泥田坊

泥田坊

 むかし北国ほくこくおきなあり。子孫しそんのためにいささゝかの田地でんぢをかひおき寒暑かんしよ風雨ふううをさけず時々ときどき耕作こうさくをおこたらざりしに、このおきなしてよりその子酒さけにふけりて農業のうぎやうこととせず。はてにはこの田地でんぢ他人たにんにうりあたへければ、な夜なの一つあるくろきものいでゝ、をかへせかへせとのゝしりけり。これをどろ田坊たぼうといふとぞ。

                        鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より


一、懸命に生きる


 煮売り屋のおはつは、近ごろ、めっきりと細くなった髪をつくろいながら、ホウッと溜息ためいきをついた。もとより繁盛はんじょうとは程遠い小商こあきないぶりだったが、夫と死別してからというもの、日々の暮らし向きは貧しくなる一方だった。分厚ぶあつい帳簿をめくると生活の貧窮は具体的な数字となって両肩もろかたかってくる。おはつはまたもや、ホウッと一息ひといきついた。

 油が勿体もったいないので、そろそろ暖簾のれんを下ろそうかと思った矢先やさきに、一人の男がフラフラとした足取りで店に入ってきた。おはつはその男――陣内じんないへいが銭にならない客であると知っていながらも、安手の徳利とっくり半合はんごうばかりの酒をそそぐと、楚々そそとした所作しょさで男の前に差し出した。それは、彼女なりの抗議の流儀だった。

「いらっしゃいまし――、また随分ずいぶんと召し上がって来たみたいでございますね。そういう遊びも若いうちだけの楽しみですよ」

 陣内平太じんないへいた片頬かたほおらせるような笑みを浮かべると、酒で焼けたのどをヒュウヒュウと鳴らして声をしぼった。

「お生憎あいにくさまだね。今さら、直そうとしても無駄だよ。とっくに駄目になっちまっているんだから。それにしても、ちょっと酒が少ないんじゃないかい」

 おはつ愛想あいそわらいを崩さぬように努めつつ、突き伸ばされた猪口ちょこに酒をいだ。加賀かが毛勝山けかちやまの雪解け水を用いた地酒じざけをグイとすと、平太へいたは皮肉屋らしい暗い双眸そうぼうで彼女をジッと見詰みつめた。瞬間、うなじを氷でぜられたような怖気おぞけが走った。おはつは彼の眼付きが嫌いで仕方がなかった。

「世間は暦が改まったといって騒いでいるが、慶安けいあんとはまた大仰おおぎょうな名前を授けたもんだ。まったく、笑わせてくれるね」

 平太へいたはそう言うと、空になった猪口ちょこを差し伸ばした。おはつはこの男が何を言いたいのか分かるような気がした。

 確かに、この界隈かいわいに住む人々の暮らしぶりは豊かなものとは言い難い。毛勝三山けかちさんざんから流れ込む片貝川かたかいがわの勢いは急であり、度重たびかさなる洪水によってろくに農業をいとなむことも出来やしない。

 わずかに残された農地でほそった作物を取る日々に、片貝川かたかいがわ流域にきょかまえる皆が苦しみあえいでいる。少なくとも、おはつは太平とははなれた生活を送っていた。

「おかみが決めなさった事に文句を言うもんじゃありませんよ。誰が聞いているか分かったもんじゃありませんからね」

 陣内平太じんないへいた寛永かんえい飢饉ききんで母親を亡くしてからのち、父親の衛門えもんと二人きりで暮らしている。

 古人いにしえびとらしい頑強がんきょうな老父である左衛門さえもんとは異なり、息子の平太へいたはどことなく頼りない風貌ふうぼうをしており、気質きしつもそれに伴うかのようにゆががっているらしかった。

 単なる天ノあまのじゃくとは根本から違う、堕落をこうから見詰みつめるかのような性情せいじょうを、おはつは以前から内心で怖れていたが、今夜の平太へいたは危ないまでの妖気を身にまとっているように見えた。

