飛縁魔

 かほかたちうつくしけれども

 いとおそろしきものにて、

 な〱いでおとこ清血せいけつすひ

 つゐにはとりころすとなむ。


『絵本百物語・桃山人夜話』/巻第壱・第二より抜萃


 一、哄笑


 彼女の黄色い笑い声が気に入らなかった。苦悩や葛藤かっとうを知らない無邪気な哄笑こうしょう脳天のうてん穿うがつたびに、僕は人知れず頭蓋ずがいの内側を腐らせていく。そういう風に折れて曲がった応酬おうしゅうを繰り返すことがたまらなく嫌で仕方しかたがなかった。    

「君、あの榛原はるはら尚子しょうこと交際をしているらしいじゃないか。全く、うらやましいかぎりだよ」

 榛原はるはら尚子しょうこを知っている学生時代の友人達は口をそろえてそう言った。実際、彼女の美貌は確かなものであり、端正な中にも胸に迫るようなつややかな魅力を秘めていた。学生連中の好色こうしょくまみれた贔屓目ひいきめを抜きにしても彼女は充分に美しかったし、その魔力はいまだに色褪いろあせることを知らない。

 まったくのところ、僕のようなうだつの上がらない男には分不相応ぶんふそうおうなことこの上ないまでに、彼女は瑞々みずみずしい美しさをほしいままに誇っていた。彼女は自身の容姿が他人よりもひいでているということを充分に理解しているようだった。天衣無縫てんいむほう溌溂はつらつさの裏にひとにぎりのしたたかさを隠していることを僕は知っている。

 男達が彼女の魔法に屈してこうべれるたびに、彼女はちょっとだけ舌を出して、悪戯いたずら露見ろけんしてしまったバツの悪さを誤魔化ごまかすかのように、こっそりと僕に微笑みかけるのだった。

 榛原はるはら尚子しょうこの美貌にスポット・ライトが注がれるたびに、僕は自身まで高級な人間になったような気分になり、身の程をわきまえずにれていたことを白状はくじょうする。しかし、今となっては微睡まどろむような酔いの心地良さは微塵みじんも感じられなくなっていた。得体えたいの知れない将来への不安が僕の背中をジリジリと焼いているからだ。

 ふた月ほど前に、僕は親と職を一遍いっぺんに失っていた。それまで高等学校の非常勤講師として口をのりするだけの給金を稼いで暮らしていたが、新年度を迎えても一向いっこうに教育委員会から仕事の依頼がくる気配がない。

 悶々もんもんとしながら梅雨つゆを過ごしている間に、かねてから体調の不良を訴え続けていた母親が、脳溢血のういっけつで倒れたというしらせが届いた。帰省きせいするために金をかき集めて、やっとのことで故郷こきょうの地を踏むべく旅支度たびじたくをし始めた矢先やさきに、母親がったことを聞かされた。

 とこせる母親のもとへ駆けつけてやれなかったことは無念むねんだったが、不思議と涙は流れなかった。ただ、焼け野原の真ん中に取り残されたような、ばくとした不安だけが心の大部分をめていた。僕は完全に人生における指針を見失っていたのである。いずれかの方角に歩んで行けばよいのか皆目見当かいもくけんとうもつかなければ、歩を進める気力さえ湧いてこない。見渡す限り、延々と続いている焦土しょうどを前にして、僕は呆然自失ぼうぜんじしつしながら立っていることしかできなかった。

 僕が貧窮ひんきゅうあえいでいることを榛原はるはら尚子しょうこはまだ知らない。とどこおった家賃を支払うためにわずかに残された財産を切り崩しては、安アパートの一室でもんどり打ちながら頭を抱える苦痛を彼女は知らない。

 僕があばら屋で眠れぬ夜を過ごしている間、彼女は親にあてがわれた高級マンションの一室で安らかな寝息を立てている。やがて、日が昇れば、絶望の底で辛酸しんさんめるような長い一日が始まる。今ごろ、彼女は希望に満ちた明るく短い一日が始まることに胸を膨らませているのだろう。

 彼女の黄色い笑い声が気に入らなかった。人生は素晴らしい、と彼女が語る度に、僕は暗鬱あんうつとした感情の海に深く沈んでいく。水底みなそこに横たわる泥流地帯でいりゅうちたいに足を取られて容易よういには浮上ふじょうすることができない。太陽はもがき苦しむ僕の手を逃れて遠いところで輝いている。

