天づるし

一、絵日記


 一九九○年の夏に祖父母の屋敷で奇妙な体験をしたことがある。

 当時、小学校一年生だった僕は両親の気まぐれに付き合わされて、山梨県北杜市中にきょかまえる父の生家でひと夏を過ごすことになった。

八ヶ岳やつがたけ筆頭ひっとうとする山岳に囲まれた自然豊かな土地は、都会っ子だった僕の眼には鮮やかに映ったものだ。一日中、野を駆け、山を登り、川を泳いで、ヘトヘトになるまで遊びつくした記憶がある。

 そういった幸福な幼少の記憶の中に紛れ込んだ、ひとつまみほどの腫瘍しゅようのような異質な体験は、年を経るごとに存在の大きさを増していき、ついには底知れない好奇心の持ち主の餌食えじきになるまでに育っていった。

 アマチュアホラー作家となった僕は小説の種になるのなら、幸福だった記憶をバラバラに解剖して、ひとにぎりほどの恐怖のつぶてすくげるつもりでいる。

 僕は蛍光灯けいこうとうの光に照らされた文机ふづくえ肩肘かたひじをつきながら、安っぽい一冊の絵日記のページをめくり始めた。他愛たあいのないひと夏を記録した日記帳の中に、一種異様な内容のページが差し込まれていることは知っていた。これは二十一年前に夏休みの宿題として、僕自身が書いた絵日記だからだ。目当てだった箇所かしょぐに見つかった。


はち月にじゅうよん日


 きょうは、おじいいちゃんといっしょにお山にのぼりました。おじいちゃんはお山にすむ、おばけのおはなしをしてくれました。

 とてもこわかったので、よるにへんなゆめをみました。てんじょうから、だれかがぼくをみおろしているのです。よくみると、ぼくとおないどしくらいの子どもだということがわかりました。

 その子はニコニコとわらいながら、ぼくをずっとみおろしていました。

 あさになって、おじいちゃんにきくと、それはジンタにちがいない、といっていました。おじいちゃんはとてもこわいかおをしていました。

もう、おじいちゃんにジンタのことをきかないようにします。こわいおじいちゃんはみたくないからです。


 色鉛筆で描かれた絵は、古屋敷ふるやしきにつきづきしい、竿さおふち天井てんじょうの一画の羽目板はめいたが外され、そこから子どもの頭がにょっきりと生えている、という不気味なものである。小学校一年生らしい、あどけない絵日記になっているが、その記憶自体は病的な生々しさを伴うものだった。


 羽目板はめいたの外された天井。

 そこから覗く爛々らんらんと輝く双眸そうぼう

 震える僕を見下ろして笑う子ども。


 祖父曰いわく、彼の名前は「ジンタ」というらしい。祖父がその名前を口にした時の渋面じゅうめんを忘れられない。まるで、殺しても殺しても湧いて出てくるむしを目にした時のような、困惑と嫌悪が入り混じった冷たい表情だった。それは、思慮しりょ分別ぶんべつが付かない幼心おさなごころにも、これ以上は質問してはならない、と分かる憎悪の眼差まなざしだった。

 その時に感じた危うさは絵日記にも表れているようで、翌日以降の記録には「ジンタ」という奇妙な存在については一切いっさいも触れられていない。

 故郷ふるさとでの楽しい思い出ばかりがつづられているが、確かに抱いた違和感は大人になった今でもせるどころか、不思議なあざやかさを取り戻しつつあった。

 何事にもほがらかだった祖父が明らかに忌避きひした存在である天井裏の子どもは、アマチュアホラー小説家の脳髄を否応いやおうなしに刺激するものだった。あれはこの世ならざる者の霊魂れいこんだったのではないか。

 いずれにせよ、祖父母の屋敷には何か秘められたる謎があると感づいた。アマチュアがプロフェッショナルに少しでも近づくためには身を切らねばならない。

 僕は祖父母との関係が険悪なものになろうとも、記憶の糸を手繰たぐせながら、秘密をあばいてやろうと腹をえていた。ありていに言ってしまえば、僕は身内を売って出世することにしたのだ。その真相が剣呑けんのんなものであれば僥倖ぎょうこうである、とすら僕は考えていた。

 僕は手にしていた絵日記を旅支度たびじたくのされたボストンバッグの中に押し入れると、蛍光灯けいこうとうの明かりを消して、まんねんどこと化した煎餅せんべい布団ふとんにモゾモゾと潜り込んだ。まぶたを閉じると、山梨県北杜市にある古屋敷ふるやしきを囲うようにして、そびえ立つ八ヶ岳やつがたけの鮮やかな緑が思い浮かぶ。

