忙しなく蠕動ぜんどうする世間に辛酸しんさんめさせられるようで馬鹿らしく思えたからだ。

 いつまでも本家の使者を玄関に立たせているわけにもいかないので、千尋ちひろは嫌々ながらも暢恵のぶえを部屋にまねれることにした。暢恵のぶえは乱雑な男部屋の様子を見て辟易へきえきしたのだろう――彼女は眉をひそめて小さな溜息ためいきをついた。日露戦争で亡くした夫との間に子どもを授かることがなかった叔母にとって、年頃の男部屋の有様ありさまは少しばかり刺激が強かったようだった。薄い座布団に腰を下ろした未亡人は落ち着かないのか、そわそわとしきりに辺りを見ては顔を赤くしている。

「ごらんとおり、自堕落じだらくな生活を送っています。手紙の件はすみませんでした。僕のもとに届く物ときたら催促さいそくじょうばかりなもので気が滅入めいっていたところなのです。どうか、ご容赦ようしゃしてください」

 千尋ちひろは自分も敷かれた座布団にドカリと腰を落とすと、手持ても無沙汰ぶさた誤魔化ごまかすためにタバコに火をともした。

 叔母は相談したいことがあって、熊本から東京までやって来たと言っていたが、千尋ちひろには正直に言ってどうでもよいことだった。

 客に茶を出さないのは早く帰って欲しいという意思の表明でもあったが、訪問者である暢恵のぶえ一向いっこうかいさない様子で居座いすわっている。

「お手紙を拝見しなかったことはおびしますが、こういう暮らしぶりをしているものですから、おもてなしすることもままならないのです。それにご相談したいことがあるとおっしゃっていましたが、残念ながらお力にはなれないと思いますよ」

 しばらくの沈黙の後に口火くちびを切ったのは千尋ちひろの方だった。暢恵のぶえ黙然もくねんとして動こうとしない。それは何かを熟考しているようでもあったし、都会の喧騒けんそうに揉まれて弾んだ息を整えているようにも見えた。

 年頃の男の放つえたような臭いのする部屋に、華美かびとはいえなくとも洗練された和服を身にまとった女性がいることが、千尋ちひろにはひど不釣ふついに思えてしようがなかった。

 千尋ちひろに帰郷をうながされる前に話をつまびらかにしなくてはならないと思ったのか、ようや暢恵のぶえ途切とぎれがちではあるが、事の次第を語り始めた。

「どこからお話したらいいのかしら。お父様――千尋ちひろさんにとってはお祖父様じいさまになるのかしら――のことはご存知よね。七年前に河内かわち草積峠くさつみとうげ行方ゆくえ不明ふめいになってしまった古賀こが清史郎せいしろうさんのことなのだけれど」

 千尋ちひろは『古賀こが清史郎せいしろうが七年前に失踪しっそうしている』というむね一句いっくを聞いただけで、鼻持ちならない叔母が何を懸念けねんしているのか理解できた。『失踪しっそうノ宣告ヲ受ケタル者ハ前条ノ期間満了ノ時ニ死亡シタルモノト見做みなすス』という条文を思い出した。千尋ちひろの祖父である古賀こが清史郎せいしろうはその期間をまっとうしようとしている。そして、叔母である古賀暢恵こがのぶえはそれを良しとは思っていないだろうことは口調から察せられた。

清史郎せいしろうさんは熊本に炭鉱を持っていてね。古賀こがの家が豊かに暮らしていけたのも炭鉱のおかげだったのよ。でも、それも段々と苦しくなってきているのです。それに、お父様が存命ぞんめいならば――私の肩の荷も降りますし、この歳になるといち早く安心したくて仕方しかたがないのです」

 千尋ちひろ暢恵のぶえの含みのある物言ものいいが気に入らなかった。先の大戦で連合国が勝利したことにより、祖父が所有する炭鉱もかなりの利潤りじゅんを上げていたはずだ。しかし、それも七年間も経つと底が尽きかけているのだろう。してや、炭鉱主である古賀こが清史郎せいしろう失踪しっそうが法律によって、死亡したものと見なされたとしたら、古賀こが家にとっては弱り目に祟り目である。話は当然のごとく遺産相続の問題に波及はきゅうしてくるに違いない。暢恵のぶえにとっては「安心」とは程遠ほどとおい状況におちいることになる。それは、何としても避けたい局面なのだろう。