 彼女が嬉々ききとして哄笑こうしょうするようなとき、僕は曖昧な微笑と沈黙で応えながらひそかにおびえている。榛原はるはら尚子しょうこを失えば、僕はいよいよ、天涯孤独てんがいこどくの身となってしまう。容赦ようしゃなく降り注ぐ陽の暑さにあえぎ苦しんではいたが、それでも彼女は歩むべき道を示してくれる天上の光であることに違いはない。僕は榛原はるはら尚子しょうこという女性の持つ魔力にしっかりととらわれていたと言っていい。僕を此岸しがん彼岸ひがん狭間はざまで踏みとどまらせている力の源泉げんせんは、彼女の魔力に他ならなかった。

 ――彼女を失えば僕は生きる意味を見失ってしまうに違いない。その時が訪れないことを天に祈るばかりだ――

 いつ明けるとも知れない夜を輾転反側てんてんはんそくしながら過ごす。神経は摩耗まもうしてれそうなほどか細く弱っているのに、一向いっこうに眠りに落ちる様子がない。耳の奥では、カンラカンラ、という彼女の笑い声がいつまでも鳴り響いていた。




 二、不潔


 窓から漏れる銀色の月明りがセミダブルのベッドを照らしている。白を基調としたシーツは汗と血に濡れて緋色ひいろのだんだら模様もようを描いていた。榛原はるはら尚子しょうこは血染めの敷妙しけたえに横たわり、光を失った大きな瞳を見開いて、ほうけたように虚空こくう見詰みつめている。

 僕は血で濡れそぼった指先で、彼女の見開かれた双眸そうぼうに触れて、まぶたを下ろしてやった。それは儀礼的な死者への手向たむけというより、単純な違和いわから生じる薄気味の悪さを誤魔化ごまかすための防衛的な処置だった。彼女の瞳が隠れると、僕はようやく、一息をつく余裕を取り戻した。

「わたしは幸福について真剣になって考えてみたの。あなたには分からないでしょうけど、それってとても大切なことなのよ。そして、自分にとって最善の方法を選んだだけ」

 榛原はるはら尚子しょうこは十五分前まで、意気軒昂いきけんこうに自分の選択した手段について、滔々とうとうと述べていたが、その全てが詭弁きべんであることは明らかだった。あるいは彼女が信じていた幸福とやらは真実だったのかもしれない。だが、それを追求するためにこうじた方策に、一握いちあく欺瞞ぎまんが隠されていることに、彼女自身が気づいていなかったらしい。だが、どのような経緯けいいがあろうとも、誰しもが自分の発言に責任を持つべきだ。

 彼女が自身の幸福について考えて、それを追い求めるために手段を選ばないというのならば、僕だけが暗い洞穴ほらあなのような場所で、えがたい苦悩にもだあえぎながら、彼岸ひがん此岸しがんの間で逡巡しゅんじゅんする必要はないはずだ。彼女のために、絶望のどん底で辛酸しんさんめるようなに会うことに、どれほどの意味と価値があるというのだろうか。

「君が僕に黙って一人で幸福をつかもうとするのならば、僕は全力でそれをはばもう。君を愛したという過去を嘘にしたくないからだ。僕は君のためならば何者にでもなるつもりだった。だけど、僕がすべきことが何なのか、ようやく理解できたような気がする。僕も自身の幸福を追求するために最善の方法をることにするよ」

 僕は榛原はるはら尚子しょうこ亡骸なきがらささやきかけると、ベッドサイドから立ち上がり、彼女の肉体から流れ出た血潮ちしおによって濡れた手を洗いに、そろりそろりと台所に向かった。シンクの中には一本の包丁が無造作むぞうさに投げ打たれている。鈍く光る刃は榛原はるはら尚子しょうこの血とあぶらで汚れていた。

 水道の蛇口をひねろうとしたときに、二本の歯ブラシが立てられたコップがあるのが目に入った。一本は彼女の物で、もう一本は知らない人間の物だった。僕は彼女に歯ブラシの持ち主について詰問きつもんし、そのまま激しい口論こうろんとなった。彼女は初めこそ素知そしらぬふりをしていたが、執拗しつように問い続けていくうちに、ポツリポツリと自分が不貞ふていを働いていたことを独白どくはくし始めたのだった。