 豊かな森が生み出す濃霧のうむふもとに掛かり、いただき荘厳そうごん日輪にちりんを背に負っている。いただきからふもとへと吹き抜けるやまおろしは里村に住まう人々をきよめる聖なる風だ。それを思うと胸が痛くなった。僕は冷たくきよめられた山々を冒涜ぼうとくしようとしている。神聖な地を泥にまみれた足でにじるようなつみふかな行いだ。清浄な土地を俗世ぞくせ下卑げびた話題のダシにしようとしているのだから。

 枕元に置かれた時計の針は十二時を指そうとしている。山梨県北杜市行きの電車の切符きっぷすでに手配済みである。

 新藤しんどう家の屋敷には何かが隠されている。祖父母はじきに八十歳をむかえるはずだ。それを考えるといたたまれなくなる。いさらばえた人々の記憶に鞭打むちうつのだから。それでも僕は立身出世りっしんしゅっせの夢を捨てきれずにいた。ぼんやりとした罪の意識をふところかかえたまま眠りについた。



 二、無沙汰ぶさたびる


 山梨県北杜市、小淵沢こぶちざわ駅からほど近い、「みやび」という名のおもむきぶかい宿に一泊することになった。祖父母がきょかまえている地域とは、かなり距離が離れていたが、少しでも旅費をおさえたというさもしい気持ちが働いて、小淵沢こぶちざわ駅で電車を降りてしまった。

 ――屋敷とは随分ずいぶんと遠い場所だが、旅館が近くにあってよかった。そういえば、祖父母の屋敷もこの宿とちょうどおなどしくらいのはずだな――

 その宿の母屋おもやは明治のころに建てられたらしい木造の三階建てで、きゃく座敷ざしきはなれを改築したような造りになっている。

 人の良い主人しゅじんたちは昔ながらの温かい料理と歓待かんたいで、ひとばかりの客をねんごろにもてなしてくれた。師走しわすの慌ただしい時節じせつの中に紛れ込んだ一人客ひとりきゃくむかれてくれただけでも頭が上がらない思いだ。ひとばん宿泊しゅくはくならなおさらである。

 歴史を感じさせる母屋おもやで食事を済ませると、僕は携帯電話を着古きふるしたコートのポケットから取り出して、久しく連絡していない祖父母の住む屋敷の番号を押した。

 幼いころはよく世話せわをしてもらった記憶があるが、無沙汰ぶさたになってから随分ずいぶんと長い月日が流れている。非礼ひれいを指摘されたら口をつぐむほかにしようがない。突然の訪問のよしたずねられようものなら、はなは心許こころもとない弁解劇べんかいげきが始まるだろう。

 先達せんだって連絡をしなかったのには理由があるが、それを相手に気取けどられてしまうわけにもいかなかった。二十一年前の夏に見せた祖父の異様な表情は、相当の遺恨いこんが込められたものだった。段取りを整えているあいだに祖父が心を閉ざしてしまったら、いくらたずねても無駄むだに終わってしまうだろう。

 祖父はほがらかな人柄ひとがらをした寛容かんような人間ではあったものの、これと決めたらかたくなにこだわる古人いにしえびとらしい一面も充 分に持ち合わせていた。

 天井裏の子の幻影げんえいは祖父にとってこころよい話題ではないことは明らかだった。少なくとも、二十一年前はそうだったはずである。できるだけ、祖父に余裕よゆうを与えたくはなかった。それが残酷な仕打しうちであることは、重々じゅうじゅう承知しょうちしていたが、僕はどうしても真相が知りたかった。

「もしもし、和樹かずきなんだけど……」

 市外局番に電話をかけるのは久しぶりのことだった。二十一年前に見た玄関げんかんの黒電話は、まだ使われているのだろうか。祖父母の家を訪問する機会は滅多めったになかったため、記憶はうすぼんやりとかすみがかっている。最後に屋敷を訪ねたのはいつのことだったか。家をあらためて普請ふしんしたというしらせは届いていない。甲斐かい古屋敷ふるやしきにまつわる記憶は、一九九〇年の夏を以てピタリとまっていた。

