虚空太鼓

 一、捨丸すてまる


 ドンヨリとした油のように重く波打なみう瀬戸せとの海に、一隻いっせき白木造しらきづくりの弁才べんざいせんが、ポツリと浮かんでいる。

 あつい雲におおわれた夜空には月もなく、海面うなもを照らしているのは、弁才べんざいせんたよりない篝火かがりびのみである。

 あやしくうごめく波に乗りながら、右へ左へとユラリユラリと船体せんたいが揺れる様は、見るものを不安にさせる。

 このような不吉ふきつばんに船を出すことについて、波止場はとばの連中は当然だが反対した。商船しょうせん船頭せんどうである捨丸すてまる胸中きょうちゅうにも懸念けねんかげよぎらないわけではなかったが、かれは目前に吊り下げられたえさに飛びつかずにはいられなかった。要するに、捨丸すてまる欲望よくぼうに負けたのである。

 そもそも、捨丸すてまるるをる男である。海で生きる人間はぎわ熟知じゅくちしているものであり、捨丸すてまるもそのれいれない、したたかな男であった。瀬戸せとの海がかれ知恵ちえ経験けいけんさずけ、かれもそれにこたえるように、たくましく生きてきたはずだった。

 ――それにしても、美しい女だ。この女をいだけるならば、多少たしょう危険きけんおかすだけの価値かちはある――

 たよりない篝火かがりびともしびを受けて、整った面立おもだちに妖艶ようえんなまでのかげを落とし、ひっそりと船端ふなばた腰掛こしかける女を横目よこめに見ながら、捨丸すてまるは思った。女の黒髪くろかみからすのように宵闇よいやみの中にしっとりと馴染なじんでいる。捨丸すてまるは自身のふしくれだった板のようなてのひらうずくのを感じた。

 ――あの黒髪くろかみれてみたい。くことで指の隙間すきまからこぼれる髪の感覚を味わいたい――

 鼻腔びくうには早くも女の甘美かんびかおりがただよい、やわらかな肉の感触を捨丸すてまるに予感させていた。捨丸すてまるは自分に売られた女の顔を間近まぢかに見ていたいという欲求をおさえながら、暗闇くらやみの中でかじあやつり、小松こまつ沖合おきあいから周防すおう大島おおしまいそへといた船路ふなじをますます急いだ。

 全てが順風満帆じゅんぷうまんぱんに進みつつある中で、気に入らない事をげるとしたら、女がすでに夫を持っており、その男もこの小さな商船しょうせんに乗ってる事実だけだった。それだけが魚の小骨がのどかったかのような違和いわ捨丸すてまるに感じさせていた。

 捨丸すてまる先刻せんこくから帆柱ほばしらかるようにして座っている男の横顔をジロリとにらみつけると、黒くねばつく海に不満らしくつばきを吐き捨てた。

 ――らねえな。自分のよめを差し出してまで、まれ故郷こきょうからとおのきたい、という根性がらねえな。もっとも、それを承知しょうちで客としてむかえた俺も俺だが――

 捨丸すてまるがこの一風いっぷうわった夫妻めおと出会であったのは、安芸あき大畠おおばたけにある場末ばすえ波止場はとばでのことだった。

 からすかもめが腹を空かせていそはまをうろつく夕刻ゆうこく時分じぶんである。そろそろ仕事を終えようと、もやいづな手繰たぐっていた捨丸すてまるのもとに、男が女の手を引きながらってきた。

無理むり承知しょうちで申し上げます。どうか、これから船を出してはもらえませんでしょうか。一刻いっこくも早く周防国すおうのくにに行きたいのです。私たち夫妻めおとにこの小松こまつの海をわたらせてはいただけませんでしょうか」

 青白あおじろひたいをした男は言葉にまりながらも、けたたくましい身体からだほこる海の男にうったえた。捨丸すてまるは初めこそともつなもてあそびながら聞き流していたが、やがて、男のうったえが焦眉しょうびきゅうていしていることをさっした。男が身をよじりながら懇願こんがんしてきたからである。捨丸すてまるは男の様子ようす軽蔑けいべつ眼差まなざしで見詰みつめると、嘆息たんそくじりに口を開いた。

「今日はもう船を出さんと決めている。だいたい、船を出したところで、もうけにならん。商売しょうばい相手あいての方がみせじまいをしている時分じぶんだからな。かせぎにならないことはしないのは当たり前だ。お前さんに金がないことくらいはかっているつもりだ。それとも、最後さいご財産ざいさんである嫁子よめこでも売りに出す気なのか」

