豊穣祭と玉姫殿

「真生、祭りに行かないの?」


「行かない」


 本堂で殊勝にも念仏を唱える真安の隣に畏まったまま、真生は答えた。

 すでに西の空が紫がかり、山の端にけぶったような桃色の光が残る。

 祭りはそろそろ本番の「水神踊り」に差し掛かる頃である。

 この日ばかりは貞淑な邑の乙女達も精一杯着飾って踊りの環に入る。

 一年の中でこの時ばかりは女性が積極的に男性に接近できる唯一の機会だ。


「でも、みんな祭りを楽しみにしているんだろ。

 俺のことなら気にしないでいいから……」


「別に弓彦のことなんて関係ない!」


 真安の斜め後ろにきちんと正座し、念仏に合わせて瞠目していた弓彦を振り返りもせずに、ぴしゃっと真生はいい放った。


「やれやれ、弓彦の旦那は腕はいいのに、こういうことにはトンと鈍いときている」


 笑いながら本堂に顔を出したのは、時々ふらりと寺の手伝いにくる蝦蟇と呼ばれる老爺である。なるほど、顔の端が横に広がり、蝦蟇蛙のような顔立ちである。


「こういうこと?」


「蝦蟇爺は黙っててよ!」


 弓彦と同時に真生が叫ぶと、蝦蟇は「ひっ」と首をすくませて弓彦の後ろに隠れてしまった。


「おお、怖い。怖い。

 ……それにしても真安様の読経はいつ聞いても耳に心地よい響きですなあ」


「……お前が読経が好きとは初耳だな」


 ひとしきり唱え終わった真安が前を向いたまま答た。

 真安の目前には木彫りの仏が鎮座ましましている。


「おや、真安様。ご存知ない?