「ああ、和樹かずきかい。久しぶりだねえ。どうしたの、突然、電話なんてかけてきて。おばあちゃん吃驚びっくりしちゃったよ」

 なつかしい祖母の声はあくまで明るく、長年の無沙汰ぶさためるような調子はなかった。彼女に後ろめたい過去があるとは想像できない上に、うたぐること自体が罪深つみぶかい行為であるのではないか、と早くも考え始めていた。あるいは、祖父母の過去には一切いっさいやましいことなどなく、天井裏の子の存在も、幼心おさなごころに見た夢幻ゆめまぼろしだったのかもしれない。それは充分にあり得ることだった。

「あのさ、仕事の用事で家の近くまで来てるんだけど。明日、そっちに行ってもいいかな。迷惑じゃなければの話なんだけれど……」

 取ってつけたような言い訳を口にした途端とたんに、自分がひどくあさましい人間になったかのように思えてしようがなくなった。人間の善意や好意を裏切ってまで利己りこ追求ついきゅうする自身がなさけなかった。悄然しょうぜんとした声風こわぶりを耳にした祖母は笑いながら言う。

「そんなに遠慮する必要ないのよ。自分の家だと思って何時いつでもいらっしゃい。おばあちゃん、ご馳走ちそうを用意しておくからね。明日はおなかかせておいてちょうだい」

 祖母の声音こわねが明るければ明るいほど、僕の声音こわねは影をして卑屈ひくつになっていくようだった。祖父が電話口に出ることはなかったが、彼もまた間遠まどおになっていた孫の来訪らいほうを喜んでくれるのだろうと容易よういに想像できた。

 この善人ぜんにんたちの過去をあばいて小説にしようとしている自分の醜悪しゅうあくさをかえりみると怖気おぞけが走る思いだった。

 ――肉親の過去をさらすことになろうとも、この世界で生き抜くためには仕方しかたがないことなのだ――

 祖母との会話が終わった頃には新進と夜は更け、師走の寒風が窓を頼りなく鳴らしていた。思えば、随分ずいぶんと遠くまでやって来たものだ。見慣みなれない街並まちなみの夜景やけいながめながら、ぼんやりとそんなことを思っていた。

 明日はバスを乗り継いで金峰山きんぷざんの方角に向かうことになるのだろう。修験しゅげん道者どうしゃ霊山れいざんとしてまつるその山のふもとには、この旅館と同じくらいとしを経た古屋敷ふるやしきたたずんでいるはずだ。ふと気になって整えられた座敷ざしきの天井をあおぎ見てしまった。「みやび」のきゃく座敷ざしきの天井は普請ふしんした時にあらためたのだろう――、古屋敷ふるやしき竿縁天井さおふちてんじょうとはまるで違う、屋根裏のない屋形やかた天井てんじょうだった。



三、口を割る


 祖父母が暮らす古屋敷ふるやしき塩川しおかわ中流――漆戸うるしど棚田たなだと呼ばれる田園でんえん地帯ちたい――にかまえられている。森閑しんかんとした土地で、界隈かいわいの民家の数もまばらである。交通の便は良いとは言えず、辿り着くまでにかなり難儀なんぎした。小淵沢こぶちざわを出てからバスを乗り継ぎ、紆余曲折うよきょくせつ道程みちのりを経て、屋敷に到着した時分じぶんには空があかね色に染まっていた。

「おお、よく来た。それにしても、大きくなったなあ。さあさあ、外は寒くなって来ただろう。中にお入りなさい」

 くもりガラスがめられた引き戸の向こうには、破顔一笑はがんいっしょうした好々爺こうこうやが立っていた。孫である僕をこころよむかえるために、随分ずいぶんと以前から準備をしていたらしい。土間にある炊事場すいじばから顔をのぞかせた祖母が、笑いながら祖父の子どもっぽい一面をしきりに揶揄からかった。祖父が機嫌を損ねるようなこともなく、ふるさびれた屋敷の内はほがらかな雰囲気に包まれていた。

 ――少しだけ内装ないそうが変わっている。リフォームとまではいかないが、修繕しゅうぜんしたところもあるようだ。階上うえにある問題の部屋はなくなってないだろうか――

 すっかり腰の曲がった祖母に導かれて、茶の間に案内あんないされているあいだに、僕は二十一年前の夏に遊んだ屋敷の名残なごりを探していた。一部の壁や床は修繕しゅうぜんされていたが、家の造り自体は変わっていないようだ。火鉢のともしびが屋内を優しく照らす古屋敷ふるやしきの様子は穏やかであり、邪悪じゃあくな事件や陰惨いんさんな過去の記憶がおのずとかもし出すかげりは全くみとめられなかった。

