猫襲来。そして、犬。
どれぐらい歩いたのだろうか。
見なれた木立や狩り場からはすでに遠く、どこともつかない山道をただ東に向かって降りて行く。
寡の言によれば、真安の母親は東へ三つ山を越えたところにいるという。
邑を出た頃にうっすらとさしていた光りは、今ではしっかりと西の山の端を目指 して落ちていく。
しかし、木々の隙間から僅かにもれる木漏れ日以外に差し込む光りもない山道は、ただ暗く、時間の流れなど弓彦に感じさせないのだった。
しかし、己の身は正直である。
山野を駆け巡ることを日ごろの糧としてきた弓彦にでさえ、見知らぬ場所での暗闇という障害は大きな負担であった。
ふと、耳に水音が聞こえ、立ち止まるとそこには小さなせせらぎ。
一つ息を吐くと弓彦はその流れに手を浸そうと身をかがめた。
と、その瞬間、首に巻き付いていた寡が身を滑らせ、弓彦のかがんだ背の上で低く唸り声を上げ始めた。
「どうした、寡」
弓彦が声をかけた瞬間、寡は弓彦の背を蹴り、正面の暗闇に向かって跳躍した。
「ぎゃん!」
その刹那、何かを引き裂くような音とともに、獣の声が響く。
首尾よく弓を構えた弓彦の足元に、湿った音とともに丸い何かが転がってくる。
油断を見せず、右足で蹴るとそこにあったものは……短い剛毛に覆われた光る目、ピンと伸びた髭、とがった耳の……巨大な猫の生首だった。
「化け猫か!」
短く叫ぶ弓彦の傍らに伸ばした爪を紅く染めた寡が寄りそう。
周囲から漏れる嫌らしい猫の声。
低く長く……まるで盛りのついた時期の猫のような声である。
そこかしこの闇に光る無数の対の光り。
化け猫族特有の夜目である。
「数が多いな……」
油断なく弓を構えながら弓彦はつぶやいた。
化け猫自体はそう恐ろしい敵ではない。
邑外れにたまに出ることもあったし、そう堅固な身体をしているわけでもないので十分に人間の武器が役に立つ。
1匹、2匹と間合いをとって戦うのなら弓彦にとってもそう恐ろしい敵ではなかった。
しかし、この数はどうしたことだろう。
まるで野に実る野苺のように、そこかしこに猫の目が光る。10……、いや少なくみつもても20はいるだろうか。弓彦と寡だけではちと荷が重い。そんな弓彦の戦いあぐねた様子をみとってか、左前方から飛びかかる気配。
過たず弓彦はその跳躍の真中を射た。
どう、と音がして大人の男ほどの大きの三毛猫が倒れた。
それを合図に一斉に猫たちが弓彦めがけて襲い掛かった。
右手後方からブチの猫が襲い掛かる。
これは体格差をものともせずに、寡が鋭い跳躍で喉元にくらいつき、派手な鮮血で身を染める。
今度は左後方から茶色の猫が弓彦の腕を狙って襲い掛かるが、弓彦が左手で抜き放った山刀にわき腹を裂かれて転がった。
どうやら弓彦達は化け猫の水飲み場に迷い込んだようである。
縄張りを荒らされた猫たちは怒り狂い、話し合いの余地はないようだ。
鮮血の生臭い匂いが周囲にこもる。
このままでは他の妖怪たちを呼ぶことにもなりかねない。
しかし、退路は絶無。
それは、進退きわまった弓彦が、比較的小さな猫を射落としたときだった。
「ぎゃん!」
くぼ地に落ちたはずの猫が血飛沫とともに弾け飛ぶ。
予想だにしない出来事に、猫たちの動きが一瞬とまった。
「ったく、にゃあにゃあ五月蝿いんだよ、猫どもがあぁっ!」
いまいましげな怒鳴り声とともに、一つの影がぬっ、と姿を現した。
「ったく道には迷うし、猫は騒ぐし。
冗談じゃねぇってんだよ、コラ」
いかにもガラが悪そうな口調で姿を現したのは一人の青年。
歳は弓彦よりもいくらか下に見える。
浅黒い肌に、青みがかり尻まで届く長い髪。
その髪を頭上に一つでまとめ、無造作に下にたらす。
好き勝手な方向を向いている髪は手入れが悪そうだ。