女将おかみさんはもうあのうわさを聞いたかい。何でも、加賀藩かがはんのお殿様とのさまはこの片貝川かたかいがわ開墾かいこん御布令おふれを出すつもりでいるというじゃないか。家の親父は気が早いことにくわの手入れなぞを始めているよ」

 夫に死なれてから世間との交流を絶った気でいたおはつは、このしらせを聞いて、少なからず驚いた。ぞう木林きばやしに囲まれた辺境へんきょうの土地である東山麓ひがしやまろくを、加賀かが殿様とのさまは見捨ててはいなかったという事実に動揺したのだ。

 しかし、おかみは暴れ川として有名な片貝川かたかいがわをどのようにしておさめるつもりなのだろうか。その脅威きょういを知っている人々の一員である彼女にとって、その御布令おふれはあまりにも無謀むぼうなものに思えてならなかった。

「でも、どうやって――」

 そうよどむおはつ一瞥いちべつすると、平太へいたは面白くもなさそうに鼻を鳴らしてから、誰にともなく冷たく言い放った。

「馬鹿が考える事なんてたかが知れているさ。盛土もりどだよ。俺たちに土嚢どのうかつがせて、ひたすら土を盛らせるつもりなのさ。でも、そうやってこしらえた田畑も所詮しょせんはんの物に違いはない。ひたいに汗して開墾かいこんしても、年貢ねんぐはきっちりとむしり取るつもりでいやがる。何のために働くのか分かっている奴なんざ、これっぽちもいやしないんだ。まったく、骨折ほねおぞんのくたびれもうけだよ」

 この男は自分の父親をさげすんでいるのだ、とおはつほどなくして気が付いた。左衛門さえもんは妻を飢饉ききんで亡くしている、と考えると老父の気持ちも分からないでもない。少しでも飯の種が増えるのなら、彼はいさんで苦役くえきのぞむのだろう。おはつはそれを思うと、いじらしさで胸が苦しくなってしまった。

「家の親父は馬鹿な野郎の筆頭ひっとうだね。土嚢どのう背負せおって暴れ川をしずめても、結局けっきょくは自分の首をめることになるんだからな。加賀かが殿様とのさまもてあそばれているということに気が付かないで、せっせとくわを磨いてえつひたっているが、その時が来ればどんな顔をするのやら。いやいや、まったく馬鹿げた話さ」

 おはつは自身の頭にカッと血がのぼるのを感じた。同時に、この冷血漢れいけつかんしゃくをしている自分が情けなくも思った。彼女はしばらく考えたすえに、自身がすべきこと定めると、思い切って行動に移した。

 おはつは客の前に置かれた徳利とっくりを取り上げると、中にそそがれたわずかな酒を、ピシャリと平太へいたびせけた。

「店を閉めるので帰ってください。言っておきますが、貴方あなたのお父上ちちうえは立派な方です。さき飢饉ききんで亡くされた奥様をしのんでくわを振るうのです。それが子供の貴方あなたには分からないのですか。一生懸命いっしょうけんめいに生きようとしている人をゆびさして笑うのですか。貴方あなたは恥を知るべきです」

 おはつの感情の発露はつろを見ても、平太へいたの表情はまるで変わらなかった。酒をびせけられたことに気が付いてないようですらあった。

 陣内平太じんないへいたはただ、片頬かたほおらせて微笑びしょうしていた。彼は猪口ちょこに残された最後の酒をグイとむと席を立った。

女将おかみさんが思うほど親父は美しくないよ。あれはどろうみを泳ごうとしている老人に過ぎない。それ以上でも以下でもない妄念もうねんかたまりだ。それに、一生懸命いっしょうけんめいに生きることの何がえらいっていうんだい」

 憤怒ふんぬられたおはつ冷笑れいしょうを浮かべる平太へいたの後ろ姿を見送ると、門口かどぐちから暖簾のれんを下ろして塩をいた。

 誰もいなくなった店の中で彼女は帳簿を開き、陣内平太じんないへいた酒半合二文也さけはんごうにもんなりと下手な筆で書きしるした。

 越中国えっちゅうのくに加賀藩かがはん新川郡にいかわぐんの夜は深々しんしんけていく。先刻せんこくから降り始めた小糠雨こぬかあめ片貝川かたかいがわに落ちて水嵩みずかさを高めるのだろう。春夜しゅんやの雨といえども油断ゆだんはできない。