「立派になったもんだ。今いくつになったんだい――いやいや、やっぱり言わなくていい。それくらい計算できるから。まだまだ、耄碌もうろくしていないことを証明してやる。ううむ、二十八歳かな。どうだ、当たっているだろう」

 そう言うと祖父は甲州こうしゅう古人いにしえびとらしく快活かいかつに笑ってみせた。忍耐強いが明朗めいろうな性格をした山のおきなといった印象の裏に、薄暗うすぐらい過去が隠されているようには思えなかった。

 遠路えんろはるばる謎を求めてやって来たものの、どうやら、それも徒労とろうに終わりそうだった。僕は早くも取材をあきらめつつあった。

 不孝者ふこうものである孫に、祖母は馳走ちそうを振る舞い、祖父はしきりにさかずきを傾けた。火鉢の炭が灰となってくすぶり始める頃合ころあいになると、酒の酔いも手伝ってきもわり、ようやく口も回るようになってきた。僕は遠い過去に体験した事柄ことがらについて祖父母にたずねることにした。今なら、二十一年前の夏の幻影げんえいぬぐることも出来そうな気がした。

「そういえば、年末の大掃除をしていたら、小学校一年生だったときの夏休みの宿題を見つけてね。ほら、ひと夏をこっちで過ごしたことがあったじゃない――、その時の絵日記だよ。それには随分ずいぶんと奇妙な体験をした、と書いてあってね。おじいちゃん、ずっと昔から気になってたんだけど、『ジンタ』って誰なのさ」

 酒に酔った僕は少しばかり大胆だいたんになっていた。わざわざ、ボストンバッグの中から絵日記を取り出して、問題のページを開いて祖父母に見せつけるぼどに。

 問題の絵日記をたりにした祖父母の反応は、僕が予想していたものとは違っていた。祖父の表情は一瞬にして暗くなり、祖母は何事なにごとかを恐れて席を立った。明らかに動揺している祖父母の様子を目にして。僕も少なからず困惑していた。

 ――やはり、何かあるのか。祖父母は僕に何事なにごとかを隠している。一体いったい全体ぜんたい、『ジンタ』とは何者なにものなのだ――

 祖父は手にしていたさかずきを床にせると居住いずまいを正した。その顔はきびしく引き締められており、先程さきほどまでの孫を甘やかす老爺ろうや面相めんそうとはかけ離れたものだった。

「わざわざ、それをたずねにやって来たというわけか。じいさんも、ばあさんも、お前がうちに来ると聞いてどれほど喜んでいたのか知らないのだろう。それなのに、お前はくだらない話をかえして、老人の余生よせいをかき乱そうとしているわけだ。

 いいか、『ジンタ』の話はするな。ばあさんを見ろ、すっかりおびっているではないか。お前が期待きたいしているようなことは何もありゃせん。

 よるけてきたから、ひとばんだけ泊めてやるが、明日になったら早々そうそうに帰ってくれ。お前がこれほどまでに馬鹿なことをしでかすとは思ってもいなかった……」

 今や、祖父は僕の来訪らいほうを明確に拒絶きょぜつしていた。その様子を見てしまうと、階上うえの部屋を使わせてほしいとは言えなかった。祖父はゴロリと横になると、僕に背を向けたまま沈黙してしまった。狼狽うろたえる僕のもとに祖母が歩み寄ってきて、弱々しくそでを引いた。

「寝る場所をこさえたから、こっちにおいで。あの人も疲れているみたいだから、今日はもうお休みなさいな」

 祖母に連れられて部屋を移ると、既に来客用の布団が敷かれていた。ふすまを閉めようとする祖母をめて非礼ひれいびると、祖母は目を泳がせながら声をひそめて話し始めた。

「そんなに謝らないでちょうだいな。あの事だけはお前に知られたくなかったんだよ。あの子のお話はおしまいにして生きていくと決めたんだよ。

 シッ、あの子に聞かれたら、面倒めんどうなことになりかねないから、小さな声で話しなさい。そんなに謝られると、あの子に知られてしまうよ。

 この部屋なら大丈夫だと思うけれど、いつまた、あの子が現れるか分かったもんじゃない。それじゃ、ゆっくりお休みなさい」

 祖母はそんなことを一方的に話すと、慌ててふすまを引いて、ヒタヒタという足音だけを残して立ち去ってしまった。祖母の口からわずかに引き出した情報を、僕は急いで手帖てちょうに書き込んだ。