 こう見えてもあたしは音に関してはちと五月蝿うございますよ。

 特に真安様のような低音の読経には感じ入るところがありますねぇ」


 うんうん、とうなづきながら答える蝦蟇に苦笑を浮かべる真安。

 確かに真安の声は低く広がりがあり、実際寺を蔑ろにしている邑の女達にも密かな人気があるのだった。

 真生などは「いけすかない虫寄せだ」と言っているが。


「まあ、祭りなんざ寺の人間が行ってもいいことなんざないがな。

 いい若いモン二人が面つきあわせて読経会ってもしけてるな」


 くるりと後ろを向くと、真安は足を崩した。


「よお、真生。

 お前いい歳して祭りにもでねぇってのは一体どういう料簡なのか、ちいっとばかしこの親父に言う気はないか?」


 真安が、何かいたずらを思いついた子供のように嬉しそうに真生に詰め寄ると、真生はそのままズリズリと後退する。


「な……何よ! 親父、親父と都合のいい時だけ!大体いつも言うけどね、ちゃんとあたしは貰われっ子だってことは知ってるんだからね!」


真安がちらりと蝦蟇を見ると、そ知らぬ顔で口笛を吹く蝦蟇。


「だから、毎回言ってるだろう。お前は俺の子じゃねぇが、そこらのガキと同じように俺の子としての手はずは踏んで産まれたってよ!」


「毎回わけのわからないこと言うなー!」


「……結局いつも論点がズレるんだよなぁ」


 喧々囂々の親子喧嘩をよそに、蝦蟇の入れた茶をすする弓彦。

 その横ではやはり同じような格好で蝦蟇が茶をすすっていた。





「ん?」


 真安和尚と真生の喧嘩を余所に、そろそろ神社の裏手にある棲家へと帰ろうとした弓彦の耳に、何やら風の擦れるような声が聞こえたのは、すっかり夜の帳が下りた頃だった。


「どうかしましたか? 旦那」


「いや、風の音が聞こえたような気が……」


 開け放しの本堂から外を見ても、宵闇に何も見えない。

 ただ微かに祭囃子が聞こえてくるのみである。


「あたしには特に何も聞こえませんでしたがね。

 大方性悪狸が祭り囃子に浮かれて鼻歌でも歌っていたんですよ」


「こういうときは化け狐じゃないんですか?」


 ふと昔語りに現れる化け狐を思い出して何気なく聞くと、蝦蟇は滑稽なほど真面目な顔をしてしきりと手を振るのだった。


「いえいえ、ここでは狐のことを悪くいっちゃあいけません」


 そういうものなのか、と特に追求もせず、一向に終わりそうに無い親子喧嘩を余所に弓彦は寺を後にした。


 蝦蟇から渡された提灯は、満月のように丸く小さいにも関わらず夜道をよく照らす。

 折から夜空を照らしていた月は、流れる雲により一時姿を消した。

 ただ暗闇に、遙か遠くの祭りの火が浮かぶのみである。

 ささやかな微風に髪をゆられながら歩く弓彦。

 秋口の風にしては、やけに身に暖かい。

 提灯からもれるぼんやりとした人魂にもにた灯りを頼りに帰路を急ぐ弓彦の耳に、また例の風の音が響いた。


(……けて……くれ……)


「人の声のような……」


 不審に思って灯りで照らし出してみても、そこにはただ白々と提灯の灯りに照らし出された木々があるのみ。

 首をひねりながら、ふとわき道を見ると、そこで手を振る者がいる。

 よく聞けば、「弓彦、弓彦」と己の名を呼ばわるではないか。

 さては先ほどの風の音かと思えたのは、この者の声であったかと安堵して近づくと、多作の側近の一人、弥平であった。


「弥平さん、こんな遅くにどうしました?」

 

 木々の間に立つ弥平に声をかけると弥平はこう答えた。

 

「なに、いつもの多作さまの使い走りよ。

 時に弓彦、お前弓は今持っているか?」


「弓ならいつもこうして抱えていますが……。今日は矢を使い果たしてしまったんです」


 おかしな質問だと思いながらも矢筒を示して答えると、提灯の灯りに顔の下半分を照らしながら弥平はいいんだ、と答える。


「すまないがちと手を貸してくれんか。『封印の儀』だが、今年の弓使いである多作さまが腕を怪我されてなぁ。思うように弓がひけん。しかし邑長の次男が儀式を失敗するわけにもいかんでなぁ。

 悪いがお前、影から弓を引いてくれんか?」


 本来ならなんとも自分勝手な言い様であるが、そこは弓彦、なんの気無しに二つ返事で答えると、近道を案内するという弥平の声に従い闇の中を進む。

途中、なにか気配を感じ振り向くのだが、その都度弥平にさとされ先を急ぐ。

 するとどうしたことか、まだ幾ばくも行かないうちに神社の玉姫殿脇の茂みに到着した。

 儀式まで時間があるのか人影はなく、ただ四隅にこしらえられた松明がこうこうと辺りを照らしていた。弥平は茂みから出ることなく、用事を思い出したのでそこで待っていてくれ、と言い残しその場を去り、弓彦は一人玉姫殿に残された。


 はじめてみる玉姫殿は意外と質素な作りであった。

 神社の最奥に控えるこの間は、言い伝えによるとこの数百年の間、一度も手を入れられたことがないという。

 黒ずんだ木造のその間取りは確かに豪族の住まう一室という趣だ。

 庭に面した室には厳重な戒め・しめ縄。

 そして、その中央の戸は塗ったものか深紅に光っている。

 その戸の隙間に射立てられているのがうわさの「矢」らしい。玉姫殿の向かいの庭には砕け散った木の根元のみがしめ縄に守られている。

 木の中には深紅の弓が一つ、たてられていたのだった。


 仔細にあたりを観察しながら、いつのまにか、弓彦は玉姫殿の前に立っていた。不意に、真安和尚の言葉が甦る。


(何があっても近づいてはならんぞ)


 ざわざわと風が木立を音を立てて揺らす。

 夜空の月を覆っていた雲が風に流れ、真昼の様に明るい月光が玉姫殿を照らし出した。


(何故……、何故ここにくるまでに気にも止めなかった?)


 物事には深く感じ入らない弓彦に珍しく動揺が走る。


(何故、何も考えずに玉姫殿の前に立っている?)


 秋風は肌身に少々薄ら寒い。

 不意に先ほどの暖かい風を思い出して、背中に汗がどっと流れる。


(それに……ここにくる間、ずっと後ろが気になっていたのは……)


 風は勢いを増し、流れる雲に月光が切られ、弓彦の顔に斑を作る。


(あの気配は……あの匂いは……人間の死臭!)


 パキ、と音を立てて弓彦の傍らの松明が爆ぜる。

 その瞬間、弓彦の肩に矢が射かけられた。

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