 おはつは暴れ川の機嫌きげんを思いわずらい、あまりのなやましさに、ホウッと嘆息たんそくをついた。



二、流れる血潮


 陣内左衛門じんないさえもんが煮売り屋を訪れたのは、慶安けいあん四年の冬の夜更よふけのことだった。左衛門さえもんは細くやせおとろえた腕で暖簾のれんけ、髪に白い物がじり始めたとしころのおはつを驚かせた。

「まあ、驚かせないで下さいな。それにしてもお久しぶりですこと。今日はもうお店を閉めようとしていたところですのよ。あまり、上等じょうとうな物はこしらえられませんが、ごゆっくりなさっていって下さいな。左衛門さえもんさんなら、いつでも歓迎かんげい致しますわ」

 おはつ徳利とっくりに酒を並々なみなみそそぐと、寒空さむぞらの下を歩いてきた老人を思いやり、早々はやばやかんにする支度したくを始めた。

 左衛門さえもん座敷ざしきこしろすとふところから煙管きせるを取り出して、震える手できざ煙草たばこをゆっくり丹念たんねんに丸めてから火をともした。

 北陸の古人いにしえびと黙然もくねんとして容易よういには話そうとしない。おはつはそれが何とはなしに嬉しかった。自分も歳をとったのだ、とおはつは思う。

左衛門さえもんさんたちのおかげさまで、最近は暴れ川も随分ずいぶんと穏やかになりました。段々だんだんとですが、田畑もえだしたようで助かっております。三年という月日のあいだに世の中はすっかりと様変さまがわりしました」

 徳利とっくりたたえられた燗酒かんざけぼんせて運びながら、ふと老人のふるされた藁沓わらくつを見ると、まだ乾き切っていない泥が付いていた。道は霜が降りるほどにてついているはずである。藁沓わらくつの首の辺りまで泥がねるようなことはずありない。

 ――ああ、左衛門さえもんさんはまた田圃たんぼに寄って来たんだわ――

 三ヶ年前に陣内平太じんないへいたが煮売り屋を訪れて以来いらい、おはつはこの老父のことを気掛きがかりに思っていた。夫と死別してから世間との紐帯ちゅうたいを絶ったつもりでいた彼女であるが、陣内家じんないけの事情についてはひそかに耳をかたむけるくせのようなものが、らぬにすっかりと身に付いてしまった。

陣内左衛門じんないさえもん開墾かいこんかれている」

 東山村ひがしやまむらの人々は健気けなげな老人を指さして笑っていた。おはつにはそれが悔しくてたまらなかった。冬枯ふゆがれの山麓さんろくわずかにたがやされた田地でんちいとおしみ、昼夜ちゅうやわずして土をいじる老人の姿を思うと、おはつ胸中きょうちゅうかなしみとあわれみでいっぱいになるようだった。

 ――一生懸命いっしょうけんめいに生きようとする左衛門さえもんさんは立派だわ――

 左衛門さえもん墾田こんでんへの専心せんしんを馬鹿にする者は存外ぞんがいに多かった。おはつ客連中きゃくれんちゅうが老父の暮らしぶりを口さがなく噂し合うのを聞くたびに、彼の息子のことを思い出さずにはいられなかった。相変あいかわらず、平太へいたは父親の苦役くえきさかなにして、酒におぼれるようにしてごしているらしい。


一生懸命いっしょうけんめいに生きることの何がえらいっていうんだい』


 冷笑れいしょうと共に放たれた言葉をおはつは忘れていなかった。あれ以来、平太へいたが煮売り屋を訪れることはなかったが、左衛門さえもんうわさを耳にするたびに、平太へいた青白あおじろひたいよどんだ双眸そうぼう幻影げんえいを思い起こしてしまう。おはつはそれがたまらなくいやであった。何か高潔こうけつなものがいたずらけがされたような気がしてならない。そいった気分を味わうごとに、彼女の髪は白くなっていくのだった。