 彼女は自分の放った言葉にれて、話せば話すほどふてぶてしく、不貞ふていを働いた理由を歪曲わいきょくさせ、ついには自身にとって都合つごうの良い結論を結んだ。

 僕は榛原はるはら尚子しょうこの自分勝手な持論じろんげた後、僕は彼女を殺す覚悟を決めた。無論、僕もすぐさま後を追って死ぬつもりだった。

 僕は彼女のためについやした、全てものを取り戻せないまでにしても、嘘にしてなかったことにするのだけは嫌だった。それは死ぬよりも辛いことであるような気がしてならなかった。

 あらゆる事柄が、取り戻しのつかないところまで追いやられてしまっているのだ、と告げていた。薄氷はくひょうの上を歩むような生活はついに瓦解がかいして、てつく水に身を沈める時がやってきていた。不思議と恐怖と不安はなかった。全てが当然の帰結きけつであるように思えた。

 僕はシンクの中から血糊ちのりに濡れた包丁を手に取ると、その刃が自分の肉体にズブズブと沈んでいく様を想像した。「不潔ふけつだ」と僕はうめきと共につぶやいた。

 それは何かしら非常にけがらわしい行為であるように思えてならなかったのである。彼女の体液にまみれた異物が身体に入ってくるということに、嫌悪の念が湧いてきたことに驚いた。

 キッチンの引き出しをあさってみたが、包丁の代わりになるような刃物のたぐいは見つからなかった。彼女はほとんど自炊じすいとは無縁の暮らしをしていたので当然である。だが、どうしても、この汚らしい包丁をみずからの肉に突き立てて死ぬ気にはなれなかった。

 僕は榛原はるはら尚子しょうこ亡骸なきがら一瞥いちべつすると、自分に相応ふさわしい死に場所を求めて、外界がいかいに出ることを決心した。ダラダラと生き長らえるつもりはないが、不快な思いをしながら死ぬのも嫌だった。それに彼女との間で繰り広げられた、いつ終わるとも知れない不毛ふもう問答もんどうに疲れてもいた。清潔な布団に包まれ、泥のような眠りにつきたい。死について考えるのはそのあとでもよいだろう。

 僕は返り血に濡れたシャツの上に、カーキ色のモッズコートをまとうと、ふらふらとした覚束おぼつかない足取りで彼女の亡骸なきがらを納めた豪奢ごうしゃなマンションを後にした。忘れていたはずの猛烈もうれつな眠気が僕を襲っていた。これほどまでの疲労に打ちのめされるのは久しぶりだった。泥沼どろぬまを歩むように足は重く、脳髄はしびれて朦朧もうろうとしている。


「外には、ただ、黒洞々こくとうとうたる夜があるばかりである。下人の行方ゆくえは、誰も知らない」


 僕はあまりにも有名な小説――芥川龍之介あくたがわりゅうのすけの『羅生門らしょうもん』に記された最後の一節をつぶやくと、下人のように夜の街へと飲み込まれに行くのだった。


 三、清廉


 足をもつれさせながらも自宅に辿たどくと、僕は着替えもせずにせんべい布団に横たわり、沈むような深い眠りへと落ちていった。

 榛原はるはら尚子しょうことの悶着もんちゃくにはひどく疲弊ひへいさせられたが、全てを終えた時に、大きな安堵あんどを感じたことも事実であった。夢を見るひまもないほどに、深く沈みこむような睡眠を、あますことなく享受きょうじゅしたのは久しぶりだった。

 水底みなそこから浮上ふじょうするような感覚を覚えながら、ゆっくりと目を開くと、陰気臭いんきくさ蛍光灯けいこうとうの明りが、ぼんやりと部屋の内を照らしていた。窓の外から見える空は暗闇に覆われ、偽物にせものじみた満月がよるとばりに穴を開けていた。

 時計を確認するまでもなく、ほとんど一昼夜いちちゅうやの間、気を失っていたらしい。シャツに染みついた返り血がにかわのように凝固ぎょうこしていることからも明らかだった。

けがらわしい」

 榛原はるはら尚子しょうこの体液にまみれて一日を過ごしたという事実が、信じられないほどいやらしく感じられた。道徳を踏みにじって大罪たいざいを犯した身であるからこそ、「誠実せいじつ」や「清廉せいれん」の価値と意義の重さが理解できるような気がした。罪の味を知ってしまったからこそ、少しでも潔白けっぱくでありたいと願っている自分がいた。

