飛縁魔
いとおそろしきものにて、
つゐにはとり
『絵本百物語・桃山人夜話』/巻第壱・第二より抜萃
一、哄笑
彼女の黄色い笑い声が気に入らなかった。苦悩や
「君、あの
男達が彼女の魔法に屈して
ふた月ほど前に、僕は親と職を
僕が
僕があばら屋で眠れぬ夜を過ごしている間、彼女は親にあてがわれた高級マンションの一室で安らかな寝息を立てている。やがて、日が昇れば、絶望の底で
彼女の黄色い笑い声が気に入らなかった。人生は素晴らしい、と彼女が語る度に、僕は
彼女が
――彼女を失えば僕は生きる意味を見失ってしまうに違いない。その時が訪れないことを天に祈るばかりだ――
いつ明けるとも知れない夜を
二、不潔
窓から漏れる銀色の月明りがセミダブルのベッドを照らしている。白を基調としたシーツは汗と血に濡れて
僕は血で濡れそぼった指先で、彼女の見開かれた
「わたしは幸福について真剣になって考えてみたの。あなたには分からないでしょうけど、それってとても大切なことなのよ。そして、自分にとって最善の方法を選んだだけ」
彼女が自身の幸福について考えて、それを追い求めるために手段を選ばないというのならば、僕だけが暗い
「君が僕に黙って一人で幸福を
僕は
水道の蛇口をひねろうとしたときに、二本の歯ブラシが立てられたコップがあるのが目に入った。一本は彼女の物で、もう一本は知らない人間の物だった。僕は彼女に歯ブラシの持ち主について
彼女は自分の放った言葉に
僕は
僕は彼女のために
あらゆる事柄が、取り戻しのつかないところまで追いやられてしまっているのだ、と告げていた。
僕はシンクの中から
それは何かしら非常に
キッチンの引き出しを
僕は
僕は返り血に濡れたシャツの上に、カーキ色のモッズコートを
「外には、ただ、
僕はあまりにも有名な小説――
三、清廉
足を
時計を確認するまでもなく、ほとんど
「
「人間はこれほどまでに
髪に
「充分な休眠が取れたおかげで
世間に
「これが最後の
死について考えを巡らせるのは、空腹を満たしてからでも遅くはないだろう。早ければ、警察が僕のことを探し回っている
僕は机の上に投げ出されていた金と通帳を乱暴にモッズコートのポケットに突っ込むと、肩で風を切りながら、
未来は暗かったが
四、妖婦
僕は心地の良いジャズ・ミュージックが流れるバーに、ふらふらと
何杯目かも分からない酒を
「さあ、一緒に飲みましょうよ。あたし、あなたに興味が湧いてきちゃったみたい。ねえ、何か話してちょうだい」
女性がカウンター・テーブルに身を乗り出すと、上品な香りが辺りを包み込んだ。
「何も話すことなんてないさ」
話したいことは山ほどあったが嘘をついた。
「そんなこと言わないで、あなたのお話を聴かせてちょうだい」
「実は昨日の晩に恋人を殺したばかりなんだ」
自分でも思いがけない言葉が口から
「あら、素敵だわ。危ない大人というわけね。あなたの恋人ってどんな方だったの。教えてちょうだい」
「そうだな。彼女は――」
僕は酒に酔った脳髄を働かせて必死に思い出そうと
「ねえ、あたしが思い出させてあげるわ。さあ、一緒に行きましょう」
女は
扉を開けると、
五、火炎
僕達は暗闇の中で、互いの肉体を
激しい肉体の
「相性がいいのかな。初めて
僕は暗がりに浮かぶ顔の
「ありがとう。あなたって見かけによらず情熱的なのね。びっくりしちゃったわ」
酒場を出た後、僕は彼女に導かれるようにして、街角のラブ・ホテルへと誘われた。彼女は歳上の姉さんらしく、
「これで心置きなくこの世と別れることができそうだ」
僕が
「どうかしら、あなたが殺したという恋人のことを、少しでも思い出すことはできたかしら」
それが奇妙な質問だったことは僕にでも分かった。彼女は僕の
「その話は止めにしよう。今は君との時間を大切にしたい気分なんだ」
当たり
「ダメよ。それを思い出させるために一緒にいるんだから。さあ、彼女はどんな人だったの」
暗がりの中で、彼女の大きな瞳が、
――
しばらくの間、無言の時間が流れた。僕は彼女に
「僕は彼女のことを何も知らないのかもしれない。何も知らない人間の命を奪ってしまったのかもしれない」
「ねえ、あなたが殺した恋人の顔って、こんな感じだったのではないかしら」
彼女は
正確には、
「思い出したかしら」
女はそう言うと、カンラカンラ、と声を上げて笑い始めた。恐怖心から僕は女を突き放した。そして、急いで服を着ると、部屋から
ありえないことが起こっていた。僕は恋人の亡霊と寝たのだ。酒場で出会った時は、確かに、違う顔をしていたはずだ。見たこともない女だったはずだ。僕は
六、蘇生
息が切れるまで夜の街を駆け抜けた。空が
――あれは一時的な気の
今後のことについて、ゆっくりと腰を下ろして考えなければならない、と思った。それに先ほどから腹の底が頼りない感覚もする。空腹ではないが、何か胃に入れなければならない。僕はファミリー・レストランの案内看板を見つけると、フラフラとした疲労した足取りで、安全な場所に向かって行った。
扉を開けると生ぬるいような風が
客は僕一人であることをウェイトレスに告げると、
――そうだ、あれは気の迷いに違いない。僕は確かに
僕が腕を組んで考え込んでいると、先ほどのウェイトレスが
辺りを見渡すと客の数はまばらであり、周囲には僕の他に席に着いている者はいない。それにも関わらず、ウェイトレスは真っ直ぐにこちらにやって来ている。彼女の
「アッ」
背筋を冷たい刃物で
「驚いたかしら」
「ありえない。僕は君を殺したはずだ」
「あたしは死なないわ。あなたがあたしを忘れようとするたびに、何度だって
僕は
「ああ、聞こえるかしら。あのサイレンの音が。あなたが歩いてきた方角に向かっているみたいね」
嫌な予感がして席から立ち上がると、窓の外を一台の消防車が駆け抜けて行くのが見えた。
「あなたが殺して
もはや、彼女が言っていることが意味するところが
「あたしの可愛いお
全身の力が抜けて倒れるように席に腰を下ろした。僕は確かに
「あなたはあたしを殺した後に、自殺しようとしたみたいだけれど、そんなに簡単に終わっちゃ、つまらないと思わないかしら。あなたが包丁を突き立てた時、あたしは確かな幸福を感じたわ。あなたから
この女は僕が死ぬことを決して許さないだろう、という気がした。僕に殺され、僕を悩ませ、僕が
消防車のけたたましいサイレンの音と、
僕はそれらから
薄れゆく意識の中にあってもサイレンと
(了)
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