左衛門さえもんさんも随分ずいぶんさみしい思いをなさっているようですわね。何せ、息子さんがあの様子では――さぞかし、にもってきたことでしょう」

 おはつは言ってしまってから後悔した。これでは口さがない客連中きゃくれんちゅうと変わらない。しゅまじわればあかくなる、とは言うが彼女にとってそれは屈辱くつじょくきわみだった。片頬かたほおらせて笑う平太へいたのシタリ顏が脳裏のうりよぎった。

 おはつは非常な羞恥しゅうちを感じながらも、ひとず老父の顔色をうかがった。北陸の古人いにしえびと依然いぜんとして煙管きせるを吹かしているだけで、機嫌きげんそこねたような素振りは一切いっさい見せない。何か言わなければ、とおはつの方があせり始めたころになって、ようやく左衛門さえもんは口を開いた。

「もとより、息子には何ものこしてはいかないつもりだ。あの土地だけは誰にもゆずる気になれない。俺が死んだのちも土地は残り続けるだろう。あの世に持っていけないのが残念だ」

 左衛門さえもんは糸のような紫煙しえんを吹き終えると、訥々とつとつとした口調で話し始めた。寡黙かもくな老人の魂は田圃たんぼの辺りを彷徨さまよっているらしく、おはつ左衛門さえもんの言わんとする事を容易よういにはれずにいた。ただ、左衛門さえもんが自分の田地でんちをどれほどの愛しているのかだけはひしひしと伝わってくる。

左衛門さえもんさんは田圃たんぼを愛しているのでございますね。私もさき飢饉ききんで夫を亡くしたようなものです。奥様への手向たむけとして開墾かいこんに精を出すお気持ちは分かりますが、お身体からだを壊してしまってはもともありません。せめて、冬のあいだだけでも休んで下さい」

 おはつの言葉を聞くやいなや、左衛門さえもんは激しく首を振るった。老人のかたくなな意志を前にしておはつは少なからず驚いた。

「いやいや、分かっておらぬ。あの田圃たんぼは俺の命そのものなのだ。あの土地には俺の血潮ちしおが流れている。誰であろうと俺の田圃たんぼけがすことは許さない」

 左衛門さえもんはすっかり冷めてしまった燗酒かんざけ手酌てじゃく猪口ちょこそそぐと、トロリとつやのある聖水ひじりみずくことなく見詰みつめながら、誰にともなくボソリとつぶやいた。

「誰かがくわを振るって田を耕した。この酒にも誰かの血潮ちしおが流れている。俺は削られた魂の一部をむのか。勿体もったいないことだ。ごうの深いことだ」

 左衛門さえもんついに酒に手を出すことはなかった。ただ、しきりに煙管きせるを吹かしては遠い目をして物思いにふけっていた。そのさびしげな後ろ姿を見て、おはつは老父の余生よせいが決して長くはないことを予感した。


 彼女の思った通り、陣内左衛門じんないさえもんは翌年――慶安けいあん五年の皐月さつきに老衰により、静かに息をき取った。


 煮売り屋のおはつ陣内家じんないけすえあんじながらも、無事に歳を重ねて四十路よそじむかえたが、客連中きゃくれんちゅう相変あいかわらず、彼女を「おはつさん」と呼ぶ。それが何だかずかしいように思えるとしころとなった。

 慶安けいあんという暦は早くもあらたまり、承応しょうおうふた文字もじが世の中に広まろうとしている。それが陣内家じんないけの盛衰の有様ありさまを表しているようで、おはつにはうらさびしく感ぜられるのだった。

 ――陣内平太じんないへいたには父親の死をしのぶという人情にんじょうけているように思えてならない――

 彼は父親である左衛門さえもんが亡くなると同時に田圃たんぼしちながしてしまったらしい。陣内左衛門じんないさえもん田地でんち山田徳右衛門やまだとくえもんという富農ふのうの手に渡ることになったのである。

 今年も田圃たんぼに水を張ろうと意気込いきご客連中きゃくれんちゅうをあしらうと、おはつ炊事場すいじばの裏手に逃げて、ひとれず静かに涙を流した。一滴ひとしずくの涙はほおを伝い、やがて酒のたたえられたたるの中へと消えた。