「はあ、叔母さんも大変ですね。はっきりと言ってくださっても平気ですよ。お祖父様じいさまが亡くなってしまったら古賀こが家にとって都合つごうが悪いのでしょう」

 古賀こが千尋ちひろくわえていたタバコを灰皿に押し付けて揉み消すと、大人らしく着物のすそそろえて座る叔母に向かって非情にもって退けてみせた。甥の不躾ぶしつけ物言ものいいを耳にしても、暢恵のぶえの表情は変わらなかった。千尋ちひろは叔母の人形のように整った外面がいめん辛抱強しんぼうづよく見詰めた。奇妙なにらめっこの勝者は女の方だった。

「分かりました。ここは叔母さんの言う通りということにしましょう。それで僕にどうして欲しいんですか。ご相談したいことがあるとおっしゃっていましたが、僕にできることはさほど多くはありませんよ」

 千尋ちひろふるされたズボンのポケットから、タバコの箱を取り出しながらたずねた。暢恵のぶえ硝子がらすだまの瞳に直視されることを彼は本能的にこばんだ。それをさとられることを承知しょうちの上で、軽口を叩いて誤魔化ごまかすことぐらいしかできなかった。千尋ちひろがタバコに火をともえるのを待ってから、暢恵のぶえははっきりとした口調で言い放った。

「私は貴方に古賀こが清史郎せいしろうの生死について教えて欲しいのです」

 古賀こが千尋ちひろは叔母の意外な要望に眉をひそめずにはいられなかった。彼は肺腑はいふの隅々まで紫煙しえんを満たすつもりで深く息を吸い込むと、今度は天井をあおぎながらゆっくりと煙を口から吐き出した。

 遠くで警察官が吹く警笛けいてきの音が長く響いている。古賀こが千尋ちひろ文机ふづくえに伏せられた推理小説を手に取り、わざとパタンと音を鳴らしながら閉じてみせた。



 二、油すましのこと


 東京の寒空の下で働く警察官の警笛けいてきが長くくように鳴り響いていた。建てつけ悪くなった窓は風が吹くたびに、ガタガタときしんで悲鳴を上げる。古賀こが千尋ちひろは立ち上がって灯油ストーブに火をけると、叔母の暢恵のぶえの言葉が指し示す意味を考えた。

 ――つまり、この美しい女性は自分に安楽椅子探偵役になることを望んでいるというわけだ――

 千尋ちひろは祖父である古賀こが清史郎せいしろうの生死にはさほど関心がそそがれなかったが、正直に言うと暢恵のぶえの提案には多少たしょうなりとも心を揺さぶられていた。千尋ちひろにとってそれは退屈をしのぐための一種の遊戯ゆうぎであった。また、気の抜けない人ではあるものの、熊本から上京してきた叔母を早々に退かすのもはばかられた。そうしようものなら、古賀こが本家からあまり良い印象をいだかれないだろう。叔母は古賀こがの屋敷からつかわされた使者なのだ。

古賀こが家から大学に進学したのは千尋ちひろさんだけです。それにあなたは昔から、こういう謎を解くことを好んでいたらしいようですし、ここはひとつ力をお借りすることはできないでしょうか」

 ここまで暢恵のぶえは常に甥の一歩先を行っている。千尋ちひろには選択権を与えるつもりは毛ほどもないようだった。もし、彼が断ろうものなら、東京での悠々自適ゆうゆうじてきな暮らしは立ち消えになるだろう。古賀こが本家の資金難を理由に故郷こきょうに連れ戻される未来は容易たやすく想像できた。暢恵のぶえは初めから返答の是非を問うてなかった。それを察せないほど千尋ちひろ脳髄のうずいとろけていなかった。

古賀こが本家の一大事となれば、お力をお貸しするしかありません。僕の手に負える範疇はんちゅうならば協力致しますよ」

 古賀こが千尋ちひろはあえて軽口を叩くように返事した。彼は暢恵のぶえにイニシアティブを取られたくはなかったからだ。千尋ちひろは道化を演じてでも叔母に屈服くっぷくさせられたくはなかった。

 気を緩めればすべての持っていかれるような物言ものいわぬ気迫きはくが彼女にはあった。熊本にある古賀こが本家を一人で切り盛りしているだけあって、さすがに暢恵のぶえ明晰めいせき怜悧れいりな気質を充分に備えていた。

