38.(回想)ロージー(1)

 肌を撫でる風は冷たさを増している。もうしばらくすれば雪もちらつき始める頃だろうか。そんな中、ある女は大樹に寄りかかり、体を休めていた。その手が懐から取り出した、黒い金属のカード。それを陽にかざし、彼女は感慨深い目で見つめていた。


「……どうしたの、ロージー? 嬉しそうな顔しちゃって」


 傍らから掛けられた声に彼女は、苛立ちを隠さずに仏頂面で反駁した。


「してない。いっつもにやけてんのはあんたの方でしょうが」

「いってくれますねぇ、このこの。そんなにA級に上がれたのが嬉しかったの? ロージーちゃ~ん可愛い」

「頭を触るな、撫でんなっ!」


 現れた人物が彼女の短い黒髪をわしゃわしゃと撫でまわすのにに抵抗しながら、ロージーはその手の主を睨みつける。柔和な顔立ちのたおやかな女性。いつもにこやかに微笑む茶色の瞳が印象的なそんな彼女はフラーミル・リンケスという、同じパーティの一員だ。二人が互いの腕をつかみ合う中、茂みの向こうから二人の男が姿を現わした。


「……なんだ? また二人してじゃれ合ってるのか? 仲がいいもんな、お前ら」

「じゃれてないし、仲良くもないから! この、離せっ、はぶっ、ふがっ」

「メッド、ジェリウス、おかえりなさい! どうだった?」


 声を上げた赤い髪の男が、メッド・ローエット……このパーティーのリーダーを務めている。そして、後ろに続いて沈黙を守っている、バンダナを締めた濃いブルーの頭の男がジェリウス・フォド。この四人で、ここ数年間パーティーを組んで活動している。

 

 フラーミルがロージーをそのふくよかな胸の間に抱きしめたまま二人の元へ引きずって行く。その肩を叩いて苦しそうにうめいているところをジェリウスに救出され……ロージーは赤く染まった顔でぜーぜーと息を吐いた。


「……この、馬鹿力! あんた魔術師だろ!? どうしてそんな余計な力つけてんの!?」

「馬鹿力って、失礼ねえ。そんなに力強いかしら……どう思う? 二人とも」


 フラーミルは自分の二の腕をふにふにとつまみ、メッドとジェリウスは、揺れている別の部分が目に入って顔を背ける。この女の無防備さはいつも周囲を困らせるのだ。


「ノーコメント。まあ、フラーミルがどうってのもあるかも知れんが、ロージーはロージーでもう少し力を付けた方がいいかもな。もっと飯を食えよな」

「うるっさい。あたしはそういうのが売りじゃないんだよ……ったく」


 赤毛のメッドがぽんぽんと頭を叩くのを払いのけながら、ロージーはむくれた。全く、自分達の方が少し歳が上だと思って……。小さくて痩せっぽちの自分はいつもからかわれるのだが、ロージーも本気でそれを嫌っている訳ではない。いつの間にか、居心地が良くなったこのパーティーの、仲間達に巡り合えたの幸運に、彼女は十分に感謝している。


 そして、最初のきっかけをくれた目の前の、茶色の瞳に弧を描かせて朗らかに笑うこの娘にも。


 ――始まりは、生家があるコルンに生まれた所から。ろくでもない父親は姿をくらまして、母親はどこかに男と一緒に逃げて。借金のカタに売られたと知って、命からがら街から逃げだした。住むあても無く金も無く、ほうぼうへと渡り歩く中、体を売ろうとしたこともあったけど、どうしても自分の心が受け付けてくれなくて、酒瓶で客の頭を割って泣きながら逃げた。苦しくて、何で生きてるのか分からなくなって……雨がぱらつく路地裏で身を縮めてただ眠った。もうこのまま、この下らなくて辛いだけの自分を終わらせてしまいたかった。


 いつ……どうして連れて来られたのか覚えてはいない。白いベッドに寝かされていたのに気付いたとき、ここは天国なのかと思った。ようやっと生きることから解放されたのだと思ったのに……枕もとのテーブルに置かれたパンと水を見た時、体が勝手にそれに手を伸ばし、かぶりつく。勝手にそれを飲み込もうとした体を、今度は心が拒絶して、パンは喉を通らずに吐き出された。絶望が襲って来て、たまらず嗚咽を漏らす。こんなに苦しいことを、いつまで続けなければならないのだろう……。


 部屋の扉が開いて誰かが入ってきたが、もうどうでも良かった。何もする気力が湧かず、瞳すら閉じずに体をまた、寝台へと伏せた。その誰かはロージーが寝ているベッドの傍に座ると、彼女の体を抱き起こし、熱を測る。どうやら、女性であるらしい。少しだけ安堵した自分が、悲しかった。


「……まだ、少し熱いかな。もう少し寝ていなさいね、ほら、お薬を……」


 口にいれられた、糖蜜混じりの薬液を吐き出して拒絶する。


「……駄目よ、ちゃんと飲まないと元気に……」

「いらない……。お願いだからこのまま死なせてよ」


 そこで初めて女性の顔が目に映った……とても優しそうにこちらを見やるその瞳が、何故か心に怒りを生み、跳ね起きるようにして掴みかかった女性の肩を思い切り揺する。体のどこからこんな力が湧いてくるのか自分でも不思議だった。