 

 三、泥田の化け物


 承応しょうおう二年の皐月さつきのことである。陣内じんない左衛門さえもんが世を去ってからちょうど一年が経ち、忌日きじつめぐってふくするべき期間が明けたころになって、山田徳右衛門やまだとくえもんはフラリと煮売り屋を訪ねてきた。

 ――この恰幅かっぷくの良い男が左衛門さえもんさんの田圃たんぼを奪った山田徳右衛門やまだとくえもんか――

 東山麓ひがしやまろく牛耳ぎゅうじ富農ふのうらしく、丸々と太った恵比須えびすがおは、平生へいぜいなら愉快ゆかいに見えるのだろう。だが、おはつ陣内家じんないけの衰亡が平太へいた徳右衛門とくえもんあいだ密約みつやくわされた事にると知っているだけあって、別段に歓迎かんげいする気分にもなれなかった。

 山田徳右衛門やまだとくえもんは注文すると何やら物思ものおもいにふけっているようで、チビリチビリと冷酒ひやざけめながら、ぼんやりと虚空こくう見詰みつめていた。おはつ左衛門さえもん田地でんちを奪ったという男の横面をにらみつけずにはいられなかった。

陣内じんない左衛門さえもんという方をご存知ぞんじでしょうか」

 おはつ富農ふのうである徳右衛門とくえもんたずねた。返答へんとう次第しだいでは店から追い出すつもりでさえいたのである。おはつ陣内平太じんないへいた山田徳右衛門やまだとくえもんはなはだしくうらんでいた。

 長い月日を経るごとに、彼女の中で陣内じんない左衛門さえもんの記憶は崇高すうこうなものへと昇華しょうかしていった。おはつにとって左衛門さえもんは暴れ川である片貝川かたかいがわおさめ、土地に豊饒ほうじょうもたらした英傑えいけつに他ならなかった。

勿論もちろん、知っているに決まっているだろう。陣内じんない左衛門さえもんといったら片貝川かたかいがわおさめるばかりか、一代で田畑まできずげた傑物けつぶつだ。もっとも、村の人々の中には彼の成功をそねむ者も少なくないが、左衛門さえもんは実に立派に生きた農家の一人だ」

 おはつは少なからず動揺した。山田徳右衛門やまだとくえもん陣内じんない左衛門さえもんに確かな敬意けいいいだいているようだった。おはつは混乱しながらも前掛まえかけのすそにぎめて徳右衛門とくえもんに詰め寄った。

「ならば、なぜ左衛門さえもんさんの田圃たんぼを奪ったりしたんです。あの土地には左衛門さえもんさんの血潮ちしおが流れています。誰かに踏み荒らされることなどあってはならないのです」

 おはつ並々なみなみならぬ声風こわぶり気圧けおされつつも、徳右衛門とくえもんは穏やかな微笑ほほえみを浮かべて事の次第しだいはじめた。

陣内じんない左衛門さえもんという方の話は以前から伝え聞いていた。昼夜ちゅうやわず開墾かいこんした田をでて、最期さいごの時まで勇猛ゆうもう果敢かかんくわを振るい続けていたらしいではないか。

 私は自身が充分にとみを手にしていることを知っている。これ以上、さかえようとは思わない。守銭奴しゅせんどのようなマネをして地獄には落ちたくはない、と考えるほどに歳を重ねてしまった」

 山田徳右衛門やまだとくえもん手酌てじゃくで酒をそそぐと、大きく嘆息たんそくしてから言葉をいだ。門口かどぐちられた提灯ちょうちんに数羽のが明りにせられてからだをぶつける音が響いている。

陣内平太じんないへいたが私の屋敷やしきけてきて、父親の田地でんちしちながしたい、と相談を持ち込んできた。あれに土地を任せていては左衛門さえもん殿どのむくわれまい、と私は思った。平太へいたは酒さえあれば良いというたぐい怠惰たいだな男だ。ならば、左衛門さえもん殿どの供養くようのためにも私が彼の田を買い取って、管理しようと思ったのだが――」