古賀こが清史郎せいしろうが行方不明となったのは七年前の一九一五年の冬のことです。熊本県天草市あまくさし栖本町すもとまち河内かわちにある草積峠くさつみとうげえようとしていた二人連ふたりづれの男性が、夕刻に彼の姿を最後に目撃しています」

 そう言いながら、暢恵のぶえはバックから何枚かの紙片を取り出して、畳の上におうぎを広げるようにして丁寧に並べ始めた。叔母の聡明そうめい叡智えいちな頭脳を知っている千尋ちひろにとって、すでに彼女に調べ尽くされているのだろう資料は、意味を持たないように思えた。

河内かわちの炭鉱主だったこともあって警察は捜索願そうさくねがい受理じゅりしています。青年団等の有志もつどって山を調しらべてまわりましたが、手掛てがかりをつかむことは出来ませんでした。目撃者である二人連ふたりづれの男性も事件性を考慮して調査されたようです。警察によると二人の男性には特に怪しむべきところはなかったそうです。これは警察が保証しております」

 千尋ちひろは件の二人連ふたりづれの男性の写真を手に取って見せたが、何の変哲へんてつもない素朴な面差しをした青年だった。警察が保証しているのなら、この二人は老人の失踪しっそうかかわっていないのだろう。

 千尋ちひろは二枚の写真をまらなそうに投げた。暢恵のぶえは大事な手掛てがかりである資料をぞんざいに扱われてひたいくもらせたが、結局のところ、抗議らしいことは口にしなかった。

「お父様は草積峠くさつみとうげを一人っきりで歩いていたのかしら」

 古賀こが清史郎せいしろうが何かしらの事件に巻き込まれていたとしたら、二人連ふたりづれの男達が話した証言の方が重要になってくる。清史郎せいしろうの挙動や言動に不審なところはなかったか否かを確かめておく必要があった。暢恵のぶえ手抜てぬかりなくそれも調べていたらしい。

「ええ、古賀こが清史郎せいしろうは一人っきりで草積峠くさつみとうげを訪れていたらしいのです。二人連ふたりづれの男性はそれを不審に思ったと言っております。というのも、草積峠くさつみとうげえる際には奇妙な決まり事のようなものがありまして――」

 千尋ちひろ滅多めったに本家に近寄ることはなかったので、自然と河内かわち界隈かいわいの事情にはうとくなっていた。草積峠くさつみとうげという場所にもまるでくわしくない。言われれば思い出すかもしれないが、河内かわちに関してはばくとした印象しか残っていなかった。

「それはどのような決まり事なのかしら」

 暢恵のぶえは何かをよどんでいるような素振りをみせた。しばらくの間、彼女は口許くちもとに手を添えて言うか言うまいか悩んでいたが、千尋ちひろが沈黙でうながすと観念したのか、ポツリポツリと草積峠くさつみとうげまつわる不可思議な伝承を語り始めた。

「私どもは幼い頃から草積峠くさつみとうげを一人でえてはならないと教えられて育ってきました。あそこには、『油すまし』が出て悪さをするから、決してとうげを一人で歩いてはならないと教えられるのです。

 それがどのような姿形すがたかたちをしてるのかは分からないのですが、『油すまし』は悪さをするものだから近寄ってはならないとだけ伝わっています。草積峠くさつみとうげを一人で歩いていたら、誰しもがおかしいと感じるはずです。二人連ふたりづれの男性も古賀こが清史郎せいしろうが一人っきりでとうげを歩いていたことを奇妙に思ったと言っています」

 暢恵のぶえ旧態きゅうたい依然いぜんとした村のおきてのようなものを恥じているようだった。しかし、それは探偵役を務める千尋ちひろにとっては貴重な情報の一つでもあった。河内かわちの事情を知らなければ瑣末さまつな出来事に見えるが、村の内側から見れば古賀こが清史郎せいしろうの取った行動は異常なものだったということになる。

「なるほど、お祖父様じいさまの行動は不自然なものだったというわけですね。その『油すまし』というものについてくわしく知りたいのですが、おたずねしてもよろしいでしょうか。些細ささいなことでもかまいません。今はとにかく情報が欲しいのです」

 古賀暢恵こがのぶえの中で何かしらの算段が整えられたらしい。先ほどまで見せていた逡巡しゅんじゅんが嘘だったかのような口調で、河内かわちに伝わる昔話を語り始めた。千尋ちひろ河内かわちの伝説の一言一句を聞きのがすまいとして、目を閉じて静かに聴いていた。