 捨丸すてまるは男を嘲笑ちょうしょうしながら言い捨てた。くわしい事情じじょうは知らないが、こういった手合てあいを相手にしていたらキリがない。捨丸すてまる無理むり難題なんだいを吹っふ かけてあしらうつもりだったが、男の返事へんじはギョッとするほどに意外いがいなものだった。

「じゃあ、あげげます」

 捨丸すてまるは男のかたわらで小さくなっている女の表情ひょうじょううかがわずにはいられなかった。今しがた、目前もくぜんで夫に売られた妻の気色けしきおどろくほどに冷淡れいたんであった。捨丸すてまるはこの二人ふたりが本当に夫妻めおとであるかをいぶかしんでしまうまでに、女の顔には無関心むかんしん仮面かめんがベッタリといていた。

「あんた、それでいいのかね」

 捨丸すてまるは女のおもて動揺どうよういろすのを予想よそうしていた。青白あおじろひたいをした男が横から何かを必死にしゃべっていたが、捨丸すてまる関心かんしんはひとえに女にそそがれていた。

 女は捨丸すてまるの強い声風こわぶりにピクリとかたふるわせたが、しおびた者がびる薄茶色うすちゃいろひとみ一瞥いちべつすると、やがて、ずかしうつむきながら小さくうなずいた。

 その仕草しぐさから海の男に対する嫌悪けんお軽蔑けいべつの色はみとめられなかった。むしろ、捨丸すてまる気迫きはくを前にして、低迷ていめいしていた感情の一切いっさいよみがえったかのようだった。

 女のほお上気じょうきして赤くまっていた。その様子ようす仔細しさいに観察していた捨丸すてまるは、無性むしょうにこの女が欲しくてたまらなくなった。

「おい、徳次郎とくじろう船出ふなで支度したくをしろ。これから周防すおう大島おおしまに向かう。絶対ぜったいいやとは言わせんからな」

 捨丸すてまる威勢いせいよく声をあげげると、浅黒あさぐろはだをした小柄こがらな男が船棚ふねだなからノロノロとてきた。いまだ少年の面差おもざしを幾分いくぶんか残した男は、この弁才船べんさいせんやとわれた唯一ゆいいつ水夫すいふである。安政あんせい飢饉ききんおそわれて以来いらい、両親を亡くした孤児みなしごとなった徳次郎とくじろうにとって、捨丸すてまるは親のわりのような存在そんざいだった。

 荷物にもつろして商船しょうせん整備せいびをしていた徳次郎とくじろうは、主人しゅじんである捨丸すてまる並々なみなみならない気迫きはくしたがうほかにしようがなかった。かれは大きく返事へんじをすると、またもや、ノロノロとしたあしりで船の中へと消えていった。

 捨丸すてまる徳次郎とくじろうの後ろ姿を見送ると、この奇妙きみょう夫婦めおとかえって、鷹揚おうよううなずいて見せた。それは、秘密ひみつ商談しょうだん三人さんにん男女だんじょあいだむすばれたことをしめしていた。

 ――この女を両腕もろうでいだけるなら、俺はなんだってやってみせる。誰にも文句もんくは言わせないつもりだ――

 煩悩ぼんのうせた弁才船べんさいせんは風をはらんで大きくふくらみ、あつい雲におおわれた夜天やてんした順調じゅんちょうに進んで行く。これからおこなわれるだろう甘美かんびな肉の交合こうごうを思うと、商船しょうせんかじりも捨丸すてまるにとってかろやかに感じられるのだった。

 四人よにん男女だんじょを乗せた弁才船べんさいせんは、小松こまつの海をけるようにわたっていく。篝火かがりびが風を受けて、パチパチと小さくぜるごとに、船板ふねいたの上の陰影いんえい不気味ぶきみゆがむ。あたりに波のさざめきのほかに音はなく、あまりの静寂せいじゃくに耳がうずくようである。

 重い油のように黒くねばる海に、一隻いっせき弁才船べんさいせんが、ポツリと浮かんでいる。まれそうな暗闇くらやみの中で、篝火かがりびかこんだ四人よにん男女だんじょ思惑おもわくが、錯綜さくそうして文目模様あやめもようえがいていた。西から吹く風にあおられて、さかたきぎがゴロリと音を立てて篝火かがりびの中でくずれた。