 おはつ山田徳右衛門やまだとくえもんの話にじっと耳をかたむけていたこともあって、彼が何かをよどんでいると即座そくざに気が付いた。美談びだんの中に隠された不都合ふつごうな事実を彼女が見過ごすことはなかった。またもや、陣内平太じんないへいた冷笑れいしょう脳裏のうりよぎった。何かあるとするならば、彼のせいに決まっているように思えた。

左衛門さえもん殿どのの魂はまだ土地を離れていないらしい――。田に水を張る季節になったので、私たちは左衛門さえもんおうの加護を求めて盛大な水口祭みなくちまつりを行なった。左衛門さえもんおうの魂は毛勝山けかちやまへとのぼしずまって、田の神として豊穣ほうじょうを約束してくれるとばかり信じていた。しかし――、彼の魂は山に帰ってなどいなかったようなのだ」

 山田徳右衛門やまだとくえもんはガックリと肩を落としながら語る。福々ふくぶくしい相好そうごうは崩れて、声は細くしぼられ、生気を一息に吹き消されたような印象すら覚える。その姿を見るやいなや、おはつは冷たい指先で背筋をぜられたようなすごさを感じた。

左衛門さえもん殿どのの魂は田圃たんぼから離れていない。彼を田の神としてむかえる祭は失敗に終わった。ああ、恐れ多いことだ。今でも、ハッキリと思い出すことができる。

 水口祭みなくちまつりが終わる夕刻の時分じぶんに奇妙な声が響いた。かすかではあるが、私の耳には、『田を返せ、田を返せ』と聞こえた。祭事さいじたずさわった者たちにも、その声は聞こえているらしかった。

 ふと、水を張ったばかりの苗代なえしろを振り返ると――そこには一つ目、三つ指のどろ人形にんぎょうのような異形いぎょうのモノが、うらめしそうにこちらを指さして立っていた」

 山田徳右衛門やまだとくえもんはそう言ったきり黙って口を開こうとしない。おはつにわかには信じ難い事の顛末てんまつを聞かされて、呆然ぼうぜんとするほかに仕様しようがなかった。

 左衛門さえもんの魂は、まだこの世とあの世の狭間はざま彷徨さまよっている。もし、それが本当なら彼をつなめているものは何なのだろう。何故か、陣内平太じんないへいたの顔が思い浮かんだ。


 泥にまみれた一つ目の化け物が、三つしかない指でこちらをさして、「田を返せ、田を返せ」と恨み言を繰り返す。


 それがおとしめられた英傑えいけつの姿である。暴れ川をおさめ、泥にもまみれて田を耕し、わずかばかりの作物を取り、ようやく口をのりする老父のれのてが、徳右衛門とくえもんの言うようなものであってほしくなかった。

 おはつ徳右衛門とくえもん悄然しょうぜんとした様子を仔細しさいに観察していた。しかし、この男からは悪意のようなものを感じ取れない。もし、陣内じんない左衛門さえもんがん彼岸ひがん端境はざかいとどめている者があるとしたら、息子の平太へいたに違いないように思えた。

 ――左衛門さえもんさんを現世うつしよつなとどめている者があるとしたら、息子の平太へいたに違いない――

 まったての元凶げんきょう陣内平太じんないへいたにあるようにしか、おはつには思えてならなかった。平太へいたはあの土地に父親の魂が取り憑いていることを知っていたのだろう。左衛門さえもんの死と時を同じくして、山田徳右衛門やまだとくえもんのもとに田地でんちを流したのも、今となっては意味深長いみしんちょうな振る舞いである。何としても陣内平太じんないへいたと会わなくてはならない、とおはつひそかに決心した。

 承応しょうおう二年の水無月みなづき陣内家じんないけ田地でんち禁域きんいきとして定められ、その年から田が水をたたえることは二度にどとなかった。

 村の大人おとなたちは、聞き分けのないわらべたちしかる時、「どろ田坊たぼうが出るぞ」とおびやかすようになった。陣内じんない左衛門さえもんという名は次第しだいに世間から忘れ去られていった。それは、おはつにとっては辛く悲しいことでもあった。

