夏霞の少女

夢綺羅めるへん

夏霞の少女

 空は紅に染まり、ヒグラシの声が木々の合間を抜けていく。

神社の裏側、人の寄らない森の奥にある洋館には自殺した少女の霊が出るらしい。夕暮れ時、他愛もない子供達の怪談話が夏の始まりを感じさせる。



「今年もそろそろ、かな」

 窓から見る外の森はすっかり暗くなってしまった。背伸びしてカーテンを閉めると部屋を出て、すぐ右側にある階段を駆け降りる。少し古いが木造の床や階段は裸足で走るとパタパタと音が出て気持ちがいい。

 一階に降りるとすぐ大きなエントランスになっている。玄関扉の前まで行くと姿勢を正して心の準備をした。

「案内役、頑張らなきゃね」

 ここの案内、それが自分の仕事だ。訪れる観光客に屋敷の歴史について語るために準備もしてある。夏の間に任された仕事に胸を躍らせているとガチャリと重い音を立ててドアノブが動いた。

 錆びついたドアが甲高い音をたてながら開いていく。初めての観光客は男女のカップルだった。

「ようこそ!」

 ペコリと頭を下げる。こういうのは挨拶が肝心なのだ。

「おお、雰囲気あるなあ」

「長い黒髪の女の子、本当にいんのかよ」

 懐中電灯で屋敷の中を照らして見回す二人組。何度か光を当てられ目を瞬かせた。

「さ、どうぞ」

 横にずれて道を開けると二人が屋敷の中に入ってくる。

「まずはこちらから」

 一階の廊下を示したが彼らはそのまま階段の方へ行ってしまう。

「こういうのは上からだよね!」

 懐中電灯を持った女性がいう。

「そ、そうですか……」

 そうらしい。

 ゆっくり確かめるように階段を登りながら二人は話し始める。

「しかしこんなところで首吊りなんて……」

「だから、嘘だろそんなん」

「どうかな。裸足で走る音、聞いたでしょ?」

「空耳だよ、やめろって。うお⁉︎」

男性が突然足を止めた。

「カーテンか。ビビらせんなって」

「あはは、もしかして白いワンピースに見えた?」

「だからそれ嘘だって」

 階段を登った先の窓には白いカーテンが揺れていた。

「ちょっと、そっちはダメですって」

階段を登って左折したカップルの後を追いかける。こうして自分のペースで進んでしまう客は苦手だ。それに階段の隣は……

「う、嘘……」

「こんなこと……」

 想い届かず、散らかった私の部屋を見て二人は戦慄していた。せめて片付けておくんだったと後悔するより先に二人は部屋を飛び出して行ってしまった。

「うう、確かに汚いけど逃げるほどかなあ」

 くしゃくしゃのまま放置していたシーツに腰を下ろして、項垂れながら初仕事の失敗を噛み締めた。



 明けたと思われていた梅雨はまだ余力を残していたらしい。夏の高揚感を押し潰すようにして連日降った雨のせいか、最初のカップル以降客が来ることは無かった。

 すっかり日も沈み、寂しさとやるせなさを抱えながら自室で外の雨を眺めていると、不意に窓から綺麗な黒い羽を持つ蝶が迷いこんで来た。

「あなたもお客さん?」 

ゆっくりと手を伸ばす。手のひらで優しく包みこんだつもりだったが、蝶はどこからかすり抜けて逃げてしまう。

「あ、待ってよ」

 部屋の中をひらひら舞う蝶をパタパタ追いかける。蝶はそのまま私の部屋を出て廊下の奥にある洗面室へ入っていった。すかさず追いかけようとしたが、突然何かが脳裏をかすめて足が止まる。