 二、きよ


 さか篝火かがりびたきぎがゴトリと音を立ててくずれた。きよたかぶった神経は些細ささいな音にも敏感に反応し、色褪いろあせた着物の下に隠された華奢きゃしゃな肩をピクリとふるわせた。

 ねばりつく暗闇くらやみ海上かいじょうにあっても、かれ女の小さな頭蓋ずがいの内では万華鏡まんげきょうのような極彩色ごくさいしょくの光が火花ひばならし、これからおこなわれるだろう肉の交合こうごう甘美かんび期待きたいいだかないではいられなかった。

「あんた、それでいいのかね」

 名前も知らない男にけられた一言ひとことによって、きよ沈殿ちんでんしていた感情の全てが息を吹き返した。本来ほんらいきよ意志いしを問うはずの捨丸すてまるの言葉は、不思議な力を持ってかれ女の脳髄のうずいてんからつらぬいたようだった。

「あんたは俺にかれるのだ」

 捨丸すてまるの力強い声風こわぶりは、言外げんがいにそう宣言せんげんしているかのように感じられた。それまで、夫である侘助わびすけの女よりも青白あおじろはだしか知らなかったきよにとって、海の男の荒々あらあらしいまでの褐色かっしょくはだ奇妙きみょうなほどなまめかしい質感しつかんともなったものに見えて仕方しかたがなかった。

 ――この男はどのように私の乳房ちぶさ愛撫あいぶするのだろう――

 ともつなにぎりしめた捨丸すてまるふしくれだった手を見て、そのような疑問が、ふと脳裏のうりよぎった。やがて、自分がはじつつしみもなく大胆だいたんな想像をめぐらせていることに気が付いたきよは、われかえるととも妄念もうねんはらうために思わず顔をげた。

 太陽たいようゆるされた者がびる薄茶色うすちゃいろひとみがそこにあった。それは、夫の侘助わびすけにはない蠱惑こわくまなこだった。きよの肉体を血がめぐり、脳髄のうずい薄紅うすくれないきりかがやおおった。

 ――なんて、綺麗きれいひとみだろう――

 きよ火照ほてった肉体を船端ふなばた幾分いくぶんましながら思う。そこには自分が夫に売られた身であるという感傷かんしょう一切いっさいなかった。ただ、未知みち美術びじゅつを前にしてかしずく者がいだく、あつあこがれとでもいったような情念じょうねんだけが残されていた。

「ちょっと失礼します」

 先刻せんこくから帆柱ほばしらかるようにして座っていた夫が、かじりをしていた捨丸すてまるに頭を下げながら、船端ふなばたまでいざりってきた。きよ侘助わびすけ心中しんちゅう見透みすかされたのかと、内心ないしんひそかにゾッとしたが、なんというわけでもなく、かれ船端ふなばたから身を乗り出すようにして、海面うなも反吐へどをぶちまけただけであった。

「お客さんが魚にをしていやがる」

 水押みよしあたりで黙々もくもくと仕事をしていた小男こおとこ徳次郎とくじろうが、侘助わびすけなさけない姿すがたゆびさして、ゲタゲタとひんのない笑い声をげた。その時、きよ咄嗟とっさ捨丸すてまる顔色かおいろうかがわずにはいられなかった。このだらしのない男の妻である事実をきよじたのである。さいわいなことに、捨丸すてまる一心いっしん暗闇くらやみざされた海原うなばら見詰みつめたままであった。

 ――私はなんてあさはかな男によめいでしまったのだろう。この男のいであることがずかしい。だいたい、侘助わびすけやつ借金しゃっきんなんてしなければ、夜逃よにげなんてせずにんだのに。なんてやくたない男なのだろう――

 このばんになって、きよは初めて自分の夫を侮蔑ぶべつした。侘助わびすけは妻のきびしくほそめられた眼差まなざしに気が付く様子ようすもない。ただ、ゆびさし笑う小男こおとこ愛想あいそうわらいをしながら、油気あぶらけのないゴワゴワとした頭をいているだけである。

 ゲタゲタというけたたましい嘲笑ちょうしょうを聞いているうちに、きよ脳髄のうずい徐々じょじょしびれて感覚を失い、平衡へいこうたもつことすら難しくなってきてしまった。