〈祖母の言う「あの子」とは天井裏の子どものことだろう。彼女のぶんを信じるならば、天井裏の子どもは、まだこの古屋敷ふるやしきのどこかに存在しているととらえられる。しかし、「いつまた、あの子が現れるか分かったもんじゃない」というわけだから、ここしばらくは目撃されていないのかもしれない。今のところ、祖父母からこれ以上の情報を聞き出すことは難しいに違いない〉


 僕は長い旅路たびじ無駄むだにならなかったことを喜んでいた。あれほど、肉親の過去をあばくことに抵抗していたはずなのに、老夫婦のあいだに秘密が隠されていると知るといなや、てのひらを返して気色けしきばんでいる自己のあさましさをさとって愕然がくぜんとした。

 手帖てちょうに鉛筆を走らせている時に感じた高揚感こうようかんじき嫌悪感けんおかんに変わった。僕は持っていた手帖てちょうを丁寧に整えられた布団の上に投げ捨てた。祖母の優しさの上に使い古された黒革くろかわ手帖てちょうがポツリとせられた様は、僕の心境をそのまま表しているようだった。

 ――こんなことは間違っている。もう、このまま故郷こきょうを後にして、馬鹿なことを考えるのはした方がいいのかもしれない――

 頭の隅でそんなことを考えているあいだにも夜は否応いやおうなしにけていく。どのような顔をして祖父母に会えばいいのか分からない。夜が明けるまで数時間は残されていたが、今夜はもう眠れそうになかった。れてボロボロになった黒革くろかわ手帖てちょうが、清潔なシーツに包まれた白い布団の上で、邪悪じゃあく微笑びしょうを浮かべていた。

 僕はしばらく逡巡しゅんじゅんした挙句あげくに、黒革くろかわ手帖てちょうを手に取った。祖父母には申し訳ないが、明朝みょうちょうにはこのふるさびれた屋敷を、こっそりと後にすることを決めた。



四、三つの資料


Ⅰ,とある古老ころうが語る昔話の録音記録

 

 天井裏に子どものれいがいる……。

 ああ、そりゃ、「てんづるし」というやつじゃないかねえ。このあたりじゃ、さほど珍しいもんじゃないよ。特に悪い事をするでもないし、気にしないのが一番じゃないかねえ。いやいや、座敷童ざしきわらしとはまた違う怪異かいいなのだけれどねえ。第一、あちらは東北の妖怪ようかいだろう。

 てんづるしのことを調べているのなら、教えてやらんこともないが、アンタ――、学者さんだろう。全く、妙な事を調べる気になったもんだ。

 てんづるしは屋根裏にみつく化け物のことでねえ。見た目はお稚児ちいさんの恰好かっこうをしていると言われている。ほら、河口の方に稚児ちごまいという祭事さいじがあるじゃろ。あのお稚児ちいさんのような恰好かっこう身なりをした妖怪ようかいだ、とワシらは伝え聞いているねえ。

 東北の座敷童ざしきわらしとは違って、福を招くというようなことはないらしいねえ。ただ、屋根裏にんで、時折ときおり、ひょっこりと顔をのぞかせる――そんな悪戯いたずらを好む可愛らしい妖怪ようかいじゃ。ワシの家には出たことはないが、害をすわけでもないから、放って置くのが一番じゃないかねえ。

 ただ、屋根裏とはいえ家屋かおくみつく妖怪ようかいだからねえ。案外あんがい屋敷神やしきかみさまのお仲間なのかもしれない。もし、そうだったらあんまり無下むげあつかい続けるとばちが当たるのかもしれない。まあ、それでも、てんづるしが出たことで家が零落れいらくしたなんてうわさは聞いたことがないねえ。

 ワシらが聞かされたてんづるしの話なんてそれくらいだねえ。子どもが夜更よふかしをしていると、『てんづるしが出るぞ』と驚かしたものさね。それだけの話さ。

 うん――、随分ずいぶん釈然しゃくぜんとしない顔をしているみたいだけれど不満があるのかい。

 まあ、てんづるしが本当にお稚児ちいさんの恰好かっこうをしているのなら、河口かわぐち稚児舞ちごまいのように、神さまにおつかえする存在ということも、考えられなくはないんじゃないかねえ。