「明治の頃の出来事だったと聞いております。河内かわちには清史郎せいしろうの祖母にあたる古賀こが文子あやこという方がいらっしゃいました。

 ある日、文子あやこさんは孫の清史郎せいしろうを連れて草積峠くさつみとうげえて隣村となりむらを訪れることになりました。文子あやこさんは孫の手を引きながらとうげにやって来ると、懐かしそうな顔で、『昔はこういう所に、油すましというものが出たものだ』と語ったそうです。すると、にわかにやぶの中から、『今でも出るぞ』という声と共に『油すまし』が飛び出てきたというのです。

 それからというもの、草積峠くさつみとうげには奇妙なものがんでいて、悪さを働くから一人でとうげえてはならない、というおきてのようなものがしつらえられたようです。

 河内かわちの方では、『油をしぼる』ことを『油をすめる』と言います。確かにあの辺りでは藪椿やぶつばきの種から油をしぼって用いることがございます。『油すまし』がどのような姿形すがたかたちをしているかは教わりませんでしたが、おそらく、そういった村の風習が生み出したお化けのような存在なのかもしれません。

 いずれにせよ、大昔の出来事ですから曖昧模糊あいまいもことしていてくわしいところは分かりません。ただ、少なくともお父様――古賀こが清史郎せいしろうはこのおきて律儀りちぎに守っていました。『油すまし』と出逢った者の一人ですから当然とも言えますけど、頑なにとうげえをすることを忌み嫌っておりました」

 千尋ちひろは所用で本家を幾度か訪ねたきりで久しく無沙汰ぶさたとなっている。暢恵のぶえの語った内容がどれほど正確なのかはすべはないが、万事ばんじにおいて抜かりのない彼女のことだから実際にある話なのだろう。千尋ちひろ暢恵のぶえが語った話の要旨ようしを脳裏にめて次の質問を重ねた。

古賀こが文子あやこさんとはどんな方だったと聞いてますか」

 暢恵のぶえは部屋を訪れてから初めていぶかしげな眼差まなざしで千尋ちひろは見た。話題は明らかに当初の予定かられてっているように思えたのだろう。しかし、千尋ちひろはそれが語られるのを辛抱強しんぼうづよく待った。それらは暢恵のぶえにとって些細ささいな記憶でも、千尋ちひろにとっては重大な事実になりる可能性を持っている情報だった。

古賀こが文子あやこは風変わりな方だったと聞いております。幼少のころから山に遊びにってはほうけたような顔をして帰ってくる。数日の間を山で過ごすこともあったそうです。

 河内かわちの人々は彼女のことを気味悪がっていました。古賀こが文子あやこやまたわむれて遊んでいるという噂まであったようです。

 彼女の死に関してはくわしくありません。大変な長寿をまっとうしたとか、山に戻って行ったとか、様々な憶測がっています」

 千尋ちひろすべてをげると満足したようで、畳の上に置いていたタバコの箱に手を伸ばした。そして、たっぷりと時間を掛けて紫煙しえんくゆらせると、にわかに文机ふづくえに散らばった鉛筆を取って紙屑かみくずに何かを走り書き始めた。暢恵のぶえは腰を浮かせて密かにメモを隙見すきみしようとしたが、千尋ちひろ悪戯いたずらっぽく微笑みながらそれをさえぎった。

「残念ですが、今はまだ見せられません。しばらくの間、そこで待っていてください」

 古賀暢恵こがのぶえは謎めいたメモの隙見すきみを諦めたのか、跡はもう、夢中になって書き物をする甥の背中を見守るばかりだった。東京の冬空が茜色に染まる時分じぶんになって、ようやく鉛筆を握っていた千尋ちひろの手が止まった。千尋ちひろ居住いずまいを正しながら、くるりと暢恵のぶえの方に向き直ると真剣な面持おももちで話し始めた。

 窓の外では鴉達からすたちが枯れた声で頻りに鳴いている。古賀こが千尋ちひろの推理を傍聴する存在は彼らだけであった。鴉達からすたちは空に宵闇よいやみが訪れるまで、真っ黒な瞳を輝かせながら、相対あいたいする二人の様子を見守っていた。時折、ガアガアという野次やじを飛ばしながらも鴉達からすたちが飛び去ることだけは最後までなかった。