「どうして!? どうしてこんな余計な事をしたんだよ、あんたは!? あたしはあのまま、消えてなくなってしまいたかったのに! あんたはさぞかしいい気分なんだろうね!? あたしみたいなゴミみたいな奴を救う真似して善人気取りで! どうしてっ! どうして……どうしてこんな、苦しいのに、生きていかなきゃ、いけないんだっ……!」


 どこにこんなに叫ぶだけの力が残っているんだろうと自分で不思議に思いながら、命を救ってくれた恩人であるはずの女性を罵った。彼女は表情を変えずにそれをじっと黙って聞き、やがて……落ち着いた声音でゆっくりと話しだす。


「苦しみ? ……そんなもの、今どこにあるの? 私には、ここにいるあなたしか見えないよ? ここには、あなたを苦しめるものも、痛めつけるものも、何もありはしないのに。昔のことは知らないけど、今あなたを苦しめているのは、あなた自身の過去が造った影でしかない。気づいてよ、ここには今しかない。もう昔のあなたはいないの」

「……あんたみたいな幸せそうな奴に、あたしの気持ちなんてわかるはず無いっ!」


 テーブルの上にあった鋏を思わずつかみ取り、荒い息を吐きながらその女の顔の前に突き付けた。このまま刃先が指の先程も動けば、鋭利な切っ先は容易くその滑らかな肌を突き破るだろう。


「あ、あ、あんたもさ……辛い思いをして見ると良いよ。そうすりゃ、人を助けようだなんてそんな甘いこと考えなくて済むようになるからさ。ほら、どこがいい? その柔らかそうな頬? その立派な胸でもいいかもね。傷つけば、私みたいなのの痛みだってちょっとは分かるかも……ね」


 本気でこの女性を傷つけようとしているのか自分でも良く分からなかった。今はただ、彼女の顔が悲嘆に歪む様を見たかった。そしてとっとと見切りを付けられて、ここから追い出されればまたあの冷たい路地裏に、外界から切り離されたかのような、希望も絶望も何もないひそやかな暗所に戻れる……。震える手を押さえながら彼女が願うのはそれだけだった。


 だが、女性は一寸たりとも身を引こうとはしなかった。凪いだ瞳を向けたまま、あろうことか自らの衣服を脱ぎ、素肌を晒していく。呆気にとられる中、衣擦れの音だけが響き、白い体が露わになり……思わずこちらが身を引いた。


 その体には、胸元から腹部にかけて大きく三本の線で切り裂かれていた。破けたように醜くひきつれた、赤い傷跡。付けたままの下着の中にまでそれは続いていて……思わず痛々しさに目を背ける程だ。


「……ちゃんとね、知ってるよ、私も。辛いこと沢山あったから……。住んでた村、魔物に襲われて、家族も友達ももう誰もいないもの。でも……ずっと塞いでても何にもなかったみたいに世の中は進んでって、思ったんだ。憎たらしいって……ふざけないでよ! あたしをこんなにしといて、誰も何も言わない! 誰のせい!? 何が悪かったの? って、ずっとそう考えて……」

「……考えて?」


 思わず、聞き返してしまったロージーに女性は首を振って笑った。


「わかんなかった、結局。私、魔法の才能があったから、冒険者になって最初は家族や村の皆を殺した魔物を復讐しようとしたけど、傷がようやく癒えてそこに行ったとき……もうその辺りには何も出なくなってて。荒れ果てた村の残骸を見た時、私、何してるんだろうって思った。そのまま一日位ずっとそこで呆けてたんだ」


 彼女の遠い目が中に映った自分の目と重なる。


「その後……不思議とね。すっと楽になったんだ。薄情かもしれないけど、全部どうでも良くなっちゃって。何もかも無くなっちゃったからかな……。その後、お骨とか残って無いかなって探して、お墓を作ってそれきりその村には行ってない。今までの私もそこで死んだって思って、別の自分になろうと思ったの」


 その女はいそいそと服を着こむと、一つくしゃみをして、「しまらないね」と笑った。


「あなたも、それだけ苦しいんだったら、もう全部捨ててしまって良いんだよ。どうせこんな世界なんだから、一度好きなように生き直してみてさ、それでどうしても死にたいって思ったら、私に言って。なるべく楽に逝かせてあげるから」


 握っていた鋏が指先からするりと抜けて床を傷つけた。膝立ちになっていた足から力が失われ、ロージーは温いものが頬にゆっくりと伝うのを感じながら、くしゃりと笑う。


「一緒に死んでくれるんじゃないのかよ……」


 彼女はそっとこちらを包むように抱きしめ、力が抜け落ちた体を支える手は暖かくて、久しぶりに人の温もりを思い出させて。自分が何を求めていたのかを今になって思い知り、その熱が心の底に凝っていた重たく暗いものを少しだけ溶かしてくれたような気がした。

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