 ワシらがおまつりしている神さまといったら、やっぱり山と田の神さまのことになるのだろうねえ。ご先祖様のれいが山に登ってしずまることでやまさまになり、田植たうえの時期になるとさまになって、五穀豊穣ごこくほうじょうもたらしてくれるという、たいそうありがたいお話さね。ここら辺は山に囲まれた土地だからねえ。何となくでも、みなやまさまとさまを信じているんじゃないかねえ。

 金峰山きんぷざんいただきにあるという金櫻神社かなざくらじんじゃでも、大国主神おおくにぬしのかみ少彦名神すくなひこなのかみ二柱ふたばしらをおまつりしているし、こんなご時勢になっても五穀豊穣ごこくほうじょうみなの願いなんだろうねえ。

 ワシは難しいことは分からないが、お稚児ちいさんの恰好かっこうをしたてんづるしと、山と田の神さまのあいだにはえんがあるのかもしれないねえ。


Ⅱ,とある地方新聞記事の抜粋ばっすい


北杜ほくと市、須玉すたま町で神隠かみかくし発生か?

 

 北杜ほくと市、須玉すたま町に住む新藤しんどう家の庶子しょし甚太じんたくん(七歳)が、八月十三日の未明みめいから行方不明ゆくえふめいとなっている。新藤しんどう夫妻は十二日の夜に子供部屋で遊んでいる甚太じんたくんを見ており、家出をするような素振りは感じられなかった、と警察に供述きょうじゅつしている。

 また、甚太じんたくんの部屋は夫妻が生活する階上かいじょうにあった。夫妻は先月の初めに嫡男ちゃくなんである和也かずやくん(五歳)を亡くしたばかりであり、甚太じんたくんの母親の幸枝さちえさん(二十五歳)は神経症しんけいしょう気味だったらしく、夜はほとんど眠れないほどに、気が休まらない日々を送っていた。

 幸枝さちえさんは「息子が階上うえから降りてきたら、ぐに気が付いたはずである」とべている。また、彼女は「きつねにつままれたような感じがする。けむりのように部屋から消えてしまったことに困惑している」とも述べている。

 警察は特定の人物から身代金みのしろきんを要求されるなどの事件性を否定しており、これを家出いえで案件あんけんとしてあつかうことに決定した。地元青年団は須玉すだま町付近の山岳を捜索することに協力するというむねの発表を行った。山岳さんがく地帯ちたいの中には急斜面の坂や崖がある場所も決して珍しくはない。依然いぜんとして甚太じんたくんの安否あんぴが気に掛かる。

 また、地元の古老ころうの中には、この行方不明ゆくえふめい神隠かみかくしだとうわさする者もいるようだ。社会的経済成長がいちじるしく進行している現状に、全くそぐわない昔語りが飛び出したことに記者一同は驚きを隠せないでいる。甚太じんたくんが一刻も早く発見され、神隠かみかくなどという根も葉もない噂話うわさばなし払拭ふっしょくされることを願う一方である。〈一九六五年八月十六日〉


Ⅲ,とあるタブロイド雑誌の記事の抜粋ばっすい


 旧N県K村でおこなわれていた因習いんしゅうに「おじろっぽ・おばっちゃ」というものがある。国土の七割が山である日本において、山林や山間やまあいに囲まれた土地では、独自どくじの風習や習慣が発生することが多い。旧N県のK村は高山の多い地域の中でも、特に山深い場所に位置している。

 旧N県K村には、平地はほとんど見られず、道もたよりないものであり、おおよそ人が生活をいとなむのにてきした土地とは言い難い。しかし、そういった風土ふうどの中にあっても、古くから暮らす人々は存在した。旧N県K村もT川と呼ばれる河川かせん沿うようにしてひらかれた集落しゅうらくの一つである。

 耕地面積が少ないために農業をいとなむことが難しいK村では、長男ちょうなんより下のものたちやしな余裕よゆうはほとんどない。手段をこうじなければ、自然と一家は共倒れになってしまう。そうした厳しい環境の中で考案こうあんされた風習が、過酷かこくな人口制限法である「おじろっぽ・おばっちゃ制度」であった。

 この制度では、まず、家長かちょうとなる嫡男ちゃくなんだけが家督かとくを相続して、他家たけの女子と婚姻関係を結ぶことで、社会生活をいとなむところを基点としている。嫡男ちゃくなんとして認められない次男じなん以下と女子は、他家たけの養子になるか結婚する以外に独立していえかまえることを禁じられた。つまり、次男じなん以下と女子は家督かとくいだ長男ちょうなん――戸主こしゅもと生涯しょうがいをかけて無報酬で労働することになるのである。旧N県K村では、この人口制限法が十六から十七世紀ごろまで続けられていたようである。