 三、夢想家の推理或いは妄想


 窓の外では鴉達からすたちが群れを成してたむろしている。ガアガアという枯れた声で野次やじを飛ばしながら二人の行く末を見守っていた。茜色に染まる空模様そらもようが彼らの真っ黒な瞳を一瞬だけ輝かせた。

 古賀こが千尋ちひろは先ほどまでの弛緩しかんした表情を一変させて引き締め、これから叔母が求めた安楽椅子探偵の役目をまっとうしようとしていた。彼の推理はそれほど長いものにはならないはずだ。千尋ちひろは乾いた唇をつばき湿しめらせると重い口を開いた。

「さて、ずは結論から申し上げます。古賀こが清史郎せいしろうの生死についてですが――残念ながら、彼はすでに亡くなっていると思います。草積峠くさつみとうげを一人で訪れた理由は誰かにおびされたからでしょう。そうでもなければ、古賀こが清史郎せいしろうが夕刻という時間帯に一人っきりで草積峠くさつみとうげを訪れる理由はなかったはずです。彼は草積峠くさつみとうげを一人でえることを忌み嫌っていたことからも察せられます」

 暢恵のぶえは父親の死を宣告されたことに動揺せず、一切いっさいの感情をおもてに表さなかった。暢恵のぶえ自身じしん古賀こが清史郎せいしろうが生きているとは初めから考えていなかったのだろう。ただ、一つだけ問い掛けるだけで彼女の心は満足したようだった。

「お父様が誰かにさそされて草積峠くさつみとうげを訪れたことは理解できますが、それがすなわち死につながるとは言い切れないように思えます。千尋ちひろさんはどう考えているのかおたずねしてもよろしいでしょうか」

 千尋ちひろ文机ふづくえに置かれた紙束の中から数枚のメモを取り出した。そこには細かな金釘文字かなくぎもじで彼の推理した内容が隙間すきまなくしるされていた。千尋ちひろは目を細めながらもメモを読み終えると暢恵のぶえの質問に答えた。

古賀こが清史郎せいしろうは誰かに草積峠くさつみとうげに一人で来るようにいられていたと考えます。そして、彼にはそれを断ることができなかった。つまり、彼は何者かに脅迫されていたのです」

 暢恵のぶえ硝子細工がらすざいくの瞳に初めてくもりが宿やどった。千尋ちひろれた脳髄のうずいが導き出した解答をさとったのだろう。暢恵のぶえは彼が言おうとしている次の言葉をさきんじて口にした。

「脅迫された上で行方知れずとなっているからには、何かしらの障害アクシデントが生じたのだろうと考えたわけですね」

 千尋ちひろはゆっくりと首を縦に振った。彼の推理は憶測の範疇はんちゅうえないものであるかもしれないが、それは充分にる状況でもあった。少なくとも、暢恵のぶえはそれを不合理とは思わなかったようだ。脅迫されておびされた金満家きんまんかの老人が謎の失踪しっそうげた。そこに剣呑けんのんな印象をいだかない者はいないだろう。

古賀こが清史郎せいしろうがすでに亡くなっていると考える理由は他にもあります。草積峠くさつみとうげを一人でえてはならないというおきてと、それにまつわる不可思議な伝承のことです。

 古賀こが文子あやこ清史郎せいしろう草積峠くさつみとうげで『油すまし』と呼ばれる存在と遭遇した。それは一人でったら身の安全あんぜんおびやかす存在だったのでしょう。だから、古賀こが文子あやことうげえる時は二人連ふたりづれであるようにいましめを残したのです」

 河内かわちに伝わる昔話が話題に上がったことに、古賀暢恵こがのぶえは少なからず動揺したようだった。千尋ちひろは相変わらず冷徹な眼差まなざしで叔母の整ったおもてを凝視している。そこには彼女の表情の変化を一片たりとも見逃すまいという強い意志が込められていた。

古賀こが文子あやこの言葉を信じるならば、『油すまし』とは明治期以前には屡々しばしば遭遇する存在だったが、以降においてはうこと自体がまれであることがうかがえます。

 草積峠くさつみとうげには『油すまし』と呼ばれる危険な存在が隠れていた。そして、それは明治期には何かしらの理由からすですたれている存在だった。また、少なくとも古賀こが文子あやこがそう判断しているからには明治期以前にそれと遭遇した経験を持っていたのでしょう」