 土嚢どのうかつぎ、片貝川かたかいがわおさめ、田を耕した老人の物語はつゆとなって消えていく運命さだめにあった。それが、おはつには耐えがたいほどにさみしかったのである。



 四、泥海を泳ぐ


 承応しょうおう二年葉月はづき夜更よふけに煮売り屋のおはつ陣内家じんないけを訪ねた。亡くなった左衛門さえもん最期さいごまで質素しっそ倹約けんやくに努めていたらしく、山田徳右衛門やまだとくえもん一目いちもく置くほどの田圃たんぼを持ちながらも、住居は極めてわびしいつくりをしていた。

 陣内平太じんないへいた深酒ふかざけのために浮腫むくんだ顔をしており、暗い双眸そうぼうは黄色くよどんですらいた。両頬りょうほおは黒ずみ、指先の震えは容易よういにはおさまらないようだった。

 陣内平太じんないへいたはおはつ座敷ざしきに招くと、自分はぐい茶碗ちゃわん並々なみなみと酒をいで、しきりにさかずきかたむけ始めた。

女将おかみさんが言いたいことは何となくだが分かっているつもりだ。親父の田圃たんぼしちながしたことをめに来たんだろう。いや、もしかしたらどろ田坊たぼうの話かな」

 陣内平太じんないへいた片頬かたほおらせて笑うくせは抜けていなかった。世の中のまったてを小馬鹿にしたような不遜ふそん態度たいどである。おはつは部屋中に満ちた酒の香りに辟易へきえきしながらも、ふところから分厚ぶあつい帳簿を取り出して、平太へいたの前に突きつけた。

慶安けいあん元年に召し上がった酒代を頂戴ちょうだいしに来ただけです。しかし、貴方あなたは私を見て何かを思ったのでございましょう。腹に泥をかかえていらっしゃるのでしたら、仔細しさいうかがいたいと存じ上げます」

 平太へいたは帳簿に書き記された、『酒半合二文也さけはんごうにもんなり』という字をまじまじと見ていたが、やがては目をらして、「払いたくとも払えんわ」とつぶやいた。平太へいた酒代さかだい二文にもんすら銭を持ち合わせていなかったのである。

「このどぶろくも隣の家からくすねてきたものだ。とっくの昔に陣内家じんないけ破綻はたんしているのだ。それより、親父――陣内じんない左衛門さえもんの話をしてやろう。女将おかみさんは何か大きな勘違かんちがいをしているようだからね」

 左衛門さえもんの名前が語られた途端とたんにおはつまなじりをキッとげずにはいられなかった。平太へいたは死人をおとしめてまで己の正しさをあかしてしたいらしい。今や、おはつ平太へいたを心の底から軽蔑けいべつしていた。

女将おかみさんや徳右衛門とくえもん殿どのは、陣内じんない左衛門さえもんという人間を大そう立派に思っているようだが、それは考え違いというものさ。最期さいごまで親父はどろうみを泳ぐことに執着しゅうちゃくしていたに過ぎない。あれはまぎれもない化け物だ」

 おはつの頭にカっと血が上った。彼女はつつしみを忘れて口端こうたんつばきあわを飛ばして怒鳴どなりつけた。眼前がんぜんはチカチカと明滅めいめつを繰り返し、心臓はおどくるわんばかりに鼓動こどうを早めていた。

「そうではありません。左衛門さえもんさんは亡くされた奥様のことを思っていらしたのです。貴方あなたの奥様は飢饉ききんで亡くなりました。物が食べられずに、ゆっくりと死んでいく人の気持ちを貴方あなたは知らないのです」

 陣内平太じんないへいたはゲタゲタと笑いながら、おはつ激昂げっこうを聞いていたが、やがて一息ひといきつくと居住いずまいを正してうた。

貴方あなた一度ひとたびでも左衛門さえもんの口から母上の名前を聞いたことがあるのですか。さあ、母上の名前を言って御覧ごらんなさい。陣内じんない左衛門さえもんは母上の話をしましたか」