「あの部屋、なんだか……」

 嫌な感じがする。明確な理由がある訳ではない。が、靄のような漠然とした嫌悪感がそこにはある。まるで過去そこで嫌な経験をして、無意識に避けているような感覚。

「気のせいか」

 靄を振り払うように一歩踏みだすとそのまま洗面室に入る。

「なんだ、何もないじゃん」

 中は至って普通。洗面台がぽつんとあるだけだった。縁に止まっている蝶に手を伸ばす。

「捕まえ……あれ?」 

 違和感。出所不明の不協和が脳を襲う。あたりを見回すもおかしなものはない。蝶も普通。鏡の端にある黒い滲みのようなものは蝶の羽の一部が映っているだけで……

「あ……」

 そこでようやく理解する。違和感の正体、足りなかったモノ。

 鏡に映る蝶と廊下、そこに自分の姿が無かった。

「いやあああっ!」

 考えるより先に走り出した。真っ直ぐ自室に戻りドアを閉める。

「わ、私はっ?」

 窓の反射で確認、今度は自分の姿が映っている。

「焦った……」

 カーテンを閉め、ベッドに腰掛けるとほっと一息ついて心を落ち着かせる。頭が冷えると思考が回ってくる。

洗面室に感じた嫌悪感、そしてあの鏡。やはり過去にも同じ経験をしたのだろうか。目を閉じてゆっくり思い出してみる。洗面室で何かあったのではないか。

「蝶々、雨、お客さん……」

 記憶を辿る。

「階段がパタパタ鳴って、外が暗くて、その前は……」

 その前は? あの日の夜空のように真っ暗で、何もない。

「あれ? なんで? 楽しいこととか……」

 ない。

「悲しいこととか……」

 ない。

「ママのこと……」

 ママって、誰のこと? 

「なん……で……?」

 混乱した頭がぐるぐる回り始める。いくら思い出そうとしても自分の中にあるたった数日の記憶が繰り返し現れるだけだった。渦巻く感情が溢れそうになったその時。

 ふわ……と涼しい風がカーテンを揺らした。

 再び熱を帯びた思考がフラットになると同時に、ふと窓の中の私と目が合う。

「あ……」

 朧に映る自分の姿に合わせて唯一の記憶がフラッシュバックする。

「白いワンピース」

『白いワンピースに見えた?』

「裸足」

『裸足で走る音、聞いたでしょ?』

「そっか、私……」

 前を向くと、ついさっきまで窓に映っていた私がそこにいた。だらりと伸びた足、揺れるワンピースの裾と黒い髪。そして首にきつく巻かれた縄。

「こんなところで首吊りなんて……」

 もう一度風が吹いた。その風に攫われるようにして意識が解けていく。白く染まる世界の中、ぽつりと水滴の床を穿つ音が虚しく響いた。



「十年もここで一人ですか」

「寂しかったでしょうね」

 誰もいない屋敷で見つかった少女の遺体は死後十年は経過していたという。現場の処理のため訪れた婦警二人はばつが悪そうに話す。

「しかし怪談が現実になるなんて……」

 二人のうち若い方の婦警が恐ろしげに呟いた。

「見つけて欲しくて彼女が流した噂かしらね」

 年上の婦警が返す。静かで落ち着いた物言いは今の発言が不謹慎な冗談などではないことを感じさせる。

「怖いですよ、先輩……」

「そうかしら」 

 先輩婦警が目を細める。

「どこからか流れた怪談がなければ彼女はずっと孤独だったじゃない。あるいは話を元に若者が肝試しに行かなければ彼女はただの夏の噂話だった。そんなの、悲しいわ」

 しゅんとする彼女に焦った後輩婦警が口を開いた。

「でも今はただの噂話なんかじゃないですもんね、他の……まあ、少なくともあのカップルとか私たちの記憶の中に彼女はずっと残りますよ」

 必死にフォローする後輩婦警の姿に、先輩婦警の表情が柔らかくなる。

「ええ、そうね」

「そうですよ……ってあれ?」

 後輩婦警は突然立ち止まると頭を押さえながら上を向いた。

「どうしたの?」

「いや、なんか水が降ってきて……」

「ああ、最近ずっと雨だったし雨漏りでしょう」

 先輩婦警が胸ポケットからハンカチを取って渡した。

「ありがとう」

「いえいえ」

 二人はまた歩き出す。

「貴女、たまに敬語忘れるわよね」

「えっ! そんなことないですって!」

「またまたぁ」

 談笑していると玄関に辿り着いた、神社で遊ぶ子供たちの声がぼんやり聞こえてくる。

先輩婦警がふと屋敷の方を振り返った。随分控えめになったひぐらしの声が夏の終わりを予感させる。いつもどこかで誰かが語っていた怪談も、今はもう聞こえてこない。

 夕焼けに照らされたエントランス。まだかすかに夏の気配が残る大きな洋館に、彼女はもういない。


(終)

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