 千尋ちひろはメモを暢恵のぶえに見せるために畳の上に置くと、走り書きされた箇所かしょを指さして示した。そこには次のような内容が金釘文字かなくぎもじで記されていた。


①、それは過去には屡々しばしば遭遇することがあったが、現在では遭遇すること自体がまれである。 

②、それは一人で遭遇すると身の安全あんぜんおびやかすような存在であり、二人連ふたりづれであることが求められる。

③、古賀こが文子あやこ草積峠くさつみとうげで油すましと呼ばれる何者かに遭遇した経験がある可能性が考えられる。


 暢恵のぶえは黙ってそれを読んでいた。太陽が沈んだ代わりに宵闇よいやみ天窮てんきゅうに迫り、瓦斯灯がすとうに火をともす者達が街を闊歩かっぽする刻限になっていた。このような時間になっても、なお騒がしい街の様子に辟易へきえきしながらも、千尋ちひろは言葉を次々と紡いでいく。

古賀こが文子あやこは幼少のころから山にって遊んではほうけたような顔をして帰ってくる人だったとおっしゃっていましたね。彼女は山に踏み入っては、『油すまし』と呼ばれる存在と屡々しばしば逢っていたのではないかと思うのです。

 河内かわちの地域では、『油をしぼる』ことを『油をすめる』というらしいですね。しかし、単に椿つばきの種子から油を採取することを指し示しているのならば、古賀こが文子あやこはそれを連想させる存在が現れるという草積峠くさつみとうげを恐れたりするでしょうか。

 叔母さん――、僕は思うです。実際はもっと他の植物の種子から油をしぼっている者が草積峠くさつみとうげには隠れていたのではないかと。そして、それは明治期には大っぴらに採取することがはばかられるような植物の種子だったのではないかと。

 古賀こが文子あやこはそういった違法か、それに近い植物の種子から油をしぼる存在と交流を持っていたのではないでしょうか。そして、おそらくその存在は現在でも草積峠くさつみとうげに隠れて暮らしています。

 古賀こが清史郎せいしろうは誰かに脅迫されて一人で草積峠くさつみとうげを訪れています。ひょっとすると、彼は祖母の古賀こが文子あやこと同様に、その違法的な存在とひそかに交流を持っていたのかもしれません」

 暗闇くらやみに支配されつつある部屋の中では暢恵のぶえの表情の変化はようとして判然がつかない。千尋ちひろは正座を崩して立ち上がると、弱々しく光る電球につながる紐を引いた。

 暢恵のぶえは食い入るようにして床に置かれたメモを読み耽っていた。両腕もろうでを畳に着いて、紙屑かみくずしるされた走り書きを読み漁る姿は、浅ましい四つ脚の獣のようであった。

 千尋ちひろは美しい容貌の裏に隠されていた叔母の本性をようやあばいたのである。

「大陸には特殊な草花くさばなの種子から採取した薬を相手に飲ませ、酩酊めいてい状態じょうたいになっている間に強盗を働く犯罪組織があったそうです。そのどくばなの名前はダチュラ。そして、その犯罪組織の名前はダチュレアスと言います」

 千尋ちひろ醜悪しゅうあくな獣と化した叔母の姿を睥睨へいげいしながらつぶやいた。暢恵のぶえは床にひたいを付けるような恰好かっこうのまま動こうとしない。千尋ちひろは彼女が不意におもてを上げることを恐れた。きっとそこにはおに形相ぎょうそうが浮かんでいるに違いない。

古賀こが文子あやこは幼いころにそういった山賊さんぞく連中れんちゅうかどわかされたことがあったのではないでしょうか。そして、以降も山間やまあいむ人々と交流を持ち続けていたのだと思います。

『油すまし』とは特殊な植物の種子から油をしぼって用いる山賊さんぞくを示す隠語かくしことばのようなものだった可能性が考えられます。

 古賀こが清史郎せいしろうはそういった山間やまあいに暮らす人々との紐帯ちゅうたいを断てずにいたところを誰かにおどされた。おそらく、目的は炭鉱でもうけた金の一部か、或いは違法的などくばなの栽培でもうけた財産の一部だったのでしょう。

 いずれにせよ、古賀こが清史郎せいしろうという人物の裏には違法な金の流通があったと僕は考えています。そして、ある日、脅迫されるがままに一人で草積峠くさつみとうげおもむき、ピタリと消息を絶ってしまった。叔母さん――、あなたの父親である古賀こが清史郎せいしろうはすでに亡くなっています。誰かに殺されているのです。そして、おそらく、その犯人とは――」