「アッ」

 きよの小さな身体からだが真っ黒な海洋かいように引っ張られるようにしてかたむいた。きよ異変いへんをいち早くさっしたのは、かじっている捨丸すてまるだった。捨丸すてまるは猫のようなかろやかな身のこなしで艫矢倉ともやぐらから退くと、黒々くろぐろ波打なみう海面うなもちようとするきようでをしっかりとつかんだ。

「魚にをしているひまがあったら、しっかりとよめ面倒めんどうを見ていろ」

 捨丸すてまる侘助わびすけきびしい声音こわね叱咤しったした。きよあましていた肉体に熱い血が通うのを感じた。きよ捨丸すてまるたくましい両腕りょううでかれながら、もはや、この肉体の保有権ほゆうけん侘助わびすけの手を離れ、捨丸すてまるのもとに移っていることに気が付いた。

 きよはうっとりと上気じょうきした目尻まなじり捨丸すてまる見詰みつめることに遠慮えんりょを感じなかった。ただ、腹の底が熱くてしようがなかったのである。きよはいつまでも捨丸すてまる身体からだから離れようとはしなかった。捨丸すてまるきよの肉体を手放てばなそうとはしなかった。歯を剝き出して侘助わびすけ威嚇いかくするさまは、いささ滑稽こっけいではあったものの、その場にいた誰しもが口をはさむことはできなかった。

目眩めまいがするもので、どこか横になれる場所はございませんでしょうか」

 それはあまりに露骨ろこつさそ文句もんくであった。きよは明らかに捨丸すてまるねやさそっていた。それをさっしない者はこの場にだれ一人ひとりとしていなかった。だが、侘助わびすけ徳次郎とくじろうもそれを制止せいしするほどの力を持っていなかった。

徳次郎とくじろう。俺は奥方おくがた介抱かいほうをするから、そのあいだかじりはまかせたぞ。海もいでいるようだし、それくらいの仕事はできるだろう。何かあったら俺を呼べ。じきに行くから」

 捨丸すてまるは最後に二人をキッとにらみつけると、いまだに足元があやういきよかかえるようにして、まれている船棚ふねだなへと消えていった。徳次郎とくじろうの「ヘイ」という威勢いせいのいい返事が暗闇くらやみざされた大海原わたのはらむなしくひびいた。

 小さな弁才船べんさいせんに取り残された二人の男は、これから船棚ふねだなで起こるだろう男女の交合こうごうについて、想像をめぐらせずにはいられなかった。侘助わびすけ青白あおじろひたいいってきの汗が伝うのを、万事ばんじにおいて目敏めざと水夫すいふ見逃みのがすことはなかった。徳次郎とくじろうなか挑発ちょうはつするように侘助わびすけに言った。

なさけねえ男だな。旦那だんなは、お前さんのよめ手籠てごめにするつもりだぜ。それなのにだんまりをつらぬとおすつもりかい」

 小男こおとこ挑発ちょうはつを受けても、侘助わびすけ悄然しょうぜんと肩を落としながら、その場に立っていることしかできなかった。徳次郎とくじろうのチッという小さな舌打したうちが空虚くうきょやみを切り裂くように鳴った。篝火かがりびあらたなたきぎしながら徳次郎とくじろうは思う。

 ――堕落だらくしていやがる。何もかもがちがった、気持ちの悪い夜だ。付き合いきれねえよ。どいつもこいつもも頭がどうにかしちまったかのようだ――

 パチパチとさか篝火かがりびらされた二人の男の顔には陰鬱いんうつかげが落ちている。やるせない雰囲気が二人のあいだおおかぶさっていた。二人の男はぼんやりと篝火かがりびともしび見詰みつめ、篝火かがりびの方も二人を忘我ぼうがいざなう火炎をらめかせているばかりだった。

 ――こんなことは間違まちがっている――

 小さな弁才船べんさいせんに乗り合わせた誰しもが、一度ひとたびはそう考えていたが、もはや、あやまちを是正ぜせいするほどの気力を持つ者がいないことも、また、みとめざるをない事実でもあった。煩悩ぼんのうせた船は坂道をくだる車のような勢いで進んで行く。やがて、壁にぶつかるまで、その勢いは落ちる気配けはいもない。くろねばつく波にられながら弁才船べんさいせんは夜の海を進んで行った。