「人間はこれほどまでに傲慢ごうまんになれる生き物なのだろうか」

 髪に血糊ちのりが触れるのが嫌だったので、台所の引き出しからびの浮いたはさみを取り出して、肌が傷つかないように注意しながらシャツを裂いて捨てた。使い古された茶箪笥ちゃだんすの中からなるべく清潔なシャツを選び抜き、着替えを済ますといくぶんか落ち着いた気分なった。

「充分な休眠が取れたおかげで清々すがすがしい気分だ。これで清廉潔白せいれんけっぱくな身の上だったら申し分ないのだけどな。罪を犯してしまった以上はさばかれるべきだ。だが、大衆たいしゅうさらものになるつもりはない。法のはかりに掛けられるくらいならいさぎよく死を選ぼう」

 世間に醜聞しゅうぶんさらすような真似まねをしてまで、生き長らえるつもりは毛頭もうとうなかった。久しぶりに安眠できたこともあって、脳髄はわたっている。時計を見ると、まだよいくちといった時間であることが分かった。腹が空いていたし、少しばかり酒も飲みたい気分だった。自殺についてあれやこれやと考えるためにはえた脳髄を鈍麻どんまさせる必要があった。

「これが最後の晩餐ばんさんになるのなら後悔はしたくないな」

 死について考えを巡らせるのは、空腹を満たしてからでも遅くはないだろう。早ければ、警察が僕のことを探し回っている最中さいちゅうであるかもしれないが、不思議と不安は感じられなかった。自暴自棄じぼうじきの余裕とでもいったような、理由のない自信が胸の内側をめていた。自分は決して捕まらないだろう、という根拠のない予感があった。

 僕は机の上に投げ出されていた金と通帳を乱暴にモッズコートのポケットに突っ込むと、肩で風を切りながら、大胆不敵だいたんふてきにも夜の街へと繰り出しに行った。

 未来は暗かったが悲観ひかんはしていなかった。あとはすべきことをすだけだ。定められた道程みちのり辿たどるだけなのだ。僕は死に向かって猛進もうしんするけだものであろうとした。そのためには、いささか強い酒が欲しかったのである。


 四、妖婦


 腫物はれものを切り除いたことによる充足感が腹の底を満たしていた。全てが瓦解がかいした後に残されたものは、清々すがすがしいまでの荒涼こうりょうだった。果てのない大地が水平線となって続き、乾いたほおでる風はいでいる。やぶれかぶれの余裕とでもいったような平静が胸の内に広がっていた。

 僕は心地の良いジャズ・ミュージックが流れるバーに、ふらふらと辿たどくと、飴色あめいろをしたカウンターの前に座り、普段なら口にしないような、強い酒をバーテンダーに注文し続けた。グラスをかたむけるたびに、少しずつ脳細胞が死んでいくのを感じる。死をことさらに恐れているつもりはないが、「今生こんじょうわかれとなるのだ」と考えると、この世の全てがいとおしく、離れがたく思えてしまう。酒におぼれる理由もその一つだった。

 何杯目かも分からない酒をすと、隣人の女性から突如とつじょとして呼びかけられた。それは、柔らかく、瑞々みずみずしい声だった。酒の成分が作用してかすみがかった目を向けると、そこには、僕よりもやや歳上だろう女性が妖艶ようえんな微笑を浮かべて座っていた。ゆったりとした黒のワンピースに身を包んでいるが、彼女の肉付きの良さは服の上からでも十分に察せられた。

「さあ、一緒に飲みましょうよ。あたし、あなたに興味が湧いてきちゃったみたい。ねえ、何か話してちょうだい」

 女性がカウンター・テーブルに身を乗り出すと、上品な香りが辺りを包み込んだ。鼻腔びくうとろかせる香水の匂いは、酒の成分とからい、脳髄をしんからしびれさせるようだった。

「何も話すことなんてないさ」

 話したいことは山ほどあったが嘘をついた。得体えたいの知れない妖婦ようふの、甘いささやきをけるために新しい酒を注文した。

「そんなこと言わないで、あなたのお話を聴かせてちょうだい」

 妖婦ようふは濡れたような声でささやき続ける。誘惑と拒絶の応酬おうしゅうが、幾度いくどか繰り返された後に、勝利を収めたのは女の方だった。ついに男のとろけた脳髄は誘惑を前にして考えることを放棄した。