足軽がつけるような防具を身につけその上になんの冗談か、黒字に金の縫い取りがはいった派手な上衣をひっかけている。
吊り上った目は不機嫌そうに半開きではあるが、鋭い眼光を放つ。
肩にかけて両腕を引っ掛けている槍は十字の鎌が付いた月型十字槍。
その銀の鎌には真新しい鮮血がこびりつき、生臭い匂いをふりまいていた。
青年の姿が現れるやいなや、猫族が全員文字通り総毛だった。
牙をさらに剥き出し、威嚇の声をあげる。
「……なんだか、気に入らないみたいだな」
となりで油断なく尻尾を振りつづけている寡と化け猫を見比べた弓彦は、呑気に感想を漏らした。
「おい、お前」
ふ、と弓彦の方をむくなり青年は地を蹴る。
ひと飛びで弓彦の眼前までやってくると、青年は弓彦ににじり寄った。
「お前か、俺の上に猫なんぞを投げやがったのは!」
顔を近づけて怒鳴る青年に弓彦は笑った。
「いや、悪い。まさか人がいるとは思わなかったんだ」
「爽やかに言うな!」
青年は弓彦の胸倉をつかむとぐいと引き寄せた。
最早 一つ間違えば接吻のできそうなぐらい顔を近づける。
「いや、気持ちは有難いけど……、俺そういう趣味ないし」
「阿呆、これを見やがれってんだよ!」
青年は困ったように言う弓彦に唾をはきかけながら叫ぶと、空いている手で槍を持ちながら着物の裾を引き上げてみせた。
そこには1点の紅い染み。
「気に入りの着物を汚しやがって……どうしてくれる!
……うるせぇっ!」
怒声とともに青年が着物から手を離し槍を一閃すると、二つに割れた猫の身体が地面にどさりと落ちた。
さらに低い声をあげる猫たち。
その様子を横目で見ると、舌打ちしながら青年は弓彦から手を離した。
「うるせえなぁ……。
俺は今!大事な話をしてるんだよっ!」
どすん、と地に槍を突き立てると、青年は近くにあった木の幹をつかんだ。
「ちったぁ静かにしてられねぇのかっ!」
両手を木にまわすと、そのまま何の気なしに持ち上げる。
「おお、これはすごい」
すでに観客と化した弓彦が、気の無い拍手をしながらはやしたてる。
恐らくは、弓彦が産まれる遥か昔からそこにいたであろう木は、まとわりついた土を撒き散らしながら根ごとすっぽりと抜かれていた。
青年はそのまま藁苞を投げるように、猫の群れに放り投げる。
俊敏さが売り物の猫族だが、いきなりのこの攻撃にはたまらない。
すさまじい声をあげながら何匹かが湿った音をたてて木の下敷きになった。
流石にこの攻撃にはたまげたのか、首謀らしい猫が一声鋭く鳴く。
猫族はそのまま、文字通りに「尻尾を丸めて」逃げ出したのだった。
「さて……と、待たんかいっ!」
そのままさり気に手を振ってその場を去ろうとした弓彦の襟首を、どんな技を使ったのかあっという間に追いついてつかむ青年。
「まだ話は終わっとらんぞ」
「……なんか厄介なことになりそうだから、できれば過去のことは水に流して笑って別れるのがいいような気がしたんだが」
襟首をつかまれたまま笑う弓彦に、同意するように弓彦の首にまきついたまま尻尾を振る寡。
青年は青筋を1本ぷくっと立てた。
「……ざけてろよ。ったくお前も『蛇』なら『猫』くらいとっとと片付けろよ」
「蛇?」
きょとんと振りかえる弓彦に青年は続ける。
「『蛇』だろ?
蛇の匂いがぷんぷんしやがる」
つかんだ弓彦の襟元に鼻を近づけてふんふん嗅ぎまわる青年。
その髪からもれる耳は心なしかとがって…耳たぶにふさふさと白い毛が生えている。
よく見れば、目の色は金色、口元には鋭い牙。
「その耳、その目、その牙……。もしかしてお前……」
じっくりと青年の姿を観察すると、弓彦はぽつりと呟いた。
「……いぬ?」
「狼じゃっ、このボケ!!」
青年はそのまま弓彦に頭突きを食らわした。
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