 三、徳次郎とくじろう


「あんた、ずかしくはないのかい。旦那だんな間男まおとこをしてよめ寝取ねとるつもりだぜ。それに、あの女の方もまんざらでもないみたいじゃないか。まったく、どいつもこいつもあさましくて見てられやしないね」

 徳次郎とくじろう侮蔑ぶべつの念を込めた眼差まなざしで侘助わびすけを見ながら、つばきを吐き捨てるように言い放った。圧倒的なまでの嫌悪けんお情念じょうねんが腹の底から無限むげんいてくるようだった。徳次郎とくじろうのような無学むがくな男でも、『自尊心じそんしん』の所在しょざいわずにいられないまでに、侘助わびすけの姿は熱意ねついけるものだった。

なにがあったかは知らねえが、あんたたちは本当に夫婦めおとなのかい。馬鹿ばかには分からない事情じじょうというヤツがあるのかもしれねえが、みんなしておいらを腹の底であざけっているようにしか思えないねえ。あんた、俺を馬鹿だとタカをくくっているのかい。だとしたら、本当に嫌味いやみな連中だよ」

 安芸あき大畠おおばたけ夫妻めおと船頭せんどうあいだわされた密約みつやくの事を徳次郎とくじろうは知らない。侘助わびすけ青白あおじろひたいいを見るかぎりでは、かれ馬鹿ばかと決めつけるには早計そうけいのように思えてならなかった。それどころか、長年ながねんけてしいたげられてきた者が身につける鋭敏えいびん直感ちょっかんは、この客人きゃくじんから確かな知恵ちえかおりのようなものをみとめてすらいた。

 初めこそ、徳次郎とくじろう侘助わびすけ意図的いとてき弛緩しかんさせているとしか思えない表情ひょうじょうを前にして困惑こんわくしたが、その態度たいどがあからさまであればあるほど、徐々じょじょに不思議な嫌気いやけしてくるのも事実だった。侘助わびすけなさけない姿に鼻持はなもちならない傲慢ごうまんかげよぎるのを、徳次郎とくじろうは決して見逃みのがしはしなかったのである。

 徳次郎とくじろう自虐じぎゃくの裏に隠された『尊大そんだい意志いし』に嫌悪けんおを覚えたと言ってもいい。しかし、かれはそれを理路整然りろせいぜんろんずるだけの力を持ち合わせていなかった。ただ、曖昧模糊あいまいもことした不快感ふかいかんだけが胸中きょうちゅうに取り残されていた。『自尊心じそんしん』のかげを目で追いながらも、それをつかとらえるまでにはいたらなかったのである。せいぜい、「ずかしくはないのか」とうたぐるまでがかれにとってのせきやまだった。

「はい、おっしゃとおりでございます」

 侘助わびすけ返答へんとう暖簾のれん腕押うでおしという具合ぐあい気力きりょくがない。その様子ようすはまるで死人のようですらあった。くさりゆく肉体に宿やどる、『ごうがん不遜ふそん静寂せいじゃく』とでもいったような余裕よゆうが、うす皮膜ひまくとなってかれ青白あおじろはだを、ピッタリと隙間すきまなくおおっているふうだった。

「チェッ、らねえな。どいつもこいつもらねえよ。旦那だんな指図さしずするばかりでいろふけっていやがる。女もさかりのついた猫のように尻を振る勢いだ。あんたは指をくわえてしらるつもりでいやがる。まともなのはおいらだけってことかい。チェッ、どいつもこいつもらねえな。」

 徳次郎とくじろう舌打いたうちをすると舳先へさきせきから立ち上がり、かじを取るために艫矢倉ともやぐらにヒョイとのぼった。黒い海がユラリユラリと小船こふねをゆするたびに、肉と肉が重なり合って汗を流す男女の姿が思い浮かび、かれ脳髄のうずい桃色ももいろにかすませる。徳次郎とくじろう悶々もんもんとした暗い欲望よくぼうが、段々だんだんと頭をもたげてくるのを感じていた。

 ――この男のはなぱしらってやりたい。自分のよめ旦那だんなかれている姿を見せつけてやれば、嫌でも余裕よゆうはなくなるに違いない。いてすがって、「してくれ」とおいらに懇願こんがんするに決まっている。いつまで、平静へいせいたもつづけられるか見物みものだな――