「実は昨日の晩に恋人を殺したばかりなんだ」

 自分でも思いがけない言葉が口からあふていた。だが、誤魔化ごまかすのが億劫おっくうに感じられるほど脳みそは酔っていた。「自分に残された時間は、決して長くはないのだ」というばちな気分が口を軽くさせていた。あるいは、僕はいまだに「誠実せいじつ」にかれていたのかもしれない。罪人が教会に懺悔ざんげするように、ゆるしをうことで、少しでも現世げんせいの罪をあがなおう、という打算的な目論見もくろみがないわけではなかった。

「あら、素敵だわ。危ない大人というわけね。あなたの恋人ってどんな方だったの。教えてちょうだい」

 妖艶ようえんな女は僕の告白をけなかったようである。酒の満たされたグラスの縁を、華奢きゃしゃな指でなぞりながら、質問を重ねてきた。

「そうだな。彼女は――」

 僕は酒に酔った脳髄を働かせて必死に思い出そうとこころみたが、結局のところ、答えにきゅうしてしまった。僕にとって榛原はるはら尚子しょうことは何者だったのか。その解答は、手で触れられるほどに近くにあるらしく見えるが、実際に腕を伸ばすとてのひらから逃れてしまうような蜃気楼しんきろうのような――望遠鏡ぼうえんきょうのぞいて見た、日中の火事のような、とらえどころのないものでもあった。

「ねえ、あたしが思い出させてあげるわ。さあ、一緒に行きましょう」

 女はあやしげに告げると、僕の腕をしなやかに引いた。不思議な引力に導かれるように、僕と女は席を立った。僕はバーテンダーに、いくらか多めに金を支払うと、妖婦ようふいざなわれるままに店を後にした。

 扉を開けると、火照ほてったほおを、夜風が優しくでては去っていく。身体を寄せる美女のかぐわしい香りを楽しみながらも、僕はぼんやりと榛原はるはら尚子しょうこのこと――真昼の火事のように曖昧模糊あいまいもことした記憶――を思わずにはいられなかった。





 五、火炎


 僕達は暗闇の中で、互いの肉体をきながら――身じろぎをすれば、唇が触れるほどに、顏を近づけて睦言むつごとを交わす。

 激しい肉体の交合こうごうの後に、おだやかな時間が訪れていた。酒に酔った体のわりには、よく働いた方だと思う。彼女も満足しているらしかった。

「相性がいいのかな。初めていたという気がしなかったよ」

 僕は暗がりに浮かぶ顔の輪郭りんかくを指でなぞりながら、彼女の肉体の素晴らしさをたたえた。実際、彼女の肌は、僕のてのひらにしっとりと馴染なじむようで、いつまでも触れていたい、と感じるほどだった。

「ありがとう。あなたって見かけによらず情熱的なのね。びっくりしちゃったわ」

 酒場を出た後、僕は彼女に導かれるようにして、街角のラブ・ホテルへと誘われた。彼女は歳上の姉さんらしく、堂々どうどうと振る舞い、僕は経験の浅い少年のようにじらった。だが、そういったじらいやつつしみは長くは続かなかった。僕は彼女をけだもののように激しく求めた。すべてが終わった時、僕と彼女は汗を流し、肩で息をしていたほどだ。

「これで心置きなくこの世と別れることができそうだ」

 僕がつぶやくと、彼女は薄闇うすやみの中で、艶然えんぜんと微笑しながらたずねた。

「どうかしら、あなたが殺したという恋人のことを、少しでも思い出すことはできたかしら」

 それが奇妙な質問だったことは僕にでも分かった。彼女は僕のこっかいけていないと思っていた。それに、同衾どうきんしているにも関わらず、他の女の話をすることを、まったいとわない彼女の態度にも驚いた。

「その話は止めにしよう。今は君との時間を大切にしたい気分なんだ」

 当たりさわりのない言葉を返すことで逃げようとした。僕は早くも榛原はるはら尚子しょうこという女性の存在について考えることを放棄し始めていた。それは、自身が犯した大罪たいざいから目をそむけることと、ほとんど同義だった。

