第1章

出立

 住み慣れた邑を見下ろす。

 豊穣の秋を迎え、朝日に黄金色に輝く邑。

 しかしそれは仮初の姿。

 山際に沈む夕陽のように、その輝きは儚く、短いものだった。

 生まれた時から今まですごした邑。

 ひょっとしたらこの命尽き果てるまで、この箱庭のような世界から出ることはなかったのかもしれない。

 そんなことがちらりと頭をよぎったが、弓彦はすぐに思考を切り替え険しい獣道に足を向けた。

 肩には真新しい空穂(※矢を収納して携帯する中が空洞の容器)と古めいた紅い弓。

 肩にかかる重みに、出発の時の真安の言葉が思い出された。





 日が微かに差し始めた空。

 手早く旅支度をすませた弓彦は、邑外れに立っていた。

 見送りは真安・上月・真生・蝦蟇の4人。

 殆ど夜逃げのような出立だ。


『本当に行っちゃうんだね』


 珍しく鼻の頭を赤くするほど涙ぐんだ真生の髪を弓彦は軽くなでてやる。

「また会える」とも「これが今生の別れでもなし」とも言えないところが辛い……のだが、やはり弓彦の心にそんな感覚が沸くことはないのだった。


『おい、これを持っていきな』


 真安がそう言うと、どこからともなく現れた獣が紅い弓を咥えて現れた。

どうやらこれが真安の"式"であるらしい。

 先ほどの口笛はこの弓を式にとりに行かせたもののようだ。

 大事な武器である弓を失った弓彦は、愛用の山刀一つの装備しか備えてなかったのだ。


『この弓は……』


 木材のみで作られたずっしり重い丸木弓。

 その色は、偽の封印の弓よりも、更に紅く……そして鮮血を思わせる鈍い色合いを持っていた。


『それは御神木の破片で作った弓だ。

 弦は御神木に巻きついていた蔓で作ってみた』


 まるで手軽な饅頭の作り方を話すように気軽に言う真安。


『御神木と言うだけあってな、妙な気をもった木だ。

 偽物の弓よりゃあ、役に立ってくれるだろうよ』


 確かに、この弓は奇妙に弓彦の手にしっくり馴染む。

 今まで使っていた合成弓(※木と竹の合成弓)の方が軽く、扱いやすいはずなのに、である。


『これも持っていけ』


 弓彦が出立を決定してからずっと沈黙を保っていた上月が、後ろ手に持っていた空穂を手渡した。

 やや大柄な弓彦の身体にもしっくりくる形にできている空穂は、どうやら上月の手作りのものらしかった。


『これぐらいしかしれやれなくて、すまんな』


 真安が神妙に頭を下げる。

 これには弓彦も慌てた。真安の頭を上げようとする弓彦だが、大男の真安はぴくりとも動かなかった。

 上月も黙ったままだ。


『これぐらいは、当然なんだよ』


 やっと頭をあげると、真安は弓彦の肩を軽く叩いた。


『お前、これからどこへ行くつもりだ』


『分かりません。

 とりあえず、玉姫の飛び去った東の方へ行ってみようかと思います』


『やっぱりそれぐらいしか考えていなかったか…。

 よし、それじゃあお前、まず俺のお袋のところへ行って来い』


 空を仰いで顎をなでた真安は一つ頷きながらそう言った。


『真安様の母上のところ……ですか?』


 そういえば真安にも母親はいるはずだ。

 そんな当たり前のことがこの男には当てはまらないような気がして、弓彦はなんだか場違いに愉快な気分になった。


『真安様のご母堂様は、音に聞こえた大妖怪ですからなぁ』


 したり顔でうなづく蝦蟇に真生と弓彦は声をあげた。


『妖狐・鈴乃御前といえば、まあそれなりに名がある。

 いい加減 歳だけはくっていやがるからそれなりに知ってることがあるだろうさ』


 にやにや笑いながら真安は言うと、弓を持ってきた式を弓彦に手渡した。


『こいつを道案内にくれてやるよ。

下っ端の式だが、使い様によっては役に立つ』


 真安の言葉に不満そうに式は鼻をならした。

 真白い長毛を持つその獣は、顔は子犬に似て蝶のように広がった耳を持ち、身体は大柄な栗鼠のような形状をしていた。

 鼻の頭は黒く塗れ、大きく丸い瞳は明けの空の様に深い藍色。


『随分と可愛いんですね。

 名前はなんて言うんですか?』


 式の目を覗き込むように言う弓彦の頭に一つの意思が閃く。


(我、"寡")


『"寡"?』


『それがそいつの名前だよ。

 式の種類としては狗頭(くとう)って言うんだがな。

 まあ、使い方はおいおい覚えな』


 笑いながら腕を組みながら言う真安に答えるように、寡は身体を襟巻きのように弓彦に巻きついた。

 どうやらそこを定位置に決めたようだ。

 軽く尻尾をなでてやると、機嫌良さげに鼻を鳴らす。

 殆ど小動物と変わりないようだ。


『ありがたく頂戴いたします。……では、そろそろ』


行きます、と言おうとした弓彦に真生が飛びついてきた。

そのまま身体を震わす真生におどおどと手を宙に浮かせる弓彦。


『馬鹿野郎、そういうときは抱きしめてやればいいんだよ』


 大笑いしながら言う真安の横で、上月もくすくすと笑う。

 蝦蟇も笑う。

 弓彦も困ったように笑いながら、そっと真生の肩に両手を乗せた。



 朝日に照らされる邑を背に弓彦は一歩、また一歩、夜のように暗い外の世界に足を進める。


(東、山、参、越)


 言葉をうまく伝えられないのか、文字の印象だけでつたえる寡。

 弓彦はその意思通りに険しい獣道に歩を進める。

 背後の邑はもう振り向かない。

 昼なお暗い陰の中を、一人と一匹は進んでいった。

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