 徳次郎とくじろう頭蓋ずがいの中で嗜虐的しぎゃくてき妄念もうねん花開はなひらきつつあった。かれかじぼうあやつりながらしばらく考えていたが、やがて好奇心こうきしんに負けてしまったのだろう。艫矢倉ともやぐらからしずかにりると捨丸すてまるきよが消えていった船棚ふねだなの方に足音あしおとしのばせてくだっていった。

 ――旦那だんなばかりがいい思いをしているのは不公平ふこうへいというものだ。おいらだってちょっとばかり良い思いをしてもばちたらないだろう。旦那だんなの腕にかれながら女は恍惚こうこつとしているに違いない。そのさまをありありと教えてやれば、あの男も後悔こうかいというものを知るだろう――

 徳次郎とくじろうは自身の欲望よくぼうにしき羽織はおりかざてながら、船棚ふねだなへと向かうきざはししずかにりていった。その様子ようす船体せんたいむしばむ小さなねずみ彷彿ほうふつとさせるものだったが、かれがそれに気が付くことはないだろう。嗜虐的しぎゃくてきともいえる旺盛おうせい性欲せいよくかれを動かす源泉げんせんであった。徳次郎とくじろうは今まさにおこなおうとしている下品げひんきわまりないのぞが、高潔こうけつ正義せいぎであるとすら思っているふしすらあった。

 ――あのなさけない男が泣いてあやまる姿を思うと、身体からだの芯がブルブルとふるえるようだ。みんなしておいらを馬鹿にしているに違いないのだ。おいらを見くびったことを、あの夫婦めおと後悔こうかいさせてやる。まぎれもない事実をよこつらたたきつけて正気しょうきもどしてやる――

 徳次郎とくじろうは自身の際限さいげんのない欲望よくぼう好奇心こうきしんが、小さな弁才船べんさいせん破滅はめつさせる大きなうずみちびきつつあることを知らない。いつの間にか、かじ進路しんろを東へと変えて、大畠おおばたけ瀬戸せと渦潮うずしおと呼ばれる一帯いったいろうとしていた。欲望よくぼうんだ商船しょうせん刻一刻こくいっこくと危険な海域かいいきへと進んでいく。


『ドォーン、ドォーン、ドォーン』


 突如とつじょとしてしずかに波打なみう瀬戸せとの海にすべての崩壊ほうかいげるかのような大きなつづみひびいた。弁才船べんさいせんおそおうとしている異変いへんに気が付いたのは、皮肉ひにくなことにみなからさげすまれている侘助わびすけ一人ひとりだけだった。

 侘助わびすけ空虚くうきょな海に鳴り響く得体えたいれない太鼓たいこおびえたが、いまだに船上せんじょうへとがってこない様子ようす三人さんにんの男女のことを思うと、異変いへんしらせるべきかどうかなやまざるをなかった。侘助わびすけの心をむしば卑屈ひくつな感情が生命いのち危機ききかんする直感ちょっかんをもそこなわせていた。少なからず、侘助わびすけ自暴自棄じぼうじきになっていた。


『ドォーン、ドォーン、ドォーン』


 侘助わびすけすべての苦悩くのうからのがれるために、背中せなかを丸めて小さくなるほかにしようがなかった。もう、誰かに指を差されてののしられたくはなかった。侘助わびすけはいつまでも続くつづみから自身を守ろうとしてりょうてのひらで強く耳をふさいだ。


『ドォーン、ドォーン、ドォーン』


 侘助わびすけ華奢きゃしゃ身体からだめぐる血液がつづみ呼応こおうするようにふるえていた。内からひびいてくるおもおとは、かれののしあざける者たちの声によく似ていた。侘助わびすけ青白あおじろひたいをさらにあおくして、ひたすらに正体しょうたいの分からない太鼓たいこえた。運命の音は刻一刻こくいっこくとその力強さを増していき、弁才船べんさいせん破滅はめつへといざないつつある。そのことを、まだ誰も知らない。


 四、侘助わびすけ


 闇夜やみよに包まれた瀬戸せとの海に鳴り響く太鼓たいこ刻一刻こくいっこくと力強さを増していった。三人さんにんの男女が弁才船べんさいせんおそいつつある異変いへんに気が付いたのは、それから半刻はんこくほどぎた夜半よはんのことであった。そのかん侘助わびすけ船端ふなばた嬰児みどりこのように身体からだを小さくして、得体えたいの知れないつづみ恐怖きょうふするばかりだった。