 このように家督かとくを相続する資格を与えられない次男じなん以下と女子は、「おじろっぽ」または「おばっちゃ」と呼称され、家庭内における地位は低く、戸主こしゅ妻子さいし以下のあつかいを受ける場合がほとんどだったらしい。それどころか、彼らの戸籍には「厄介やっかい」という記載のみがされ、他の村人との交流の機会きかいも与えられず、祭事さいじに参加することも禁じられていたという。

 こうした、「おじろっぽ・おばっちゃ」たち生涯しょうがいかけて結婚することもなく、近隣の村人と交際することも許されなかった。彼らは話しかけられても返事をせず、ただ、自身にせられた仕事だけを黙々もくもくとこなして、少しの不平も不満もらすことがなかったらしい。

 「厄介やっかい」とされた人々は、屋根裏やあばら屋に軟禁される場合も屡々あった。戸主こしゅはこれを「厄介部屋やっかいべや」と呼んで、彼らの生活せいかつ水準すいじゅんあらためようとはしなかったとされている。

 勿論もちろん、現在のK村では、このような因習いんしゅうおこなわれていない。十六から十七世紀にかけて、貧しい集落しゅうらくに発生した風習の一つの事例である。この制度がもちいられていた集落しゅうらくは、町村ちょうそん合併がっぺいにより消えてなくなり、わずかにその記録が口伝くでん調書ちょうしょとして残されているばかりである。



五、問い詰める


 使い古されてボロボロになったボストンバッグの中には、三つの資料が押し込められていた。これらの資料をもとに祖父母の秘密を推測することは難しくなかった。しかし、そこにはひとにぎほどの疑問がどうしても残されていた。

 僕は炯々けいけい爛々らんらん血走ちばし双眸そうぼうで、呑気のんきに火鉢を囲う祖父母をにらみつけた。穏やかな古屋敷ふるやしきの裏に隠された秘密は、怖気おぞけの走るような陰惨いんさんなものだった。予感が的中したことを喜ぶほどの余裕よゆうを持ち合わせてはいなかった。状況は小説取材の範疇はんちゅうえていたのだ。

 僕は三つの資料が示唆しさする事態じたいに気が付くと、拠点きょてんにしていたビジネスホテルを飛び出して、祖父母の屋敷にことわることなく踏み入った。彼らはそれを予想していたかのような余裕よゆうを感じさせる表情で、いきはずませる僕のことをむかれた。

 好々爺こうこうやらしいほがらかな微笑ほほえみは、一切いっさいかいした途端とたんに、悪鬼あっき凶相きょうそう変化へんげしたようだった。

 僕はかわいたくちびるねばつくつばき湿しめらせながら、ホテルを飛び出した時からかれていた疑問を口にした。


「あなた達は、甚太じんたくん――僕の伯父おじさんを殺したのですか」

 

 細められていた祖父の双眸そうぼう憤怒ふんぬのために見開かれた。祖母は背中を丸めてむせび泣き出していた。


大馬鹿者おおばかもの滅多めったなことを言うもんじゃない。誰も彼奴あいつに手をけてなどおらんわい。彼奴あいつ神隠かみかくしにあったのだ。山の神にれてかれたのだ」


 祖父は口端くちはしあわを飛ばしながら怒鳴どなり始めた。僕はボストンバッグから黒革くろかわ手帖てちょうを取り出すと、震える指でページを捲って、地方新聞記事がられた箇所かしょしめした。しばらくの間、祖父はそれを黙って読んでいたが、やがて鼻を鳴らしてせせら笑うと冷たく言い放った。

「こんな三流記事から何が分かるというのだ。探偵にでもなったつもりか。甚太じんた神隠かみかくしにあったのは本当だが、他のことは全てデタラメだ。警察も青年団も、甚太じんたのために働こうとはしなかった。妻が神経症だったなんて、嘘もいいところだ」

 僕は怒りのあまりに手帳を投げ捨てた。この老夫妻が幼い子を殺めたとしか思えなかった。厄介やっかいという烙印を押されて、天井裏に軟禁された子どもの霊魂れいこんが、二十一年前の夏に僕のもとに現れたのだ。老夫妻の罪をあばいてくれ、と願いを込めて枕元に立ったに違いない。

