伝説の再来(2)

 黒い黒い染みのような影は、地をつたいその男の足元から染み渡っていた。


「上月! 多助さんから離れろ!」


 弓彦はそのとき自分でも驚く程の大音声を喉から搾り出していた。

 その声に反応した上月が後方を振り向くのと同時に、多助が腰紐にさしていた山刀を眼前に振り下ろす。

 弓彦は咄嗟に弓を構え、"手近"にあった矢をつがえた。



「馬鹿野郎!」


 その時弓彦にもまけない大音声が響き渡り、多助の山刀が杓丈に叩き落とされる。返す反動で杓丈は先程まで多助がいた地面を貫く。

 と、寸暇を置かず肉の焼けるような音と黒い閃光が走り、影は千切れ飛ぶ。

本体にも影響はあったらしく、影はところどころ薄くなり、ついには男の揺らめく顔のみが空に残る。

 しかし、男の顔には満足そうな、それでいてどこかさびしそうな表情が、浮かんでいた。


「……しまった!」


 真安は絶望的な声を漏らした。

 その瞬間、爆発的な"白"がその場を支配した。




 背面からのすさまじい殴打。

 弓彦がその瞬間に感じたのはそれだけだった。

 上も下も、右も左もない"白"。

 そして、気がついた時には自分が弓と矢を抱えたまま地を這っていた。

 何が起ったのか周囲を見ようと身体を起こした瞬間、右肩に刺すような痛みが走る。どうやら、まずい落ち方をしたらしい。

 それでもなんとか首をめぐらすと、眼前に"それ"はいた。



「上月、大丈夫か」


 いきなりの突風に吹き飛ばされ一瞬意識が遠のいた上月は、自分が誰かに覆い被されているのに気がついた。

 自分を上から覗き込んでいるのは丈を杖に上月を庇う……真安。

 いつもの軽い趣はなく、真剣な顔で上月を覗き込んでいた。


「あ……、ああ」


 髭だらけで表情も見えないような真安の顔に、彼の昔の顔がだぶり上月は目をぱちぱちと瞬いた。


「おいおい、しっかりしろよ。呆けてる場合じゃねぇぞ!」


上月の二の腕を掴み立たせると、真安は上月を背に庇いながら空を仰いだ。

 相変わらず風は強く吹き、周囲の木々をなびかせている。

 見まわせば廻りには突風に吹き飛ばされた邑人達。

 余程強く打たれたのか、立っているのは上月と真安のみ。

 どうやら上月は吹き飛ばされる瞬間に真安に庇われたらしい。

 そして、内側から吹き飛ばされ、残骸と化した玉姫殿。

 そして、その前庭にはやはり吹き飛ばされた弓彦がようよう身体を起こしている。

 真安の目線を追って上空を見上げた上月は、そこに思いの通りの物があることに深い絶望のため息をついた。


 上空を風とともに荒れ狂いながら舞っているのは一匹の蛇。

 いや、これを単なる蛇と表現して良いのか。

 邑の上空全てを純白の鱗が多い、その隙間からは恐ろしい勢いで渦を巻く紫紺色の雲が流れる。

 長大な身体をくねらせ、雷とも叫び声ともつかぬ奇声を周囲に響かせる。

時折その鱗の隙間から白い炎が、まるで身を包む衣のようにまとわりつく。

 その身体を目で追っていけば、巨大な鎌首。

 その顔にはあるべき筈の眼窩がなく、ただ暗い穴が空いていた。

 生まれたばかりの炎のような紅い、長い舌。

 神社など一飲みにしてしまそうな巨大な蛇の頭が存在した。


「ついに玉姫の封印が解けた……」


 手の中の鏡を握り締めながら上月が呆然と呟くのと、蛇……玉姫が鎌首をもたげ、こちらにむかって牙を剥いたのは同時の出来事だった。


「あぶねえ!」


 上月を横抱きに抱えると、真安はすさまじい脚力で横っとびに飛ぶ。

 微かにその場に残った"影"を吹き飛ばしながら、玉姫は真安たちのいた空間を轟音とともになぎ払った。たまたま立ちあがった多助とともに。

 玉姫の通った後には、ただ多助の髻のみがちょこんと置かれていた。


「……っ! 裕観の子孫はまだしも、手前の旦那まで吹き飛ばしやがったか。

 ……まあ、無理もねぇ」


 舌打ちをしながらなんとか玉姫の攻撃をかわす真安。

その後も玉姫は逃れようとする邑人を食い破り、弾き飛ばし、執拗に真安を追う。目が無くとも匂いで周囲のことはわかるらしい。

 彼女にはそれが分かるのか、裕観の一族の血を引く者のみが殺戮の対象に選ばれていた。

 真安の腕を押しのけながら上月が叫ぶ。


「離せ真安! 玉姫が狙っているのは己の眼であるこの鏡。

 私を放せばお前は助かる」


「馬鹿言ってんじゃねぇ」


 叫ぶでもなく、不機嫌そうに低い声で言う真安の顔を、上月は見上げる。

 真安は上月を抱えたまま、この事態を収拾させる唯一の物に近づこうとしていた。

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