「こんな夜更よふけに船を出すような連中はろくでもないやからに決まっている。やつらが海賊かいぞくだったら面倒めんどうなことになる。徳次郎とくじろう、お前は今までなにをしていたんだ、この役立やくたたず」

 捨丸すてまる徳次郎とくじろう罵倒ばとうすると、かれの油の浮いたほおを音がなるほど強くたたいた。背中せなかを丸めていた侘助わびすけ華奢きゃしゃ身体からだがビクリとねた。侘助わびすけ徳次郎とくじろうが妻の不貞ふていあばこうとしていることをさっしていた。それを知っておきながら、かれ独断専行どくだんせんこうゆるしてめなかった。二人の間には奇妙きみょう紐帯ちゅうたいむすばれていた。

「私がいち早くしらせるべきでした。徳次郎とくじろうさんをめないでやってください」

 侘助わびすけは声をふるわせながらも、居丈高いたけだかかたいからせている捨丸すてまるびた。徳次郎とくじろうのみではなく自身のほおをもたれたような気がしたからである。かれ繊細せんさい微妙びみょう精神せいしん怒号どごうえられるはずもない。侘助わびすけ自分じぶん怒鳴どなられる以上に他人たにん罵倒ばとうされることが苦痛くつう仕方しかたがないたぐいの男だった。自身のおこないの中に罪を見出みいださずにはいられない性分しょうぶんの人だった。

「海を知らない客人きゃくじん余計よけい口出くちだしをするんじゃない」

 捨丸すてまるうなるように言うと、しなやかな身のこなしで艫矢倉ともやぐらに飛び乗った。侘助わびすけ無骨ぶこつな海の男に完膚かんぷなきまでにたたきのめされてしまっていた。

 しかし、かれはそれをくやしいとは思わなかった。妻を船賃ふなちんわりに差し出したという事実をかれかれなりに真摯しんしめていた。それはまぎれもない罪であり、咎人とがびとばつくだされるのは当然とうぜんむくいだった。

 ただ、侘助わびすけは身にろされるついの痛みに泣き叫ぶほどの感情をうしなっていた。それほどまでにかれは生きることにつかれていたのである。自分の領域りょういきあららされないかぎり、かれはどのような事に関しても平然へいぜんとしていられた。侘助わびすけ生命せいめい維持いじするために、あらゆる感情をみずかくびころしていた。

薄気味悪うすきみわるいねえ。早くおかがってしまいましょうよ」

 悄然しょうぜんかたを落とす徳次郎とくじろうとなりで、きよあまえたような声をげた。その声風こわぶりからは船頭せんどうである捨丸すてまるへの遠慮えんりょ微塵みじんも感じられなかった。早くもきよ捨丸すてまるの妻になったかのような話し方をしていたのである。

「あんた、ずかしくはないのかい」

 艫矢倉ともやぐらがった船頭せんどうぬすみ、徳次郎とくじろうは声をひそめてたずねたが、侘助わびすけの表情は意外にもおだやかなものだった。徳次郎とくじろう侘助わびすけ満足気まんぞくげとも見られるなぞめいた微笑みしょうを前にして、思わず戸惑とまどわないわけにはいられなかった。徳次郎とくじろうには理解りかいできない世界せかいの中で侘助わびすけたしかに生きているようだった。

きよが幸せならばずかしくはありません」

 侘助わびすけ先程さきほどから納得なっとくできずに渋面じゅうめんしている小さな男にしずかにげた。徳次郎とくじろう耳打みみうちされた声につめたいものを感じ取り、風雨ふううさらされてきたえられた肉体にくたいをブルリとふるわせると、理解りかい範疇はんちゅう逸脱いつだつしている侘助わびすけからのがれるように、船頭せんどうに命じられた仕事にもどっていった。

「おい、徳次郎とくじろう。こんなことになったのはすべてお前のせいだぞ。バカヤロー」

 先程さきほどから黙々もくもく舵棒かじぼうを手に取っていた捨丸すてまる突如とつじょとして雄叫おたけびをげた。小さな弁才船べんさいせんはいつのにか航路こうろはずれ、大畠おおばたけ瀬戸せと渦潮うずしおと呼ばれる一帯いったいまれつつあるあることを、船頭せんどうは声をあらげながらしらせた。