 千尋ちひろはその先を言おうとしたがくちつぐんでしまった。叔母が床にぬかづいた姿勢のまま、クスクスと笑っていることに気が付いたからである。千尋ちひろひどみにくい者をたりにしたような気分になった。

 古賀暢恵こがのぶえ依然いぜんとして、クスクスという不愉快なふくわらいをめようとはしない。千尋ちひろ頭蓋ずがいおさめられたらんじゅくした脳髄のうずいを用いてあばいてはならない物に触れてしまったことをさとった。

千尋ちひろさんは面白いことをおっしゃるのですね。どれもこれも、的外まとはずれのてずっぽうでしかありませんが、聴いていて楽しゅうございました。そんなにおびえることはないじゃありませんか」

 古賀こが千尋ちひろ醜悪しゅうあくな叔母の姿を直視することを本能的に避けてしまった。顔をそむけるばかりでは気が済まず、天井にぶら下がった電球の紐を引いてしまったのである。

 暗闇くらやみの中で古賀暢恵こがのぶえの不快な笑い声がいつまでも響いていた。千尋ちひろ黒洞々こくとうとうとした闇の中で叔母の気配が消えてしまうまですくむことしかできなかった。


 ――すべてはれてとろけた脳髄のうずいが生み出した妄想に過ぎないのかもしれない――

 

 古賀こが千尋ちひろは窓から射しこむたよりない瓦斯灯がすとうの光をぼんやりと眺めながら思った。気が付けば叔母の笑い声が途絶とだえてから随分ずいぶんと時間が経っていた。だからといって、千尋ちひろは手に握られた電球の紐を再び引く気にもならなかった。

 夜が白々しらじらと明けるまで千尋ちひろは真っ暗な部屋の中でたたずんだまま、ゆめうつつ狭間はざま往来おうらいし続けた。もはや、彼にとって真実しんじつ虚構きょこうの境界は曖昧あいまいなものにてていた。

 古賀こが千尋ちひろは生きることに飽き始めていた。一切いっさいの希望を失った脳髄のうずいが代わりに生み出したものは純粋な狂気だった。千尋ちひろ頭蓋ずがいの内側はねつただれてうじしつつある。相変わらず、窓の外では鴉達からすたちが忙しなくっていた。



 四、ある精神科医の日誌の抜粋


 大正十一年十二月十三日(金曜日)。後曇くもなり

 東京帝國大学ニせきヲ置ク学生、古賀こが千尋ちひろ(十九歳)ヲ収容しゅうようスル。

 重度ノ妄想癖もうそうへき又ハ虚言癖きょげんへきみとメラレルため、患者トノ接触せっしょく及ビ会話かいわヲ禁止スル。支離滅裂しりめつれつナ言動ヲかえス。アブラスマシ、ダチユラ、セイシロウ、アヤコ、ノブエ等ノ言葉ヲ連想サセル行動ハつつしムベシ。極度きょくどノ興奮状態ニおちいル事ガル。

 東京都大田区多摩たまがわ沿ノ下宿先デ、昏迷こんめい状態じょうたいツタ所ヲ大家ニ発見サル。譫妄せんもうノ症状ガラレル。大学ニ問ヒ合ワセタ所、昨年カラ通学記録ガ無イトフ。本籍地ハ熊本県天草市あまくさし栖本町すもとまち河内かわちフガ、いま確認出来できズ。

 発見時ハ重度じゅうど精神せいしん衰弱すいじゃくノ状態ニツタ。ただチニ最寄もよリノ医院ニ搬送はんそうサル。ソノ際、看護婦数名ガ軽傷けいしょうハサレル。危険性ノル患者トシテ厳重げんじゅうナル拘束こうそくヲ必要トス。

 下宿先ノ部屋カラハ支離滅裂しりめつれつタル内容ノ手記しゅきガ見ツカル。熊本県天草市あまくさし栖本町すもとまち河内かわちニ関スル伝承ガしるサレルガ、患者ノ妄想もうそうダト思ハレル。患者ノ親族ハ、いま発見出来できズ。近日、電気でんき療法りょうほうこころミル予定デアル。

 東京都立松山まつやまのう病院びょういん。医師、若林わかばやしきょうすけ


                                    (了)

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