「ダメよ。それを思い出させるために一緒にいるんだから。さあ、彼女はどんな人だったの」

 暗がりの中で、彼女の大きな瞳が、えんぎょくのように、爛々らんらんと輝き始めていた。彼女の柔らかなほおでていたてのひらを反射的に退しりぞけてしまった。僕は乾いた唇をつばきで湿らせると、彼女の言い放った言葉を脳内で反芻はんすうした。

 ――榛原はるはら尚子しょうこはどのような女性だったか――

 しばらくの間、無言の時間が流れた。僕は彼女にうながされるままに、あやめたはずの恋人について考えたが、話すべきことは何もないように思われた。彼女に関する記憶は、飛ぶ火のように、遠方でチラチラと燃えるばかりで、手でつかめるほどの実体がない蜃気楼しんきろうのような物であった。

「僕は彼女のことを何も知らないのかもしれない。何も知らない人間の命を奪ってしまったのかもしれない」

 妖艶ようえんな女は、僕の頼りない返答を聴いて黙っていたが、しばらくすると、ゆっくりと裸の上体を起こして、ベッドサイドの照明をともした。背中に光を負った彼女は、まるで菩薩ぼさつのように美しかった。

「ねえ、あなたが殺した恋人の顔って、こんな感じだったのではないかしら」

 彼女はおだやかな口ぶりで語ると、ふいにきよらかな顔を、僕に近づけてきた。互いの息がかかるほど、間近に彼女の容貌を見ているうちに、僕は失っていたはずの記憶を取り戻した。


 榛原はるはら尚子しょうこがそこにいた。


 正確には、榛原はるはら尚子しょうこうりふたつの容貌をした、得体えたいの知れない女が、瞳を火炎のようにきらめかせながら、呆然ぼうぜんとする僕のことを、じっと見据みすえていた。耳の奥で心臓が鳴る音が聞こえる。背筋を冷たい汗が伝った。

「思い出したかしら」

 女はそう言うと、カンラカンラ、と声を上げて笑い始めた。恐怖心から僕は女を突き放した。そして、急いで服を着ると、部屋から一目散いちもくさんに飛び出した。

 ありえないことが起こっていた。僕は恋人の亡霊と寝たのだ。酒場で出会った時は、確かに、違う顔をしていたはずだ。見たこともない女だったはずだ。僕は半狂乱はんきょうらんになりながらも、街角のラブ・ホテルから逃げ出した。





 六、蘇生


 息が切れるまで夜の街を駆け抜けた。空が白々しらじらと明け始めた頃になって、ようやく多少の落ち着きを取り戻した。

 ――あれは一時的な気のまどいだったのかもしれない――

 今後のことについて、ゆっくりと腰を下ろして考えなければならない、と思った。それに先ほどから腹の底が頼りない感覚もする。空腹ではないが、何か胃に入れなければならない。僕はファミリー・レストランの案内看板を見つけると、フラフラとした疲労した足取りで、安全な場所に向かって行った。

 扉を開けると生ぬるいような風がほおでた。寒空さむぞらの下を彷徨さまよった身にはありがたいぬくもりだった。

 客は僕一人であることをウェイトレスに告げると、ぐにテーブル席へと案内された。ウェイトレスは水が満たされたコップを置くと、深々とお辞儀じぎをして去って行く。感じの良い店員だな、と思いつつ、コップに手を伸ばした。恐怖心からのどかわいて仕方しかたがなかった。

 ――そうだ、あれは気の迷いに違いない。僕は確かに榛原はるはら尚子しょうこを刺し殺したのだ。キッチンにあった包丁で、何度も肉を刺した感触を覚えている。それに、アパートに帰れば彼女の血に濡れたシャツも残っているはずだ。でも、あの妖婦ようふの変貌は不気味だった。それに、あの笑い声は、確かに聞き覚えがある。いったい、何が起きているのだろうか――。

 僕が腕を組んで考え込んでいると、先ほどのウェイトレスがくつを鳴らして歩み寄ってきた。手には注文した覚えのないコーヒーをせた銀盆ぎんぼんたずさえている。

 辺りを見渡すと客の数はまばらであり、周囲には僕の他に席に着いている者はいない。それにも関わらず、ウェイトレスは真っ直ぐにこちらにやって来ている。彼女の挙動きょどう不審ふしんに思っていると、ウェイトレスは当然のように、僕の向かい側の席に腰を下ろした。