「あなた達は甚太じんたくんを屋根裏部屋――厄介やっかい部屋に軟禁していた。僕が二十一年前に寝泊まりしていた部屋は和也かずやくんのものだった。

この新聞記事には『階上うえの部屋』と書かれているだけだ。なら、甚太じんたくんの部屋はどこにあるというのですか。二人は同じ年に亡くなっているんだ。さあ、甚太じんたくんの部屋が階上うえにあるというなら、僕を案内してください」

 そう言って僕が立ち上がると、祖父母の顔に明らかな動揺の気色が差した。彼らはむっつりと黙ったまま、動こうとはしない。彼らが厄介やっかい部屋の存在を認めたものと判断して、僕は再びたたみの上に腰を下ろした。

「あの部屋を甚太じんたにあてがったのは、全て和也かずやのためだった。嫡子ちゃくしである和也かずやの身に災厄や魔物が寄り付かないように、庶子しょしである甚太じんたを山の神に捧げたのだ。

 それにも関わらず、和也かずやは先に逝ってしまった。甚太じんたも後を追うように神に連れられて行ってしまった。甚太じんたは役目を果たさなかったのだ。本来ならば、甚太じんたが先に逝くはずだったのに」

 二十一年前の夏に見せた、忌々しげな表情が、祖父の顔にありありと浮かんだ。それは、鬼畜きちくの形相だった。

「妻のだった甚太じんた居場所いばしょなんて、初めからなかったのだ。家督かとく嫡子ちゃくし和也かずやぐべきだ、という意見にはみなが賛成した。妻もそれに異存いぞんはなかったし、自分のあやまちから生まれた子が少しでも役に立つのなら、と言ってくれた。

 甚太じんた和也かずやの代わりとして大切に育てられた。厄介やっかいなどとは思ったこともない。やがて、神のもとされる子だからな。それにもかかわらず、あらぶる山の神は願いをげてはくれなかった」

 僕は怒りのあまりに震え始めていた。独善的どくぜんてきなまでの祖父母の考え方に嫌悪けんおすらおぼえる。僕はたたみの上に投げ打たれた手帖てちょうを拾うと、着古きふるしたコートの内ポケットにおさめた。この話を小説にするかいなかは判断が付かなかったが、真相を有耶無耶うやむやにして闇にほうむるつもりもなかった。

「分かりました。和也かずやくんのために甚太じんたくんは生贄いけにえとして育てられたのですね。これが、最後のお願いになると思います。僕を甚太じんたくんの部屋にれてってください。二人の伯父おじさんの供養くようをしてあげなければなりませんから」

 祖父の血走ちばしったひとみするどく光った。突然とつぜん、彼はひどいなまり言葉でののしり始めた。なんと言っているかは、ほとんど分からなかった。しかし、亡くなった伯父おじ供養くようしたいと願ったことに対して、強い拒絶きょぜつしめしていることは理解できた。


「えーかげんにしろ、おい、ぶさらうぞ」


 そう言うと同時に、祖父は僕の胸倉むなぐらつかんだ。ほどなくして、僕は信じがたいまでの腕力わんりょく屈服くっぷくさせられた。玄関げんかんぐちまで引きずられた挙句あげくに、荷物にもつともに外に向けて投げ出されてしまったのである。

 僕は地面にぶつけた腕をさすりながら、甲州こうしゅう古屋敷ふるやしきを見上げた。金峰山きんぷざんを背にした屋敷に宿やど稚児ちご霊魂れいこんは、まだ現世うつしよのどこかを彷徨さまよっているのだろうか。てんづるしという怪異かいいとして現れた幼子おさなご霊魂れいこんは山にかえってしずまることができたのだろうか。

 そのように考えをめぐらせていると、途端とたんに胸が張り裂けそうなほど悲しくなった。鬼畜きちくの血が僕の肉体に脈々みゃくみゃくがれている事実が悔しくてたまらなかった。いまだに、この顛末てんまつを小説にしようと執着しゅうちゃくしている自分が情けなかった。かわいた大地はなみだしずく貪欲どんよくしていく。

 僕は投げ捨てられたボストンバッグの中から、二十一年前の夏に書かれた絵日記を取り出すと、てんづるしと出逢であった日付のページを開いた。色鉛筆で描かれた伯父おじ相変あいかわらず、ニコニコと笑っていた。

                                                                  

                                    (了)

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