 うつろな夜空よぞらひび太鼓たいこはなおも強さを増していく。まるで、よくまみれた

弁才船べんさいせんを地獄にいざなうかのように大きくとどろつづみ一同いちどう背筋せすじこおらせた。

「もしかしたら、俺たちのほかにも渦潮うずしおまれそうになっている船があるのかもしれない」

 捨丸すてまるひたいたまあせを浮かべながら苦し気につぶやいた。あまりの恐怖きょうふから艫矢倉ともやぐらすがりついていたきよがそれをのがさなかった。きよはカっと見開みひらくと、捨丸すてまるにらみつけて、くるったように泣き叫び始めた。

「さっきの約束やくそくたがえるつもりじゃないだろうね。おかがったら一緒いっしょになろうと言ったことを忘れてやしないだろうね。馬鹿ばかなことを考えちゃいけないよ。早くおかれてってくれ。それだけを考えていればいいんだよ」

 侘助わびすけみにくく泣きくずれる妻の姿を見ていられなかった。自分の手をのがれた小鳥は羽ばたき、空にかえるその瞬間しゅんかんまで美しくあるべきである。わずかに残された人間にんげんらしい直感ちょっかんが、侘助わびすけ羞恥しゅうちという情念じょうねんを思い出させていた。徳次郎とくじろうけがかれ混乱こんらんした脳内のうないひびいていた。侘助わびすけ必死ひっしに波にあらがおうとしている船頭せんどうもとると言葉ことばまりながらもうったえた。

「妻をおかれてってやってください。妻と一緒いっしょになってやってください。ほかのことなど考えてはいけません。太鼓たいこなど聞いてはいけません。私たちのほかに船は出ていないのです。今夜こんや、私たちは太鼓たいこなど聞いてはいないのです。助けをもとめる者たちなどいなかったのです」

 侘助わびすけ宣言せんげんが黒く波打なみう大海原わたのはらひびいた。それにけまいと、太鼓たいこうつろな夜空よぞらに大きくとどろいている。危機きき目前もくぜんせまりつつあるという事実は誰の目から見てもあきらかだった。太鼓たいこ先程さきほどから決断けつだんもとめるかのように調子ちょうしを早め始めていた。

 ――もし、あの太鼓たいこたすけをもとめる船のものだったとしたら――

 みな脳裏のうりよぎ懸念けねんは同じだったが、意思いしの方向はかならずしも一致いっちしていたわけではない。

 侘助わびすけ宣言せんげんはそういった各々おのおの深慮しんりょあやめてでもたばねようとする気概きがいがあった。

 借金しゃっきんって生まれ故郷こきょうり、妻を差し出してまでして海原うなばらえようとした者の決断けつだん最後さいごには可決かけつされた。

 ――太鼓たいこは聞こえなかった。今夜こんや、船を出した者は自分たちのほかにいなかったのだ――

 捨丸すてまる徳次郎とくじろう浅黒あさぐろはだたきのような汗を流して、黒くねばつく波頭なみがしらさからい、大畠おおばたけ瀬戸せとからはなれることに専念せんねんした。うつろな太鼓たいこは、怨嗟えんさの声となってかれらの耳を強く打った。二人ふたりの男は念仏ねんぶつとなえながら、ひたすらに身体からだはたらかせたことは言うまでもない。

 夜が白々しらじらけるころになって、罪深つみぶか弁才船べんさいせん大畠おばばたけ瀬戸せと潮流ちょうりゅうからけることに成功せいこうした。夜通よどおし、身悶みもだえして泣き叫び続けていた、かつての妻であるきよ寝顔ねがお見詰みつめながら侘助わびすけは思う。

 ――人とはなんとワガママな生き物なのだろう。自分は妻がみにくく泣き叫ぶ姿をたりにしてはじを感じた。妻が無様ぶざま醜態しゅうたいさら姿すがたを見ていられなかった。この傲慢ごうまんを前にして慈愛じあいくことができようか。自分は最後さいごまで利己りこつらぬとおしたのだ。だが、おそるべき利己りこの力が人間にんげんを生かしている――

 うつろにひび太鼓たいこはいつまでも侘助わびすけの心をなやませるだろう。一隻いっせきの小さな弁才船べんさいせん利己りこの力でかろうじて大海原わたのはらに浮かんでいるにぎなかった。よどんだ夜天やてんもととどろいた太鼓たいこあるじは黒くねばつく波間なみままれて消えた。瀬戸せとあけぼのしずかにいで、かれらのすえなにかたろうとしない。

                                           (了)

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