「アッ」

 背筋を冷たい刃物ででられたような気分だった。ウェイトレスの容貌は榛原はるはら尚子しょうこと同じものに変わっていた。

「驚いたかしら」

 榛原はるはら尚子しょうこは湯気の立つコーヒーを僕の前に置くと、大胆不敵だいたんふてきな笑みを浮かべた。僕は呆然ぼうぜんとしながら、信じがたい光景を目の当たりにして、えきれずにうめいていた。

「ありえない。僕は君を殺したはずだ」

 榛原はるはら尚子しょうこ突如とつじょとして、カンラカンラ、と哄笑こうしょうし始めた。脳天のうてんを貫かれたような衝撃が走った。その黄色い笑い声は、確かに榛原はるはら尚子しょうこのものだったからだ。僕の脳髄を腐らせる天真爛漫てんしんらんまんな嫌な響き。途端とたんに、胃がせり上がり、酸っぱい液体が口腔こうくうを満たしたが、のどらして嚥下えんかした。

「あたしは死なないわ。あなたがあたしを忘れようとするたびに、何度だってよみがえってあげることにしたの。あなたが求めるのなら、何度だって身体を許すし、殺されてもあげる。あたしは自分の幸福について考えてみたの。そして、これが、あたしにとっての最善の方法だと気が付いたの」

 僕は呆然自失ぼうぜんじしつとした脳みそを必死で働かせながら考える。つまり、これは彼女にとっての復讐ふくしゅうなのだろうか。僕に対するうらみが原因なのだろうか。

「ああ、聞こえるかしら。あのサイレンの音が。あなたが歩いてきた方角に向かっているみたいね」

 嫌な予感がして席から立ち上がると、窓の外を一台の消防車が駆け抜けて行くのが見えた。榛原はるはら尚子しょうこが言う通り、僕が宿泊したホテルの方角に向かっているようだった。

「あなたが殺してけたのよ」 

 もはや、彼女が言っていることが意味するところが皆目かいもく見当けんとうもつかない状態だった。僕が殺してけた。誰を殺して、何にけたのだろうか。

「あたしの可愛いお間抜まぬけさん。あなたはあたしを殺して、ホテルにけたのよ」

 全身の力が抜けて倒れるように席に腰を下ろした。僕は確かに榛原はるはら尚子しょうこを殺したが、あの妖婦ようふの命までは奪っていないはずだった。ましてや、ホテルにはなつなどしていないはずだった。でも、榛原はるはら尚子しょうこは、確かに生きて、目の前に座っている。僕は震える手でコーヒーのたたえられたカップを取った。

「あなたはあたしを殺した後に、自殺しようとしたみたいだけれど、そんなに簡単に終わっちゃ、つまらないと思わないかしら。あなたが包丁を突き立てた時、あたしは確かな幸福を感じたわ。あなたからさかるような情熱を感じたの。あたしは、あの火炎のような情熱を味わい尽くしたい。だから、あなたのことを骨になるまでしゃぶり尽くしてあげるつもり」

 まぎれもない毒婦どくふがそこにはいた。燃え上がるほむらのような情熱に取り憑かれた亡霊が、カンラカンラ、と腹を抱えて笑い転げていた。飛ぶ火のようにとらえどころがないが、確かな熱を持つ曖昧模糊あいまいもことした存在が彼女だった。

 この女は僕が死ぬことを決して許さないだろう、という気がした。僕に殺され、僕を悩ませ、僕があえぐ姿を嬉々ききとしてながめるつもりなのであろう。僕はこの正体不明の生き物と奈落ならくの底にちる運命にあるのだ、と考えると身体のしんが震えるような恐怖を感じずにはいられなかった。

 消防車のけたたましいサイレンの音と、毒婦どくふの黄色い哄笑こうしょう渾然一体こんぜんいったいとなって、頭蓋ずがいの内側で鳴り響いていた。

 僕はそれらからのがれるために、テーブルに備えられたフォークを手に取ると、無駄むだ足掻あがきかもしれないが、自身の咽頭いんとうに向けて切っ先を突き立てた。

 薄れゆく意識の中にあってもサイレンと哄笑こうしょうが鳴り止むことはなかった。

               


  (了)








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