Part1

 家を出ると、まず千景を出迎えたのはけたたましく鳴く蝉の声だった。普段は気にも留めず歩いているが、今日ばかりは蝉の声が一層うるさく耳に響く。

 家の前には公園を囲むように団地が二十棟ほど並んでいて、それを飾るように多くの木々とツツジが道沿いに植えられている。

 交差点へと続く平坦で長い坂道を下っていくと、古い駄菓子屋の跡の前に着く。この駄菓子屋は本当に幼い頃千景はよく訪れていたが、五年ほど前に店主が病気にかかったことが原因ですっかり廃墟になってしまった。

 過去の記憶を思い起こしながら歩いていくと、自分の通う高校とはまた別の高校の前に出る。千景の通う高校までは徒歩で十五分ほどだが、直線で行こうとするとこのの高校の生徒の通学ラッシュに揉まれてなかなか進むことができない。

 そのため千景は道なりの横断歩道を曲がり、入り組んだ住宅街の方へ進む。

 先ほどまでの道なりに建つ建物はいかにも最近建設されたものが多かったが、ここからは瓦屋根の建物やいつ頃のものかわからないポスターが貼られた喫茶店、美容室などが多く目立つ。

 そのままブロック塀とガタガタのアスファルトの道を歩いていくと、やがて千景は見えた交差点の先、寂れた商店街の前に出る。

 ぽつぽつとシャッターの空いた店がいくつか見えるが、今のこの時間から営業している店は一軒もない。最も、近くにできたショッピングモールや大型スーパーの影響で昼間になったところでシャッターが上がるのは半分ほどだが。

 そこで千景はふと、自分とそう変わらないくらいの制服の女子生徒が目の前を歩いているのを見つける。

 珍しいものだと思いながら、少女の十メートルほど後ろをついていく形で引き続き人気のない商店街を歩いていると、曲がり角に差し掛かるところだった。

____不意に、路地から伸びてきた手が少女の腕を掴んだ。

「なんですか?!」

 驚いてそう叫ぶ少女だったが、どうにも相当に力が強いらしく引きずられるようにしてすぐに千景の目には見えなくなってしまった。

「…………………………………………追いかけないと」

 呆気に取られていた千景だが、たっぷり五秒ほどの間を置いて今の一瞬の間に起きたことがようやく見えてきた。

 手に握っていた通学用の鞄をその場に置き去って、千景は走り出す。

 警察に通報するという考えが頭から吹き飛んでいる辺り、千景は冷静ではなかった。ただ見過ごすことができないということだけが頭に入ってきて走り出したのだ。

 路地を走って進むと、入り組んだ小路の奥の方から必死に抵抗する少女の叫び声が聞こえてくる。

 入り組んだ道を間違えないようにかつ素早く走り抜ける。

 すると千景の目に飛び込んできたのは予想だにしていないものだった。

「鰐男」

 赤いネクタイを締めたサラリーマン風の鰐の頭を持つ男。それは今朝千景が見た幻覚に他ならない姿をしていた。

「ったく、大人しくしてやがれよ」

 鰐男は少女を強姦しようとズボンのベルトにその鱗まみれの手をかける。少女の方はその異様な様に腰が抜けてしまっているようで、とてもその場から逃げ出せるようには思えない。

 そんな少女の目に後ろから様子を伺う千景の姿が映ったのだ。

「助けてください!」

 千景の姿が見えた途端少女は縋りつくような気持ちで懇願した。

「ああ、くそ」

 鰐男の視線が自分の方へ向けられるまでの間、千景の時間はスローモーションのように引き延ばされていた。

 現状をどう打破するか、少女を放って逃げ出すか、追わなければよかった。など様々な思考が脳内を飛び交うが、結論を出すほど時間は待ってくれなかった。

「人はいねぇと思ってたが、しくったな」

 気づいた時には、鰐男は人間とは思えない超人的な身体能力で自分の目の前まで迫っていたのだ。

 繰り出されたパンチを千景が紙一重で躱すことができたのは半ば奇跡に近いだろう。そのざらざらとした鱗がかすめた千景の頬からはその速度故に切り傷のようなものができている。

「避けんなよ」

 立て続けに繰り出される攻撃を、千景は紙一重のところでさらに数発かわす。

「今のうちに!」

 後ろを見ている暇はなかった。ただ千景は自分も死んで少女にまで死なれたら、あまりにも報われないじゃないかと思っていた。

 しかし、そこで気をそらしたことが命取りになった。

「カッ……………………ハ……………………」

 鰐男が放った蹴りが腹に命中した。

 男の足がめり込むと同時に、腹を焼かれたような痛みが体を襲った。

 数メートルも吹き飛んでから、自分の胸骨の何本かが折れていることがしっかりと分かった。

 そして、視界にあの少女が映らなかったことから安堵を得た。

 思ったよりも傷が深いのか、声を出そうにもかすれて声が出なかった。

「ったく、最悪だ。顔変えねぇとな」

 鰐男が近づいてくるのが見える。

 死ぬだろうと思ったが、思考すらぼやけて最早生きることに対する執着すら感じることができなかった。

「じゃあな、死にやがれゴキブリ野郎」

  鰐男が拳を振り上げるのが見えると、それに合わせて静かに目を閉じる。

  頭に浮かぶ今朝の姉と母親の顔に申し訳ないなと心の中で謝罪をする。

  それから数秒。

 ____待っていた衝撃はいつになっても訪れなかった。

「死んではいないようだな」

 静かに目を開くと、ぼんやりと長い髪を後ろでくくった女性の影が見えてくる。

「…………………………………………楓?」

 その顔を見た途端に、千景の心境に強い風が吹いたように素早く真っ白な変化が起きた。なぜなら、その顔はひどく見覚えのある顔で、幾度となく回想したものだったからだ。

「ん?なんでお前が妹の名前を知ってる?」

 その女が千景の肩を掴んでそう問いかける。

「いも……………………うと?」

「おい!」

 だが千景の体はもうとっくに限界を迎えていたようで、返答するよりも先に意識が途切れてしまった。

 

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