 平太へいたの意外なけに、おはつは思わず答えにきゅうしてしまった。確かに左衛門さえもんの口から、妻の話が語られることはなかった。「さみしい思いをしてきたのだろう」とたずねた時も、彼の眼には田圃たんぼのことしか、えいじていないようだった。それを薄情だとは思わなかったが、一抹いちまつ違和いわを感じたのも確かだった。

「親父――陣内じんない左衛門さえもん開墾かいこんしゅうちゃくしていただけなんですよ。いや、生きることに執着しゅうちゃくしていたと言ってもいい。泥にまみれて作物を取ることにかれていたのです。それを誰かに分け与えてやろうなどとは考えもしなかったのでしょう。一生懸命いっしょうけんめいに生きることの何がえらいのか、私にはまったく分かりません」

 平太へいたが静かに怒っていることは一目瞭然いちもくりょうぜんであった。弓形ゆみなりに細められた両眼りょうめの奥には冷たく燃える火がともされていた。おはつ陣内平太じんないへいたという人間に心魂こころだま鷲掴わしづかみにされたような気分におちいり、思わず肉体を震わせずにはいられなかった。

巷間こうかんささやかれているうわさもあながち間違まちがってないように思えるのです。陣内じんない左衛門さえもん田圃たんぼを返して欲しいだけなのです。あれは道をはずれた化け物になったのです。あれは妄執もうしゅうかたまりが泥をまとった姿に他ならない。山田徳右衛門やまだとくえもん殿どのには申し訳ないことをしましたが――、どうやら、それも終わりのようです。ほら、女将おかみさんには聞こえませんか」

 ピシャリ、ピシャリというどろを打つようなかすかな音が遠くで響いている。おはつがその音に耳をそばだてていると、突如とつじょふいごを鳴らしたような細い声が、後ろから聞こえてきた。それはまごうことなく左衛門さえもんの声だった。


「田を返せ、田を返せ」


 おはつわきの下を冷たい汗が伝った。振り向こうにも身体からだが動かない。陣内平太じんないへいた片頬かたほおらせて、ゲタゲタと笑うと茶碗ちゃわんに満たされた酒をグイとみ、怖気おぞけに震えるおはつもとにいざりより、肩をつかんで叱咤しったした。

「さあ、今すぐお帰りなさい。ここには二度にどと近づいてはなりません。走ってできるだけ遠くに逃げるのです。決して振り返ってはなりませんよ。親父に魅入みいられるといけないから」

 おはつはフラフラとした足取りで陣内家じんないけ門口かどぐちまでやって来ると、けつまろびつしながらも、道を一目散いちもくさんけてった。恐怖が彼女の心臓をしっかりとつかんでいた。

 山麓さんろく辿たどころにはいくらかの平静へいせいを取り戻したが、ピシャリ、ピシャリというどろを打つ音はいつまでも耳に残り、容易よういには忘れられそうになかった。陣内平太じんないへいたはあのあばらどろの妖怪と共に暮らすことになるのだろうか、と考えると恐ろしさのあまりに背筋が冷たくなった。

 ふと、おはつ毛勝山けかちやまを見上げると満月がいただきかろうとしていた。かぜおろしに吹かれて山の木々が揺れる様を見ながら、おはつは確かな狂気きょうきを感じていた。

 生きることに懸命けんめいになれば、何かを失うことになる。陣内じんない左衛門さえもんは何を失ったのだろうか、と思いをめぐらせているに月は山に隠れた。


 翌日、陣内平太じんないへいたみずからの首にくわたたとして死んだ、といううわさが村を騒がせたが、おはつは知らぬ顔を通してごした。陣内平太じんないへいたなぞめいた狂死きょうしと、煮売り屋のおはつの髪が一夜にして真っ白に色を落としたことを、いぶかしむ人々はあとを絶たなかったが、流れゆく月日の中でうわさは長くは続かないものだ。

 一つだけつだけ確かなことは、陣内平太じんないへいたの死の後に、彼女を「おはつさん」と親しみを込めて呼ぶ者は村からいなくなったことだけである。


                                                                                    (了)

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